2016年5月15日日曜日

『メランコリア』 -「漠たる不安」の延長としての終末感

 「終末物」ということで名前を知っていた『メランコリア』をレンタルで。
 惑星「メランコリア」が地球に衝突することで生命が死に絶えるという、この間の『エンド・オブ・ザ・ワールド』と同様の、堂々たる「終末」を描く物語なのかと思っていた。つまり精神的な「終末」ではないのだろうと思って見たのだが、これがまたとびっきり「精神的」なのだった。大体、終末をもたらす惑星が「メランコリア」ってなんだよ。憂鬱が、鬱病、気鬱ぎが地球を滅ぼすのか。
 だがそうなのだった。どうやら「メランコリア」は地球に衝突するらしいのだが、それに対応する世間の対応は、ネットの情報がわずかに紹介されるだけで、人々が特別な振る舞いをしているような描写はない。主人公の周囲で、若干の食糧備蓄をする様子にふれる程度。
 そもそも映画全体が、舞台となる豪邸の周囲に出て行かない。その中で限られた関係者しか登場しない。
 だから、「終末物」に期待される、人気のなくなった街、とかいう風景は出てこない。
 それで、どうだったかというと、ずいぶんうまい映画だとは思ったが、好きにはなれなかった。描かれるのはひたすら主人公姉妹二人の「メランコリア」なのだった。第一部の妹・ジャスティンは最初から鬱病という設定らしく、しかもそれが何に由来するものか不明だし、第二部の姉・クレアは、一応「惑星メランコリア」による滅亡が不安の原因ではあるのだが、「惑星メランコリア」の存在はどうみても「不安」それ自体の象徴なのだから、やはりその由来は不明だ。
 とすると、とにかく映画全体がわけもわからずメランコリックでしかないのだった。それに対する周囲の苛立ちはたとえば(こんなところになぜ『24』のジャック・バウアーをもってくるのか謎だが)キーファー・サザーランドがうまく表現していて、そういう、人物を描く描写は至極真っ当な映画に見える。
 だが結局、それでどうなんだ、という気がしてしまうのだった。現代における漠たる不安を描いているのだ、とかいうのはありふれた文学のテーマだ。それを今更?
 なにがしかの希望が見えるか、郷愁としての「終末感」を描くか、というのがとりあえず筆者の求める「終末物」なのだった。

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