2015年5月31日日曜日

『はじまりのみち』(監督:原恵一)

 録画されているこれを、例によって何の映画だかわからずに最後まで早送りしてみて、なんだかつまらなさそうだぞとは思ったが最後のエンドロールに、原恵一が監督だとある。消すのはやめて観てみる。
 だがつまらないのだった。観るのが不快なほどではない。というか手堅くも好印象、といった感じではある。だが、面白かったとはいえない。
 だが世評は好意的だという。宇多丸が褒めてる。
 それはもちろん『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』『アッパレ!戦国大合戦』が名作であることは言を俟たない。
 だが『河童のクゥと夏休み』は、期待が大きかっただけにいささか肩すかしの感があったのは否めないし、『カラフル』は、もうはっきりとつまらなかった。アニメーションの技術も演出も手堅く高レベルでまとめてくるのに、面白くはない(とはいえ『カラフル』は下記のような理由で「つまらない」というよりも、納得できない演出に違和感を覚えたのだった。それは「しんちゃん」映画では看過してもよく、それ以外の部分で感動させるから瑕疵とはならないのだが、リアリティを追求するタイプのこういった映画では致命的になる、といった違和感だった)。
 『はじまりのみち』も、浜田岳のキャラクターは良かったとか、主人公が母の顔の泥を拭うシーンは感動的だったとか、そこを褒めるなら異論はない、といった感じではある。だが全体として面白いとは言いかねる。どこを面白さとして提示するつもりなのかがわからん。脚本の段階で、どこかが面白くなりそうだという自信があったのだろうか。
 おそらく、リヤカーで病人を運ぶという「試練」と、木下恵介の映画監督としての再生を重ね合わすという狙いにその期待が担わされているのだろう。だが、どちらもまったく予想の範囲を下回る盛り上がり具合で、だからどうだということもなかったのだった。例えばキリストがゴルゴダの丘まで自らの掛かる十字架を運ぶ、ただそれだけの映画である『パッション』の、そこに込められた熱量などまったく感じられない。そもそも比較が無茶か?
 そうでなくとも、はっきりと意図してこれでもかと引用される木下作品が、どれもこれも本編よりも魅力的なのも困ったものだった。
 というわけで
三角締めでつかまえて
には共感しがたく、
『はじまりのみち』は敗北の映画である
に納得したのだった。

2015年5月27日水曜日

『かぐや姫の物語』高畑勲

 時間ができて、ようやく。
 だが『風立ちぬ』同様、書けない。観ながら、悪くない、場面によっては感動的でもある、さすがにアニメ技術は高い、などと思いながら、やはり端的に「面白い」とは思えなかった。そこら中のシーンに、見覚えのある「物語」の感触ばかりを感じてしまうばかりで。
 手間をかけずにああだこうだと言うよりも、世の中には異常な情熱でそうしたことを考察している人がいるから、素直にリンクをはる。
「新玖足手帖」
かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督は原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画
このブログ主が繰り返し言う「雑」という表現は実に腑に落ちる。あれほど丁寧なアニメーションをつくりながら、物語はかくも「雑」なのだ。
 同時に、あの丁寧で恐ろしく手間のかかっているであろうアニメーションも、例えば最近観ている「響け ユーフォニアム」の京都アニメーションの仕事を観ていると感じる感嘆と、さほど変わりはしないのだ。制作費8年、50億円とかいう劇場映画と、深夜テレビの週刊アニメの仕事が、同程度の感銘を与えるくらいだってのは、いったいどういうわけだ。
 それくらい京アニが良い仕事をしているともいえるが、一方で高畑勲の自然描写や人物描写が、それほどまでに古いということでもある。凝って凝って、金も時間もかけて、それは確かに良いものができているのだが、何か圧倒的なものを見せられたという感嘆もない。山野や草木や動物などの自然描写も、人間の描写も、実に予定調和的なそれに終わっているのだ。
 
 だが、もう一度観ることがあれば、違った感想になるかも知れないという予感もある。もしかしたら、何か違った感情移入の仕方を、主人公のかぐや姫に対してしてしまうかもしれない(だが間違った予感かも知れない)。
 ただとりあえず初見の感想としてふたつほど。
 オリジナル・キャラの幼なじみ「捨丸」と、ラスト近くで再会する場面、捨丸は大人になって妻子もいる身なのだが、これは惜しい展開だと思われた。あっさりと妻子を捨ててしまうかのうような捨丸には、むろん、オイオイとつっこみたくなるが、それよりも、設定自体が惜しい。都で成人したかぐや姫が久しぶりに幼なじみ「捨丸兄ちゃん」に再会すると、彼はまだ青年で、自分の方がもう彼の年齢を超えてしまっていた…という展開を期待してしまったのだが。かぐやの成長が早いという設定からは、そうした展開が可能だったはずで、それはすなわち、都に出て、田舎での「人間らしい(生き物らしい)」生活から隔てられてしまった哀しみ、というこの物語の描きたいらしいテーマに合うような気がするのだが。
 そういえばこの物語は「鄙/都」という対立が「人間界/天上界」という対立の入れ子になっているのだと思われるのだが、このあたりがうまく処理されていたのかどうかがどうももやもやとすっきりしないのだった。

 もう一つ。ラストカットの、天上の人々が去っていく満月に、赤ん坊のかぐやが重なる構図の、あまりのダサさは何事だ? 巨匠のコンテには誰も正直な感想を口にできなかったのか?

2015年5月20日水曜日

『ファミリー・ツリー』(原題:The Descendants)

 例によって、勝手に録画する設定を解除する方法がわからないままに録画されていた映画。放送の冒頭でジョージ・クルーニーが主演ということを知った以外になんの予備知識も無しに観始めたが、結局一気に観てしまった。が、このパターンは、主演のジョージ・クルーニーも合わせて『マイレージ、マイライフ』(原題:「Up in the Air」)だぞ、と思っていると、はたして映画もその通りなのであった。『デストロ246』の女子高生の言うところの「『家族の絆』みたいなのにオチつくのばっかじゃん!」。
 そしてまた、それがアメリカでは恐ろしく高評価だったというのも、観終わってから調べてみてびっくり。アカデミー賞の作品賞ノミネート!? 脚色賞受賞!?
 いや、良い映画だとは思った。観始めてすぐに先を観たいと思わせ、そのまま最後までひっぱって、なおかつ感動させてくれた。うまく作ってある。
 だが件の女子高生の言うとおりである。結局そういうことね、という以上のものはないのである。言ってしまえば、あまりうまくいっていない家族が、そのメンバーの死を契機に絆をとりもどす、という映画。そこに先祖伝来の土地を売るかどうかという問題をからめて、「家族」を「一族」に拡大する。やっぱり売らないことにする、とか、扱いのわからなかった娘達ともうまくいくようになるとかいった主人公をめぐる事態の好転もあまりに予定調和だが、まあ不調和を求めているわけでもないから、それはそれで不満があるわけではない。
 ただ、凄い物を観た、という感じにはならないだけ。良い物をみた、という感じではある。

2015年5月19日火曜日

『世界侵略: ロサンゼルス決戦』(監督:ジョナサン・リーベスマン)

 なんというか、「日曜洋画劇場」チックな映画である。いや、放送は「土曜プレミアム」だったが。
 録画しておいて、見始めたら、どうも観た覚えがあることに気づいた。一度観たといってもそれくらいの印象だということだ。もちろんよくできている。膨大なカットの一つ一つが大層な手間と金がかかっているであろうことは想像に難くない。編集も、人間ドラマもそれなりではある。
 が、結局面白くない。どうして地球を侵略してきた宇宙人が、地球人と通常兵器で良い勝負しちゃうんだ。しかも後半になると、味方は決して球にあたらない。最初の方で、いくら撃っても死ななかった宇宙人が、後半はバタバタと倒れる。物量で迫力を出そうとはしているが、結局緊迫感はない。
 意図的だというのだが、宇宙人の侵略を描きながらつまりは戦争映画なのだ。だとすると、あんな脳天気な戦争映画を作って良いと思っている脳天気さがもう許し難い。こういうアメリカ人の精神構造は、ちょっと理解し難い。もちろん「わかってやってる」ってことなんだろうが、やってるうちに、もうちょっと「深み」を描きたいとかいう色気を出したくなったりしないんだろうか。
 主演のアーロン・エッカートは、どこで観た俳優なのかと思っていると、『幸せのレシピ』のシェフか! タフな二等軍曹と陽気なイタリアン・シェフ。確かに顔は同じなのだが、まるで連想できなかった。

2015年5月18日月曜日

Chouchou、ルルルルズ

 昨日は籠もって仕事のような読書のような。で、その間にまとめてChouchouを聴いていた。
 もともと4年以上前の企画だというニコニコ動画の「NNIオリジナルアルバム『&』」(彩さんの「Life」はじめ、好きな曲がいくつもある好企画)の中の1曲、「eclipse」のレベルの高さに驚いてはいたのだが、よく調べずにいてそのまま3年以上が経ち、思い立って調べると、フルアルバムがCDで発売されたばかりなのだった。試聴してみるとどれも良い曲で、以前から懸案だったルルルルズと共に注文すると、もう今日には届いているアマゾンの手際の良さ。
 どちらもネットである程度おとした楽曲を聴けるのだが、いわばメセナ精神で。

 昨日、繰り返し聴いたせいで、とりわけこの2曲が朝からループしているのだった。

ついでにルルルルズも。

2015年5月16日土曜日

『64 ロクヨン』(横山秀夫)

 NHKの「土曜ドラマ」、『64』がすごい。ちょっと驚くほどの出来に思うところあって調べてみると、はたして『クライマーズ・ハイ』の脚本、演出コンビなのだった。やっぱり。大森寿美男脚本に井上剛演出。ついでに音楽は「あまちゃん」でブレークした大友良英ってところも共通。って、あれ、10年前なの!? もう!
 『クライマーズ・ハイ』は原作が先で、後からドラマを観て、その出来にびっくりした。さらに映画も観たのだが、テレビドラマ版は原田真人の映画版に比べてもまったく遜色ないのだった。さすがに原作の情報量は詰め込めないから、やはりそのドラマの重層性は小説には及ばないが、エッセンスは充分に伝わるだけの緻密な演出がされていた。演出が優れていると俳優の演技もそれに見合う水準に引き上げられる。いつも素晴らしい佐藤浩市も岸部一徳も、とりわけ素晴らしかった。

 で、『64』だ。ここでもピエール瀧が、あの電気グルーブのお笑い担当の顔とは全く別人の「鬼瓦」を見事に演じている。劇中で「鬼瓦」と呼ばれるに彼以上にふさわしい配役を見つけることはもはや不可能にさえ思える(映画版では佐藤浩市がやるというのだが、「鬼瓦」にはどうか)。
 むろん役者の演技だけではない。画面の隅々まで演出が行き渡っていて、そこにいる複数の役者が同時並列的に重要な情報を演じている。カットのテンポといい、カメラの切り替えといい、編集も見事で、画面から伝わってくる緊張感がすごい。

 で、いきおいに乗って原作を図書室で借りて、三日で読了した。休日を費やしての強行軍。「第三の時効」も「クライマーズ・ハイ」も、かつて読んだ小説の最高水準だったが、むろん「64」もその期待を全く裏切らない。組織における存在の有り様を問う重厚な人間ドラマとしてはむろん「クライマーズ・ハイ」「半落ち」にひけをとらないし、伏線を張っておいてそれを回収するミステリーとして成立しているところは「第三の時効」並み、つまりこれまで読んだ横山作品としても、単にかつて読んだ小説としても最高の作品の一つだった。
 あらためてドラマの『64』の続きを観てみると、さすがに原作で緻密に構築されているドラマは、全5時間のドラマでさえ省略されている。だが小説を読みながら、登場人物はすっかりドラマのキャストでイメージされていたのだった。

 ところで大友良英の音楽は「あまちゃん」のテーマからは想像できないほど美しいのだが、演出の井上剛は「あまちゃん」の演出でもあるのだった。この重厚な演出もまた「あまちゃん」からは想像できない。そしてピエール瀧もまた「あまちゃん」レギュラーだ。「あまちゃん」でも寡黙な男を演じていたが、あれは電気グルーブのピエールが演じても無理のない、裏にコミカルな味わいを秘めた役柄でもあった。が『64』の三上の重厚なこと。
 ついでに「あまちゃん」でヒロインの父を演じた尾美としのりと、彼の若い頃を演じた森岡龍が、『64』でも重要な役を演じている。森岡龍は『見えないほどの遠くの空を』で覚えたと思ったら、あちこちに出ているのだった。
 こんなところで「あまちゃん」関係者がつながってるとは(でんでんもちょっと出てたな)。

2015年5月8日金曜日

『塔の上のラプンチェル』

 ディズニー版のCGアニメの。
 この間の放送を録画して、それを二晩に分けて観たのだが、こういうのが既に映画に対する冒涜のような気もする(というよりむしろ「当たり前だ!」と言われてしまうかもしれない)。だが読書ではこういった、一部ずつを空いた時間に読み継ぐという享受の仕方が一般的だ。それは、それが望ましいというわけではなく、単に日常生活上の制約にすぎず、本当はやはり「一気読み」がいいのだろうが。
 さて、二晩に分けて観た『ラプンチェル』は、残念だった。最初の晩に娘と「ちょっと」と思って頭のところだけを観ようと思って、あれよと半分過ぎまで観てしまったのだが、それは素晴らしかった。映像も物語もラプンチェルの人物造型も、ディズニー映画の期待を裏切らないレベルで作られていると感じた。逃走シーン(追いかけっこ)の空間構成も見事だった。
 たぶんそのまま最後まで観てしまえば良い気分で観終えることができたのだ。だが、一日おいて後半を観ると、最後まで、気分の高揚を感じることもなく、気がつくと映画が終わっていた。集中力もなくて緻密に考察できるわけではないが、おそらく物語としては後半にそれほど感動的な何かがあるわけではなかったのだ。とりあえずは物語をたたんでおしまい、というだけで。

 一点。むしろ気になったことを。
 ラプンチェルが自分の生い立ちについて気づいてから、育ての親のゴーテルに対していきなり敵対してしまうのに違和感を覚えた。塔から落ちていくゴーテルの姿はデジャブだ。『マレフィセント』で、ステファン王が落ちていく姿が、そのドラマツルギーに対する違和感とともに思い出されたのだった。
 とはいえ、物語の構造は逆転している。「マレフィセント」では、プリンセスは育ての親のマレフィセントと幸せな結末を迎え、実父のステファンは「敵」として城から落下していく。一方「ラプンチェル」では、プリンセスが実の両親の元に帰り、ステファン同様、仰向けの姿勢で落ちていく「敵」を上から見下ろす構図で、育ての親のゴーテルが塔から落下していく。
 乳児誘拐という共通性の上に立って、この育ての親の扱いが正反対なのはなぜか。それはまあ原作の物語がそうなのだから仕方がない。だがそうした差異をよりもむしろ同質性の方が強く印象に残ったのだった。それはラプンチェルの、育ての親に対する執着のなさと、オーロラ姫の実父ステファンに対する執着のなさだ。それはキャラクター造型の問題と言うよりはドラマツルギーの問題だと思う。ステファンに対する、というのなら、昔恋仲だったマレフィセントが、ステファンに対していともたやすく敵対してしまうのも同様だ。どうしてそこにアンビバレントな迷いを描かないのか。
 「マレフィセント」を観たとき、どうしようもなく、その直前に観た「八日目の蝉」を思い出してしまった。これもまた幼児誘拐によって形成された母子関係を描いた物語だったが、二人の関係は、どうしようもない「かけがえのなさ」を孕んでいた。そのことの是非・正否・善悪ではない、唯一性・単独性。人はそれにどうしようもなく縛られるものではないのか。
 だが二つのディズニー映画では、そうした唯一性よりも、単なる善悪の二分割によって、生まれてから十年以上を共に過ごした関係があっさりなかったことになったり、血のつながりや子供時代の関係がなかったことになったりする。
 これがアメリカ文化の何かを意味している、などと大風呂敷を広げるのはやりすぎかとは思うものの、脚本のシステマチックな練り込みとあまりに不調和な拭い難い違和感が不思議なのだった。

2015年5月7日木曜日

『人狼ゲーム』(監督:熊坂出)

 偶然だが『パーフェクト・ホスト』に続いて、いわゆる「ソリッド・シチュエーション・スリラー(SSS)」の一本。好物だ。『インシテミル』(監督:中田秀夫)も、その設定から期待して観て、そのつまらなさに愕然としたものだが(未読の原作は米澤穂信だから、そんなにつまらないはずはないと信じている)、こちらはまあ期待値が低かった分、がっかりはしなかった。
 というよりむしろ、娘とともに大いに楽しんだ。あちこちで一時停止をしながら、真相を推理したりしたのだ。そういう楽しみ方でもしないと、映画そのものがもつ緊迫感やドラマの強さだけでは、やっぱりものたりない。
 もともとのゲームは子供たちと2、3回したことがあるだけで、どこを考えるべきかという勘所がわかるまでに至っていない。だが映画のように、ゲーム内の純論理というだけでなく、メタレベルの外部の論理を前提にすると、考慮しなければならない条件が飛躍的に複雑になることが、ちょっと考えてみてもすぐにわかる。これは時間をかければ「カイジ」や「DEATH NOTE」のような複雑な論理ゲームのドラマ性を追求することが可能な設定だ。
 もちろん、この映画はそこまでの作り込みはされているわけではなかったが、そうなる可能性へ通ずるワクワク感を感じさせてくれたところで、好印象を持ったのだった。
 惜しむらくは、ゲームの外部が存在しているにもかかわらず、登場人物達がいささかすぐにゲームのルールを受け入れてしまう。建物の内部の調査や、脱出方法の検討などが充分に描かれているとは思えない(充分に、である。それなりに描いてはいる)。その「メタ」な論理を物語に組み込むのは、制御が難しいのはわかるが、それをやればこうした「シチュエーション・スリラー」は、いくらでも面白くなりそうなのだが。

 ところで山田悠介が「バトルロワイヤル」をパクって以来か、この手のお話は、小説にしろ映画にしろ、俄かに増えたような気がするのだが、「王様ゲーム」「×ゲーム」「ジョーカー・ゲーム」「生贄のジレンマ」あたり、ちょっとまとめて観てみたくなった。うーん、実現に向けてどこかで時間がとれるんだろうか。楽しそうではある。それぞれは単独ではあまり期待はしないが、こういう企画の上でなら。

2015年5月4日月曜日

『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』

 「『Saw』シリーズのプロデューサーが仕掛ける」という惹句につられて。
 「ソリッド・シチュエーション・スリラー」という言い方も『Saw』か『CUBE』以降、一般的になったが、もともとそういう、金のかからない、アイデアと脚本の練り込み勝負のお話が好きなのだ。邦画のフェイバリット、ベスト3の『12人の優しい日本人』『キサラギ』もスリラーかどうかはともかく、「閉鎖された室内」ものだ。
 どんでん返しの続く展開の意外性は見事だったし、演出も手堅い。主演のデヴィッド・ハイド・ピアースの怪演も素晴らしい。ネットでも皆が触れる、テーブルに飛び乗ってのダンスは娘と繰り返し観て笑った。
 それに比べて室内から外へ出てのラストの展開は評判が悪いようだが、それも悪い印象ではなかった。室内も屋外もどちらも実にうまく描かれ、そうなれば、その落差が映画を立体的にする。途中に挿入される前日譚シーンと警察署内のシーンから既に、単なるサイコ物ではないんだな、と思えて好印象だったのだ。
 そうなれば最後まで「意外な展開」ということで評価できる。
 ちょっとした拾い物、という感じで観終えることのできた佳作だった。