2015年5月27日水曜日

『かぐや姫の物語』高畑勲

 時間ができて、ようやく。
 だが『風立ちぬ』同様、書けない。観ながら、悪くない、場面によっては感動的でもある、さすがにアニメ技術は高い、などと思いながら、やはり端的に「面白い」とは思えなかった。そこら中のシーンに、見覚えのある「物語」の感触ばかりを感じてしまうばかりで。
 手間をかけずにああだこうだと言うよりも、世の中には異常な情熱でそうしたことを考察している人がいるから、素直にリンクをはる。
「新玖足手帖」
かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督は原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画
このブログ主が繰り返し言う「雑」という表現は実に腑に落ちる。あれほど丁寧なアニメーションをつくりながら、物語はかくも「雑」なのだ。
 同時に、あの丁寧で恐ろしく手間のかかっているであろうアニメーションも、例えば最近観ている「響け ユーフォニアム」の京都アニメーションの仕事を観ていると感じる感嘆と、さほど変わりはしないのだ。制作費8年、50億円とかいう劇場映画と、深夜テレビの週刊アニメの仕事が、同程度の感銘を与えるくらいだってのは、いったいどういうわけだ。
 それくらい京アニが良い仕事をしているともいえるが、一方で高畑勲の自然描写や人物描写が、それほどまでに古いということでもある。凝って凝って、金も時間もかけて、それは確かに良いものができているのだが、何か圧倒的なものを見せられたという感嘆もない。山野や草木や動物などの自然描写も、人間の描写も、実に予定調和的なそれに終わっているのだ。
 
 だが、もう一度観ることがあれば、違った感想になるかも知れないという予感もある。もしかしたら、何か違った感情移入の仕方を、主人公のかぐや姫に対してしてしまうかもしれない(だが間違った予感かも知れない)。
 ただとりあえず初見の感想としてふたつほど。
 オリジナル・キャラの幼なじみ「捨丸」と、ラスト近くで再会する場面、捨丸は大人になって妻子もいる身なのだが、これは惜しい展開だと思われた。あっさりと妻子を捨ててしまうかのうような捨丸には、むろん、オイオイとつっこみたくなるが、それよりも、設定自体が惜しい。都で成人したかぐや姫が久しぶりに幼なじみ「捨丸兄ちゃん」に再会すると、彼はまだ青年で、自分の方がもう彼の年齢を超えてしまっていた…という展開を期待してしまったのだが。かぐやの成長が早いという設定からは、そうした展開が可能だったはずで、それはすなわち、都に出て、田舎での「人間らしい(生き物らしい)」生活から隔てられてしまった哀しみ、というこの物語の描きたいらしいテーマに合うような気がするのだが。
 そういえばこの物語は「鄙/都」という対立が「人間界/天上界」という対立の入れ子になっているのだと思われるのだが、このあたりがうまく処理されていたのかどうかがどうももやもやとすっきりしないのだった。

 もう一つ。ラストカットの、天上の人々が去っていく満月に、赤ん坊のかぐやが重なる構図の、あまりのダサさは何事だ? 巨匠のコンテには誰も正直な感想を口にできなかったのか?

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