2016年8月29日月曜日

『ある子供』 -何が欠けているのか

 「パルム・ドール」といえばカンヌ映画祭の最高賞だが、米アカデミー賞と違って、こちらは未見の作品がほとんどだ。基本、エンターテイメント映画しか観ないせいだ。
 だからテレビ放映で「パルム・ドール」と宣伝されて、ようやく見てみた。ベルギー・フランス映画だというのだが、例によってヨーロッパ映画である。バスの中、街角、部屋の中、そこら中が異様に冗長な「間」の取り方で描かれる。そしてあの煤けた画面。どうしてこういう空気感がデフォルトなんだろ。

 その日暮らしをする若いカップルに赤ん坊ができて、とりわけ親になった自覚のない父親がその赤ん坊を売ってしまう。「ある子供」とは赤ん坊を指しているのかと思いきや、父親となった若者を指しているのだった。
 さて、「社会派ドラマ」という紹介だったのだが、確かにかの国の社会状況が描かれているのかと思って観る必要があるんだろうな。同じような「子供」たちは日本にも珍しくはないのだろうが、あのくらいに窃盗や、路上で小銭をせびることが日常だったりはしない。
 そして、「赤ん坊を売る」というルートに、あの手の若者がおいそれとアクセスする機会も、日本にはないんじゃなかろうか(いや、知らないだけか?)。
 そういう違和感を越えて、普遍的な人間ドラマとして感動的に観られるかというと、またそれも難しいのだった。ああいう、子供を作っておきながら大人になってはいない「子供」を描こうとする意図も、それがわずかに成長する姿を描こうとする意図もよくわかる。そして映画は全体として間然するところなくよくできている。
 だが、あれが上映される会場にいて、見終わった直後にスタンディング・オベーションする観客の一人になるだろうという気持ちはどうにもわからない(たぶんカンヌ映画祭ではそういう感じだったんだろうという想像する)。
 映画としてすごいものを観たとも、すごい物語を体験したとも思えない。
 こういうギャップをどうしたものか。鑑賞する姿勢として何が欠けているのか、こちらに。

2016年8月28日日曜日

『オブリビオン』 -どこかで見たSF映画

 始まりこそ、SF的映像美のあまりの完成度に感嘆して、これは『ゼロ・グラビティ』並みじゃねえか! とも思ったのだが、聞けば実写だという乗り物や住居はいいのだが、CG合成のドローンが結構にチャチいシーンを見てからそこのところもちょっと冷めた。
 そうなるともういけない。物語は実に謎の連続で引っ張られる…ということになっているんだろうが、どうもありがちなSF物の焼き直しの連続から一歩も出ていないので、最後まで特に感心することもなく観終えてしまった。
 確かにあちこち、これはサスペンスフルな展開のはずだ、とかここは伏線が回収されて、ああそうか! と思わせるつもりなのだろうとか、ここは感動的なはずだ、とか、あれこれの面白さをしかけようとした意図はわかる。だが安っぽくすまい、とか、面白くしよう、とか、考えていても、実際には必ずしも面白くなるわけではない。その「面白さ」が実現するにはもう一歩のなんらかの才能だか偶然だかが必要なんだろう。残念ながらそれは実現していない。
 わずかに、主人公のトム・クルーズ演じるジャックの、物語前半におけるパートナー、ヴィクトリアの、ジャックに妻がいたことがわかる中盤の不安や悲しみが胸に迫ったのだが、後半はすっかり本妻のジュリアがヒロインになってしまって、観客はヴィクトリアにとって残酷な「ハッピーエンド」が訪れる結末に感動しなくてはならない。だが、報われないヴィクトリアに落ち度があったような描写や、後半にその悲しみが思い出されるようなバランスの配慮が見られないのも残念だ。救われない不全感がある。

 さて、ジャックがジュリアやわずかに残った人類を救うために自己犠牲になったあと、残されたジュリアと娘のもとに、ジャックのクローンがあらわれる結末は、感動的なハッピーエンドのつもりなんだろうが、ネットで見ると、ここに引っかかりを感ずる観客が多いようだ。主人公のジャック49号は死んでしまったのに、ラストで現れた52号がその代わりになるのか? という疑問と、52号以外のクローンはどうなっているのか? という疑問があるためだ。
 後者の疑問についてはこんな動画も作られている。
 だが、封じられていた記憶を蘇らせたのは49号だけだったのだろうし、52号は49号との接触で記憶を蘇らせたということなのだろうから、他のクローンは自分の持ち場以外の場所を「汚染区域」として、それぞれの担当区域以外に出て行かないまま、テットの破壊後に死んでしまったと考えるべきなのだろう。したがって上記の動画のようなことが起こらないという一応の理屈は立つ。
 もうひとつ、クローン52号は49号の代わりになるのか、という点については、ジュリアとジャックの関係は、そもそもこの映画中の物語の前、60年以前にできあがっているのだから、観客がいかに49号に思い入れていても、ジュリアにとって49号と52号の違いはそれほど大きくないのだと考えられる。
 この結末については萩尾望都の「A-A’」を思い出した。再び会えた愛しい相手がクローンであることは、それが新しい出会い(関係を築いた相手は死んでしまって、出会う前のコピーであるクローンと再会する)であってさえ、かくも感動的でありうる。まして上記の通り、52号が49号の代わりに帰ってくることは、ジュリアとその娘にとって十分なハッピーエンドたりうる。
 さすがにこの結末はヴィクトリアの悲しみとともに胸に迫るものがあった。映画全体の評価を著しく高めるほどではないにせよ。

2016年8月24日水曜日

『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの

 アルフォンソ・キュアロンだし、アカデミー賞総なめだし、大ヒット作だし、ハードルは思い切り高い。
 だがそれを越えるだけの出来であることは確かだ。文句の付けられない緻密な脚本とサンドラ・ブロックの演技、そして何より、恐るべき撮影技術。
 『トゥモロー・ワールド』も恐るべき撮影技術に驚嘆して、それでも物語に不満が残った作品だったが、こちらは物語としても間然するところがない。サスペンスもドラマ性も。
 デブリによるステーションの破損で宇宙漂流する危機に陥った主人公がいかに生還するか。物語はこれだけの、これのみのシンプルな骨格に拠っている。
 最初のシークエンスで、宇宙空間に漂流することの恐怖はたっぷり演出されている。あとはそこからの生還が、いかに強いカタルシスを生むかだ。
 その点でもよくできていたと思う。次から次へと襲う困難をひとつひとつ克服して地球に向かう。
 着陸用のユニットが着水して、沈み始める。あれ、ここまできてこのままでは溺れ死にしちゃうじゃないかと不安に思うと、水中の映像の画面に蛙が横切る。淡水! 意外と水深は浅い。水底を蹴って水面に浮かび上がる。無重力状態に慣れた体にのしかかる重みにあらがって立ち上がる主人公を下から見上げる構図で、主人公が確かな足取りで歩き始めたところで「Gravity」のタイトル。
 そう、オープニングでタイトルが出たときに、あれ!? 「Zero Grabity」は原題ではなく邦題なのだと知って驚いた。確かに邦題が『重力』では内容が想像しにくい。『無重力』となれば宇宙を舞台にしたSFなのだとわかる。
 だが原題は『重力』なのだ。それが無い状態がどれほど人間を不安にさせるか。それを取り戻したときの安堵。見終わって納得感は強い。
 これだけの映画としての完成度を見ればアカデミー賞の監督賞だとか撮影賞だとかいうところはむべなるかな。作品賞だっておかしくはないと思うが、そこを逃す、作品全体としての強さに結局は欠けるところがあったのも確かだ。
 とりわけ乗り切れなかったのは、宇宙空間のスケール感に対して、人間の出来ることはもっと限られてしまうのではないかという疑いをすてきれなかったからだ。あちこちの場面でそんなことは物理的に可能なのか? と疑ってしまった。いくつかのサイトで見ると、こうした描写については、科学的にはありえないというコメントがあるそうで、やっぱりそうか。
 これがあると、先日の『スーパーマン』と同じように、「結局大丈夫なんだろ」と、いわばタカをくくるような気持ちになってしまうのだ。ここがサスペンスを盛り上げ損なっているところ。だからラストの着水にこそドキドキしてしまったりするのだ。ここでは我々の知っている物理感覚でいいんだよな、と思って。

2016年8月23日火曜日

この1年の映画 その2

 うっかり更新が滞っているうちにブログ開設二年となった。去年の今頃にも、一年目の映画について振り返ったので、今年も。
 ブログに記録しようとすることが映画を観る動機となっている面もあったため、一年目は意識して観ていたようなところがある。二年目はさすがにちょっと息切れ。かつ、ブログの記事を書くこと自体が時間的な負担になっているところも否定しがたい。観てから、それについて書くまでに、いつも時間的な隔たりがある。
 そういうわけで、2014年の8月の開設から一年で観た映画は75本だったが、2015年の今頃から今にいたるまでに観たのは以下の60本。

『ザ・バンク 墜ちた巨像』
『誰も知らない』
『英国王のスピーチ』
『ショーシャンクの空に』
『GODZILLA ゴジラ』2014年版
『オカルト』
『ノロイ』
『運命のボタン』
『オブセッション ~歪んだ愛の果て』
『96時間/リベンジ』
『アルカトラズからの脱出』
『セクター5 第5地区』
『見知らぬ医師』
『ラスト・キング・オブ・スコットランド』
『ニック・オブ・タイム』
『リプリー』
『アジャストメント』
『狩人の夜』
『パニック・フライト』
『桐島、部活やめるってよ』
『ワルキューレ』
『ウルトラ・ヴァイオレット』
『キリング・ミー・ソフトリー』
『フローズン・グラウンド』
『単騎、千里を走る』
『コンテイジョン』
『シックス・センス』
『127時間』
『ショコラ』
『GONIN』
『ギャング・オブ・ニューヨーク』
『クラウド・アトラス』
『クロール 裏切りの代償』
『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』
『永遠の僕たち』
『0:34』
『シャイン』
『ライフ・イズ・ビューティフル』
『Friends after 3.11 劇場版』
『わらの犬』
『エンド・オブ・ザ・ワールド』
『ホワイトハウス・ダウン』
『メランコリア』
『ゲーム』
『アルティメット2』
『リトルダンサー』
『奇跡の人』
『スーパー8』
『ウェールズの山』
『ザ・ビーチ』
『その男 ヴァン・ダム』
『マン・オブ・スチール』
『レイクサイドビュー・テラス 危険な隣人』
『死霊館』
『エクスペリメント』
『スイミング・プール』
『リード・マイ・リップス』
『コワすぎ! 劇場版』 
『海がきこえる』 
『ブレイクアウト』

 この一年の折り返しのあたりから、記事のタイトルに、映画のタイトルとともに、ちょっとした見出しをつけることにした。ちょうど『シャイン』からだ。そこまでは監督やら原題やらを付け加えたり付けなかったり。こうした工夫も、自分の印象を明確にしておくにはいくらか役に立つ。
 去年のように長い考察を加えた映画はない。比較的長い考察は『桐島 部活やめるってよ』について書いた記事だが、これは主に批判であって、作品としての思い入れはそれほどない。
 では思い入れのある映画はどれか。昨年にならって10本を選ぼう。上記60本には、初めて観たわけではない、折り紙付き「名画」もあるので、ここは初見映画に限定して挙げる。

『ザ・バンク 墜ちた巨像(原題:The International)』
『オカルト』(監督:白石晃士)
『狩人の夜』(監督:チャールズ・ロートン)
『パニック・フライト』(監督:ウェス・クレイブン)
『127時間』(監督:ダニー・ボイル)
『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』(原題:『Nothing But the Truth』)
『シャイン』 -無垢である痛みと幸福
『ライフ・イズ・ビューティフル』 -ホロコーストと幸福感
『エンド・オブ・ザ・ワールド』 -「終末」に誰と過ごすか
『ホワイトハウス・ダウン』 -不足のない娯楽大作

 とにかく印象に残ったもの、という基準で選んだが、その印象はさまざまだ。『シャイン』『ライフ・イズ・ビューティフル』あたりの、初めて観るが、名画であることは「折り紙付き」の映画もある。
 『ホワイトハウス・ダウン』『パニック・フライト』は、制作規模に大きな差があるものの、どちらも堂々たるエンターテイメントで熱狂させてくれた。
 『オカルト』『狩人の夜』は、映画史上の重要度においては大きな差があるものの、どちらも奇妙な味わいが印象深い、怖くはない恐怖映画だった。
 『127時間』『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』は、やはり制作規模にも、監督の力量にも大きな差があるとは思うが、どちらも緻密に作られたお話と、主演俳優の演技に感心した。
  『エンド・オブ・ザ・ワールド』は、凄い映画、とは思わぬものの、思い出すと奇妙な愛おしさを感ずる映画だった。「懐かしい終末」というのは、70年代SFへのノスタルジーに付されるコピーか。
 そして、総合的な評価としては『ザ・バンク』に最も圧倒された。脚本も演出も演技も、すべての要素が圧倒的だった。
 番外として『その男 ヴァン・ダム』を挙げる。これもなかなかに愛おしい映画だった。

2016年8月14日日曜日

『ブレイクアウト』 -残念なサスペンス映画

 原題の『Trespass』(不法侵入)では何のことやらわからんから、またしても邦題なのに英語という。
 先にネットで評判を見ておけば良かった。ニコラス・ケイジにニコール・キッドマンという顔合わせに「巨匠のしかける予測不可能なサスペンス」とかいう煽り文句で観てしまったが、ネットでの評判はすこぶる悪い。ジョエル・シュマッカーは量産監督としては悪くない仕事をしているんだろうが、こういうのを「巨匠」と呼ぶのはどうもなあ。
 なるほど、展開は次から次へと「予想」するより先に動いていくから、退屈する暇はないが、といって、先のことを「期待」したりさせていないから、サスペンスもさほどないし、カタルシスもない。
 強盗に押し入られて夫婦が捕まっている状態で、娘がこっそりパーティーに行くために家を抜け出しているから、自由に動ける娘をどう使うかはストーリー上の重要な要素なのに、帰ってきてあっさり捕まる。ある意味で「予想」を裏切っているが、むろん悪い意味でだ。
 総じてそういった展開が続いて、やはりニコラス・ケイジにニコール・キッドマンが助かるのはお約束だから、どうもハラハラした挙げ句のカタルシスには至らない。
 腹立たしい日本製のバカ映画と違って、金もかかっているし、それなりにストーリーテリング上も工夫をこらそうという意志は見えるのに、結局うまくいっていないことを制作途中で誰かが指摘して軌道修正できないのか、腹が立つというより残念な気がする作品である。ニコール・キッドマンの美貌には感嘆したが、それだけで高評価する気になれないのは、映画がやはり総合芸術だからだ。

2016年8月13日土曜日

『茄子』 -なぜ「ジブリブランド」にしないのか

 『海がきこえる』の流れで、娘と観た。しかも『アンダルシアの夏』『スーツケースの渡り鳥』二作続けて。
 「ジブリ作品」ではないが、この濃厚なジブリ臭は、監督の高坂希太郎がやはりジブリ作品にかかわる常連アニメーターだからである。
 だが「だからである」で済ますには似過ぎである。なぜジブリで権利を買い取って、ジブリブランドで売らないのか。高坂希太郎がジブリ関係者だからって、制作会社が違っては、スタッフも違うからしょうがないんだろうけど。もったいない。
 まあいい。作品としては面白いに決まっている。黒田硫黄である。しかもかなり忠実に、丁寧に作っている。かつ『スーツケースの渡り鳥』は原作をかなりふくらませてオリジナル作品として成立させつつ、原作を損なってはいない。原作の飄々とした空気は、漫画というメディアの文法の賜物を、黒田硫黄が充分に使いこなしたうえで生み出したものだが、メディアの違うアニメーションでは、それはそれで、アニメーションの良さを十全に発揮する高坂の仕事が見事だ。

2016年8月11日木曜日

『海がきこえる』 -ジブリの佳品


 しばらく前に、子供たちとシネコンの入口の、差し渡し30メートルはあろうかという看板絵に描かれた歴代ジブリ作品の主要人物たちを見ながら、制作順はどうなるんだろうとか、ランキングを作るならどうなるかという話をしたのだが、その時に、自分の中ではどうやら『海がきこえる』が意外と上位なのだということを発見したのだった。
 かつ子供とは観ていないのだということもわかったりしたのだが、六本木ヒルズで開かれている「ジブリ展」に行ってきた娘と、十数年ぶりとかいう感じの『海がきこえる』を観てみようということになった。
 観始めると、やっぱり素晴らしい。隅々まで丁寧に描かれた美術も作画も、それだけで観るに値する。
 だがそれをいうならジブリ作品はどれもそうだ。ちっとも面白いと感じない最近のいくつかの作品だって、アニメーションとしての技術はいつも高く、ハードルが高すぎるのが低評価の理由だという、ありがちな相対的悪印象に過ぎないのではないか。逆に20年も前の『海がきこえる』は期待値が低い分だけ、よくできてるじゃないかと評価が甘くなっているだけでは?
 どうもそうではない。おそらくこちらの期待との相対評価の問題というより、作品としての完成度の問題なんだろう。描こうとしている物語や、それを描くための細部の演出、アニメーションとしての技術的レベルが、バランスよく高いというのが、『海がきこえる』という作品がこのように好印象に感じられる理由であるように感じられる。
 最近のジブリアニメの低評価は、基本的に物語の弱さであり、細部の演出の弱さであり、アニメとしてのレベルの高さは、それだけを鑑賞して好印象を抱くにはアンバランスなのだ。
 そこにはむしろ、なんだか不快感さえ生じてしまいかねない。
 それに比べて、派手なアクションも実験的な表現もない『海がきこえる』は、その世界構築に関して過不足無く、となれば物語のありようを好ましく思えるかどうかだ。
 それが好ましいのだ。ちょっと不器用で、ぎこちなくプライドを守って、自分らしくあろうとし、手探りで関係を築こうとする高校生たちのありようが。
 そして、ありえないような異世界の体験ではなく、だが普通にはない、だが現実には起こりうる(超自然的ではないという意味で)劇的な体験が、なんとも懐かしくも羨ましい。

2016年8月9日火曜日

『コワすぎ! 劇場版』 -モキュメンタリーの縮小再生産

 どうも『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!史上最恐の劇場版』というのが正式名称らしいが、長いよ。
 『オカルト』が楽しかった白石晃士監督作品だが、なんたるチャチさ。相変わらず『ムー』要素満載のモキュメンタリーだったが、単に『オカルト』の縮小再生産になっていると感じた。
 足を踏み入れると発狂して行方不明になるという山奥の村があって…というから祟りだの呪いだのという幽霊系オカルトかと思いきや、秘密の兵器研究が行われていた旧日本軍の軍事施設があって、UFOが出てきて、タイムリープによるタイムパラドックスが起こって…。「怖すぎ」というより「やりすぎ」だな。
 とりわけ、後半に頻出するCG合成が耐え難い。『オカルト』のときも、そこについて行けないものを感じたが、今回はそこがまた「やりすぎ」なのだった。どうみてもチャチい合成で首が飛んだり異空間に迷い込んだりするのは、どうしたって「コワ」くなりようがない。
 だが、そういうことをやりたいってことなのか? これは。
 いや、シリーズを通してみていると、レギュラーメンバーの背景がわかって、もうちょっと違った面白さを感じられるのかもしれないが。

2016年8月7日日曜日

『リード・マイ・リップス』 -よくできた仏映画の味わい

 前回の『スイミング・プール』(英仏映画)といい、ヨーロッパ映画というのは、ハリウッド製の米映画と実に手触りが違う。字幕で観たから、登場人物の喋るフランス語も、いちいち「映画みたい」と感じられる英語と違って日常に地続きのドラマを感じさせる。その意味ではどちらかといえば邦画に近いくらいだ。
 だが、こんなふうによくできた映画は、やはり邦画にはほとんどない。難聴のオールドミスOLが、教養のない保護観察中の若い男と接近することで少しずつ「女」の顔を見せ始める人間ドラマも巧みに描かれていたし、足を踏み入れてしまった犯罪がもたらす危機をいかに脱出するかはサスペンスたっぷりに展開した。
 たぶんもっと集中して観て、身を寄せ合うように生きる二人に感情移入していければ相当に上等な映画体験になったはずなのだが、残念ながらこちらの集中力が足りなかった。「よくできた映画」とかいうのは残念な感想だ。

 若い男が、借金返済の代わりに、バーテンとして働かされることになる展開があるのだが、その働きぶりは、慣れないオフィスワークに比べてずいぶん手際が良い。その演出は見事だ。カメラワークも演技も。
 ネットの感想に、この働きぶりについて「水を得た魚のように生き生きとしている」という感想と、ほぼ正反対の、「弱い立場の者はこき使われるしかない」という感想があって、面白かった。同じ場面を見て思うことの差よ。
 働きぶりは意図的に丁寧に描写されているように見えるから、そこは必要な情報なのだろう。ここはオフィスワークとの対比によって、この若い男が多少は魅力的に見えるべきところなのだろうと思うが。

2016年8月6日土曜日

『スイミング・プール』 -観客の解釈を誘う謎映画

 ずいぶん上手い映画だと思いつつ、あれこれの謎めいた描写の訳がいつわかるのかと思っていると、最後はむしろ物語全体がなんなんだかわからずに終わって呆気にとられ、もう一度、早送りしいしい見直してしまった。それでもわからない。おかしい。わかるはずなのか?
 で、調べてみるとこの映画、監督が解釈を観る人に委ねるとか言ってるし、観た人もあれこれと解釈するサイトがいくつも見つかるという映画なのだった。そうか、解釈していい前提なのか。「現実」の範囲内で解釈しようとするから無理なのであって、映画の中で起こっていることの中に「虚構」を認めていいタイプの映画なのか。
 そのつもりでもう一回見直さないとならないということになるんだが、まあ、そこまでの気はない。結局、すっきりいくというものでもないそうだし。
 それよりも、隅々まで上手い映画だった。たとえばシャーロット・ランプリングの表情は、一分の隙もなく見事な演技と演出の賜物だと感じた。
 それから、写っているものが明らかに写っているものそのものではないと感じさせる描写があちこちにある。たとえば、二階のベランダから見るプールサイドの人物達がそのままプールサイドを歩いていくと、二階からは木陰に隠れてしまう位置に移動することになるのだが、そのままその樹をしばらく写していると、それは、その木陰で何事かが行われていて、しかもそれに観客の欲望が向かうことを促しているのだと感じられるようになる。
 意図的な暗示であり、これを狙ってやってるのだから上手いものだ。
 もうひとつ。朝になると、プール水面にシートがかけられている。プールサイドで不穏なことが起こったらしいことが暗示され、主人公がおそるおそるシートを巻き取る過程が描かれる。プールの真ん中あたりにシートを下から押し上げる何物かのふくらみが認められ、そこに死体があることを観客に期待(危惧?)さてつつ、シートがそこまでめくられると、下から姿を現すのはビーチマットだ。
 こういうふうに観るものの想像や感情をコントロールする。上手い。