2017年12月31日日曜日

『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論

 以前この題名の映画を観た時には、こちらの映画と別であるとは知らずにいて、観終わってから調べているうちに話題の映画が別なのだとわかったのだった。
 さてこちらがダニー・ボイル監督作品だけあって、当然話題性もある。期待もある。そして実際に観終わっての満足感も充分なのだった。

 だが前のジョシュア・マイケル・スターン版を観ていたことが幸いしたのも確かだ。ダニー・ボイル版は、スティーブ・ジョブズやアップルに不案内な者が見るにはいささか辛い。飛び交う会話に登場する用語や人名がもつ文脈を理解していることは、その会話を理解するために必須だし、エピソード間の歴史的事実を知らずに登場人物たちの感情の軋轢を捉えることも難しい。
 もう一つ、幸いしたといえばレンタルのDVDを、吹き替えで観ていたのだが、同時に字幕も表示していたのだが、これがなければニュアンスのわからない科白がどれほどあったろうかと思うと、その偶然を喜びたい。
 吹き替えと字幕の翻訳者が別なのだ、おそらく。
 二種類に翻訳されることでそのニュアンスがようやくわかる、という科白が多いというのは、それだけ含みのある表現をしているということなのだろう。
 にもかかわらず、この映画の科白の量たるや、『ソーシャル・ネットワーク』並みだなあと思っていると、脚本のアーロン・ソーキンは『ソーシャル・ネットワーク』も書いているのか! まったく恐るべきスピードで科白がやり取りされるのだ。
 この映画は基本的に口論で成り立っているといっていい。スティーブ・ジョブズによる、三つの有名な製品発表会の開始前を描き、さて発表会が始まるというところで肝心の発表会そのものは描かれずに顛末だけが紹介されて、また次の発表会開始前に時間が跳ぶ、という展開が2回繰り返される。その発表会開始前の殺気立って慌ただしい緊迫した時間の中で、これでもかというほど密度の高い口論が繰り返されるのだ。
 一つ目のマッキントッシュ発表会前のパートを観終わったところで再生を一時停止して、久しぶりに一緒に映画を観た息子と、これはすごいと言い合った。基本的には脚本がよくできているのが前提ではあるが、役者の演技も、演出も編集も、そのテンションを支えきらなければこの緊迫感は出ない。
 そして、その口論のすごさとは、その論理の拮抗と、プライドやらコンプレックスやらのからみあった感情の拮抗が、強い説得力をもって観客に伝わるということだ。これが単なる感情のぶつかり合いだとか水掛け論だとか、ジョブズがエキセントリックで嫌な奴だとしか感じられない人は(という評をネットで見るのだが)、「議論」というものができない人なのだろう。惜しいことだ。
 「議論」によって、物事や価値観の多面性、戦略の有効性についての可能性の分岐、人間の感情の重層性が見えてくる過程は、ぞくぞくするほど楽しかった。高度な技の応酬が見応えのあるスポーツ観戦のように。
 そして、時を経た三回の議論において、スティーブ・ジョブズの「成長」が描かれているのも、素朴に快い。堂々たるハッピーエンドに、終わって感じる満足感も高い。

2017年12月30日土曜日

『サプライズ』-スモールスケールな『ダイ・ハード』

 家に押し入ってきた暴漢と戦う家族、という、このブログを始めてからでさえ何本か観ているシチュエーションのスリラー。だが観終わって思い出したのは『ダイ・ハード』だった。テロリスト集団に対して、偶然人質に紛れ込んでいたタフガイが意外な活躍をしてテロ集団を殲滅するという筋立ては、考えてみればこの映画に重なる。ただ、スケールはもちろん小さい。だがそこは期待していない。低予算で作られた「思いがけず面白い」映画を期待しているのだ。ついでに言えばタフ「ガイ」ではないし、「家族」でもない主人公の強さが、子供の頃に、終末妄想にとりつかれた父にサバイバルの訓練を受けたという過去からきているのだという、「サプライズ」な設定は微笑ましかった。
 「正体不明の敵」だの「衝撃の結末」だのという宣伝文句に乗せられて観たが、仮面の男たちが、時々仮面を脱ぎ、しかも知らない顔だから、「誰?」というサスペンスは早々になくなるのだった。じゃあ動機は何なのかってえと結局わかりやすい遺産狙いなのだが、そこにいたる人間関係の葛藤が描かれているわけでもないので(まあ描いてしまうと首謀者が早くにわかってしまうのでそうするわけにもいかず)、なんだか唐突で説得力に欠ける。
 となると後は追いかけっこのスリルだ。家の中を舞台にした殺し合いとなると『スクリーム』シリーズだが、そのくらいにはよくできていた(ただし『スクリーム』シリーズは家の外にも展開していくから、映画としてのふくらみはずっとある)。
 が、どうにも腑に落ちない行動が多い脚本は杜撰でがっかりしてしまう。屋内に殺人犯がいることは確実なのに、まずそれに対する備えをしないでただ嘆いていたり、無防備に過ぎたりするのはどう不合理で、それが不合理であると意識されている様子も描かれていないのは、単に物語の質を落としてしまう。
 主人公の反撃のはまり方が爽快なのを楽しむ映画としては楽しめた。

2017年12月29日金曜日

『スクープ 悪意の不在』-社会派ドラマとしてよりもコンゲームとして

 この間は『チェンジング・レーン』で、役者として実に味わい深い演技を見たばかりのシドニー・ポラックの監督作品。
 どうもネットでは「マスコミによる報道被害をテーマにした」という紹介のされ方をしているが、いたずらにマスコミを悪者にすることなく、それなりに報道の倫理感を保障しているいるところがシドニー・ポラック作品だ。それをしないと安っぽくなるばかりだろうから。
 それよりも後半、マスコミと検察、警察を相手取って、被疑者とされた主人公が仕掛ける戦いが、コン・ゲーム・ストーリーとしておそろしく面白かった。そしてその決着をつけるべく開かれる予備審問(なのか、もっとうちうちの取引なのか)が白眉だった。ここは法廷物の面白さでもある。
 残念ながら字幕だけではニュアンスのわからないセリフも多く、すべての論理の組み合い方が把握できていないのだが、とにかくこういうのは、どこかの勢力を愚かにしたり悪者にしたりしてはだめなのだ。それぞれがそれぞれの職業の倫理と方法論を戦わせているからこその緊張感だ。
 残念なのは、吹き替えで見られなかったことだな。そのすごさを推測するばかりで、本当には充分に論理の綱引きが堪能できなかった。

2017年12月28日木曜日

「夢十夜」の授業 3 ~第一夜も解釈する

承前

 さて、上記のような授業過程で明らかにしたいのは、小説を読むという体験がいかなるものであるかである。上記の作業を通してそのひとつの側面は浮かび上がってきたはずである。
 だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せると筆者は考えている。それはやはりある種の「解釈」である。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出していると筆者は考えている。この点について生徒にも考察させたい。
 まず生徒に次のような問いを投げかけてみる。

    ①女との約束を守って待っていた「自分」は、なぜ「百年がまだ来ない」と考えたのか。
    ②物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。

 ①については、自分は途中で数えることを放棄しているから、カウントが「百年」に達していないということではないことを確認する。そのうえで、この二つの問いの間を整合的な論理で捉えて、端的に答えよ、と指示する。
 物語の因果関係が追える読者ならば、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。つまり①の答えは「女がまだ会いに来ないから」である。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。したがって②の問いの答えは「女が百合になって会いに来たから」ということになる。①と②は裏表の関係として整合しあう。
 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。物語冒頭の欠落(喪失)が試練の末に埋め合わされることで結末するというのは、物語の基本的なドラマツルギーである。もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく要請は、確かに満たされて終わる。
 さて、これを確認した上で、本文には本当に「女が百合になって会いに来た」と書いてあるのか、と問い直す。
 本文を見直してみると、そのようには書かれていない。ではなぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのだろうか。もちろんそうした疑問は、擬人化された百合の描写によって読者にはあっさりと看過されてしまう。百合が女の生まれ変わりであることは自明であるように感じられる。明らかに作者はそのような印象を読者に与えようとしている。
 だが、やはり本文には明確にそのような思考の因果関係が書かれているわけではないのである。
 そこで②について、本文に基づいて、別の答え方ができないか、とあらためて問う。
 自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな。」とこのとき初めて気がついた。
我々はこの一節に、思わず接吻してしまったその百合が女の生まれ変わりであることに気づく→女との約束が成就したことに気づく=百年が来ていたことに気づく、という論理展開をみとめる。もちろん「骨にこたえるほど匂」うのは女の官能性を表しているだろうし、「自分」が思わず接吻してしまうのも、それが女の生まれ変わりであればこそだ。
 だが、あらためて読んでみると、それは読者にそう了解されるのであって、「自分」がそのことに気づいたとは直截的には書いてはいない。とはいえ、そう考えることは、明確に書いてはいなくとも自然なことのように思われる。だからむしろ「本当にそう書いてあるのか」などと問われても、なぜわざわざそんな明白な論理に疑問を投げかけるのか、と生徒は思うかもしれない。
 そこでさらに次のように問う。

    ③「このとき初めて気がついた。」の「このとき」とはいつか。

 「自分」に約束の成就の気づきをもたらす「このとき」とは何を指しているか。問題は「とき」と指定されるある時点ではない。「この」が指している範囲である。右の論理に従えば、「このとき」とは、百合に接吻してから顔を離すまでの一連の動作が終わった「とき」のことだと理解できる。そこでこの行為と「気がついた」に因果関係があると、読者はみなす。この行為が気づきをもたらしたのである。
 だがそれが本当の論理的脈絡なのだろうか。
 素直に本文を見直してみると、「気がつ」く直前に「自分」は「暁の星がたった一つ瞬いてい」るのを見ている。「この」が指しているのはこの部分だと考えることはできないだろうか。
 すなわち、この一節から導かれる論理は、「自分」が百年経っていたことに気づいたのは、「暁の星」が瞬いているのを見たことに拠る、という因果関係なのではないか。
 そうした発想が誰かから提出されたら、これを先ほどのような二択の問いとしてあらためて生徒に投げかけてもよい。②「物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。」の答えとして次のどちらを支持するか。

a 女が百合になって会いに来たから
b 暁の星を見たから

 だが徒に生徒に混乱を与えてもしかたない。むしろaとbがどのような関係になっているかを考えるよう指示する。
 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ筆者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか。
 この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。「暁」とは何か、と聞いて「夜明けのこと」というような回答を引き出すだけでいい。そのうえでこの描写の意味することをあらためて問う。
 筆者の提示したい「解釈」とは次のようなものだ。
 「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。それを「暁の」星だと認識するということは、この瞬間に夜明けが近づいていることに気づいたということである。これはつまり、夢から覚める自覚が生じた、意識が覚醒しかけている、ということを意味しているのである。
 「自分」に百年の経過の気づきをもたらしたのは、百合の花の正体ではなく、この覚醒の自覚である。
 考えてみると、それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。ただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする記述もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ていない。
 「自分」は本当は、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けているのではないか。
 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。これも、精確に言えば、目覚めの気配によって、それを「暁の星」だとする「解釈」がなされたと言うべきである。そして夜明けのおとずれが意味しているのは、夢の終わりである。その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、そして「百年」が一夜の夢として完結するのである。
 とすると、先ほどの論理は転倒している。百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたことに気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったという解釈が生まれた、というのが真実なのではないか。そしてそれが、物語を振り返ってみた時には忘却されているだけなのではないか。つまり「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたものなのではないか。
 この「気づき」に見られる奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。目が覚めて夢を思い出すとき、現実が夢に影響していたことを自覚できることがある。我々の語る夢は、覚醒時から遡って解釈されるのである。それは小説の論理が、読者によって解釈され、見出されたものであるのに似ている。先の「捏造」は「自分」がしたのではなく、実は読者がテキストを解釈する過程でしたのだと言える。

 「百年」とは「永遠」のことだ、などというしばしば目にする「解釈」に対してここで筆者が提示するのは、「百年」とは夜明け、つまり夢の終わりまでの期間を意味しているのだ、という「解釈」である。夢の終わりによって約束が成就するならば、確かに女との再会は同時に直ちに訣別をも意味することになる。とすればやはりこれも女との恋愛の不可能性を意味しているという言い方もできないわけではないのだが、そうした言葉遊びは、それほど魅力的なものだとは筆者には思えない。
 生徒にはもちろんこうした「解釈」を、この小説の一つの読みとして体験させたいだけで、それを「正解」として「教える」つもりはない。生徒自身の読みこそが問われるべきなのだ。右のような読みは、小説の読みの可能性の一つとして提示するだけだ。
 だが、国語科の授業として、このような読みの体験をさせることには意味があるだろうという感触はある。小説の読解の自由度、可能性を感じさせることにも意味がある。だがそれだけでなく、小説の読解がどのようにして成立するかをあらためてテキストに則って検討すること自体がここでの授業の本義である。それを成立させる教材として「夢十夜」は豊かな可能性をもった小説だといえる。

 この授業の最新版はこちら→  

2017年12月27日水曜日

「夢十夜」の授業 2 ~第一夜は解釈しない

承前

 「第六夜」について上記のように「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。
 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。だが、「第一夜」が、「第六夜」のように、全体としては、どのような意味であれ腑に落ちる「解釈」の可能な物語だと思ってはいない。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、「星の破片」「真珠貝」にはどのような意味があるのか、などといった、いかにも「謎めいた」設定に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しはない。むしろ何も言ってもこじつけになりそうだという予想はある。「百年とは永遠を意味しているから、『百年経ったら会いに来る』とは再び会うことの不可能性を意味しているのだ」とか、「星の破片やはるかの上から落ちてくる露など、天との交感が暗示されている」などというしばしば目にする「解釈」は、何かしら腑に落ちるような感覚を与えてくれはしない。だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりではない。
 筆者にとって「第一夜」を教材として授業で扱う目的は、小説における描写の意義について考えさせることである。

 まず生徒に「第一夜」を、一〇〇字程度に要約させる。
 冒頭に、読者はすべての小説を「解釈」しているわけではないと述べた。また「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないとも述べた。だが要約とは既にその過程にテキストの解釈を前提とする行為だ。テキストに書かれた何が取り除いてはいけない骨なのかという判断自体が既にある種の「解釈」に拠るからである。
 だがそれは「第六夜」で行ったような、抽象化を伴う解釈ではない。物語の各要素の論理的な因果関係を判断する「解釈」である。骨として選ばれた要素が、物語中の具体/抽象レベルのままでいいのである。
 授業者による要約を紹介して授業をその先に進める。

      百年経ったらきっとまた逢いに来ますと言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて目の前に百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(105字)

 右の要約において抽出した骨組みと、完成された作品の間にあるものが何なのかを考えさせる。この時点で、作品とは骨以外に何でできているかを問う。様々な答えを許容しつつ、生徒に挙げさせたい語句は「描写」と「形容」である。後の具体例を使って誘導してもいい。
 それから、生徒に次のような指示をする。

    取り除いて前後をつめてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」に傍線を引け。

 冒頭の一段落で具体的に見てみる。
   腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない「形容」である。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない「描写」である。上のように「描写」の中にもさらに「形容」が施されている。
 試みに、取り除いて、つめてみよう。
  枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。
右に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は判断の揺れる問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない。また「形容」(波線部)と「映像的描写」(傍線部)も厳密な区別ではない。だが、考えることで、この小説の文体の特徴を実感することができる。時間をおいて生徒同士で確認させるか発表させるなどして、その適否を検討していく。
 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か。それはいわば、過剰な「叙景」である。「第一夜」には異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。
 実際にそのようにして「つめ」てみた文章を朗読する。自分が傍線を引いた部分との違いを各自に意識させる。そこも「つめ」られるのか、などと思いつつ、生徒はこの小説における描写の密度を実感するはずだ。文字数にして半分ほどに原文をつめてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんどかわらないような印象があるのである。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で書き込まれているのである。

 さて結局のところ、要約された作品の骨組みと、元の作品との間には何があるか。
 漠然と、完成作品の方が「詳しい」「細かい」とは生徒にも言える。だが具体的に、肉として、皮膚として、衣服として塗り重ねられたものは何なのか。
 まずはプロットの展開がある。だがそれでも完成作品の半分ほどの量なのである。そのうえにあるのが、先ほど傍線を引いた「形容」「描写」なのである。これらは小説にとってどのような機能を果たしているか。視覚的想像を喚起する、感情移入させる、臨場感が増す…。どのような表現であれ、生徒に考えさせたい。

 こうした授業過程を経た後で、たとえば茂木健一郎の「見る」という文章を読む。茂木は「見る」という行為について次のように述べる。
   「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)
   視野の中に見える「モナ・リザ」の部分部分が集積してある印象を与えることで人間の脳は深い感銘を受ける。印象を結ぶ脳の編集、要約作業の過程で、ある抽象的な「要約」が生まれるからこそ、「モナ・リザ」は特別な意味を持つ。
  しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。その絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。
    何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 
たとえばこの一節に述べられていることを上記の授業過程と比較するよう指示する。何が言えるか(実際に生徒に読ませるのはもっと長い文章である)。
 ここにある「モナ・リザ」が「夢十夜」に、つまり「絵を見る」が「小説を読む」に対応しているのである。
 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「解釈」(「第六夜」で試みたように)したり「要約」(「第一夜」で試みたように)したりする。それが小説を読むということでもある。
 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。漱石の紡ぐ物語は、その「豊穣」によってこそ小説たりえている。

 続く 「夢十夜」の授業3 ~第一夜も解釈する

2017年12月26日火曜日

「夢十夜」の授業 1 ~第六夜は解釈する

 ここ数年で1学年を担当することが3回あって、その1回目の時に、夏目漱石の「夢十夜」の「第一夜」について、今までと全く違う解釈を思いついた。その年の授業については以前まとめたことがある。(さらに最近書き直したもの『夢十夜』の最近の授業
 この、いわゆる「コペルニクス的転回」的な認識の変容は我ながらいささか衝撃的で、「夢十夜」の授業についてのアプローチを大きく変えることになった。それ以前から想定していた「夢十夜」の教材としての価値についても再考し、あらためてひとまとまりの授業の構想を立てて、その後2回の1学年担当で実施してみた。
 3回目の実施となる今年度の様子を、ここに記録しておく。

 「夢十夜」の教科書採録に際しては、以前は「第三夜」が収録されていることもあったが、近年は「第一夜」と「第六夜」のみの収録が一般的である。この場合、最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が、生徒にとって馴染んだ「国語科授業」的扱いができるからだ。あえて「解釈」をするのである。

 授業で小説を扱うということは、その小説の「解釈」を「教える」ことではない。そもそも小説を読むときに、いちいち「解釈」をしているという実感は、我々にはない。大衆小説の多くは「解釈」を必要とするような感触がなく、読めばただちに「わかる」と感ずるし、あるいは村上春樹のように、わからなくても、楽しかったり怖かったりと、何らかの感銘を与えてくれる小説もある。だから授業でも、小説によってはただ読むだけでいい。それ以上に、読めばわかる小説内情報をいたずらに整理して確認する必要などない(といってもちろん、作者の伝記的事項や作品制作の背景などの小説外情報を伝達することも、授業で小説を扱うことの本義ではない。本論における「夢十夜」の読解にも、漱石個人の伝記的事実は無関係である)。
 だが、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。そのとき、生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることだ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題である。
 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むような「解釈」はいたずらに見当外れな穿ちすぎということになりかねない。
 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうるのである。まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触がある。なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識させるための伏線にもなる。

 最初にまず「第六夜」を「解釈」するのだ、と宣言する。

    ①「第六夜」の主題は何か。「第六夜」はつまり何を言っているのか。

 本当は、こんなことはあらためて言う必要もない。だが、常にこの問いの答えにつながるかどうかを視野に入れつつ以下の考察を行うべきであることを確認しておく必要性は、実際にはある。以下の問いが一問一答式の答え合わせになってしまわぬよう、生徒自身が考える方向を忘れぬためである。
 「解釈」とは、小説内情報の論理について、さまざまなレベルでの結合を意図する思考だが、その中でも、全体を統覚する論理がいわゆる「主題」である。「主題」とはつまり、この小説は何を言っているのかを、小説内の出来事のレベルよりも抽象的なレベルで語ることである。まずはそのように大きな見通しを提示しておいて次の問いを提示する。

    ②「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だがそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。といってすべての読者にそれが自明なわけでもない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述である。
 この問いは、たとえば「なぜ鎌倉時代の人間である運慶が今日(明治時代)まで生きているのか」という問いではない。我々がその不思議の意味を問われているわけではない。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触があるからだ。だからあくまでこれは語り手の「自分」が思い至った「生きている理由」が何かを問うているのである。
 この「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。
 そうした問題を意識した上であらためて小説の展開や細部から必要な情報を読み取っていく。そのために、さらに補助的な問いを提示していく。

    ③「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか。

 ②を明らかにするためには、まず③を解決する必要がある。③の認識によって、「それで」②が「わかった」と「自分」は言っているからである。
 「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。なぜ「自分には彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか。なぜそれが「とうてい」なのか。
  「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。生徒の様子を見て、問いを変形する。
 たとえば上述の問いを次のように変形する。

    ③仁王が彫れないのは、「自分のせい」か、「木のせい」か。

 複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効である。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからだ。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。そのインセンティブを導引するには、問いという形式は有効だし、とりわけ選択肢のある問いは、生徒の思考を読解に向かわせる。
 本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、「木のせい」というのが素直な答えだが、どうもすんなりと納得はしがたい。「明治の木には…埋まっていない」というのはなんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではなさそうである。実際に印象のみを二択で聞いてみると、生徒の意見は分かれる。
 この問いをさらに微分すると、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。これはつまり「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っているということになる。
 ②についても例えば次のように選択的な問いに変形することができる。

    ②x「運慶が今日まで生きている理由」とは「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々(語り手)にとって運慶が生きている理由」なのか。
    ②y「運慶が今日まで生きている理由」とは「今日まで生きていられた理由」なのか、「生きていなければならない理由」なのか。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。xとyの組み合わせで4つの解釈ができる。「運慶が考える、自身が生きていられる理由」「運慶が考える、自身が生きていなければならない理由」「運慶が生きていられると『自分』が考える理由」「運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由」である。ニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならないことを互いに共有する。
 といって、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。やはり、どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 さて③における「明治の木」は、なぜ「明治の」でなければならないのか。仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。だが、例えば「鎌倉時代の木」からならば「自分」にも仁王が掘り出せるのだろうか。そもそも護国寺の山門で今しも運慶が刻んでいるのは、いったいいつの木なのだろうか。「鎌倉の木」か。それが「明治の木」だったなら、運慶にも仁王を彫ることは適わないのだろうか。
 そう考えてみると、「明治の木」とはそもそも、明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのかもしれない。たとえ運慶でも「明治の木」からは仁王が掘り出せないのだ、ということではなく、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのかもしれない。
 つまりそれは「自分」という個人の問題ではなく、明治の人間としての「自分」の問題である。とすれば③は「自分のせい」だと言っても「木のせい」だと言っても同じことになる。問題は「明治」という時代なのである。
 そこでさらなる誘導として、次のような直裁的な問いを投げかける。

    ④明治とはどういう時代か。

 たとえば「こころ」で言及される「明治」という時代について考察することは、高校生一年生には手に余る問題だ。それは人類史にとっての「近代」の問題である。
 だがここでの「明治」は日本史にとっての江戸の終焉に続く特殊な時代のことである。つまり生徒には、まず「黒船」「開国」「維新」「文明開化」などが想起されれば良い(もちろんそれも、ひいては世界史の「近代」の問題に敷衍できるだろうが)。

 時間に余裕があれば補助的に次のような問いを投げかけてもいい。

    ⑤見物人はどのような存在として描かれているか。

 作品細部の描写には、作品をどのようなものとして成立させたいかという作者の意図が表れている。これもまた「解釈」するための重要な要素として取り上げるに値する。

 もうひとつ聞いておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か。

    ⑥この小説における「運慶」とはどういった存在か、何を象徴するか?

 鎌倉時代の実在の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。それを明確に語ることこそこの小説の主題を語ることにほかならない。
 だが「どういった」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。考えあぐねているようならば、たとえば「何の象徴か」と聞く。名詞(名詞句)を挙げさせるのである。
 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がいたが、こうした発想は面白いものの、どこにたどりつくのか、今のところ筆者にはわからない。それより注目させたいのは次の一節である。
 運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。運慶が象徴しているものとは、運慶自身というより、このように表現される行為そのものである。
 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。そこでの芸術作品は「天啓」として降りてくるのであり、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく、彼の手を通じて神が地上にもたらしたのである。
 とすれば運慶は「芸術家」であり、また「芸術」あるいは「芸術創造」の象徴、ということになる。
 だがこうした言い方は、筆者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。それよりも、運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか。それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか。
 こうした疑問を、次のような選択肢のある問いに言い換えてみる。

    ⑥ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、熟練した職人だからなのか。これは裏返していえば、「自分」に仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか、ということだ。運慶と「自分」の違いとは何なのか。
 運慶と「自分」の違いを考えさせる上で補助的に付け加えるとよいのは、「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に具わっていないものは何か、という問いである。例えばどちらも二字熟語で答えよ、と指示する。
 ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。
 むろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけでもない。だが、なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。したがって物語上は、ここから遡って運慶が仁王を掘り出せる必然性を考えるしかない。つまり、明治に失われたのは、芸術家の天才なのか職人の技術なのか。
 だが、「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な思考は期待できない、と筆者は考えている。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからである。
 「才能/技術」以外に想起されるものはないか。「文化」の声が生徒から挙がる。確かに「明治」という時代と結びつけて考察するなら、「才能/技術」よりは「文化」の方が発展性がありそうだ。だが「芸術的才能」「職人的技術」それぞれがそれぞれの形で「文化」を形成している。どちらかについてさらに別の方向から捉えることはできないか。

 いくつかの問いは、相互の意見の出し合いの中で考える糸口になればよい。そして頃合いを見計らってある種の見通しを提示する。
 上記の通り、②を最後に語るとして、③については選択的な正解などなく、問題は「明治」という時代なのだと筆者は考えている。④は「文明開化」が想起されればいいし、⑤は「自分」同様「明治人」として造形されていると考えられる。
 ⑥について筆者は、運慶を「職人」として読む方が整合的だと考えている。「職人」たる運慶が備えているものは何か。全体の解釈の整合性の中で、それに思い至る生徒は必ずいる。「伝統」である。
 筆者の提示する見通しはこうだ。この運慶は時代を超越するような形で出現する天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、③の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。
 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのである。
 もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったかもしれない。時代を画したかに見える天才の残した「芸術」作品にも、実は職人集団の技術の蓄積がある。だからそれを、ある種の神秘思想のように、「天啓」として語るのをやめるならば運慶が芸術家か職人かという問いには意味がなくなる。それは同じことだ。問題は運慶が伝統を引き継ぐ者である、という点である。
 こうした読みは、「第六夜」全体の主題の設定、①の問いとどう対応するか。
 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったようなものだと筆者は考えている。⑤についても、車夫と中心とする見物人の造形を、「芸術を理解しない無教養な人々」として理解するような議論を目にすることがあるが、それよりむしろ「古い文化を失いつつある明治の人々」として読むべきだと思う。
 とすると、②の問いはどう考えたらいいのだろう。「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか。
 これもまたどちらと言ってもかまわないのだが、上記の読解に従って言えばどちらかといえば、「生きていられる」という言い方に馴染むのは運慶を芸術家として見る読解であり、「生きていなければならない」という言い方は運慶を職人として見る読解に整合的であるように思える。運慶が天才芸術家であればこそ、時代を超越して明治の「今日まで生きていられる」のであり、伝統を継承する職人だからこそ「今日まで生きていなければならない」のである。
 そしてそれは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのである。
 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴である。

 こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

    裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 こうして積まれたものが「明治の木」というわけだが、この「先だっての暴風」とは何のことだ? とは是非聞いてみたい。
 もはや明らかである。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本文化を薙ぎ倒したのである。
 仁王の埋まっていない「明治の木」を物語に登場させる際にさりげなく冠せられたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげない形容として、仁王の埋まっていない「明治の木」の来歴を語るのである。

 さて、繰り返すがこうした「解釈」を「学習内容」として「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、あくまでこの小説についての、私の納得のありようなのだ、と生徒には言っておく。

 続く 「夢十夜」の授業2 ~「第一夜」は解釈しない
    「夢十夜」の授業3 ~「第一夜」も解釈する

2017年12月25日月曜日

『トレマーズ5 ブラッドライン』ー午後のロードショーにふさわしい

 「午後のロードショー」という放送枠にふさわしいB級映画だが、観る。もちろん傑作だった第1作に操を立てているのだ。
 といって2作目も3作目も、1にもましてB級の極みに突き進んで、そこまで設定をトンデモな方向に展開してどうする、と思ったものの、それなりの面白さはあった。
 それは何にもまして脚本の出来であり、演出の手堅さあってのことだ。
 だが(期待していたわけでもないが、やはり)5作目では残念なできだった。CGの進歩で、クリーチャーの質感こそ悪くないが、実際のところ別にそんなところを見たいのではない。とにかくサスペンスとアイデアと愛すべきキャラクターたちなのだ。第1作が傑作たり得ていたのはそれだったではないか。
 何を「面白さ」として想定するかというアイデアが足りないのは、金のかかる映画という創作物にとっていかにも不幸なことだと思われるが、もう一つ、この映画で気になったのは、空間の見せ方の不親切だ。どういう空間にだれがどこにいて、怪物がどこから襲っているのかという把握がしづらい。観客が体で恐怖を感じ取れない。
 これがサスペンスを減じているのは演出の問題だ。

2017年12月22日金曜日

アクティブラーニング「ブーム」の弊害

 忘れないうちに書き留めておく。
 若い先生方の授業をちょくちょくのぞきに行って、どうも気になっていることがある。複数の要素にわたっているのだが、根は一緒、という気もする。たぶん昨今のアクティブラーニング「ブーム」の弊害、というあたりで。

 アクティブラーニングの弊害というと、しばしば語られるのは知識の重要さがないがしろにされる、という弊害だが、国語についてはそもそも生徒に知識を伝授することが少ないので、アクティブラーニングばかりでなく講義も必要だ、という話ではない。あくまでアクティブラーニングはいいことに決まっているという前提で、そのうえで注意すべき落とし穴の話である。

 まずは、アクティブラーニングといえば、というくらいに定番の、「グループワーク」と称する班を作っての話し合いと、その間の机間巡視だ。
 基本的に国語科が言語の学習である以上、話し合いは必須の要素でもあり、有用な手法でもある。我が授業でも半分くらいは話し合いの時間だ(残りのほとんどは発表とその応答で、説明や講義などはわずかだ)。
 だがそれには、話し合うに値する問いが提示されていなければならない。話し合うに値する問いとは、考えるに値する問いということでもあるが、同時に他人の考えを聞くことに価値のある問いということでもある。そして他人に説明するために言葉にすることに学習意義がある。
 それには問いの難易度の設定と、想定される回答のバリエーションが保障されていなければならない。易しすぎては話し合いはすぐに終わってしまうし、難しすぎるとあきらめてしまう。いきなり答えることはできないが、時間をかけて掘り下げていくうちに何事かが発見されるという見込みがなければならない。あるいは、意見の相違を生むか、そもそも個人の「感じ」を各自が語るような問いでなければならない。
 こうした問いを、ある程度コンスタントに授業に供給していくことは、若い先生方には難しい(といってベテランの授業でそれがなされているのを見たことがあるわけでもない)。
 またこうしたグループワークに入る前には、一人一人の生徒がある程度考えてからでないと有効に話し合いが始まらない。だから、問いを投げてから話し合いに入るまでに時間をおいて、自分なりに問題を咀嚼し、自分の考えをそれぞれの生徒が持つ(持とうという自覚を持たせる)必要もある。
 「グループワーク」の称揚が、班活動を促すから、先生方はすぐに生徒たちに、机を班隊形に並べさせる。そこに、話し合いには不適切な問いが投げかけられたり、あるいは生徒各自が考える態勢を調えていないと、話し合いはすぐに無秩序なお喋りと化す。さらにそれが全体での検討の場面にまで流れ込んで、しばしば授業が阻害される。

 班活動にともなって称揚されるのが授業者による机間巡視だ。
 だがこれも、見ていると必ずしも有効に授業を活性化してはいない場面に出くわす。
 教室全体の話し合いはとうに集中力を欠いているのに、一部の班の話し合いに教員が対応していて徒に時間が浪費されていくことがしばしば起こっているのだ。
 教員が参加することで話し合いが有用なものとなるのなら、全体でやればいいし、やらなければならない。
 筆者の授業では、話し合いの際に机を動かすよう指示することは少ない。椅子の向きだけで話し合いの隊形を作らせる。補足説明や全体での発表の際には、椅子の向きだけで態勢をもどす。
 また机間巡視はそれほどせずに、大抵は動かずに全体を見渡しながら、聞こえてくる声を拾っている。話し合いが有効に行われているかどうかを、全体的に把握して授業を進行していく方がいいのである。
 様子を見て補足の説明が必要な場合も多いし、ときどき定期的に燃料を追加することもある。長いスパンの問いであるときこそ、集中力の持続と、議論レベルの班ごとのばらつきを揃えるために、問いは何段階かにわける必要があるのだ。話し合いを続けさせるには、それなりのコントロールが必要なのである。そのためには机間巡視をしてしまうと全体のコントロールを失うことにもなりかねない。

 次に気になるのは、授業の際に教師の配るプリントである。
これも、板書とともになされる講義を生徒がノートに写す、といういわゆる「ボード&ノート」授業スタイルに対抗して、教員手作りのプリントは、生徒が能動的になるかのようなイメージがある。
 だが実際には板書の劣化版というようことになっているプリントも多い。生徒が書き込むべき空欄が指定された、ほぼ板書予定の内容がプリントされて生徒に配布されているのである。
 思うに、プリントを作るのは、それによって教員が何か仕事をしている気になるというのと、授業の流れを迷わずに済むという安心が得られるところが若い先生方をひきつけるのだ。
 一方、生徒の側からみると何が起きているかというと、全体の流れが一望できるのはいいが、実際には生徒は空欄に何かを書き込むことが自己目的化しているように見える。全体の流れを把握するよりも、空欄にしか注目しない、というのが現状なのだ。
 しかもそこに書き込まれることは予め決まっていて、いわばその「答え」が授業という場に提出されさえすれば良いというふうに生徒は捉えているように見える。そしてこうしたプリントを作る先生は、その「答え」を板書するものなのだ。生徒は板書されたものを空欄に書き写す。
 これはいったい何の儀式か?

 ここまでくると次は板書の電子化である。板書予定の内容をパワーポイントなどで作成して、プロジェクタでスクリーンに投影する。
 プロジェクタによる映像や文字情報の提示は、有用な場合もあるとは思うが、基本的には作成の手間と学習効果が見合っていないというのが実態であると思う。
 またこれも、事前に内容が決まっているという点で、プリント同様の弊害がある。
 最初から、授業が何かの知識を「説明する」「伝達する」というイメージで成立しているときには、板書の電子化もプリントも、たぶんプリントに代わる今後のタブレット利用も有用なのかもしれない。
 だが国語の授業はそのときそこで何事かが生み出される場なのだ。もちろん授業者にはある程度の見通しはあるが、それでもその場で生み出される授業全体の成果を記録できる状態になっているかどうかは重要である。板書は、そのときに語られながら書かれる瞬間を生徒が見ていることに意味があるのだし、ノートは板書を写すものではなく、むしろ板書に先立って書かれるべきである。

 班隊形も机間巡視もプリントも電子機器の活用も、もちろんそれ自体に善し悪しがあるのではない。ただ無条件に良いもののようなイメージが先行して手段が自己目的化することのないよう心がけるべきだというだけのことである。
 そしてアクティブラーニングも、学習にとっての有効な方法に過ぎない。それを実行することが無条件に良いわけではない。
 自己目的化の陥穽は常にそこにある。

2017年12月20日水曜日

「サクラダリセット」ふたたび

 アニメ放送の終了時に一度ふれたことがあったが、その後、原作の小説を読みすすめて終盤にさしかかったところで、図書委員から「おすすめ図書」を挙げろという依頼が入ったのを機に、最後までいっきに読み終えた。最終7巻は一日で。巻の後半に入って、これはこのままいこうと決めた。布団の中で深夜までかかって読み終えるという読書は幸福だ。すごい物語だった。
 というわけで以下、前回の記事を使い回しつつ「おすすめ図書」。

 2009年に刊行の始まったこのシリーズを知ったのは、遅ればせながら今年のアニメ化によってだった。初回から、「時間を巻き戻せる」という設定のせいでなんだか筋を追うのが大変だぞというのと、台詞回しが妙に面白いなというのが印象的だった。ただ、その後2クールの放送を追ってみて、花澤香菜と悠木碧の演技の素晴らしさが特筆に値するという以外はアニメーションとしては凡庸な量産深夜アニメレベルを脱しなかった。それでも最後まで見続ける気になったのは、物語のあまりの力量に圧倒されたからだ。
 これは原作の面白さに決まっている、と図書室に購入を希望して揃えてもらった。そういうわけで全巻の貸し出し第一号は私だ。読んでみると、複雑なストーリーラインも、ウィットに富んだ台詞も、やはりこの物語の素晴らしさは原作に拠るのだった。
 ある種のタイムリープを設定としてもちこむと、物語の論理はすぐに複雑になる。設定上、パラドクスこそ回避されているが、可変的な未来を知る者同士が、どの時点で何を知っていて、何を意図しているかを個々の状況に応じて把握しなければならない。その上で十分に頭の良い複数の登場人物が、互いに相手の思惑を上回ろうと策略をめぐらす。それは相手も十分読んでいるだろうから、その上を行こうとすれば…と、まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。ある条件下でこの難問を解決するにはどんな方法をどんな手順で実行すれば可能なのか…。どこまでも複雑な構築物としての物語に目の眩む思いがした。
  そして、この物語では何より「言葉」が大切にされている。超能力者たちが跋扈する世界での戦いであるにもかかわらず、この物語の主人公とラスボスの最終決戦は、凡百のSFのような物理法則を超えた物理的破壊合戦ではなく、なんと「議論」と「説得」なのである。相手との合意がなければ戦いは終わらない。そうでなければ「幸せ」になれないと主人公は考える。
 クールだったりユーモラスだったり哲学的だったりする言い回しは村上春樹を思わせもするのだが、にもかかわらず、ハルキ・ワールドの不健全さとはまるで違って、この小説では、どこまでもまっすぐでまっとうでまえむきな言葉が、陳腐で恥ずかしいと思うより、すがすがしくも感動的でさえあるのだった。

2017年12月12日火曜日

『Oh Lucy!』-苦々なOLの冒険譚

 海外の映画祭でも高い評価を得たという平栁敦子監督映画だが、どういうわけで再編集してNHKでテレビ放送するのかわからない。宣伝として? 映画制作のドキュメンタリーにはできなかったのか?
 この形での鑑賞でまっとうな評価ができるのかどうか心許ないが、感想のみ。
 
 主人公のOLが、姪の頼みで通い始めた英会話教室で出会った米国人講師に恋して、米国まで彼を追いかける。
 冴えないオールドミスのOLのほろ苦い冒険、という体の物語なのだろうと見当をつけて観ていると、はたしてそのとおりなのだった。
 「体」としてはそのとおりであるにもかかわらず、残念ながら「ほろ苦い」とはいかなった。苦々だ。
 といって、観客の予断を裏切ることに何か価値のある要素があるかというと、どうもそうにも思われない。
 彼女の人生において数少ない「冒険」が、成功はしないものの、しかし何事かポジティブな影響を与えるという展開を期待していると、最後の役所広司の登場で多少救われもするものの、差し引きはマイナスなまま物語が終わる。どういうわけで主人公をそのようにして虐めたいのかわからない。それが狙っているものは何なのか。
 とりわけ冒頭の電車飛び込み自殺と、姪の唐突な投身自殺未遂は、そのエピソードが作る磁場の強さと、それ以外の物語の強さが釣り合っていないから、単に唐突で浮いている。そのことに仮にどんな狙いがあったとしても(本当にあったのか?)、成功しているとは思えない。
 観客になにがしかの勇気を与えるとかいう目的ではなく、単に批評的なのか?
 だが何に対するどのような批評になっているというのか?
 すべての物語がハッピーエンドでなければならないとは言わないが、それならば何を描きたいのかといえば結局わからず、もやもやと終わるのだった。

2017年12月3日日曜日

『炎のランナー』-テレビ放送で映画なぞ

 オリンピックに向けての「戦意高揚」といったところだろうが、世評に高いこの映画を観たことがなかったので、TV放送されたのを機に。
 だが結果として、またしても、カットのために無残なことになったのだと後になって分かった。見ている最中は、このあたりの事情については説明がないのか、とか、感動的であるために必要と思える前振りがなさ過ぎるなあ、とその不自然さに首をひねっていたのだが、後で調べてみると30分以上のカットがあるようなのだ。
 それでもシーン毎の力は疑う余地がない。
 有名な海岸の集団走のスローモーションは何やら力強かったりそれぞれの人柄が見えてきたりするし、それ以外の練習風景やら競技風景やらが実に映画的だ。リアルな作り物といったような矛盾した形容をしたくなるような、手の込んだ創作物なのだ。画面の隅々まで演出の手が行き届いているのが感じられる。
 そうなると惜しむらくはカットのあるテレビ放送なぞで見たことだな。

2017年11月19日日曜日

「羅生門」は「エゴイズム」を問題にしているか

 あるクイズ番組で「東大生・京大生が選ぶすごい本」というアンケートをやっていて、1位は案の定「こころ」なのだが、「山月記」や「羅生門」が上位に入ってしまうあたり、東大生・京大生もろくに読書をしていないことが見て取れる。これらは「読書」ではなく、単に高校の授業で読んだだけだろ。
 で、「羅生門」は4位なのだが、その紹介に「人間のエゴイズムをテーマとした」などと表現されているのを見て、またもやモヤモヤと居心地の悪い気分がしたのだった。

 どういうわけで「羅生門」から「エゴイズム」という言葉が発想されるのか?
 とんとわからぬ。
 あの小説の中で下人が「盗人になる」ことに迷っているのは、ある種の犯罪行為に及ぶかどうかの選択には違いない。そもそも犯罪は他人の権利を侵害するから悪いということになっているのであって、その意味ではどだい利己的なものに決まっている。それはあまりに自明のことだから、わざわざ「エゴイズム」をテーマとして浮上させはしない。犯罪行為がエゴイスティックなことはわかりきっているのだから。
 つまり、エゴイズムを問題としてとりたてるには、強い「悪」を対象とするのは不適当なのだ。したがってエゴイズムをテーマとするならば、取り上げるのは、犯罪などの違法性によって裁かれたりはしない、いわば感情的な痛みを他人に与えるような行為が利己的な動機によっておこされる場合であり、その意味では「こころ」が表面的には、そのような物語であると思われるのはよくわかる。
 だが「羅生門」を読んでいて、それが「エゴイズム」という言葉を引き出す必然性があると思える人は、どういう思考をたどっているのか、本人に聞いてみたい。どうもそういう人に出会える機会がないので。にもかかわらずそうした現象そのものに出会う頻度は多くて。
 そうした慣習が、単に吉田精一、三好行雄による「羅生門」理解を引用しているにすぎないということはわかるが、どうしてそれをそのまま口にできるのかがわからないのだ。

 「羅生門」の中に「エゴイズム」と呼ぶべき要素はあるかといえば、ある。だがそういうことなら「エゴイズム」に該当する要素のない小説など凡そ存在するとは思えず、「羅生門」が「エゴイズム」を主題としているかといえば、まるでそのようには見えない。
 もちろん「羅生門」は下人の引剥という行為をどのように論理づけるかが主題であり、それを老婆の語る自己弁護の長広舌に負っている限り、「エゴイズム」という言葉が想起されるのはやむをえまい。だがこの小説を読んでそのように読める人は、いったい、本当に小説を読んでいるのだろうか。
 芥川は「羅生門」において、「エゴイズム」などという自明の観念について、何らの解剖もしていない。それどころか逆にこの物語は道徳と呼ばれるものの観念性を暴いているのである。

2017年11月12日日曜日

『ビロウ』-「潜水艦映画にハズレなし」とはいうものの

 「潜水艦映画にハズレなし」というフレーズを聞いたような気がするが、気のせいかと思って確かめてみるとネットでも頻出している。誰が言い出したものやら、人口に膾炙しているらしい。
 本作も、全然聞いたこともない作ながら、妙にうまい。
 潜水艦が水面下に没するとき、艦の両側から甲板に乗り上げてきた水が中央でぶつかって噴水のように吹き上がる描写とか、故障個所を直すために船外に出た乗組員たちをマンタの群れがとりかこむ幻想的な光景とか、大したものだと思う。
 潜水艦映画特有の、乗組員の移動に伴って、後ろをついていくカメラに映る艦内の機械類の操作や、乗組員のやりとりを軽やかに見せつつも、潜水艦内の圧迫感もしっかり描くという、お約束の描写も高いレベルだった。
 よくできてる! と感嘆しつつも、どうもジャンルがわからんと思っているうちにだんだんオカルトがかった描写が増えて、それも心理描写の一種かと判断しかねているうちに、結局ホラーじみた展開になった。『サンシャイン2057』も、SFに徹すればいいのになぜかホラーっぽい展開になって残念だったが、こちらも、サスペンスとミステリーくらいに抑えて、あとは人間ドラマで見せればいいのに、ちょっと残念。

 ここんとこ、『サンシャイン』『ペイチェック』とも、どうも展開が飛躍しているような気がするのは、放送枠のせいでカットがあるからかもしれない。こういう枠の放送で映画を観てはいけないということだろうが、といってテレビ放送ででもなければ、こんな映画を観ようとは思わなかっただろうし、難しいところではある。

2017年11月4日土曜日

「決戦は金曜日」と「Let's Groove」を同時に聴く

 テレビで星野源が、小学生の頃、ドリカムの「決戦は金曜日」が好きで、後にそれがEW&Fに似ていたからだと気づいたというような話をしていた(細部不正確)。
 そういえば「Let's Groove」に似ている。そこで同時に聴いてみよう、ということで作ってみた。
 マッシュ・アップではなく、単純に両曲のテンポとキーを合わせてステレオの左右に振ってあるだけ。



 一度、両曲ともそれぞれの動画を音声に合わせて、同一画面に収めた動画を作ってYou-Tubeにアップしたのだが、すぐに著作権に引っかかって、ブロックされてしまった。どこがそうなのかと考え、おそらく「Let's Groove」のビデオだろうと、そちらは静止画にして再アップ。残念だがしかたがない。
 今のところブロックされていない。

p.s. やっぱりブロックされた。自分で観ることはできるのだが、外からは見られないようだ。
p.p.s. そういうわけで動画版に戻した。
p.p.p.s. You-Tubeが駄目なのかも、と直接Bloggerにアップ。これもブロックされるのかなあ、そのうち。
こちらはブロックされない。なかなか好評。
aikoの「花火」と「アンドロメダ」を同時に聴く

2017年11月3日金曜日

婦人倶楽部、1983-嬉しい発見

最近の発見。You-Tubeのレコメンド機能、おそるべし。
「婦人倶楽部」って、ふざけているのかと思いきや、これだ。

高度な音楽性をさらりと聴かせるポップさ。尋常じゃない技だ。
もうひとつ。
「1983」って、バンド名? と思いつつ聞いてみると、キリンジというかLampというか。ボーカルがほんとに堀込奉行に似ている。曲も。


2017年11月1日水曜日

『ペイチェック 消された記憶』-アクション映画なのかSF映画なのか

 最近、ベン・アフレックづいてる。
 「ペイチェック」では何の映画化わからなかったが、CMを見ると近未来SFのようだ。
 電気的な刺激で記憶を消す技術が開発された未来、高額な報酬と引き換えに3年の記憶を消すことを条件に、あるコンピューター製品の開発にかかわる仕事を引き受けた主人公が、空白の3年間をめぐる事件に立ち向かう。高額な報酬はなぜか銀行口座にはなく、わけのわからないガラクタ類を、記憶のない時間の自分が預けて寄越す。命を狙う敵から逃れつつ3年の間に何があったのかが徐々に明らかになる、というわかりやすいサスペンス。
 「ガラクタ」が、さまざまな逃走や闘争の際に次々と使用されていく仕掛けは楽しい。が、いささかできすぎで、うまい! と感嘆させられるほどに練り込まれているわけではない。派手なアクションも、派手すぎて白けてくる。この感じは、と思ったらジョン・ウーなのか。なるほど『MI:2』だ。
 ベン・アフレックも『アルゴ』や『チェンジング・レーン』のような魅力的な人物を演じるでもなく、アーロン・エッカードも『幸せのレシピ』の好漢ぶりを連想できないほどのどうということのない悪役で、どうにも人物の魅力もなく。

2017年10月30日月曜日

『サンシャイン2057』-ボイルでもこういうのもある

 ダニー・ボイルだから、そう外しはすまいと思うが『ビーチ』のような微妙なのもあるしなあ、と危惧もあったが、結局のところ危惧どおりだった。
 衰えた太陽に地球上の核爆弾を集めて打ち込み、賦活化しようという計画のために宇宙を旅する宇宙船の中で…。なんだか聞いたような話だ。
 そしてそれ以上ではない。ひととおりのサスペンスもドラマもあるのはわかるが、どうにも何かを言う気にならない。どこかに心を揺さぶられるとかいうことは起こらなかった。
 そして最後の方は、カットが短すぎ、動きすぎで、もやは何が写っているのかわからない場面が続いて、参ってしまった。起こっていることの「だいたい」はわかるのだが、そんなものが「だいたい」わかってどうなるというのか。

2017年10月6日金曜日

『ピエロがお前を嘲笑う』-もったいない鑑賞

 TSUTAYAで物色中に、棚でフィーチャーされているのを見て衝動的に。
 これも『実験室KR13』に続いて、えらく良くできた映画だと感心。いちいちかっこよく見えるようライティングされた、手間のかかっていそうなカットが、贅沢なくらいのスピードで切り替えられていく。カメラも編集もずいぶん達者な映画だなあと思いつつ、肝心のお話は、あんまり頭を使わずに観ていて、後からいくつかの映画ブログを見て、あれこれ考えどころはあったんだな、とぼんやり。
 「どんでん返し」という宣伝文句をあんまり気に留めていなかったから、そういうふうに身構えていなくて、「返」されたときにも「騙されたあ!」などという感慨はなく、その物語の起伏に感心したのだった。
 いや、こういうのはもったいないな。もっと驚いたり悔しがったりして楽しむべきだな。
 『THE WAVE』に続いて、ドイツ映画だというがまるで米映画に見える。『WHO AM I』という原題も。ドイツでも英題で公開されたんだろうか?

2017年10月3日火曜日

『実験室KR13』-映画力と物語力のアンバランス

 『THE WAVE』同様の心理実験ものであるとともに『Unknown』同様のソリッド・シチュエーション・スリラーものでもある。どうしたって期待しちゃうじゃないか。
 ついでに「事実に基づく」ともいう。治験として集められた4人の男女が、殺風景な実験室に閉じ込められて、主催者から出題される問題を命がけで解く。これがCIAによる、実際に行われたかもしれない心理実験だったという設定だ。
 だが『es』や『THE WAVE』のように「実話」とストレートには言わない。見終わってみれば、まあそうだろうな、という感じだ。こんなことが実際に行われましたとはCIAは言うまい。それくらいに馬鹿げてはいる。
 だが観始めてすぐには、この緊迫感はなんだ、と感心する。役者の演技も編集も見事で、これは質の高い映画だ、と確信する。被験者の一人がいきなり撃ち殺される冒頭も、これには何かどんでん返しがあるんだろう、と思う。名優クレア・デュヴァルだ。こんなところで死んでおしまい、ということはなかろう。
 だが、おどろくべきことにそのままなのだ。そして明かされる真相も、呆れるようなトンデモ話なのだった。
 惜しい。実に惜しい。結末近くまでは大いに面白いと感じていたのに。ティモシー・ハットンの渋い男っぷりも、クロエ・セヴィニーの影のある美しさも、よく撮れているなあ、と感心していたのに。
 世界の裏側でどんな非道な謀略が行われていようとも、天下のCIAがこんな効果も怪しい実験に金と時間と人材を割いて自らの身を危険にさらすまい。どうしてこのネタで映画撮れると思ったんだろうか。
 で、監督のジョナサン・リーベスマンって? と思ったら『世界侵略: ロサンゼルス決戦』なのか!! あの、ものすごくよくできた場面場面の映画力に対して、まるで釣り合いのとれない貧弱な物語力は、この『実験室KR13』とおんなじだ。

2017年9月29日金曜日

『THE WAVE』-不満と期待と

 山津波を描いた同名のディザスター・ムービーがあるようだが、そちらではない。確かにこんな一般名詞をそっけなくころがしておいたのでは、同名の映画ができてしまっても無理はない。この間の『Unknown』しかり。
 とはいえこちらはドイツ映画で、原題もドイツ語。
 有名な「看守と囚人」実験(スタンフォード監獄実験)をモデルにした映画は『es』『エクスペリメント』と観ているが、ネットで調べてみると関連してこの『THE WAVE』のこともしばしば話題にのぼっている。米カリフォルニア州サクラメント・カバリー高校教師の歴史教師、ロン・ジョーンズが1969年に行った「ザ・サード・ウェーブ」実験と呼ばれる試みを基にした映画だ。
 元の実話は、組織的な「実験」というより、ある教師個人によるある種の教育「実践」だ。人はナチスのようなファシズムにどのように順応していくのか、という問題意識によって、集団主義的な統制による授業を試してみたところ、一週間のうちに高校生たちはすっかり「党」への忠誠心に支配され、それ以外の社会との間に様々な問題を起こしたという。
 映画はこの「実践」の開始初日から、終了までの一週間の物語である。
 ドイツ映画とはいえ、例のヨーロッパっぽさがなくてアメリカ映画のようだ。ファシズムをテーマにした物語ということで、そのことに特別な意味を見いだしたくもなるのだが、トルコ人が登場人物として配されるくらいで(それはそれで物語の重要な要素の一つではあったのだが)、アメリカでもドイツでも意識せずに見てしまえる。つまり「なんだかわからないヨーロッパ映画」としてではなく、エンターテイメントか、社会派の映画として観ても良さそうだという感触だったのだった。そういえば『es』もドイツ映画で、やはりアメリカの作品と同じように見られる感触だった。『ハンナ・アーレント』もそうか。
 ということで怯まずに評価する。
 さて、さまざまなことを考えさせられた。だが、映画として満足かと言えば、大いに不満足である。ネットでは絶賛の声も多いが、いいのか、あんなもんで?
 最初は馬鹿にしていたファシズムに、生徒はすぐにのめりこんでしまう、というのが「実験」による知見のはずだが、映画を観ていてもどうにもそんな実感は得られなかった。一人、いじめられっ子として登場する一人の男子高校生がのめり込んでいく様子はそれなりに「わかる」と感じられたが、それ以外の大多数の生徒は、部分的には面白がったりするものの、到底「のめり込む」ような必然性を感じなかった。
 最初のうちは、どこまで本気? というような感じでその実習に参加していく。教師を敬称付きで呼ぶことにせよ、直立不動で発言することにせよ、まあしょうがない、という感じで実行し始める。だがそれが生徒を惹きつけていく必然性が描かれているようには見えない。「しょうがない」のまま1日目を終えているように見えるのに、二日目にはノリノリになっている。どうも共感できない。
 たぶん「恐怖」が描かれていないのだ。例えば、指示に対して気楽に応じていた生徒に対して、一応、学校という場における権威と、授業における約束が強制力を働かせて、気楽に構えていた生徒に、反抗することに対する思いがけない恐怖を感じさせられたら、その後でその支配に服することとそこから生まれる陶酔が描けそうなのだが、主人公の教師は、とりあえずそのように振る舞うものの、どうも本気らしく見えない。
 たぶんそれは最初の設定で、彼が「独裁制」を選んだのが不本意だったからだ。物語の最初に、主人公は「無政府主義」の実習を希望しているが、それは年長の教師が先に授業計画を提出してしまい、心ならずも「独裁制」に回されることになる。その後、どこかで本気になったようにも見えない。とりあえず誠実に授業に取り組もうとは思っているらしいが、演技であれ何であれ「本気」を決意した描写がない。
 実話の方では、教師自らの発案で実行している。本気で「独裁」したいと思わなくとも、その実験を成功させたいとは、本気で思うはずだ。映画ではその動機の強さがわからない。だから「そういうことになってるだろ?」といった曖昧な要請で生徒に指示しているように見えて、そこに「恐怖」が感じられない。
 同時に、集団に所属すること、支配者に隷属することの陶酔も、なんだか唐突に生じているように見える。全員足踏みに興奮したくらいで、それはまあ退屈な授業より「面白い」ひとときではあったろうが、陶酔を生み出しているようには見えない。

 「恐怖」が描けないのは、主人公の本気さの問題もあるが、日本の高校と、映画の中の高校の違いでもある。支配に「恐怖」が感じられるということは、支配に対する不満がありながら、不服従に伴う不利益が大きいということだ。支配をやすやすと受け入れるならば、あるいは不服従に不利益がないのなら「恐怖」は生じない。反抗的な不良男子生徒が気楽に、いつものように反抗すると、主人公がクラスから彼らを追い出す。あるいは理念的に、そういうやり方に賛成できない真面目な女子生徒がクラスから出ていく。
 だが日本だったら、そこにはもっとはるかに大きな抵抗があるはずだ。社会的な進路の選択についても固定的だし同町圧力も強い。だから、教師の不愉快な命令に反抗することには多大な心理的エネルギーを必要とするはずで、だからそこには思い切った行動をとることに対する「恐怖」が生ずる。いわば保身の為に生じたそうした恐怖の代償として、それ以降の隷属に積極的に身を任せてしまうということは大いにありそうなのだが、そうした前提が、この映画にはない。
 だから、前述の、カースト下位の男子生徒についてはわかるものの、全体としては「こういうことってありそうだよなあ」というような観客の恐怖にはつながらないのだ。
 ところで彼についてはなぜわかるのか。それはいわゆる「スクールカースト」という制度・体制が、ファシズムという、支配者の下でのある意味での平等によって消滅したことによって、新たな自己承認が可能になったからだ。だからそうした体制が崩壊して、またもとのカースト制度に戻ることが彼には耐えられない。
 だから彼のエピソードについては実に巧みに、劇的に描かれていたと思う。演じていた役者の演技も素晴らしかったし、カタストロフの会場の描写も見事だった。

 さて、不満はまだある。
 映画にリアリティを感じなかったのは、こうした「実習」がどんなふうに運営されているのかがどうもよくわからなかったことにもよる。高校における、こうした「実習」というのがどうも想像しにくい。日本でも「総合的な学習の時間」とか、コース制のある学校での「実習」にはそれに類する試みを実施する余地はあるのかもしれないが、映画のように継続的な授業の枠で、しかも専門性のない教師がそれを担当するという設定に無理があると感じた。
 元になった実話では、実施したのは歴史教師だ。だが映画では「短大出の体育教師」という設定だった。これは教師集団における彼の劣等感がこの実習に彼をのめりこませたのだと、行為の必然性の根拠になっている。そこは一応「考えて」あるのだ。
 だが「短大出の体育教師」にこうした実習をすることに無理がある。さて、「独裁制」を実習で学びましょう、といって、何をするというのだ。歴史教師がさまざまな歴史的エピソードをロールプレイングしようということなら、企画は立ちうる。だがそんな専門性がないはずの「短大出の体育教師」に何ができるのか。だから、具体的に、生徒がのめりこんでいく過程がわからなかった。
 同時に、むしろ「体育教師」になら「独裁制」の実習も可能なはずだ。それを実行している運動部顧問が、日本にもしばしばいる。映画の中で描かれる水球チームの指導でこそ、それを日常的に行っていても良さそうなもんだ。そこでは実行できないから2流コーチだったのが、「実習」を通して、そちらもうまくいくようになった、というような展開には、残念ながら映画の一週間の中ではならなかった。

 さて、ネットで見る「実話」は、もっと面白くなりそうな想像をかきたててくれる。
 ネットの記述によると、こうした「実習」を始めたところ、生徒の成績が向上したという。これはどういうことだろう。1週間のうちに向上が表れるような「成績」とは何のことだ? しかもそれは「実習」を実施していないクラスとの比較でなければならないはずだ。どういう形でそうした成績が評価されるのだろう。
 ともあれ、これは描かれなくてはならない。ドイツの快進撃がなければナチス・ドイツは国民に支持されなかったはずだ。
 だが映画ではそれはどのように描かれていたのか。
 こうした全体主義的統制は、ある面では成功をもたらすはずだ。「良い先生」「カリスマコーチ」はヒトラーと同一線上にいるのかもしれない。

 基本的には良くできた、面白い映画だと言っていいのだろう。だが、関心があるからこそあれこれ考えさせられもし、不満も言いたくなってしまうのだ。

2017年9月28日木曜日

『Unknown』-DVDの再生不良で

 オススメのソリッド・シチュエーション・スリラー映画とかなんとかいうサイトで紹介されている映画をTSUTAYAで探して。
 『Unknown』という題名の映画は二本あり、そういえばリーアム・ニーソンの方は観たことがあるのだった。あれっ? ここ3年のうちではないのか? そんなに昔ではない気がするのだが。

 さて、大作のあちらと違って、こちらはSSSだから金はかかっていない。
 …はずなのだが、始まって早々に閉鎖空間以外の展開が並行して描かれ、思いの外、金がかかっているじゃないかと思い直される(ま、といってやはり大作ではない)。
 この、SSSなのにそれ以外の展開が挿入されるパターンは『Saw』だし『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』だし(同じプロデューサーなのだっけ)。
 これは基本的に物語を立体的にする、良い構成だ。
 加えて今作は、閉じ込められた5人が皆、薬品の影響で記憶を失っており、徐々によみがえる記憶がフラッシュ・バックすることで、さらに立体感を増す。

 なかなかよくできていると思いながら見ていると、最後の15分くらいでDVDの再生が不良となり、よくわからないうちに終わってしまった。
 なんてことだ!

 観ていて、物語を面白くする上で、こうした方がいいだろうな、というアイデアが二つ、ただちに思いつく。
 記憶が戻るにつれて、ただ真相が明らかになっていく、というだけはつまらない。観客に対して、こういう物語なのだろうという「真相」をミスリードしておいて、それをひっくり返す、いわゆるどんでん返しはぜひ必要。『メメント』とか『マニシスト』がそうだったっけ。
 今作でも、どんでん返しは仕掛けられていたらしいが、どうなんだろ。どの程度の仕掛けだったものやら、
 もう一つは、記憶を失っている状態でとりあえず助け合って脱出しようとしているうちに生まれた、いわば「ストックホルム症候群」のような仲間意識が、記憶が戻ってからの現実と齟齬を起こしつつ、現実の方を凌駕する、というような展開があるといいなあ。
 観客にとっては映画が始まってからが世界の始まりだから、彼らは「仲間」なのだ。「仲間」になったのだ。それが「真相」をひっくり返す、というような構造には快感がありそうだ。
 今作がそうなっていたのかどうかも、やっぱり未確認なのだった。
 残念。

2017年9月22日金曜日

『花とアリス殺人事件』-面白さに満足

 この間の『打ち上げ花火~』の流れで、未見だった『花とアリス殺人事件』を見た。
 確かロトスコープを使ってるんだっけと思いながら、なんだかアニメの「ピーピング・ライフ」を思い出しながら見ていた。
 あちらは人物をCGで動かしているんだろうが、なんだろう、セリフの生っぽさが先にある感じが似ているのか。ロトスコープも、生身の人間が演じている「間」が、なんともいえずおかしみを生んでる。「ピーピングライフ」も、たぶんセリフの収録が先で、後から人物を動かしてるんだろうという気がする。
 笑いの感じも似ていると言えば似ている。
 ということはつまり、映画的な特別さはそれほどなかったのだった。岩井俊二が作る「世界」とでもいうような、特別な時空間があるというような感じは。
 それでがっかりしたかといえばそんなことはない。充分に面白かった。蒼井優のアリスは、中学生にしてはいささか声が老けているが、とぼけていたり、そのわりに激しいリアクションがあったり、面倒くさがったり活動的だったり、観ていて実に面白いキャラクターだった。
 どうして登場シーンがアンバランスなのかとは思ったが、鈴木杏の花の方も、後半に出てきて結局すっかりアリスに並んでしまう存在感が『花とアリス』だなあ、と満足。

 あの強烈な「むつむつみ」は何だか知っているような気がすると思ったら鈴木蘭々か! そういえば「Love Letter」に似たようなキャラクターで出てたっけ。

 ロトスコープの効果だかなんだか、アリスが街中を走っているシーンが、ただその映像だけで劇的なのはなんなんだろうな。

2017年9月20日水曜日

『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作

 ベン・アフレックとサミュエル・L・ジャクソンだから、悪い映画ではなかろうと、それ以外の予備知識なしで録っておいたのだが、いやこれは拾い物だった。
 髭のないベン・アフレックはこんな間延びした顔だったんだな、などと呑気に観始めたのだが、ソツのない描きぶりにあれよと見続けてしまう。

 ベンの弁護士とサミュエルの元アル中の保険外交員が、ハイウェイでの車線変更(チェンジング・レーン)がきっかけで接触事故を起こす。ベンは裁判に必要な書類を事故現場に置き忘れ、車の動かなくなったサミュエルは子供の親権をめぐる裁判に遅れて親権を失う。そこから要求と互いの行為への怒りが、脅迫や嫌がらせの応酬にエスカレートしつつ、それぞれの人生に対する見直しへとスライドしていく。
 次々と展開するお話をコントロールする脚本の出来には脱帽。これだけのスピード感で、これだけ起伏のあるエピソードを次々と詰め込んで、そこにどんな感情を付加していくかを充分に計算している。事態の収拾をはかろうとあがいたり、相手への怒りのあまり報復してそれを台無しにしたり、それでも反省して自分の人生を良いものにするために努力したり、それぞれの行動に充分の動因が働いている。
 そしてそのストーリーを描くための演技も演出も編集も文句のつけようのないうまさだ。親権を得るために戦うはずだった裁判に備えて、車の中で考えていた口上を言う間もなく裁判が終了し、それでも虚しく、芝居がかった口上を言いかけるが、無情にも裁判官に遮られてしまうシーンの滑稽さと哀しさ。裁判官がまったく自然な仕事ぶりをする常識人で、悪役なぞに描かれないバランス感覚。失意のサミュエルが、ベンの必要とするファイルを、裁判所入口のゴミ箱に投げ入れるシーンに観客が感じる焦燥の強さ。
 裁判事務所の共同経営者としての成功を守るか、倫理的な満足を選ぶかという選択は、それこそ「羅生門」のような観念的で、まるで現実感のない問題設定と違って、その成り行きに感情移入してドキドキした。依頼人の財団からの詐取の首謀者、事務所の上司である義父を演ずるシドニー・ポラックがまた良い。許される行為ではないはずなのに、自分の行為に対する信念の揺らぎはない。自分が救っている人間の方が多いという確信が自分の行為を支えているという哲学を語る場面は迫力があった。
 そして最初の車線変更が、最後には人生の車線変更へとつながる物語全体の構成は、本当に見事だった。最後のハッピーエンドを甘くなく描くことのできるバランス感覚は驚嘆すべきものだ。

 これがまたなんともはや呆れたことにネットでの評価は賛否半ばするのだった。口を極めて酷評する人も多い。
 登場人物たちが不愉快?
 もちろんわが身可愛さの保身も感情的な嫌がらせも醜い。
 一方で可能な限り紳士的に、常識的に振る舞おうとする努力も描かれていて、選択の難しさは充分描かれている。
 話の展開が退屈?
 あれほどの起伏と速度で展開するストーリーが退屈?
 いやはや、人の感じ方はこんなに理解しあえないものなのか。
 そうすると先日の『打ち上げ花火~』も、あれに感動したり面白がったりする人もいてもおかしくないわけだ。

2017年9月19日火曜日

『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば

 このタイミングでこの映画を観るつもりになったのは、先日「羅生門」論の中で大岡昇平の『野火』に触れたものの、実は未読のはったりであることに後ろめたさもあり、といって小説を読むより先に以前から気になっていた塚本晋也版『野火』を観ることにした、という情けない事情による。
 さて、ブログを検索してみると、塚本晋也はここ3年見ていなかったのだな。『HAZE』や『悪夢探偵』を観たのはそんな以前とは思えないので、たぶん3年よりちょっと前。
 本作は、そんな塚本晋也監督作品で、大岡昇平の原作も、話の枠組みは知っている、という限りにおいて、想像を超える映画とは思えなかった。
 「想像」というのは「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」といった評価の枠組みであり、それらは無論高いレベルで描かれている。だが、それ以上のものを見せてくれるのでは、という期待をしてしまっていたのが、そうでもなかった。
 ジャングルなどの自然の美しさが、ちゃんとそれと感じられるくらいの映像で描かれ、それと戦争の対比はいい。役者たちの醸し出す味も充分味わい深い。監督自ら演ずる主人公が所謂「鬼気迫る」演技をするのも、リリー・フランキーが、どうして本職じゃないのにこんなにうまいのかと思うようなとぼけた狡猾さ、憎たらしさを出しているのも評価できる。中村達也はもともと良い顔をした人だったが、これもミュージシャンの余技とは思えない存在感だった。
 だがそこで評価すべき映画ではないはずだ。この映画はやはり「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」…をこそ真っ当に感じさせるべきであり、それは確かに成功している。ネットの反応では、そもそもそれを見たがる人による評であるせいか、総じて高い評価を得ている。
 それでも、それ以上、ではなかった。
 たとえば、以前の作戦の失敗か、兵士の死体がごろごろと転がったままのフィールドを越えて向こうに行かねばならない作戦を実行に移すべく夜になるまで待った主人公たちが、闇に紛れてようやく動き出すと、いきなり目映いライトが点いて一斉射撃を受ける。その緩急は映画的には上手いなあと思う。
 だが、それに続く過剰な阿鼻叫喚の地獄絵図は想像のうちだ。塚本晋也ならそれくらいやるだろうと思う。
 つまり地獄絵図の過剰さでは「リアル」とか「狂気」は描けないのだ。その描写はよく思いついたなあ、とか、おお、よくできてるじゃん、とか、むしろ不謹慎な感想を抱いてしまう。だからネットにあるような「トラウマになりそうな…」といった感想はなかった。
 エピローグの、日本家屋の静謐と戦場の落差はすごかったが、そこでのトラウマは、やはり見たことのあるような場面に感じた。同時に、それもまた過剰だと感じた。あれが毎晩のことなら日常への復帰はできていないというべきだ。
 だからそれは、それができている人のリアルではない。

 映画から受ける感銘より、むしろ公式HPのメイキングの方が面白かった。困難の克服というありふれたドラマツルギーが、ちゃんと読む者を面白がらせてくれる。
 同時にこの映画を応援したいという感情も高まる。
 恐らく、「戦争」について考える時、折に触れ思い出して、ゆっくりと血肉化していけばいいのだろう。それが擬似的であれ、徐々に体験として定着しくように。

2017年9月17日日曜日

『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ

 『人狼ゲーム』シリーズは、どうも2作目の『ビースト・サイド』の評判が高いらしいのだが、行きつけのTSUTAYAになく、3作目の『クレイジー・フォックス』を借りてきた。
 『ファイナル・ディスティネーション』シリーズと同じく、観始めることに対するハードルが低いから、借りてきた数枚のうち、どうも先に観てしまう。

 さて1作目の『人狼ゲーム』はなかなか悪くなかった。それに比べるとこの3作目はまるで食い足りない出来だった。サスペンスにしろ頭脳戦にしろ、人間ドラマにしろ、全体に薄味。無名新人俳優たちの演技は総じて悪くなかったから、そのあたりの演出はいいのだが、やはり脚本の工夫が足りない。
 最もサスペンスを盛り上げるはずの、「誰が3人目の人狼なのか」という謎も、当の「人狼」がシルエットで登場して、別の人物に「お前かよ」と言わせておいて、さてそこから引っ張るのかと思ったら、すぐあとのシーンで正体を明かしてしまう。
 「人狼ゲーム」自体の経験は相変わらずないので、どのあたりが実際のゲームの勘所なのかはわからない。しかもそれを現実世界に移植した場合におこる変数の高次元化を、どこまで論理的に整合させているかは、正直頭が追いつけない。
 だが『サクラダリセット』がやっているようには緻密な論理構成をしていなさそうなのはわかる。
 例えば、各自がカードを見るときに「他人に見せても知らせてもいけない」というルールがあったって、現実に同じ部屋で一斉に見たら、横から見えてしまったり、思わず口に出したりしてしまうとかいう事態が当然起こるはずだ。それが起きないことになっている。それを防ぐ手だてが主催者側から図られているという説明もない。
 あるいは夜、人狼が村人を殺しに行く時には大騒ぎをしているのだから、当然みんなに正体が知れてしまうはずなのだが、それもないことになっている。人狼が村人を殺すったって、ゲームとして「殺した」ことになっているというのと違って実際に人狼女子が村人男子を殺すことができるものか。それを可能にする設定をしないのはやはり物語の手抜きだ。

 ゲームとしての「人狼ゲーム」は、参加者が進んで参加しているから、メンバーはルールを把握したうえで、ルールを守ろうという動機付けが強く、しかも架空の設定で展開してるのだからルールも守りやすい。
 ところが映画ではルールも知らないメンバーが、進んで参加しているわけでもない、現実の空間で展開するゲームだから、ルールの破綻は容易いはずだ。それなのに、それは起こらないことになっている。つまりゲームのルールを現実に適用するためのハードルが考慮されていないのだ。
 これがこの映画(原作も含めて)の根本的なジレンマだ。ゲームが現実に起こったとすると、そこに参加した人間にとってそれがどれほど過酷なものになるか、というのがドラマの動因になるはずなのに、それを現実的に引き起こすために解決しなければならない問題を無いことにしているから、結局、肝心のゲームを、いかにも作り物の「ゲーム」としてしか展開させられていないのである。
 そうしたジレンマを本気で解消しようというほどの意志は、この制作者たちにはないのだった。1作目について書いた時の期待は、結局かなえられず、それでも「期待」を抱けた1作目に比べて、失望に終わった本作にはがっかりせざるをえないのだった。

「羅生門」とはどんな小説か 9 -「羅生門」の主題

承前 8 「勇気」を持てなかったのはなぜか

 なぜ「勇気が生まれてきた」のか。それは遡って、物語の冒頭でなぜ下人が勇気が持てなかったのかを考えることによって解決されなければならない。
 といって筆者が現在の結論に至る前にそのように考えたのは、実はそのような問題設定によってではない。発想は、ある時に突然、結論として降りてきたのだった。下人のうちに最初に燃え上がった⑤の「憎悪」の描写が何を表しているかを考えているときに、不意にこれが最初に下人が「悪」に踏み出すことを躊躇わせた理由なのだと気づいたのだった。
 だから「なぜ勇気が持てなかったのか」という問題設定は、本当は解答から遡って設定された架空の問題である。だが授業で生徒にそれを意図的に考えさせるには、考えるべき問題が何なのかを明らかにしたうえで、その糸口を示す必要がある。
 「行為の必然性」と「主題」の一貫性が納得しがたいものであること、「行為の必然性」つまり「なぜ引剥をしたか」は「なぜ勇気が生まれてきたか」を考えることで明らかにすべきだということ、そして「なぜ勇気が生まれてきたか」は、「なぜ勇気を持てなかったか」を考えることで納得できる論理に至れるということ。
 「羅生門」の授業を貫く問いはそうして構想される。

下人が勇気を持てなかったのは、下人の考える「盗人になる=悪」の観念が幻想によって現実以上のものになっていたからである。この幻想を滅ぼしたのは、最後に語られる「老婆の論理」ではない。長広舌の前に描かれる「心理の推移」によって、幻想が幻想であることが読者の前に示され、同時に下人本人にとっても自覚されていくのである。引剥という「行為の必然性」は「極限状況」によって保証されるのではなく、ただその行為を阻んでいたものが消滅することによって生じているのである。というよりむしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自らに証明している、と言うべきかもしれない。
 このような読解による「羅生門」とはどんな小説か。「羅生門」の主題とは何か。
 これはいわば、空疎な観念による幻想が、現実の認識によって消滅する話、である。

 とすれば、筆者がわずかに以前の授業でも取り上げていた「にきび」はどういうことになるか。
 ここでの学習は小説における「象徴」についての考察を経験することだ。それは「山月記」における「月」、「こころ」における「襖」の意味を考察するための準備にもなる。もちろん他のさまざまな小説や詩歌を読む際にも、象徴という考え方は必須である。
 「にきび」が何かの象徴であると考えられるのは、とにかくそれが意味ありげだということによっている。
 「にきび」が象徴するものは、主題把握と当然密接に対応している。ある指導書が、にきびを「古い自我」と見なしている時、その主題把握は「新しい自我の覚醒」とでもいうことになる。
 以下列挙すると、若さ、未熟、優柔不断、迷い、純粋、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥がエゴイズムを肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。
 そして筆者による上記の主題把握によれば、「にきび」はそのまま「空疎な観念」の象徴だということになる。「空疎な観念」の象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった行為を実行にうつすしかないのである。

 「羅生門」に教材としての価値はあるか。長らく「ある」とは認められなかったが、現在では、以上のように読む限り「羅生門」に教材としての価値は高い、と思う。
 なぜ引剥をするのか、それがどのような主題を構成するのか、という問いを掲げ、「心理の推移」が「行為の必然性」を説明する論理を明らかにする考察は、高度な読解経験となることが期待できる授業過程である。
 その過程では「極限状況における悪は許されるのか」という問題が仮初の、観念的な問題設定に過ぎないこと、あるいは結末の行為の必然性が、老婆の長広舌などではなく、途中の下人の心理の変化から導き出されることを考察させたい。
 それはつまり、従来の国語科授業で行われる読解を、敢えて意識的に否定することである。まさしくそのためにこそ、本当に小説を読む体験として「羅生門」を「読む」のである。
 それが構想できる小説として、「羅生門」は確かに優れた教材である。

『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように

 この間『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』を観に行った晩、怒りのあまり、一緒に観に行った娘と、家で原作の岩井俊二版『打ち上げ花火~」を観たのだった。ずいぶん久しぶりだったが、あらためて良い映画だと思えた。会話のテンポは、子役たちの演技のせいでもあるが、編集のせいでもある。あらためてアニメ版の編集の下手さが実感されたのだった。

 その後で、十数年前に一度見たきりの『少年たちは花火を横から見たかった』を見直したくなって、レンタルしてきた。
 撮影から6年余り経って、20歳直前の山崎裕太と奥菜恵が、ロケ地を訪れて当時の撮影を振り返るドキュメンタリー。プロデューサーや岩井俊二自身のインタビューもあわせて、『打ち上げ花火~』がどんなふうに作られたのかがわかるのは興味深い。
 とりわけ、先日はからずも「奇跡のような」と形容した、あのプールのシーンが、本当に奇跡のように出来上がったのだと知らされるくだりは感動的だった。
 そして、出演者たちも言うとおり、「あの夏」が、何か実際に体験した思い出のように感じられる、というのが『打ち上げ花火~』という映画の感触なのだと、あらためて胸におちたのだった。
 そうしたあの映画の魅力をあれほどまでに否定してしまったアニメ版の罪は、繰り返して言うが、重い。

2017年9月15日金曜日

「羅生門」とはどんな小説か 8 -「勇気」を持てなかったのはなぜか

承前 7 不自然な心理をどう読むか

 「行為の必然性」=「なぜ引剥をしたのか」を明らかにするためには、直截的には、なぜ盗人になる「勇気が生まれてきた」のかを明らかにする必要がある。これには従来「老婆の論理」が解答であるとして、その自明性が疑われてこなかった。本稿はこれに納得できない、という立場から書き始められているのだが、だからといってそれは、元々「老婆の論理」が、なぜ「勇気が生まれてきた」のかを説明するには論理的に脆弱だと感じていた、ということではない。それよりも漠然と、老婆の言葉によって「勇気が生まれてきた」のだろうとは思いつつ、それではこの小説の主題が何なのかがわからない、と感じていたのだ。
 つまり「下人はなぜ引剥をしたのか」というより、ここで下人に引剥をさせることで何だと言いたいのかがわからないのである。
 それでも、物語の終盤、老婆の長広舌の後で下人に「勇気が生まれてきた」必然性は、読者にわからなければならないはずである。それが納得できなければ「羅生門」を読んだことにならない。「老婆の論理」に拠らない、下人の「勇気が生まれてきた」論理を明らかにしよう。

 発想を逆転させて、「勇気が生まれてきた」のはなぜか、ではなく、門の下ではなぜ「勇気」を持てなかったのか、と考えてみる。
 門の下で下人にあった②「迷い」とは、「a 飢え死にをする/b 盗人になる」という選択肢の間に揺れる逡巡である。
 この選択はどのような対立か。従来の主題設定からすれば「a 正義/b 悪」あるいは「a 良心・倫理/b 利己心・エゴイズム」だろうか。
 生きるためには選ばなければならないはずのbを選ぶ勇気が出ないのは、拮抗するaが強いから、という発想はごく自然な論理だ。つまり、なぜ「勇気」を持てなかったのかのいえば「正義感・良心・倫理感」が強いから、ということになる。⑤の「憎悪」の強調は、この脈絡への整合性が高い。悪に対する激しい「憎悪」は下人の正義感の強さの表れなのだ。
 だがこうした解釈は、髪の毛を抜いていたわけを聞いた後に起こる⑧「失望」と不整合である。「鬘にしようと思った」という答えが「平凡」だと思って失望するということは、下人はもっと「非凡」な、「許すべからざる悪」を期待していたということになる。どこに正義感があるのか。
 そもそも下人が強い正義感の持ち主だと素直に思えないのは、下人の正義感を示すはずの「あらゆる悪に対する反感」、⑤の「憎悪」が、どこか歪に形容されているからである。
  なぜ「勇気」を持ち得なかったのか、という疑問に対する答えとして、「正義感が強かったから」という理由は納得しがたい。

 では「勇気」をもてないのは単に弱かったからだろうか。従来の主題把握に拠れば「勇気」を持つ、つまり悪を肯定する論理がなかったから、ということになる。すると下人は強くなったことの証として引剥をするのだろうか。論理を手にすることが強くなることなのか。
 だが老婆が語る理屈は「悪を肯定する論理」などという大仰なものではない。下人の持ち得なかった論理を示してるのではなく、はじめから下人にもわかっていてできないでいたことに、単に開き直っているだけである。その真似をして引剥をすることに、大仰な主題を想定するのはばかげている。

 理屈だけなら、下人はまだ自分の置かれた状況を真剣には考えていなかったからだ、という理由も考えられる。つまりまだそれほどお腹が空いていなかったのだ。
 もちろんそんなふうに読むことはできない。そのように考えるならば、この小説は、自らの置かれた「極限状況」を自覚して、それに対峙しようとする姿勢を得る話、ということになる。これまで述べてきたように、この小説がそのようなものとは到底思えない。

 「勇気」を持てなかった理由を、これらとは別の理屈で説明できないか。この点にしぼって生徒に考えさせる。ここが「羅生門」の核心である。時間はかかるかもしれないが、生徒から発想されるまで待ちたい。

 筆者の現在の結論は以下の通りである。
 下人が「勇気」を持てなかったのは、下人の正義感が強かったからでも、下人のエゴが弱かったからでも、状況の深刻さへの自覚が足りなかったからでもない。下人が「悪」に踏み出すことをためらっていたのは、「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。それはいわば観念としての「悪」である。
 冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。最初にそのことが読者の前に示されるのは、「心理の推移」の⑤「憎悪」の描写を通してである。
 先に⑤の「憎悪」が不自然だと述べた。そして従来の読解が、この「憎悪」を「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」であると捉えているという指導書からの抽出を掲げた。それらは間違っていないが、最も重要な点を看過している。それは、この「憎悪」が「観念的」であるという点である。不自然なのは、肉体的、生理的、現実的でないからである。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。
「むしろ、あらゆる悪に対する反感」という「憎悪」の一般化、抽象化は、「憎悪」の対象が具体的でないことを表している。実体のない幻想としての「悪」である。「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」もまた、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。老婆の行為の何が、どうして、どのように悪いのかは考慮されていないのである。
 そして「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、対象が何であるかを本当には検討しないという意味で「観念的」である。「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、問題設定がそもそも観念的だったからであり、「もちろん」とは問題が真に差し迫った状況などではないことを示している。
 さらに、観念はしばしば、人の感情を過剰にする。下人の「憎悪」の激しさは、その対象が観念的であるがゆえである。⑥の、老婆を取り押さえる時に下人を支配する「勇気」は、観念に支配された者の蛮勇である。
  そして観念は、現実に即応していないために、熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえると、いきなり「憎悪」が冷めて「安らかな得意と満足」を感じてしまう。取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から幻想だったからだ。
  「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」というのは、つまり髪を抜くという行為に何か禍々しい理由のあることを期待していたことの裏返しにほかならないが、これも、下人が「憎悪」を抱いていた「悪」が、幻想としてふくれあがっていたことを示している。
 そして浮上してくるのは再び⑧「憎悪」である。「前の憎悪」とは⑤の「憎悪」を受けている以上、「悪に対する憎悪」であるには違いないが、⑤が幻想としてふくれあがった「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、⑧の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」である。
 これ以降、下人の態度は「あざけるような声」「かみつくように」「手荒く死骸の上へ蹴倒した」など、老人に向けられたものとしては甚だ優しくない。下人は静かに怒っているように見える。それは、老婆の返答が下人の現実認識に冷水を浴びせたからだ。「悪」が大きければ大きいほど、それに抗する自分の「正義」も大きくなる。そうした自己像もまた、老婆の「平凡な」答えによって打ち砕かれたのだった。下人にはそれが不愉快である。
 そうした下人の不快感の訳が分かっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく。
 下人の現状認識は最初から観念的であった。「極限状況」もいささか観念的にとらえられているが、同時に現実の問題でもある。それよりも「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定こそ観念的である。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリアは下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。
 「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認である。ここに付せられた「あざけるように」という形容について、いくつかの指導書に散見される「老婆の言葉に自己正当化の欺瞞を感じ取った」「正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉」といった解釈では不充分である。これは露わになった現実認識に対する不快の表れである。とすればこの嘲りは、老婆にのみ向けられたものではなく、これから自分がしようとする行為にも向けられたものであることになる。

 次節 9 「羅生門」の主題

2017年9月14日木曜日

『デッドコースター』-気楽に観られる

 『Final Destination』は、古くは『猿の惑星』『トレマーズ』、もうちょっと後では『Saw』『Scream』『Cube』などのようにシリーズで好きな映画の一つ。
 とにかく気楽に観られる。録画したものの、ちょっと気合いがいる、というような映画がHDにどんどんたまってしまうようになりがちなところ、こういうのは録ってすぐに消費できる。
 さて、どれがどれやらもちろんわからなくなっているし、観れば見覚えはあるのだが、先がどうなるかを思い出せるわけでもなく、2度にわたるどんでん返しは、やっぱりよくできているなあと感心したのだった。

『サクラダリセット』-まっすぐでまっとうでまえむきな

 映画版ではない。原作小説も未読。
 思いがけず2クールにわたって深夜放送されたアニメ版『サクラダリセット』が終わった。1話目を見た時に、なんだか会話の面白い話だ、というのと、ぼーっと見てると話がわからなくなるな、というのと、でもアニメ的には随分質の低い作品だ、という感想で、事前知識はなかったから、その後どうするか決めかねていた。
 4話目くらいで、これはすごいかもと思い始めたのは、科白だ。
 思いもかけない、まっすぐでまっとうでまえむきで、かつ知的な科白が、陳腐で恥ずかしいと思うより感動的でさえあり、これはいいかもと思って見続けるつもりになったのだが、諸事情あって何話か録り損ねて、ただでさえわかりにくい話が、いっそう追っかけにくくなった。
 それでも後半の2クール目の方は、数話まとめて観るようにして、話を追えるように心がけた。そうして最後まで観た時には、ここ数年でも出色の物語体験だと言える評価となった。

 アニメーションとしては最後まで、あまりに凡庸な、まるで褒めるところのない量産深夜アニメレベルを脱しなかった。まあそれでも、やたらと可愛い女の子が出てきたり、竜や騎士や剣が出てくる異世界ファンタジーだったりしないだけ、うんざりはしなかった。ただひたすらに面白みのない真面目なアニメだった。
 だが花澤香菜と悠木碧の演技の見事さを思えば、これがアニメ化されたことに充分な価値があると思わざるをえない。たぶんこの先、原作小説を読んでも、この二人の声でしか読めない。そしてそれが十分に情感を盛り上げるだろうと思われる。

 そしてなんといっても、たぶん原作のすばらしさだ(もちろんそれを損なわなかった高山カツヒコの構成も賞賛したい)。未読だから「たぶん」なのだが、つまりは物語の見事さだ。
 複雑にからみあった論理の構築は、三原順を思わせる。三原順とは我ながら、いささか唐突な連想だとは思うが、筆者にとって、複雑な構築物としての物語についての評価の基準は三原順なのだ。
 ただでさえメインの時間が巻き戻るから、今見ている物語世界がいつで、「その時点では誰が何を知っているか」についての認識が、登場人物と観客の間でずれていて、物語を追う意識が混乱する。
 その上で十分に頭の良い3人の登場人物の思惑が、互いに相手を上回ろうと策略をめぐらす。それは相手も十分読んでいるだろうから、その上を行こうとすれば…と、まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。しかも三つ巴で。
 寝る前のひとときに、眠りそうな頭で見るものではない。たちまち論理についていけなくなる。だがそれだけのレベルの論理であることはわかるところに驚嘆しつつ嬉しくなる。
 そして、最初のひっかかりであるところの、主人公をはじめとする登場人物たちの、まっすぐでまっとうでまえむきなこころざしが、最後まで物語を、すがすがしくも切なく感じさせた。
 実に驚嘆すべき物語だった。

2017年9月13日水曜日

「羅生門」とはどんな小説か 7 -不自然な心理をどう読むか

承前 6「心理の推移」を追う意味

 「老婆の論理」に「勇気が生まれてきた」根拠を求める従来の「羅生門」理解では、「心理の推移」を追うことは無意味どころか、そうした作品把握自体の障害となるはずである。一方で「心理の推移」には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。「心理の推移」が「勇気が生まれてきた」に決着する、どのような機制を考えなければならないか。
 具体的な授業展開を追ってみる。まず生徒に、下人の心理の読み取れる表現をマークさせる。最初に登場するのは①「Sentimentalisme」である。以下細かい状況説明は省くが、②「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」から「迷い・逡巡」→③「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」から「慎重・不審・緊張」→④「六分の恐怖と四分の好奇心」→⑤「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」→⑥「勇気」→⑦「安らかな得意と満足」→⑧「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」→⑨「冷然」→⑩「勇気」が抽出できる。
 ②や③は適宜言い換えやまとめをして確認する。また⑥の「勇気」は該当の本文中にはない語だが、後から「さっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕らえたときの勇気」と語られる「勇気」を時間順の位置においたものである。
 この「心理の推移」を追う過程で、どんな考察がなされるべきか。
 ④の「恐怖・好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが納得される心理である。
 だが、既に⑤の「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。不自然である。この不自然さは、その「憎悪」が理解できないとか共感できないとかいうより、「激しい」「松の木切れのように、勢いよく燃え上がり出していた」という強調が「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。」という作者による客観的な分析と(それこそ激しく)衝突するからである。充分に合理性があるというのなら激しさの強調は論理的に納得される。だが訳が分からないはずだと言いつつ、その「憎悪」が不自然なほど過剰に「激しい」と形容されているのである。これはどうかしている。
 かててくわえてそれが「あらゆる悪に対する反感」と抽象化されたうえで、分からないにもかかわらず「それだけですでに許すべからざる悪」と決めつけられている。焦点はぼやかされ、一般化されているにもかかわらず、短絡的に断定される。
 この、念入りに表現された不自然さは何を意味しているか。
 この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感しにくいという意味でも不自然だが、それだけではない。老婆の行為を「悪」と決めつける理屈は、死体の損壊を、死者への冒涜のように感じて憤っているのだろうという見当はつく。だがそれに素直に納得することはできない。そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか。羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか。そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に引き起こす。だからこそここに「極限状況」などない、と言えるのだが、作者はそうした不自然さを指摘することなく、その「憎悪」について、それをどのようなものだと考えるべきかの情報を読者に提示してみせる。
 認識に合理性がないこと。対象が一般化されていること。短絡的に決めつけていること。にもかかわらずその情動が過剰であること。
 こうした情報をどのように受け取るべきかがにわかにわかりにくいことが、この部分を「不自然」と感じさせているのである。下人の心理が不自然である以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことこそ「不自然」なのである。
 この部分の下人に生じた「憎悪」について、複数の指導書からそれを説明した語句を列挙してみる。「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」である。作者は下人の「憎悪」をそのようなものと印象づけようとしているのだ、というのが従来の理解である。こうした理解は「老婆の論理」を得た下人が引剥をするという行為に及ぶ必然性を説明するところまで、そのままつながっていく。悪を憎悪することと悪を選ぶことは、ともに「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」なのである。
 こうした解釈には同意できない。この部分の「憎悪」と、最後の行為の選択は質の違うものだという感触がある。では、この「憎悪」の描写から、読者は何を読み取るべきなのだろうか。この「憎悪」の描写から、「行為の必然性」を導く機制はいかにして見出されるか。

 同様に⑦の「安らかな得意と満足」の脳天気さも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。これは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。
 だが問題は、⑤の「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問がまるで解決していないのにこの「満足」が訪れて、「憎悪」が忘れ去られるという点である。というか、なぜ「老婆が死人の髪の毛を抜くか」は「下人には、…わからなかった」にもかかわらず、そもそも問題視されてもいないのである。
 ⑦「安らかな得意と満足」については、それが、事態の解決とかかわりのない、というより事態が何なのかという把握に関係のない、という点を確認しておこう。

 ⑧「失望」ももちろん不自然だが、ここでは、下人が何を望んでいたことを示しているのかを確認しておこう。「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを期待していたことになる。これはなぜか、というより、これは何を示しているか。

 以上のような「心理の推移」を追う授業過程は、どこの授業でも行われているのだろうが、問題は、それが「行為の必然性」につながっていないという点である。だが、上に見たような念入りに書かれた不自然は、それがこの小説にとって意味あることを示している。そこに、「行為の必然性」、つまりはこの小説の主題にかかわる論理を見出さなければならない。

次節 8「勇気」を持てなかったのはなぜか

2017年9月11日月曜日

「羅生門」とはどんな小説か 6 -「心理の推移」を追う意味

承前 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ

 もう一つ、筆者に長年不可解だったのは、「羅生門」を扱う授業において「下人の心理の推移を追う」という読解が必須の授業過程であると見做されていることである。
 むろん小説の授業において「登場人物の心理を読み取る」ことは定番の授業展開である。だがそれも先述の「例文として読む」に終わるのではなく、「作品として」読もうとするならば、そうして読み取った心理が、何事か主題にかかわるのでなければならない。つまり、そのような登場人物の心理を描くのは、この小説がどんな小説だと言っていることになるのかという論理的帰結がなければならない。
 だが心理の推移から、引剥をするという「行為の必然性」を説明している論はほとんどない。引剥は「生きるため」に為されるはずである。だからこその「極限状況に露呈する人間悪」だったのではなかったか。そしてそれを可能ならしめたのが老婆の提示した論理である。
 つまり「極限状況」を前提に「老婆の論理」が示されれば下人の「行為の必然性」は説明されるのであって、物語中盤を占める「心理の推移」はこうした主題把握には無関係なのである。
 一方で「羅生門」における下人の心理は、どうみても意識的に詳細に描かれている。心理の推移を追おうとすると、その不自然さがいやでも目につく。読者は「憎悪」にも「侮蔑」にも共感できないばかりか、その変化の急激さ、振幅の大きさにもついていけないと感ずる。だからこそそこに意味を見出さずにはいられない。
 にもかかわらず、この「心理の推移」は「極限状況に露呈する人間悪」という主題把握によっては「行為の必然性」を説明しないのである。
 それどころかむしろ、不自然なこの「心理の推移」そのものが下人が極限状況におかれているという主題の把握の障害となる。「心理の推移」を追うほどに、下人が極限状況におかれてなどいないことが強く感じられてくる。
 たとえば、悪に対する憎悪にかられるのは、はっきりと極限状況に置かれているという設定と相反する。本当に「極限状況」に置かれてるなら、悪に対する憎悪など生じたりする余裕はないはずである。「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」という一節には、はじめの問題設定である選択の前での迷いが、実はまるで拮抗していないことが、図らずも露呈している(いや、たぶん図っている)。「極限状況」があっさり忘れられてしまうことを「もちろん」と言い放つのである。
 あるいは、老婆を捕らえて「ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足と」に浸る姿の脳天気さも、どうみても極限状況に置かれている者のそれではない。
 つまり、状況設定としての「極限状況」と、最後に提示される「老婆の論理」を短絡させて下人の行為の必然性を説明するところにのみ「極限状況において露呈する人間悪」などといった主題が想定できるのだが、授業において途中の「心理の推移」を丁寧に追っていけば、そうした主題把握が小説本文の細部を無視した図式的なものであることがわかるはずなのである。

 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその不安定な心理こそが、根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにして引剥をさせるという「行為の必然性」を支えている、という理屈である。
 こうした論を立てるならば、この小説は「下人が盗人になる物語」ではない。引剥をする=盗人になるという選択も、推移の一場面に過ぎないことになるからである。主題は「移ろいやすい不安定な心理」とでもいうことになる。吉田精一の言う「善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿」である。
 だが推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえるが、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそれをした、ということになるのだから。
 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥をする下人の行為には、何かしら、この物語における「必然性」があるのだろうという手応えを感ずる。それは、途中に描かれる「心理の推移」の過程における一つ一つの「心理」とは違う、この物語の核心に関わっているという感触である。この行為は、どう見ても意識的に描かれる「心理の推移」の決着点としての選択でなければならない。

 次節 7 不自然な心理をどう読むか

2017年9月9日土曜日

「羅生門」とはどんな小説か 5 -「老婆の論理」の論理的薄弱さ

承前 4「極限状況」の嘘

 先に、下人の行為は老婆の論理によって可能になった、と書いた。だが、可能になることとそれをすることの必然性とは違う。可能になりさえすればそれをするというのなら、可能になった者がそれをすることの必然性は問うまでもない。だがその動因となるべき「極限状況」を認めることができないのだから、可能になったからといって行為の必然性はないのである。
 それでもやはり、引剥をするという下人の行為には、それをなぜ敢えてするかという必然性が、この小説をどのようなものとして読むか、つまり小説の「主題」と密接に関わる論理があると見なさなければならないだろうという確信はある。次のように書く作者がその「必然性」を充分に意識していないとは思えない。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
「これ」とは老婆の長広舌であり「ある勇気」とは「盗人になる」勇気である。下人の裡には確かにこのとき、盗人になる勇気が生まれてきている(そう書いてある)。だが、勇気が生まれさえすれば当然それを実行しようとするだけの動機は、実感に乏しい「極限状況」によっては支えられない。
 そして物語の中盤では、奇妙な心理の推移が描かれた末に、物語の結末では、いわば思い出したかのように「勇気が生まれてきた」からといって引剥をするのである。これを、下人にとっての必然性とともに、作者にとっての必然性、つまりこの小説をどんな小説として描こうとしているか、という疑問として考察すべきである。だから問題は、なぜ「勇気が生まれてきた」かである。
 こうした疑問が従来の「羅生門」論において看過されているのは、それが自明なことだと思われているからである。上の引用にあるように、老婆の話を聞いたから、である。老婆の語る論理が、すなわち下人の心に「ある勇気」を生んでいるのである。そして、勇気が生まれさえすればそれを実行するだけの動機は「極限状況」によって保証されている。論理的整合には何ら疑問はない。
 だがこの論理は、すでに述べたように状況の「極限」性が薄弱であることから破綻している。それだけではない。よく考えてみると、老婆の語る理屈が勇気を生んでいるという因果関係にも、実は納得できるほどの根拠はないように思える。
 老婆の語る、いわゆる「悪の肯定(容認)の論理」は次のようなものだ。
せねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。
だがこれは、冒頭で下人が羅生門の下で考えていた次のような逡巡とどう違うのか。
「(生きるために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
老婆の認識は、それを聞く以前から下人が理解していた状況認識と変わらない。「老婆の論理」とは、ただそれを「しかたがない」「大目に見てくれる」と開き直っているというだけである。他人が開き直っているのを見て、自分もかまわないと思ったというだけのことが、どうして「新たに老婆の論理を得た」ことになるのか。
 念のため。もちろん「老婆の論理」にはもう一つ、「悪人に対しては悪が許される」という論理が含まれている。だが「悪人に対しては」などという限定をしてしまえば、すべての人間を対象にした盗みをはじめとする悪を肯定する論理になり得ないことは明白だし、相手を選ぶのなら、避けられない「極限状況」という設定とも論理的に矛盾する。
 問題となる「老婆の論理」とは「極限状況」におかれて為す悪は許される、というものだ。この「緊急避難」の論理は、最初から下人に認識されている(「しかたがない」という文言は下人の思考にすでに見える)。わかっていてできないだけだ。なおかつ「極限状況」は描かれていない。
 「極限状況」ばかりか「老婆の論理」にも、「行為の必然性」を支えるだけの論理的強度はない。

 だがそれでは「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」はどういうことになるか。ここからは、やはりどうみても老婆の語る理屈が下人の心に勇気を生んだのだ、という因果関係が読みとれるように見える。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
という一節を、誰もが
老婆の話を聞いて、下人の心には盗人になる勇気が生まれてきた。
と言い換えてしまう。そしてこの言い換えられた一文は、「羅生門」の粗筋を語る時に必ず登場する。つまりぎりぎりまで細部をそぎ落とした粗筋においても、「勇気が生まれてきた」ことは決して落とせない展開上の要素なのである(もちろん「盗人になる決意をした」などという言い換えには既に解釈が含まれている)。なぜならこの一節こそ「行為の必然性」を支えていると考えられているからであり、「行為の必然性」こそこの小説の主題を支えているからだ。
 そしてそこに必ず「老婆の話を聞いて」という冠が被さる。粗筋を語る時には、物語の展開の必然性が露呈するから、「勇気が生まれてきた」の原因を語らないと落ち着きが悪いのである。
 粗筋とはすなわち物語の把握である。その小説をそのようなものとして捉えたことのあらわれが粗筋である。すなわち「勇気が生まれてきた」のは「老婆の話を聞いた」からだ、という因果関係を我々はそこに見ているのである。なぜ「勇気が生まれてきた」のか、という問いは最初から看過されている。
 では「老婆の論理」が「行為の必然性」を支える強度を持たない、つまりそこに因果関係があると認めないとすると、「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」という明白な一文をどう考えればいいか。
 「これを聞いているうちに」とは必ずしも「これを聞いて」ではない(まして「これを聞いたから」ではない)。これは因果ではなく、単に時間経過を示しているだけなのだ。
 つまり「勇気が生まれて」くる動因は老婆が長台詞を語り出す前の展開中にあるのであり、長広舌が始まる時点で「行為の必然性」は既に準備されているのである。

 次節 6「心理の推移」を追う意味

2017年9月7日木曜日

「羅生門」とはどんな小説か 4 -「極限状況」の嘘

承前 3「行為の必然性」の謎

 「こころ」について語られる言説に「エゴイズム」という言葉の登場しないことが稀であるように、「羅生門」について語るときに必ず登場する言葉が「極限状況」だ。それはなんだか、自明な、疑ってはならない前提と考えられているように見える。
 もちろん論者の言う「極限状況」が何を指しているかはわかる。「おれもそう(引剥)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた下人の状況である。都は荒れ果て、羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。下人は行くあてもない。こうした状況を誰もが「極限状況」と称する。
 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。これのどこが「極限状況」なのか。
 昔から「羅生門」がわからないと感じていたのも、「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかったからだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。読者としては、物語を受け取る上で登場人物が不道徳な行為をすることに対する抵抗のハードルは低い。引剥をした、だからどうした。
 したがって「羅生門」を読んでも「飢え死にか盗人か」が問題として設定されているようには感じない。それなのに「羅生門」を論ずる上で法律概念である「緊急避難」などを持ち出すのは見当外れである。
 小説は読者にとって一つの体験である。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、すべての要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。上記の主題把握はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。極限状況における悪は許されるか? もしもそれをしなければ死んでしまうという状況で悪いことをするのは許されるでしょうか? そんな問いはこの小説の読者に提示されてはいない。読者は極限状況だと説明されるだけで、極限状況を生きることはない。現に飢えていない下人はまるで「極限状況」に置かれてなどいない。論者がそうした問題設定を観念的に創作しているだけである。
 「生きるためには悪をなすことがゆるされるのか」という「緊急避難」的問いを主題とするためには、大岡昇平の「野火」や武田泰淳の「ひかりごけ」のような「極限状況」を読者に「体験」させなければならない。

 だが下人がそれをすることの前で迷っていたのも事実である。「極限状況」は、肉体的には描かれていないが、確かに下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。
 だが、意識されてはいるものの、確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「必然性」を支えるほどの論理的強度を持たない。下人がなぜそんなことをするのか分からないと読者が感ずるのはそれゆえである。
 それはすなわち、作者が下人にそれをさせることによって何を言っているのか分からないということである。つまりは小説の主題がわからないのである。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を晒すはずである。「極限状況」を体験させるはずである。それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在のもつエゴイズム」などと大仰に言われても、そんなものはこの小説を読んだ実感とはかけはなれているのである。
 吉田精一、三好行雄に始まる従来の主題把握は、「羅生門」という小説を読むという体験に相応した感触がまるでしない。そのような主題把握によって「羅生門」を教材として、授業で読解することが価値あることだとは思えない。読解の先にそのような主題が浮上してくるという見通しが立たないからである。

 では「羅生門」の主題として「自我の覚醒」「自我の解放」を読み取るのはどうか。ここには可能性がありそうな感触があって、一時期はそうした方向で授業することが魅力的に思えていた時期もあった。
 だが結局こうした主題把握にも納得できない。現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」が、そのような主題と齟齬をきたすからである。「黒洞々たる夜があるばかり」の「下人の行方」に「覚醒」だの「解放」だのといった肯定的な(あるいは脳天気な)主題を読むことはできない。
 そもそも「盗人になる」ことを「覚醒」だの「解放」だのという小説を、どうして高校生に読ませたいのか。そんな、にわかに「道徳」的な疑問を筆者が抱いてしまうのも、それが小説の読解として抽出された主題ではなく、観念的に構成された主題だからである。

 では、そもそも「引剥をする」ことは「盗人になる」ことではないと考えてはどうか。老婆の着物を剥ぎ取るという行為は、老婆の論理をそのまま老婆に投げ返すことを意味しているのであって、それは下人が盗人になることを決意したのではない、という解釈である。だからこそ下人は、原話にあるように老婆の抜いた死人の髪や死人の着物には手をつけることなく、老婆の着物だけを剥ぎ取ったのである。
 だがそれでは、結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。これでは、物語の主人公が老婆になってしまう。自らの利己的論理、詭弁によって自らが被害者になる物語。星新一や「ドラえもん」によくある因果応報譚。

 引剥ぎという反社会的な行為を敢えて肯定的に描いているのだとか、実はこれは老婆の物語なのだとか、アクロバットが楽しいのはそれが見事だと思えるうちであって、腑に落ちなければ与太話に過ぎない。
 結局、「極限状況」を認めることができない以上、従来の理解では「行為の必然性」はわからず、したがって主題もわからない。

 次節 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ

2017年9月5日火曜日

「羅生門」とはどんな小説か 3 -「行為の必然性」の謎

承前 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性

 「羅生門」がどんな小説なのか、何を言っている小説なのかがわからないと感ずる最大のポイントは、物語の最後で下人がなぜ老婆の着物を剥ぎ取ったかがわからないという点である。
 この「わからない」は、下人がそんなことをした心理がわからないということでもあるが、同時に、作者が下人にそれをさせることによって、何を言いたいのかがわからない、ということでもある。この行為の必然性を、物語の論理―つまり「主題」―として語れることが「羅生門」を理解することであるように思える。
 といって、常に登場人物の特定の行為の必然性こそ物語の「主題」だというわけではない。事件ではなく、淡々とした日常の描写こそを目的とした小説はあるだろうし、物語を流れる時間や空間の感触を描出することが目的の小説もあろう。あるいは行為における必然性の欠如こそが「実存」であるなどと言いたい小説もあるかもしれない。
 だが「羅生門」がそうした小説だとは思えない。下人が「きっと、そうか」と言って老婆の着物を剥ぎ取るには、何か納得できる必然性がありそうである。冒頭に、行為に対する迷いが提示され、結末で行為の実行があるという構成は、そこに必然性を見出さないまま読み終えることはできない力を読者にもたらしている。にもかかわらず、その「必然性」がわからない。
 それに比べてこの小説のもとになっている『今昔物語』の一編「城門登上層見死人盗人語」には、そのような感触はない。老婆の着物を剥ぎ取る男は最初から「盗人」と形容されているし、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。となると、なぜそんな話を伝えたいのか(それが「主題」だ)がわからない、ということになるのだが、「城門登上層見死人盗人語」の主題は、盗人の行為にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という事実そのものを読者に伝えることなのである。
 一方の「羅生門」では、明らかに下人の行為の意味にこそ主題を読み取るべきなのだろうと思われる。
 問題は、この、「行為の必然性」と「主題」の論理的な連続である。なぜ剥ぎ取ったかを納得することは、すなわちこの小説をどのような小説として読むかということである。それが筆者にはわからない。
 もちろん、引剥という行為の必然性は、序盤に置かれた「飢え死にをするか盗人になるか」という問題に決着をつけたということだと理解することはできる。そして迷いを抜けて行為することができたのは、老婆の論理を得たからだ。そしてここから導かれる主題は、「極限状況における悪の肯定」「悪を選ぶエゴイズム」「悪を選ばざるをえない人間の弱さ」「人間存在そのものの悪」…などということになろうか。伝統的な「羅生門」の主題である。
 だがそれがどうしたというのか。そのように読む「羅生門」は何か面白い小説なのか。そういう小説を読むという体験は、何か国語学習に資するところがあるのか。
 別にそうした主題が不道徳的だとか倫理に反するなどと言うつもりはない。倫理に反することが描かれることが読者に感銘を与えることはあるだろう。あるいは教室で道徳に反する小説を扱ってはならないとも思わない。読解の過程でそのような主題が抽出されるなら、それも文学の可能性として教室で享受してもいい。
 だが、単にそうした読み方で「羅生門」が作品としてあるいは教材として価値あるものとは思えないのである。そのように「行為の必然性」を措定して、そこから導かれる「主題」をそのように措定し、さてそれが面白い小説だとは思えない。面白さのわからない小説の「主題」が信じられない。そんな小説をどうして書きたいのか、納得できないからだ。となると結局、教材としての価値もわからない。
 さらに、わからないという前にまず、そのようには読めない。それは、上記の論が前提する「極限状況」が、そもそもこの小説には描かれてはいないからである。

次節 4「極限状況」の嘘

2017年9月3日日曜日

「羅生門」とはどんな小説か 2 -教材としての価値、「主題」を設定する必要性

承前 ○ ブログ的前置き
 
 「羅生門」とは何を言っている小説なのか。それは何か自明なことなのだろうか。
 教材としての「羅生門」をめぐる言説の中でいつも奇妙に思うのは、この小説が、つまるところ「どんな小説か」についての一致した見解の存在が疑わしいにもかかわらず、教材としての価値は決して疑われていないらしいという点である。いわく「完成度が高い」、「緊密な世界を構成している」…。それは認める。だがつまるところ何を言っているのかを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
 わからなくても読んで面白い小説はある。また「完成度が高い」ことは、それだけで鑑賞に値する。読者としては小説が何を言っているかがわかることは必須ではない。「檸檬」は長いこと、何を言っているかわからないが、好きだし、何か凄いことはわかる、という小説だった。村上春樹だって基本的にいつもわからない。
 問題は「教材として」である。
 「どんな小説か」というのは、いわゆる「主題/テーマ」のことだ。「羅生門」の主題とは何か。この小説は何を言っているのか。それがわからなくて、どうやって授業でそれを扱うことができるのか。
 といって授業で小説を扱うことは小説の主題を教えることだ、などと考えているのでは毛頭ない。
「羅生門」の内容は以上のようであるが、これから、主題はなどと教師が押しつけるのはやめたほうがよさそうだ。主題は、などとまとめたり論じたりするのは、教師ではなく学習者たちでなければならないように思われる。各人がそれぞれ読みとり、それらが対比され、より高次元の主題が、話し合いのうちにまとまれば、それは最も望ましい姿であろう。そこで、ここでは主題はなどと論ずるのはひかえておく。(筑摩書房「国語Ⅰ 学習指導の研究」より「主題と構成」鈴木醇爾・猪野謙二)
 
「羅生門」の主題は、作品を「どう読むか」「どのような角度からとらえるか」によって、見解がさまざまに分かれることだろう。(略)いずれにせよ、「どの主題が正しいか」ではなく、大切なのは「どのような〈読み〉に基づいて、そのような主題が見いだせたのか」という、その〈読み〉のプロセスなのである。(三省堂「国語Ⅰ 指導資料」長谷川達哉)
正論である。
 国語の授業としての教材の意義は、それを「読む」こととそれについて「議論する」ことの中にしかない。主題の提示が授業の目的ではない。小説の主題そのものは学習内容などではなく、そんなものはテストの「正解」などにもなりえない。といってテストの「正解」になりそうなことを教えるのが国語の授業でもない。
 だが、少なくともそうした読みや議論の決着点についてはそれなりの見通しがなければ、それを授業で展開することはできない。
 むろん、ともかく「授業」という形を成立させるだけなら、どこへ向かうべきかがわからずに、とりあえず内容を追うことに時間を費やすことはできる。あるいはこれまでに提言されているいくつもの切り口はある。「状況設定を描写の中から把握する」「下人の人物造型についてまとめる」「下人の心理の推移を追う」「動物比喩について考察する」「作品の世界観を味わう」…。
 だが、結局のところそれらが有益であるためには、なんらかの主題を設定するしかない。「羅生門」がどんな小説であるかという見通しがなければ、さまざまな授業過程の意義、適切さが判断できないからである。
 そうでなければそれは「作品」の読解ではなく、文法問題など、「例文」を使った言語技術の習得のための学習に過ぎなくなる。もちろん小説だろうが詩だろうが評論だろうが、教科書所収の教材文をそのように使う自由はある。だがそうした使い方で済ますのは惜しい。そうした文章が連なった「作品」そのものを読解するところまで教科書教材を使いたい。そのためには主題の想定が必要なのである。授業という場が最終的にそれを特定する必要はない。だが、読みはそこを目指さざるをえない。
 もちろん、世間で「羅生門」がどのように語られているかは知っている。だがそこには次のような問題がある。
これまで三十年以上、日本中のほとんどの高校生に読まれ、高校教師が必ずといっていいほど授業で扱ってきたこの作品は、しかしその主題がまだ確定していない。(桐原書店「探求 国語総合 指導資料」)
 
「羅生門」の主題は、一見明解なようだが、実はかなり幅があり、一つにしぼるのは困難のように思われる。(第一学習社「新訂国語総合 指導と研究」)
だからこそ、先の「正論」がある。いろいろに考えられるから、限定するのはやめよう、生徒に考えさせよう、そのことにこそ価値がある…。正論ではあるが、欺瞞的でもある。そんなことが本当にできるのか。それを理念通り実施している授業がどれほどあるだろう。実際に、生徒からどのような「主題」が提出されるというのだろう。
 だから、筆者は最近まで、何度となく機会のあった一学年国語授業の担当時において「羅生門」の授業をまともにしたことがなかった。「羅生門」が何を言っている小説かわからなかったからだ。ただ「日本人の教養として」と言って読むだけである。せいぜいが「にきび」のもつ象徴性についてと、それこそ主題について若干の考察をし、それでもみんなであれこれと考えていると楽しくなるものの、結局「とにかくわからない」といって終わる。せいぜいが2時限程度である。
 やはり、どんな教材であれ、考えるべきテーマがあってこその読解である。
 明示的に書かれていて、当然のように読み取れる情報は、こちらが指示しなくても生徒も読み取る。生徒がそれをするかどうかは、それを生徒自身がする必要があるように授業を設定するかどうかという問題で、こちらがそれを「教える」必要があるわけではない。それ以上の、ただ読んだだけではわからないはずの情報を「読み込む」ことを企図するならば、授業者にそうした見通しがなければならない。それがなければ授業は成立しない。

 一方で、世にあふれる「羅生門」論は、それぞれに「羅生門」の主題を語っている。「羅生門」について論じるということは、「羅生門」が「どんな小説か」を言うことにほかならない。それは教材としての「羅生門」ではなく、「作品」としての「羅生門」について語る研究なり批評なりに課せられた使命であり自由である。だがそれらの提示する「羅生門」像は「一つにしぼるのは困難」なのである。
 「しぼる」べきだと言いたいわけでは無論ない。繰り返すが、主題の提示が授業の意味だと考えてはいない。
 だが、上記のような指導書の言説に見られる「主題」論が、まっとうな正論であるにもかかわらず奇妙に言い訳じみて見えるのは、そうして提出されるさまざまな「主題」が、結局多くの読者を納得させていないにもかかわらず、それでも教材としての価値を疑ってはならないことが前提されているからである。
 あるいは百出する主題論についてはこんな言い方もある。さまざまな主題が想定できることこそ「羅生門」がすぐれた作品であり、すぐれた教材であることの証なのだ…。
 だがこれも詭弁にしか聞こえない。そうした多面性に価値があるとすれば、それぞれの「主題」がそれぞれに説得力があると思えればこそだ。設定される主題に応じて一つの作品がさまざまに見えてくる、というような多面性が認められれば、それは芸術作品として、また教材として価値あると納得できる。だが繰り返すが、筆者は、これまでに納得できる「羅生門」論を見たことがない。

いささか駄言を弄した。次回からもうちょっと具体的な読解に踏み込む。

 次節 3 「行為の必然性」の謎

2017年9月1日金曜日

「羅生門」とはどんな小説か 1 -ブログ的前置き

 これから数回、授業で扱う「羅生門」について論ずる。
 呆れたことだ。今更「羅生門」について語ることがあるのか。これだけ多くの目にさらされ、論じ尽くされているこの小説について、まだ何か言うか。
 我ながらそう思わないでもないが、これまでさんざん書いた「こころ」についてだって、同じくらい日本人のほとんどが読んでいると思われるのに、みんなそうは読んでいないと思うから、言うのだ。
 いやもちろんどこかで誰かが同じことを言ってるのかもしれないが、少なくともとりあえず広く人々の耳目に触れる場所にはそうした見解がごろごろと転がっているわけではない。「こころ」であれば、語られる紋切り型は相変わらず「エゴイズム」だ。それは「私」の目からそう見えているに過ぎないのに。あるいは「恋か友情か」だ。そんなこと「こころ」のどこにも書いてないのに。
 「羅生門」も同じように、どこを見ても「極限状況」だ。どうしてそんな大仰なお題目にみんな納得しているのだ。あれのどこに「極限状況」が描かれているのだ。そしてまたしてもこちらも「エゴイズム」である。そんなわかりきったことが露呈する小説を、どうして有り難がって読む価値があると思えるのだ。
 そう、さらにわからないのは、これが教材として価値ある小説だと、誰もが疑わないらしいことだ(まあ実際には疑っている教師も多いんだろうけど、誰もあからさまには言わない)。それどころか、これをすばらしい教材だと本気で考えているという発言を直に聞いたことも少なくない。
 もうこれを高校一年生に読ませることはお約束になっていて、どこの出版社も教科書から外すわけにはいかなくなっている「国民」教材として、今更その教材価値が問われない。
 どうしてなのだろう。みんな、あの小説が何だと思っているのか。どうして高校生に読ませる価値があると思うのか。
 なのにそのことを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
 面白い「羅生門」論はある。だが、これが教材として優れていることを納得できたことはない。作品として面白くないというのはまあ個人的な好みだから殊更に言い立てなくとも良いが、少なくとも、これが何を言っている小説なのか、誰か納得できるように教えてほしい。それがわからないのに、教室でどう読めというのか。読解の果てにどこに行けるという見通しもないのに、どうして教材として価値あるものだと信じられるのか。

 そんなことを言いながら書き出すのは、最近、ひょんなことから、この小説についての「納得」が不意に訪れたからだ。最初に読んだ高校一年生の時から40年近く経って。そして商売柄、30年来、さんざん読み返したというのに。今更。
 誰も(目につくところでは)言っていないと思うので、書く。
 題名はとりあえず「『羅生門』とはどんな小説か-なぜ『勇気が生まれてきた』のか」ということにしておく。 

 次節 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性

2017年8月27日日曜日

『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い

 あるとき突然、テレビから「Forever Friend」が流れてきて、何事かと思ったら『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』がアニメ化されるという。しかもシャフトで、新保が総監督となれば『物語』シリーズだ。「まどマギ」にはまるでノれなかったが、ある程度の品質は期待していいだろうと、映画館に観に行くことにした。

 で、見始めこそ、そのアニメーションの品質にワクワクしたが、見続けていると、あれっ、という感じになった。観ていて、映画の先行きにちっともワクワクしてこない。話はわかっていて、先の展開が知りたいということではないから、その先に起こるであろう感情の揺れを追体験することに対する期待があってもよさそうなのに、そうならない。今、特に感情が揺れていないからだ。
 どうも会話のテンポがタルい。キャラクターに魅力がない。
 不満は後半にいくにつれ、どんどん増大していった。そして最後まで、その不満を解消するに足るプラス要素がないまま映画は終わった。
 いったいこの人たちは何を考えているのだろう。脚本家も監督もプロデューサーも。
 がっかりというより、はっきりと怒りさえ覚えたのは、もちろん原作を知っているからだ。
 少なくとも期待していたアニメーションの魅力も、テレビの情報番組の紹介で観た、花火のCGの平板さに不安を感じていたとおり、後へ行くほどがっかりだった。
 「まどマギ」の異空間も、その場面が現れる度、違和感で冷めたものだが、この映画でも、例えば題名の「打ち上げ花火」がとてつもなくチャチい。いきなり映画の中の空間と別な層でCGの花火が画面いっぱいに重なる。しかもそれが特に綺麗だと感じられるような作りになっているわけでもなく、ただ機械的で平板なCGが作品のリアリズムを台無しにするのだ。
 あるいは人間を描くことについても、リアリズムはまるで保障されない。なずなの母の再婚相手が、ホームで典道を殴り倒す。体の小さな中学生がホームに倒れているのに、それに一顧だにせずに立ち去る大人がいるものか。こんなふうに、いるはずもない記号的「ひどい大人」を描かないと典道の試練が描けないと考えてしまう制作者たちが、まともなドラマを描けるわけがない。

 原作のある作品をどう別メディア作品として再話するか。原作に愛着のある人に不満を感じさせない再話をすることは、もちろん難しい。それはほとんど成功しない。その作品の魅力が、そのメディアの特性によっているならば、そもそも再話が成功するはずはない。
 それにしても、だ。それが、創作というものに対する志に何ら関係のない商売であるならば、動機はわかる。どういう見通しであれ、話題になってしまえば商品価値は見込める。メディアミックスは宣伝と販売、回収がセットになった効率的な戦略だ。
 だが、何かしらそれが作品として意味あるものになるはずだと考えるならば、そのメディアによってのみ生まれる魅力を、その原作に付け加えることを意図しないで、なぜ再話などするのか。
 せめて魅力が加わらなくても、改悪をすることはなかろう、といつも思う。どうして「そこ」を変えるのか。それは元の作品の魅力のなにがしかを支えている要素ではないのか。あるいはあらたな魅力を付け加えるべく、企図されているのか。
 残念ながらこのアニメ化にあたって、原作から変更された要素に、成功しているものはほとんど見あたらなかった。
 わずかに、坂の多い銚子の街並みの古めかしい佇まいと、そこに不自然に存在する近未来的校舎の違和感が、世界観として面白かったが、それ以上にそれが何か作品全体の魅力につながっているという感じはしなかった。
 それ以外には失敗している改変ばかりなのだが、とりわけ許せない点を三つ。

 主人公たちを中学生にすることの意味をどう考えるか。
 原作の小学生ではできない恋愛要素を盛り込める、それはそうだろう。だがそのことで失われてしまうものをどう考えるのか。
 原作は、もちろん友達連中もそうだが、なんといっても山崎裕太と奥菜恵の、あの歳の魅力失くしては成立しない。
 いつもふてくされたように生意気に喋る山崎裕太の典道は、先に大人っぽく振る舞うことを覚えた女の子に振り回されても、結局はカラッとしていられる。
 そもそも女の子との絡みにドキドキしてはいるものの、はっきりとそれが恋愛であるような描き方はされていない。二人が最初のうち、好きあっていたのかどうかも怪しい。最後だって、どうみても「恋人」のように描かれてはいない。
 だがそれがいいのだ。そのイノセンスと、微かに垣間見える大人の世界とのバランスが切ないのだ。
 それが中学生として描かれると、すっかり台無しなのだった。主人公はとたんにウジウジと思い悩む少年に見えてきて、鬱陶しいことこのうえない。この感じは「碇シンジ」だ。またしても。ウンザリ。
 そのわりに菅田将暉の声は低くて、あの声であまりに子供っぽい中学生を演じられると、違和感ばかりが甚だしくて、気持ち悪かった。下手だというわけではなく、単なるミスキャスト。といって、声の合うキャストで中学生らしく見えても、キャラクター造形が鬱陶しいのにかわりはないが。
 一方の広瀬すずは悪くないが、中学生のなずなは、やたらと謎めいた前半に比べて、後半の子供っぽさが違和感ありすぎる。小学生には許せるものが、中学生には許せない。
 奥菜恵のなずなは、最初から本心が読めないのを「謎めいている」といえばそうだが、それも所詮小学生の背伸びに見えるし、だから母親に引き戻されるところで泣いたって構わない。そして後半は、あの、典道をおいてけぼりにして「かけおち」なんかなかったことにしてしまう呆気にとられる展開にしても、過剰にウェットになりそうな予感を軽やかに裏切って典道を翻弄する。恐ろしく魅力的なキャラクターになっていた。 

 観ながら、あ、これは駄目だ、と思ったのは(そういうのは何か所もあるのだが)列車の中でなずなが「瑠璃色の地球」を歌うシーン。
 広瀬すずは思いのほか良い声で、悪くない、と一瞬思ったのも束の間、伴奏が入り始める。あれよという間にディズニーランドもどきの(これもまたチャチな)CGのファンタジー空間が現れる。主人公が空中を飛ぶ車に乗る。オーケストラをバックに「瑠璃色の地球」が歌い上げられる。
 この映画は、こんなふうにして、印象的になりそうなシーンを台無しにしてしまう。夜の列車の中でアカペラの歌を聴くというシチュエーションにこそ価値があるのに、それをわけのわからないミュージカルにしてしまう。
 『La La Land』も、冒頭のハイウェイの場面が素晴らしいのは、それが現実のハイウェイ(らしく見える)空間で繰り広げられていたからで、天文台のシーンは妙なファンタジー空間に入ってしまってがっかりした。
 それでも、実写映画でそれをすることの意味はある。生身の人間が、現実に存在するどこかのロケ地かスタジオで撮影しているのだ。そこからファンタジー空間へ移行することには、相応の意志を認めることができる。
 大根仁でいえば『モテキ』だ。あれも実写映画であればこそだ。街中がそのままミュージカルの舞台に接続してしまう眩暈のような感覚に価値があったのだ。
 だがアニメーションは、そもそも現実の空間を撮影してはいない。リアリティを感じさせる方に労力が向かうべきところに、それを全く放棄したかのようなファンタジー空間に移行したからといってどんな異化効果があるというのか。
 そうではないはずだ。夜の列車内の、二人しか乗っていない車両で、これから東京へ「かけおち」しようとしている少女が歌い、引きまわされる少年が、わけのわからないままそれを聞くことになる時間の魅力こそ描くべきではないのか。歌の最中は、様々な現実的(車内の、車窓外の、あるいはそれぞれの登場人物たちの)カットバックがコラージュされるべきではないのか。
 アニメだからこそ安易にできるファンタジー描写が、ドラマを根こそぎにしてしまう逆効果をどうして自覚しないのか。

 もう一つ。上の不満とも通ずるのだが、全体として、SFともいえないファンタジー要素を入れることの意味をどう考えるか。
 原作では、ストーリーが分岐するパラレル・ワールド設定的な枠組みがあるものの、それぞれのストーリー内にファンタジー要素はない。非現実的なことは起こらないという枠組みで描かれている。
 一方、映画版ではパラレル・ワールドではなく、タイム・リープによる時間の巻き戻しだ。ただし、記憶は保持されていて、主人公たちは意識的に選択のやり直しをする。
 タイム・リープ要素を取り入れるのはいい。だがそこに灯台のレンズを思わせるあの不思議な玉を導入すると、上記の花火の描写の薄っぺらさにも通ずるCG合成の違和感が甚だしくて、まず萎える。
 だが問題は、繰り返されるうちに世界が非現実的な異世界になっていくことに、何か良くなるような要素があるのか、という点だ。
 タイム・リープ設定が非現実的であることは構わない。だがそこで繰り返される物語が、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『シュタインズ・ゲート』のように、物語の可能性の展開として示されるのならいいのだが、この作品では、奥行きが増すような(たとえばそこで二人の絆が強まっていくような)感触ではなく、ただひたすらに拡散して、薄くなっていくような印象しかないのだ。
 タイム・リープは典道にとって、諦めないことの意思表示のはずだ。うまくいかなかったある場面を、創意工夫と意志の力で乗り越えていく試練の連続があのタイム・リープ設定の可能性ではないのか。
 それが、繰り返されるうちにわけのわからないファンタジー世界に迷い込んでいったのでは、どんな創意工夫のしようがあるのか。ただ翻弄されていくばかりだ。「成長」の要素を敢えて描かないことも、制作者の意図だというつもりなのか。
 そしてこれも灯台のレンズのイメージを応用したものか、最後の世界の空の描写はいったい何だ? 何かすごいものを見せられたというような映像的な美しさがあるわけでも、世界観があるわけでもなく、ただそんな風に描かれることの意味がわからない、という当惑だけがある。にもかかわらず、それは、わざわざそうしているのだ。原作を改変して。
 そして原作の、あの奇跡のような夜のプールの場面を、わざわざ海に置き換えて、まるでそこに何の魅力も見いだせないような場面として描きながら、極めつけは例の「今度はどんな世界で会えるかな」だ。
 原作の「今度会えるの、二学期だね」は、二学期には転校して会えないことを知っているなずなが、そのことをまだ知らない典道に言う科白だ。この切なさが、夏休みという、終わることを約束された、限界を持った掛けがえのない時空間の愛おしさとともに胸に迫るのがこの科白なのだ。それを作品から消し去ってしまうことの意味を、脚本家も監督も、いったいどう考えているのか。
 制作者たちの罪は重い。

2017年8月25日金曜日

この1年の映画 -3年目

 ブログ開設3年目は、転勤で忙しくなったというような理由もないではないが、なによりブログの記事を書くことが負担になって、次の映画を観られないというような悪循環が続いた。どれもこれも、観てから記事を書いてアップするまでに2週間くらい経っているものばかり。観た日とアップの日付もズレまくっている。

 さて、この1年で観たのは次の50本。
 初年度は75本2年目は60本だから、さらにペースダウン。

『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『オブリビオン』 -どこかで見たSF映画
『ある子供』 -何が欠けているのか
『セッション』 -とにかく上手い
『エバー・アフター』 -「シンデレラ」のアナザー・ストーリー
『セルラー』 -巻き込まれ型サスペンスの佳品
『大脱出』 -考えるのが億劫な
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『レクイエム』 -ヴァン・ダム映画として充分、でも残念
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『ER~救急救命室』 -映画作りの層の厚さ
『首吊り気球』 -奇想の現前は遥か
『ツイスター』 -悪くはない娯楽作品ではあるが
『グラスハウス』 -質の低いサスペンス
『アパートの鍵貸します』 -すごいのに楽しめない
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『人造人間13号』 -軽く、軽く、ゾンビ物を
『バイオハザードⅣ アフターライフ』
『バイオハザードⅤ リトリビューション』 -不全感の残る大作化
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『君の名は』 -IMAXの力か
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『シカゴ』 -ミュージカル仕様
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『スティーブ・ジョブズ』 ー狂気と演説
『ハーモニー』 ーアニメが不自然を描く困難
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『アクロイド殺し』 -映画における叙述トリック
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『クローバー・フィールド』 -完成度の高い怪獣映画
『グエムル』 -奇妙なバランスの傑作怪獣映画
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『龍の歯医者』 -初舞城王太郎は
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『パーティクル・フィーバー』 -楽しくもドラマチックな科学ドキュメンタリー
『パーフェックト・ストレンジャー』 -面白さの想定が空振りしている
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程はマル
『アフター・アース』 -作られる必然性がわからない
『ある日どこかで』 -ロマンチックなタイムトラベルものだが
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い
『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?
『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…
『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画
『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画
『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 『ER』『アクロイド殺し』『龍の歯医者』はそれぞれテレビ用に作られたもので、劇場公開作品ではないが、それも含めてようやく50本か。
 そういえば独立した記事として書いてないが『博士の愛した数式』を見直して、あらためてそのひどさに呆れたりもしたんだっけ。

 例によってベスト10を選ぼう。

『セッション』 -とにかく上手い
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い

 このうち3本は映画館で観たもの。1年目の最初の『マレフィセント』以来、2年目までは映画館に行っていなかったのだが、2年半ぶりの『君の名は』からこっち、この先はぼちぼち映画館での鑑賞も復活かもしれない。
 さて、上記は観た順で、評価順ではない。どれか突出しているかと見直しても、ベスト1は選べない。
 『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『ドント・ブリーズ』のサスペンスも、『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』の多幸感と切なさも、『セッション』『アメリカン・ビューティー』『告白』『コラテラル』の上手さも大いに満足だが、もろもろの思い入れも含めると、この1年間では『この世界の片隅に』の年、と考えるのが良いのかもしれない。
 以下はベスト20で、上記と迷った作品。

『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『君の名は』 -IMAXの力か
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程は丸
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 名作の評価の高いものが多くて、それぞれさすがではある。あとはこちらとの相性。
 それぞれ、多幸感では『ヒット・パレード』より『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』だとか、上手さでは『ジャッカルの日』『天国と地獄』よりも『セッション』や『コラテラル』だったのだ。

2017年8月17日木曜日

『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 『時間(原題「The Hours)』では題名として素っ気なさ過ぎるのはわかる。だからといってそれだけでは意味不明な邦題でもある。
 時代の異なった三つの物語が並行して描かれながら時折それらの関連が示される。関連があるから「めぐりあう」なのか。だが、そもそも「時間」がテーマになっているというのが、どうも腑に落ちない。
 だがとりわけ、三つの物語が提示される映画の冒頭の朝の場面で、三つのそれぞれの場面を連続するようにカットインする編集はうまかった。一つの物語の主人公が顔を洗って、顔を上げると鏡に映るのは別の物語の主人公。ある物語でテーブルに置かれた花瓶が、同じ画角で別の花瓶に重なったと思うと別の物語に入れ替わっている。
 さてこうした編集も、そもそもおそらく原作がそうなのだろうが、複数の物語を関連させて描くという手法に何の意味があるのか。それを採用しさえすればもう物語の成功は約束されているのか。そうであるようにも思う。「タイムマシン物(タイムトラベル・タイムリープ・パラレルワールド…)」が、それだけである一定の魅力を約束されるように。
 だがでは、どれか一つの物語ではいけないのか。それぞれの物語の、ドラマとしての強度は充分であるようにも感じられる。そしてそれぞれの物語が互いを照らし合うことで別な意味を帯びてくるような仕掛けがしてあるようにも思われない。例えば、1951年編のあの人物が2001年編のあの人物なのかとわかる瞬間の驚きはあるが、それで物語がどんなふうに読み直されるのか。考えなければ、にわかにはその効果がわかるようにはなっていない。
 ならばこの「手法」はたんに「ためにする」手法でしかないのではないか。
 それでもこうした手法が採用されていることによる魅力はいかんともしがたく、ある。一言で言えば物語が重層的に感じられる、ということだ。
 創作物が「よくできている」というのは、それだけである種の満足を見る者に与えてくれる。複雑さと拡がりの感触。
 だがそれだけなのか。『クラウド・アトラス』では、その複数の物語の重層が、何か複雑な干渉を見せそうな感触があって、途中に強い期待感を感じさせて、結局最後までその期待が満たされずに終わった。
 もちろんSFではない『めぐりあう』はそんなふうに物語同士が干渉しなくてもいい。途中で、そうか、それぞれのヒロインの苦悩に共通性があるということなのだなと気づくくらいで、この構成についてのある程度の納得はある。
 だが、どれか一つの物語で完結するという可能性は、その物語の価値を下げるのだろうか。そうかもしれない。どれか一つでも十分な強度をもつそれら3編の物語は、しかし『めぐりあう』ほどの特別さをもたないかもしれない。
 それがなぜなのかは、いずれ観直して再考しよう。とりあえず感情を揺さぶられたことは間違いない。

2017年8月13日日曜日

『アルゴ』 -過不足ない娯楽作

 『羊たち』に続いてアカデミー賞受賞作。
 だがこちらはそういう評価に違和感はない。まあこんなに臆面もない「映画」讃歌に最高の賞を進呈してしまうところに、映画界の身内びいきを見るようで恥ずかしい気もするのだが。
 それでも面白いことにはまったく異論はない。隅々までよくできていた。サスペンスは充分だし、成功のカタルシスは申し分ないし、台詞は粋だし、ペーソスも感じられる。主人公のベン・アフレックのかっこよさには惚れ惚れするし、登場人物たちがそれぞれの役割において輝く瞬間をきちんと描けているところもいい(アカデミー助演男優賞ノミネートのアラン・アーキン演ずる老映画プロデューサーの、気骨と矜恃と辣腕と少々の落魄はやはり味わい深かったが、個人的には台詞も「活躍」もほとんどない義勇の人、カナダ大使ケン・テイラー役のヴィクター・ガーバーの顔が実に良かった)。全体として、アイデアの密度が濃いという感触が、鑑賞後の満足感を与えてくれる。
 大いに満足して、でも何か大きな感動がないことにもいささかの不満足を感ずる。
 たぶんこれは個人的な問題だ。こちらの準備状況であり、相性の問題なのだ。

2017年8月12日土曜日

『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの

「アカデミー賞特集」みたいな放送で録画。
 3回目くらいになるか。
 以前の印象では、とにかく面白い映画であることは間違いないが、どうしてアカデミー賞を受賞するような評価のされ方をしているのかが腑に落ちないでいた。確かにレクター博士のキャラクターは強烈ではある。それでも、それがアカデミー賞などというはれやかな賞の評価にふさわしいという感じがわからなかった。
 今回、久しぶりに観て、やはりレクター博士の脱獄についてのシークエンスと、主人公クラリスが犯人バッファロー・ビルの家に入るシークエンスのサスペンスはさすがだった。どちらも観客の想像を誘導しておいてどんでん返ししてみせるという手法が冴えていた。
 とりわけ後者で、FBIが犯人の家に踏み込む過程と、クラリスが捜査のために関係者の家を訪れる過程と、犯人が家にいる過程を並行して描いておいて、どれとどれがどう接続するかという読者の想像がひっくり返る瞬間はお見事である。
 だがこのアイデアが空前絶後だというわけではなかろう。例を挙げられるわけではないが、他には見たことがないという印象でもない(乙一が小説では時折やっているが、それはむしろこの映画の影響かもしれない)。
 というより、こうした映画的うまさがアカデミー賞の評価の対象となるというのがどうもピンとこない。
 ではどういうのがアカデミー賞の評価になるのかといえばそれはそれで確からしい定見があるわけでもない。だがいつも作品賞を獲る作品には、何かしら「アメリカ的なもの」がそこに感じられるようにも思う。それはアメリカ的な幸せだったりアメリカ的な誇りだったりアメリカ的なトラウマだったり。さてでは『羊たちの沈黙』ではどこがそうなんだろう。
 やはりレクター博士とクラリス捜査官なんだろうか。主演男優/女優賞を独占したアンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターには納得だが、そうした演技の賜物というだけでなく、そもそも精神分析医が怪物であるという設定と、正義感の底に強迫観念があるという設定が。
 どちらにもキリスト教を背景にした文化的な刻印であるような感じもして、それに感応しない日本の観客には、この作品はやはり、よくできた面白いサスペンス映画でしかないのかもしれない。

2017年8月11日金曜日

『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画

 題名は「下山」くらいの意味なんだろうが、これがまたしても邦題。原題は「A Lonely Place to Die」というのだが、そのままでいいじゃん。サスペンス映画であることはその方がわかるのに。
 さてまたしても「拾い物」狙いなのだが、これは良かった。
 登山パーティーが、山中に生き埋めにされている少女を発見して保護すると、謎の暗殺者に襲われて一人ずつ殺されていく。
 冒頭から前半部全体に、山岳や渓谷の風景が恐ろしく良く撮れてる。ふんだんな空撮はドローン撮影で安価になったからか、低予算映画にスケール感を与えつつ、山岳の高低差を感じさせて、既にサスペンスフル。森の中も、木々の与える遠近感がいちいち絵画のようだ。
 もちろんそれだけではなく、本筋のサスペンスの方も申し分ない。とりわけ撮影が。
 崖の途中で、上から下りてくる仲間を待っていると、ロープを何者かに切られて落下する仲間が、主人公の近くを落ちていくのを同一フレームに入れる場面とか、襲撃者から逃げる副主人公が山の斜面を転げ落ちるのを複数カットをつないだ編集で見せる場面とか、映画として実に芸のある撮り方をしていると思う。
 イギリス映画というのは、ハリウッド映画とヨーロッパ映画の中間的な味わいが「ちゃんと」ある。不思議なものだ。

 もちろんネット上の評判のように難もある。どういう設定かわからないから、ホラーなのかスリラーなのかと思ってみていると、思いのほか襲撃者が姿を現すのが早いように思えてちょっとがっかりする。一応それでも、いったんは「これが襲撃者たち?」と思わせておいたのが単なる密猟者で、それらをあっさり殺すのが本編にかかわる襲撃者たち、というような捻り方をするのだが。
 あるいは山で話を完結させればいいのに、半ば過ぎで麓の村に下りてしまって後は街中の追いかけっこになる。そこからは新味がなくなるのはいかんともしがたく、山で話を終えなかった脚本の構成が惜しまれる。山ならば主人公に、そうしたアドバンテージを与えて、それゆえの逆転劇を描けたのに。
 とまれ、先の展開を読ませないストーリーテリングは十分にサスペンスフルだった。ええっ! ここで仲間を殺しちゃうの? といった唐突さも、もったいないとはいえ、下手にべたべたしないところにスピード感もあって。

 主人公のメリッサ・ジョージという女優は、よく動くし演ずるし、良い女優だなあと思っていると、あれっ、思い入れ深い『トライアングル』の主演女優なのだった。ここでも思いがけない佳品に出ているか。

2017年8月10日木曜日

『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画

 ドイツ映画だというので、例によってヨーロッパ映画の画面、空気感だ。画面の暗さも、適度なざらつきも、良い。こういうのを時々見たくなる。
 「午後のロードショー」枠で見るにふさわしい、大作、名作というわけではない、だが安っぽいというわけではない、まとまりのある、映画的小宇宙を体現した映画。「拾い物」というのは、こういう風に「午後のロードショー」とか深夜枠で偶然見るからいいのだ。期待値が低くて。
 5年前に戻れる洞窟のようなトンネルのような(「ドア」じゃないじゃん、という突っ込みは当然ある)暗い通路を通って、子供を事故で失くしていない5年前の世界に行った男の話。SFといえばSFにありがちなタイム・リープ物だが科学的な説明はまるでない。タイムパラドックスについて言及する気もなさそうだから、パラレル・ワールド設定なのだろう。
 だが、そういうものがあったとするとどんなことが起こるかについては、それなりに考えて、物語に組み込んでおり、よくできた脚本だと言える。終盤の、トンネルを通過した未来人たちが実は結構いるという展開がもたらすカタストロフも、苦いギリギリの悲劇を避けえたエンディングも、「拾い物」としての評価を十分に与えて良い。

2017年8月6日日曜日

『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…

 もしかして、ものすごくよくできたエンターテイメントを見せてくれるんじゃないかと思って、テレビ放送で。
 だがやはりテレビではそれほど期待度の高くない予想の範囲内だった。映画館で、3Dでも4Dでもやってくれれば大いに昂揚するのかもしれないが。
 まあそつのない展開で、悪くないエンターテイメントではあった。が、映画的画の面白さが優先してリアリティという面では白けてしまうような展開があちこちにあって、どうもノリ切れなかった。
 たとえばクライマックスで、さあいよいよアイツの登場だぁ! というところで檻の前に主人公が立つのはダメだろ。それが映画的なサスペンスだというのはわかるが、そうなってしまった、ではなく、敢えてそうするとなるとどうにもリアリティが希薄になってしまって。

2017年8月4日金曜日

『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?

 長井龍雪は「とらドラ!」「あの花」「あの夏」と見てきて、クオリティは知っているが、岡田麻里の脚本とのコンビも含めて、熱狂的に観たいという気になるわけでもなく、でも追っかけようかとは思っているという程度には評価している。
 だがこれはさすがに劇場映画で、アニメーションはどこもかしこもクオリティが高かった。原画のレベルも、動きも。
 そしてあちこちにちゃんと感動ポイントはあって、おおっ、なるほど泣かせる、とは思ったものの、全体としてはそれほど感心しなかった。
 考えてみるとこれも期待値が高いためにハードルが上がってしまったパターンで、しかもどうやら無意識に『聲の形』と混同していたのだった。あちらは声に出して意思を伝えられないことの深刻さが、機能的な条件として厳然としてある。『心が』の「喋れない」も、それと同種の身を切られるような痛みとして描かれるのかと思っていた。
 だが映画が進んでもそのようには感じない。
 そもそも幼児期の、声が出せなくなる最初のシーンが、幻想の玉子王子との会話、という形で描かれているところで、もう大いなる違和感を感じてしまって、あ、これはダメだ、と思ってしまった。
 狙いはわかる。喋れなくなる呪縛が玉子王子の宣言という形をとるのは、アニメーション的な表現としてはアリだと思ったのだろう。だが軽すぎる。思いが口に出せないことの苦しみが、肉体的な痛みとして感じられてこないのだ。
 その思いが、ある時に呪縛を断ち切って溢れ出すのが、題名が示す物語の方向なのだろうと、見る前から予想はつく。だがその呪縛を、こんなキャラクターの形で表現したのは結局のところ失敗だったと思う。主人公が言いたいと感じた時に、玉子が禁止をするといった形で描かれて、それが口に出せずに身悶えするような肉体的な表現として描かれないところが、結局のところ単なる逃避なのではないかと感じられてしまう。
 腹痛が「肉体的」?
 だがこれも「逃避」の代償に過ぎず、結局言い訳のように感じられてしまった。

 そうした不満が決定的に表れるのは、主人公が演劇発表の当日に逃避してしまうという展開で、ここに至っては本当に脱力するような失望だった。
 そんな身勝手がどうして観客の共感を得られると思っているんだ、岡田麿里は。どうしてそのまま作品にしていいと思えているんだ、長井龍雪は。
 言葉が他人(ひと)を傷つける、という、喋れなくなるそもそもの原因となる状況が描かれているわけではなく、単に失恋をしただけで逃げ出しているのだ。「他人を」ではなく自分が傷ついているだけだ。しかも表現することによって、ではない。「口に出さなくても言葉が体から溢れている」というようなとってつけたような説明があるのだが、じゃあやはり声に出しているわけじゃないじゃん、と思ってしまってまったく説得力はない。だから結局、逃避以外には感じられない。
 しかも納得できないのは、それがクラスメイトに許されてしまうという展開だ。こういうときに、過剰に理不尽に主人公たちを非難するクラスメートというのも定番のガッカリ演出だが、逆に、こんなふうに許すクラスメートだってどうして納得できるのだ。どうしてそんな展開に観客が納得できるのだ。
 そして肝心のテーマ「心が叫びたがっている」ことを、あんな廃墟のラブホテルでの「告白」でしか表現できないのか?
 ここは、「言葉が人を傷つける」という状況をちゃんと描いたうえで、発表から逃げ出さずに、だが思いを口に出さずにいることの表れとして、本番の舞台上で声が出なくなるという展開にすれば、題名の予想させるドラマとして成立するだろうに。
 予想を裏切ることが何か良い効果を生むように意図されているわけではあるまい。予想をなぞって、しかも演出の力でその予想を超えるだけの物語を見せてほしかった。

2017年8月2日水曜日

Special Favorite Music,Sugar's Campaign

 以前LUCKY TAPESやSuchmosを発見したように、Youtubeはこちらの好みそうな楽曲を目の前に差し出してくれる。「発見」どころではない。「据え膳」だ。
 そうしてSpecial Favorite Musicなんてバンドも、いつの間にか活動していたことを知る。


LUCKY TAPESかAwesome City Clubかというシティポップ。
 70年代の「はっぴいえんど系」、その正統後継としての90年代の「渋谷系」に続いて、20年周期でこういうシティポップのバンドがまとまって出てくるというのは、単なるこちらの「発見」の印象なのか、統計的に有意な傾向なのか。

 Sugar's Campaignも、この曲は大いにハマった。

2017年7月30日日曜日

『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い

 原題の『Almost Famous』って何だろうと思って調べると、「ブレイク寸前」というような意訳が見つかる。なるほど、もうすぐ有名になる、ということか。
 1973年のアメリカを舞台に、「ローリングストーン」誌に掲載される予定の記事を書くために、ブレイク近いロックバンドのツアーに同行する高校生記者の物語。
 なんともはや、隅から隅まで良い映画だった。
 まずアカデミー脚本賞だというシナリオがすばらしく、台詞の応酬がいちいちうまい。主人公とヒロインの「ペニー・レイン」が最初に会うシーンで、歳を聞かれた主人公が3歳サバを読んで「18」と答えると、明らかに年上なのに彼女は「私も」と答える。「実は17」とやや正直に修正すると「偶然、私もそうなの」と当然のように言い放つ。さらに「16」、「実は15」と告白するのにあわせて、彼女の年齢もどんどん下がる。自分が年若いことにコンプレックスを抱く主人公に、年齢などどうでもいいことだと、軽口にのせて態度で示してみせる。
 主人公の母親は大学教授で、時代柄、ロックにコミットする息子を心配している。副主人公のバンドのギタリストが、母親と話す主人公の電話に割り込んで話すうち、母親の怖さに震え上がって、電話の後で「お前の母さん、怖いな」と言うと、主人公が「悪気はない」と返す。映画の終盤で母親とギタリストが実際に会う場面で、互いの正体がわかって「あのときの電話の…」となるシーンも、実にほほえましかった。
 母親の無理解に反発して家を飛びだした姉が、弟と一緒に数年ぶりに家に戻り、母親とぎこちなく和解するシーンも、しみじみと感動的だった。母親の歓迎の抱擁に「謝ってないわよ」と謝罪を要求しながら、姉もなし崩しに母親を許してしまう。笑えるうえに泣ける。
 とにかくいろんな感情が細やかに描かれる。新しい時代の文化への憧れ、音楽を通じた仲間への友情、社会的成功への野心、家族愛、そして年上の女性への憧れ。
 ペニー・レインを演ずるケイト・ハドソンは、これでアカデミー助演女優賞のノミネートだそうだが、なるほど、恐ろしく魅力的だった。微妙な表情の変化で感情を表現しつつ、結局実に良い笑顔で主人公の憧憬のシンボルを引き受けている。ほれぼれする口角の上げ方だった。
 実にしみじみと幸せな気分になれる映画だった。

2017年7月4日火曜日

『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻

 4月からこっち、一本の映画を通して観る時間がとれない。
 生活が忙しいというのももちろんある。単純に帰りが遅くなった。
 同時に今期はとりあえず見通すと決めたドラマとアニメがやや多めなクールだった。前から見ている格闘技番組や情報番組以外に、今クールは「ボク、運命の人です。」「100万円の女たち」のドラマ2本と、アニメを5本くらい。その録画番組を「消化」するだけで毎日の隙間の時間が埋まってしまっていた。

 その中で、録画してみた映画の「消化」優先順位を決めようと、ちょっとだけ様子見と、『コラテラル』の冒頭だけ観てみた。
 …のつもりだったが、あれよあれよと途中まで観てしまって、見始めがそもそも遅い時刻だったのに、覚悟を決めて最後まで観た。
 それくらい面白い映画だったのだ。最初の、主人公のタクシー運転手と乗客の会話から妙に真面目に面白いぞと思っていると、それが案外長い。その女性客が検事で、再登場する重要人物だというのがだんだんわかる。
 次に乗せるのがトム・クルーズだから、いよいよかと思っていると、停車中の車の屋根にビルから死体が降ってくる展開で主人公同様度肝を抜かれて、あとはあれよと物語に飲み込まれる。
 度肝を抜く展開はこれだけではなくて、次々と、という感じで襲ってくるのだった。車のハンドルに拘束されて、道行く人に助けを求めると近づいてきたチンピラがいきなり銃を突きつけて強盗になるとか、その強盗に追いついたトム・クルーズが、どうやって鞄を取り返すのかと思っていると、いともあっさりと撃ち殺してしまうとか。その「いきなり」さ加減が実に上手い。
 とりわけ、ジャズ・バーのオーナーであるトランペッターを撃ち殺す場面の唐突さはすごかった。殺し屋はどうやらジャズファンらしい。トランペッターのプレイに敬意を抱いて、席に招いてジャズ談義を繰り広げていたとと思っていたら、途中でそのトランペッターがターゲットなのだという展開に驚かされる。殺し屋とターゲットがテーブルをはさんで味わい深い会話を重ねて、緊張感はあれど、殺すのは避けるかと思っているといきなり額を撃ち抜く。撃たれた者が、後ろへではなく前へ倒れてくる顎を、銃を持っていない左手で受け止めて、テーブルへ静かに下ろす。この一連の動作が、呆気にとられている一瞬で描かれる。
 かような演出の妙に、脚本がまたうまいこと。次から次へと緊迫感のある展開になる構成もすばらしいが、途中の会話の味わい深さも格別なのだ。
 殺し屋のトム・クルーズのシンプルな行動原理を支える自己認識が、主人公の運転手の市民感覚とぶつかって、どう動かされているのだろうと推し量って観ているのだが、どうにもわからない。だが、まるで影響しないだろうと思われては興味が失われるから、何か響くものがあるんじゃないかと期待はしてしまう。といって彼は殺し屋の使命を全うすることをやめはしない。
 タクシー内部のドラマから、ロサンジェルスのビル街まで大きく移動する物語展開、主人公二人にターゲット、依頼主の麻薬密売組織や市警、FBIをからめた人間ドラマの展開、実に完成度の高い映画だった。

p.s
 この映画を見て間もなく、ライムスターの宇多丸のラジオ番組でトム・クルーズ映画の人気投票をやる企画があって、さて『コラテラル』はどのあたりかと思ってランキングを遡る発表を聴きながらも、よもやベスト10に入ることはないだろうと思っていた。トム・クルーズといえばそうそうたる有名作が目白押しだ。今回初めて知ったこの映画が、順位の上の方で登場するという期待はしていなかった。だが結果は、なんとまさかの第一位。発表直後に宇多丸が「読めねー」と叫んだのは、やはりこの順位の意外さを物語っていたのだろうが、個人的にも、意図せざる映画視聴とラジオ番組のタイミングの偶然の近接に何やら不思議な気がしたのだった。

2017年7月2日日曜日

蝙蝠

 夜中に目が覚めた時に、ふと、掛け布団の上の黒い塊に目を停めて、その正体の思い至らなさに手を伸ばすと、蝙蝠の子供(たぶん)なのだった。以前、部屋に入ってきて飛び回ったことがここ20年のうちに一度あったが、蝙蝠が部屋の中に入ってくるのは二度目だ。どこから入ったものか。
 それだけ。

2017年5月21日日曜日

『ある日どこかで』 -ロマンチックなタイムトラベルものだが

 根強い人気があると聞いていたタイムトラベルもの。
 なるほど良い場面はある。1910年頃の光溢れる昼下がりの海辺はクラシカルな美しさで1980年の映画とも思えない。あるいは人物が画面の右側に不自然に寄っているなあと思っていると、画面の左側の空間に入っている人影が物語にからんでくるあたりは、一応映画の文法、効果を心得てる感じではある。音楽もたっぷりロマンチックで美しい。あるいは、少々の伏線回収もされていて、ああ、とも。
 だが全体としては感心するのは難しい。
 まず、自己催眠によってタイムリープするという設定は、斬新と言うには無理がありすぎてついていけなかった。あっさり成功するわけではなく、いちおうの苦労はしているが、それも頑張って自己暗示をしているわりには、成功するとあっさりと1910年に存在してしまう。そもそもやるのなら、最初のところで、もうちょっと行きつ戻りつの試行錯誤があれば、過去に行くことの不安定さが表現されて、そのサスペンスが、ポケットに入っていたコインによって現在に引き戻されてしまうという展開につながるはずなのに。
 そして、エンディングのアンハッピーエンドも許し難い。これは好みの問題ではある。あの筋立てならば、喪失感を伴った現実への復帰でなければならないはずだ。
 何より、「運命の出会い」に入り込めない。いきなり二人とものめり込みすぎだろ。肖像写真を見ただけの女優に惹かれて、現在を捨てて過去にタイムリープしてしまうには(確かにいささか、現在に倦んでいる様子は描かれるにせよ)、唐突すぎてノれない。相手の女優も、最初こそためらっているが、あれよとその気になって、どうにも「運命の人」という以上の理由付けはないのだった。
 折しもテレビドラマの「ボク、運命の人です。」を見ているところなのだが、これは、神様に「運命の相手だ」と言われて出会う男女が、運命の計らいやら本人たちの努力やらで少しずつ距離を縮めていく話だ。距離の縮め方にはこれくらいのなじませ方が必要なのだ。
 あるいは映画という長さならば『ローマの休日』はさすがにゆるぎなき名作だった。あれは「運命の人」というのとは違うが、1日という長さで惹かれ合っていく男女が充分に感情移入可能な必然性で描かれていた。もちろんそれはあの「休日」という特殊性にもよるのだが、それにしてもあの「喪失感を伴った現実への復帰」は見事だった。
 本作がなぜそれを目指さずに、いたずらな悲劇でありながら、幻想の中でハッピーエンドにするなどと二重に許し難い結末にするのか、全く理解できない。

2017年5月14日日曜日

『アフター・アース』 -作られる必然性がわからない

 M・ナイト・シャマランは『シックス・センス』以外は駄作だという意見が大方のところだが、個人的には『ハプニング』は、結末の不全感はどうにもならないが過程のサスペンスは大いに結構だった。さて、大作SF映画はどうか。
 いやはや、どうにもならない。
 宇宙船の事故で、かつての「地球」に不時着したウィル・スミス演ずる「将軍」の息子が、救援を呼ぶために、落下した宇宙船の残骸までの100キロを4日間で走破する話。怪我で動けないウィル・スミスは、息子の旅を無線通信で見守る。
 偉大な父からの独立がテーマであることは明らかだ。しかも対地球人の生物兵器に対抗するためには「恐怖」を克服する必要があるという設定がされていて、結末は息子がこれに成功して怪物を倒すのだが、この恐怖の克服がすなわち父からの独立にもなっているのである。
 一応、テーマ的なねらいはわかる。だがどうにもならない。
 危険な道行きは、そもそも困難でなければ面白くないのだが、一方で成功すればご都合主義に見えてしまう。そして見事にご都合主義で、まるで緊迫感が感じられない。こういう、異世界とか異星物とかは、どうにもその塩梅が難しい。成功するはずがないほどの危険があってもいいはずだ。それがなぜに、あのように「丁度いい」危険なのか。最初から地球でいいではないか。日本列島横断くらいでいいではないか。

 また、主人公の息子は父へのコンプレックス全開で、とても愚かしく見苦しい。こういうキャラクターは「エヴァンゲリオン」でもうんざりなのだ。「ガンダム」のアムロは愚かではなかったから不愉快ではなかったのだが。
 主人公の成長も、結局何が要因だったのかわからずに成されてしまって、やっぱり予定調和。
 そして何より、CGで異世界を作って出来の悪い映画はほんとうにやめた方がいい。そんな必要のない小規模な映画を作ろうよ、シャマラン。

2017年5月7日日曜日

『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程は丸

 新幹線での身代金受け渡し場面が名高い、黒澤明作品。
 丘の上の豪邸に住む製靴会社重役の息子が誘拐され、身代金の請求の電話が犯人からかかってくる。設定を知っているという以上に、見覚えがある。観たことがあるのだろうかと考えるが、結末が思い浮かばない。
 調べてみると数年前にテレビドラマになったものを観ているのだった。鶴橋康夫演出だというのに、特に印象もない。
 さてその後、運転手の息子が間違って誘拐されたのだとわかるが、かまわず身代金が請求され、見殺しにするわけにもいかない重役は支払いに応ずる。
 重役を演ずるのは黒澤映画おなじみの三船敏郎。そういうわけですっかり立派な人という扱いになっているが、あそこは運転手が銀行から借りるというのが筋なのだから、一時的に雇い主である製菓会社重役がお金を出すにせよ、重役の手元にお金が戻らないということにはならないはずなのだが。そこに人間ドラマを設定するのは無理があると感じた。
 有名な新幹線での身代金受け渡し場面は映画の前半部で、これも特筆するほど面白いと感ずる展開でもなかった。
 題名の『天国と地獄』というのは丘の上の重役邸と犯人の住む下町の対比の比喩なのだが、そこに何かドロドロした人間ドラマが描かれているかというとそんなこともない。ラストの犯人の山崎努の演技はやはりそれなりに見応えはあったが、いかんせん、映画全体がそのドラマを支えるような細部を持っていない。 
 だが、誘拐と身代金奪取は成功してしまって、さてそこから後半部は警察の捜査の過程に重点が移って、じわじわと面白くなる。そういえば原作はエド・マクベインの「87分署シリーズ」の一編で、つまり警察の捜査チームの群像劇だ。捜査の過程も犯人の追跡も麻薬街の造形も見応えがあった。
 それでもイギリス、グラナダテレビの『第一容疑者』シリーズや横山秀夫原作の警察物に比べると大分食い足りないのだが、これも時代のせいか?

2017年4月9日日曜日

『パーフェックト・ストレンジャー』 -面白さの想定が空振りしている

 ハル・ベリーとブルース・ウィリス主演のクライム・サスペンス。ひどいことにはなるまいと思って見続けていると、どうも面白くない。確かに「ひどく」はないのだが。
 ハル・ベリー演ずる女性記者が、友人の殺人事件を追って、ブルース・ウィリス演ずるIT企業の社長に迫るのだが、いよいよ社長の逮捕から裁判と流れる展開のあっさりさにとまどっていると、そのあとにどんでん返しの真実が明らかになる。
 なるほど「どんでん返し」ね。
 これが「面白いはず」と想定されていることはわかる。だがこの面白さの想定は空振りしていると思わざるをえない。そこまでの真実究明の過程にひねりもサスペンスもなく、ひっくり返されても特に感慨がないのだ。単に、そういうことをしたい映画だったの!? とびっくりしただけだった。
 ジョヴァンニ・リビシ演ずる主人公の同僚は、主人公に対する愛情が報われない、変質的で切ないキャラクターといい、演技といい絶品だったが。

2017年4月8日土曜日

『ヨコハマ買い出し紀行』

 連載開始が1994年というからもう四半世紀近くなるのだ。連載終了後にしてももう10年以上前になる。

お祭りのようだった世の中が
ゆっくりとおちついてきた
あのころのこと
のちに夕凪の時代と呼ばれる
てろてろの時間
つかの間のひとときをご案内しましょう
夜が来る前に
まだあったかいコンクリートにすわって

 地球温暖化によって海面があがり、海岸線は徐々に日本列島を浸食して、現在の横浜は水没していたりする(連載開始時、やがてはそうなると信じられていたのだ)。未来の神奈川県を舞台にした、ロボットの「アルファ」が営むカフェに集う人々の物語。
 物語は実に「てろてろ」としている。ほとんど連載の一回ごとにエピソードは分かれているから、面白いと思って最初の方を買っていたが、先を読み進めることを急がされずに、そのうち単行本も古本屋の100円コーナーで見つければいいやと思って「てろてろ」と放置していた。
 十数年をかけて最近最終刊が見つかって全巻揃いとなったところで、頭から通読してみた。
 デビュー作だから、最初の方とは絵柄がずいぶん違っていたなあ、とか、かろうじて覚えているエピソードがあったりもする。どれもちょっと良い感じだが、強力に物語を推し進める力はない。
 だが、12年間の連載を、さらに連載から10年以上の時が経って読むというこのシチュエーションがなかなか良かったりする。
 「あのころ」と語られるのは、未来の物語のさらに先までアルファが生きていて、その時点から語っていることを示している。そこでは登場人物の「人間」たちはもう誰もいないに違いない。今回通読してみると、物語中でも、おそらく20年以上の時間が経っているのだ。その間、子どもは大人になり、海岸の浸食は続く。
 だがその年月を振り返って一望し、さらに続く人類の黄昏を愛おしむような視線が、こんなふうにこの物語を読むのにふさわしいような気もする。なんだが切ないのと暖かいのとがまざったまま最後まで、ようやく読み終えたのだった。

2017年3月24日金曜日

『パーティクル・フィーバー』 -楽しくもドラマチックな科学ドキュメンタリー

 ヒッグス粒子発見にいたる、欧州原子核研究機構(CERN)の、加速器による陽子衝突実験を追ったドキュメンタリー映画。科学の最先端の、素粒子物理学の世界をちょっとだけ覗いてみたいというしたごころと、よくできたドキュメンタリーならば面白いに違いないという期待で。
 面白かった。
 実験へ向けての期待の高まりや実験失敗の落胆、成功の瞬間の湧き立つような昂揚感。
「パーティクル」とは素粒子のことだそうな。素粒子物理学に関わる学者たちの熱狂(「フィーバー」)が、丁寧に描かれている。
 理論物理学者の、抽象的に宇宙全体を捉えようとする認識の遙かさも、実験物理学者の、具体物の中からデータを拾い上げて抽象へつなげようとする力強さも、実に緻密にカメラが追っている。そして科学者たちの、それぞれチャーミングな素顔も伝わってくる。
 取材に手間をかけているのか、編集が巧みなのか、ある出来事の最中に、映画が追っている関係者が、それぞれどんなふうに振る舞っているかを、同時にカメラが捉えているように見えるのだが、それがドラマチックで、見ていても引き込まれる。
 時折、画面がふいにCG合成になって、物理的な概念を動きで見せてくれるのも楽しかった。

 そして、一般のニュースでも真面目に追っていなかった、この実験の意義も、ちょっとだけ感じ取れた。宇宙の構造を説明する根本の理論、その大きな、対立する二つの仮説を証明するデータがとれるかどうか、数十年に及ぶ研究が実を結ぶかどうかという瀬戸際で、結局、対立する仮説のどちらに与することもなく、といってどちらを否定することもないデータが得られた、という結末もなんともドラマチック。

2017年3月11日土曜日

『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画

 『La La Land』はアカデミー作品賞本命と言われて、結局最優秀賞を逃したが、こちらは日本アカデミー賞最優秀作品賞。
 さてこれが、映画館で観る『La La Land』ほどに面白かったのだった。小さなテレビ画面で観ても面白い映画。テレビ画面の中にも「世界」を作れる映画。物語を楽しむ映画。映画館に観に行きたいとは思わないが、いずれ必ずビデオレンタルして観たいと思わせる映画。
 でも結局そう思っているうちにテレビ放送で観てしまった。

 生徒に娘を殺された中学教師が犯人に復讐する、という話の設定は知っていた。だが序盤で犯人が特定されてしまい、そこを謎として引っ張っていく物語ではないのかと意外に思っていると、なるほど、『告白』とは、主人公一人が事件について語るだけでなく、登場人物それぞれがそれぞれの視点から事件を語る物語なのだった。
 いわゆる「藪の中」物。
 物語の中のさまざまな要素が、視点を変えると別な意味を露わにする。事件自体も緩やかに展開していく。
 アカデミー賞では『悪人』に俳優賞を独占されてしまったが、脚本賞と監督賞を獲った挙げ句の作品賞は当然だと思われる(というか『悪人』の面白さがわからなかった)。ミステリーという、作品の要素の絡み合いの妙こそが魅力の物語の枠組みを、これほどの精妙さで仕立て上げる脚本と演出と編集が何よりすごいのであって、人間ドラマに見所があるわけではない。そもそもが「イヤミス」の称号をつけられるほど、登場する人物も不愉快だし事件の顛末も後味が悪い。とりわけ橋本愛演ずる美月の顛末は、それでいいのか、という程の後味の悪さだった。
 だからいたずらに文学的に味わおうというのではなく、作り物の見事さに感心するべきなんだろう。松たか子の悲しみがいくら見事な演技とともに胸に迫ったとしても。
 
 ところで、岡田将生が『告白』『悪人』で助演男優賞をダブル受賞しているが、どちらも見事な汚れ役であっぱれだった。もちろんどちらも演出の確かさの問題でもある。

 後からわかって驚いたこと。
 原作は、もともと最初の、女教師の「告白」で完結した短編だったのだそうだ。なるほど。映画は、それを序章とした長編の扱いだから、あれ、ここでわかっちゃうの? と意外に思ったのだった。
 それよりも衝撃的だったのは、エンドロールを見ていたら、そこに能年玲奈の名前を見つけたことだ。あの、不自然に暗い教室では、誰が誰やらわからないので、まったく気づかなかった。
 さて冒頭から早送りで見てみる。最初の牛乳を飲む数人の生徒のアップの一人がどうやらそうだと思われる。カットはほんの一瞬、台詞はなし。後の方でいくら探しても見つからない。
 しかも、なんたることか、これがそうだろうと一旦は思った女の子が実は違っていた。それくらい確信はなかったのだが、ネットで当時の写真を見ると、別のカットの女の子がそうなのだ。言われてみれば確かにそうだ。だが予備知識なしで見ても絶対気づかない。じゃあ、最初にそうかと思ったのは結局誰だ?
 まったくどうでもいい話ではある。映画の出来にまるで関わりがない。だが不思議なことに、HDに録画されているこの番組のサムネイルが、能年玲奈なのである。映画の中のほんの一瞬のその画面。
 録画番組のサムネイルは、録画の最初の場面ではないのか?