2017年9月15日金曜日

「羅生門」とはどんな小説か 8 -「勇気」を持てなかったのはなぜか

承前 7 不自然な心理をどう読むか

 「行為の必然性」=「なぜ引剥をしたのか」を明らかにするためには、直截的には、なぜ盗人になる「勇気が生まれてきた」のかを明らかにする必要がある。これには従来「老婆の論理」が解答であるとして、その自明性が疑われてこなかった。本稿はこれに納得できない、という立場から書き始められているのだが、だからといってそれは、元々「老婆の論理」が、なぜ「勇気が生まれてきた」のかを説明するには論理的に脆弱だと感じていた、ということではない。それよりも漠然と、老婆の言葉によって「勇気が生まれてきた」のだろうとは思いつつ、それではこの小説の主題が何なのかがわからない、と感じていたのだ。
 つまり「下人はなぜ引剥をしたのか」というより、ここで下人に引剥をさせることで何だと言いたいのかがわからないのである。
 それでも、物語の終盤、老婆の長広舌の後で下人に「勇気が生まれてきた」必然性は、読者にわからなければならないはずである。それが納得できなければ「羅生門」を読んだことにならない。「老婆の論理」に拠らない、下人の「勇気が生まれてきた」論理を明らかにしよう。

 発想を逆転させて、「勇気が生まれてきた」のはなぜか、ではなく、門の下ではなぜ「勇気」を持てなかったのか、と考えてみる。
 門の下で下人にあった②「迷い」とは、「a 飢え死にをする/b 盗人になる」という選択肢の間に揺れる逡巡である。
 この選択はどのような対立か。従来の主題設定からすれば「a 正義/b 悪」あるいは「a 良心・倫理/b 利己心・エゴイズム」だろうか。
 生きるためには選ばなければならないはずのbを選ぶ勇気が出ないのは、拮抗するaが強いから、という発想はごく自然な論理だ。つまり、なぜ「勇気」を持てなかったのかのいえば「正義感・良心・倫理感」が強いから、ということになる。⑤の「憎悪」の強調は、この脈絡への整合性が高い。悪に対する激しい「憎悪」は下人の正義感の強さの表れなのだ。
 だがこうした解釈は、髪の毛を抜いていたわけを聞いた後に起こる⑧「失望」と不整合である。「鬘にしようと思った」という答えが「平凡」だと思って失望するということは、下人はもっと「非凡」な、「許すべからざる悪」を期待していたということになる。どこに正義感があるのか。
 そもそも下人が強い正義感の持ち主だと素直に思えないのは、下人の正義感を示すはずの「あらゆる悪に対する反感」、⑤の「憎悪」が、どこか歪に形容されているからである。
  なぜ「勇気」を持ち得なかったのか、という疑問に対する答えとして、「正義感が強かったから」という理由は納得しがたい。

 では「勇気」をもてないのは単に弱かったからだろうか。従来の主題把握に拠れば「勇気」を持つ、つまり悪を肯定する論理がなかったから、ということになる。すると下人は強くなったことの証として引剥をするのだろうか。論理を手にすることが強くなることなのか。
 だが老婆が語る理屈は「悪を肯定する論理」などという大仰なものではない。下人の持ち得なかった論理を示してるのではなく、はじめから下人にもわかっていてできないでいたことに、単に開き直っているだけである。その真似をして引剥をすることに、大仰な主題を想定するのはばかげている。

 理屈だけなら、下人はまだ自分の置かれた状況を真剣には考えていなかったからだ、という理由も考えられる。つまりまだそれほどお腹が空いていなかったのだ。
 もちろんそんなふうに読むことはできない。そのように考えるならば、この小説は、自らの置かれた「極限状況」を自覚して、それに対峙しようとする姿勢を得る話、ということになる。これまで述べてきたように、この小説がそのようなものとは到底思えない。

 「勇気」を持てなかった理由を、これらとは別の理屈で説明できないか。この点にしぼって生徒に考えさせる。ここが「羅生門」の核心である。時間はかかるかもしれないが、生徒から発想されるまで待ちたい。

 筆者の現在の結論は以下の通りである。
 下人が「勇気」を持てなかったのは、下人の正義感が強かったからでも、下人のエゴが弱かったからでも、状況の深刻さへの自覚が足りなかったからでもない。下人が「悪」に踏み出すことをためらっていたのは、「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。それはいわば観念としての「悪」である。
 冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。最初にそのことが読者の前に示されるのは、「心理の推移」の⑤「憎悪」の描写を通してである。
 先に⑤の「憎悪」が不自然だと述べた。そして従来の読解が、この「憎悪」を「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」であると捉えているという指導書からの抽出を掲げた。それらは間違っていないが、最も重要な点を看過している。それは、この「憎悪」が「観念的」であるという点である。不自然なのは、肉体的、生理的、現実的でないからである。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。
「むしろ、あらゆる悪に対する反感」という「憎悪」の一般化、抽象化は、「憎悪」の対象が具体的でないことを表している。実体のない幻想としての「悪」である。「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」もまた、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。老婆の行為の何が、どうして、どのように悪いのかは考慮されていないのである。
 そして「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、対象が何であるかを本当には検討しないという意味で「観念的」である。「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、問題設定がそもそも観念的だったからであり、「もちろん」とは問題が真に差し迫った状況などではないことを示している。
 さらに、観念はしばしば、人の感情を過剰にする。下人の「憎悪」の激しさは、その対象が観念的であるがゆえである。⑥の、老婆を取り押さえる時に下人を支配する「勇気」は、観念に支配された者の蛮勇である。
  そして観念は、現実に即応していないために、熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえると、いきなり「憎悪」が冷めて「安らかな得意と満足」を感じてしまう。取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から幻想だったからだ。
  「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」というのは、つまり髪を抜くという行為に何か禍々しい理由のあることを期待していたことの裏返しにほかならないが、これも、下人が「憎悪」を抱いていた「悪」が、幻想としてふくれあがっていたことを示している。
 そして浮上してくるのは再び⑧「憎悪」である。「前の憎悪」とは⑤の「憎悪」を受けている以上、「悪に対する憎悪」であるには違いないが、⑤が幻想としてふくれあがった「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、⑧の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」である。
 これ以降、下人の態度は「あざけるような声」「かみつくように」「手荒く死骸の上へ蹴倒した」など、老人に向けられたものとしては甚だ優しくない。下人は静かに怒っているように見える。それは、老婆の返答が下人の現実認識に冷水を浴びせたからだ。「悪」が大きければ大きいほど、それに抗する自分の「正義」も大きくなる。そうした自己像もまた、老婆の「平凡な」答えによって打ち砕かれたのだった。下人にはそれが不愉快である。
 そうした下人の不快感の訳が分かっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく。
 下人の現状認識は最初から観念的であった。「極限状況」もいささか観念的にとらえられているが、同時に現実の問題でもある。それよりも「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定こそ観念的である。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリアは下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。
 「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認である。ここに付せられた「あざけるように」という形容について、いくつかの指導書に散見される「老婆の言葉に自己正当化の欺瞞を感じ取った」「正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉」といった解釈では不充分である。これは露わになった現実認識に対する不快の表れである。とすればこの嘲りは、老婆にのみ向けられたものではなく、これから自分がしようとする行為にも向けられたものであることになる。

 次節 9 「羅生門」の主題

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