2017年9月29日金曜日

『THE WAVE』-不満と期待と

 山津波を描いた同名のディザスター・ムービーがあるようだが、そちらではない。確かにこんな一般名詞をそっけなくころがしておいたのでは、同名の映画ができてしまっても無理はない。この間の『Unknown』しかり。
 とはいえこちらはドイツ映画で、原題もドイツ語。
 有名な「看守と囚人」実験(スタンフォード監獄実験)をモデルにした映画は『es』『エクスペリメント』と観ているが、ネットで調べてみると関連してこの『THE WAVE』のこともしばしば話題にのぼっている。米カリフォルニア州サクラメント・カバリー高校教師の歴史教師、ロン・ジョーンズが1969年に行った「ザ・サード・ウェーブ」実験と呼ばれる試みを基にした映画だ。
 元の実話は、組織的な「実験」というより、ある教師個人によるある種の教育「実践」だ。人はナチスのようなファシズムにどのように順応していくのか、という問題意識によって、集団主義的な統制による授業を試してみたところ、一週間のうちに高校生たちはすっかり「党」への忠誠心に支配され、それ以外の社会との間に様々な問題を起こしたという。
 映画はこの「実践」の開始初日から、終了までの一週間の物語である。
 ドイツ映画とはいえ、例のヨーロッパっぽさがなくてアメリカ映画のようだ。ファシズムをテーマにした物語ということで、そのことに特別な意味を見いだしたくもなるのだが、トルコ人が登場人物として配されるくらいで(それはそれで物語の重要な要素の一つではあったのだが)、アメリカでもドイツでも意識せずに見てしまえる。つまり「なんだかわからないヨーロッパ映画」としてではなく、エンターテイメントか、社会派の映画として観ても良さそうだという感触だったのだった。そういえば『es』もドイツ映画で、やはりアメリカの作品と同じように見られる感触だった。『ハンナ・アーレント』もそうか。
 ということで怯まずに評価する。
 さて、さまざまなことを考えさせられた。だが、映画として満足かと言えば、大いに不満足である。ネットでは絶賛の声も多いが、いいのか、あんなもんで?
 最初は馬鹿にしていたファシズムに、生徒はすぐにのめりこんでしまう、というのが「実験」による知見のはずだが、映画を観ていてもどうにもそんな実感は得られなかった。一人、いじめられっ子として登場する一人の男子高校生がのめり込んでいく様子はそれなりに「わかる」と感じられたが、それ以外の大多数の生徒は、部分的には面白がったりするものの、到底「のめり込む」ような必然性を感じなかった。
 最初のうちは、どこまで本気? というような感じでその実習に参加していく。教師を敬称付きで呼ぶことにせよ、直立不動で発言することにせよ、まあしょうがない、という感じで実行し始める。だがそれが生徒を惹きつけていく必然性が描かれているようには見えない。「しょうがない」のまま1日目を終えているように見えるのに、二日目にはノリノリになっている。どうも共感できない。
 たぶん「恐怖」が描かれていないのだ。例えば、指示に対して気楽に応じていた生徒に対して、一応、学校という場における権威と、授業における約束が強制力を働かせて、気楽に構えていた生徒に、反抗することに対する思いがけない恐怖を感じさせられたら、その後でその支配に服することとそこから生まれる陶酔が描けそうなのだが、主人公の教師は、とりあえずそのように振る舞うものの、どうも本気らしく見えない。
 たぶんそれは最初の設定で、彼が「独裁制」を選んだのが不本意だったからだ。物語の最初に、主人公は「無政府主義」の実習を希望しているが、それは年長の教師が先に授業計画を提出してしまい、心ならずも「独裁制」に回されることになる。その後、どこかで本気になったようにも見えない。とりあえず誠実に授業に取り組もうとは思っているらしいが、演技であれ何であれ「本気」を決意した描写がない。
 実話の方では、教師自らの発案で実行している。本気で「独裁」したいと思わなくとも、その実験を成功させたいとは、本気で思うはずだ。映画ではその動機の強さがわからない。だから「そういうことになってるだろ?」といった曖昧な要請で生徒に指示しているように見えて、そこに「恐怖」が感じられない。
 同時に、集団に所属すること、支配者に隷属することの陶酔も、なんだか唐突に生じているように見える。全員足踏みに興奮したくらいで、それはまあ退屈な授業より「面白い」ひとときではあったろうが、陶酔を生み出しているようには見えない。

 「恐怖」が描けないのは、主人公の本気さの問題もあるが、日本の高校と、映画の中の高校の違いでもある。支配に「恐怖」が感じられるということは、支配に対する不満がありながら、不服従に伴う不利益が大きいということだ。支配をやすやすと受け入れるならば、あるいは不服従に不利益がないのなら「恐怖」は生じない。反抗的な不良男子生徒が気楽に、いつものように反抗すると、主人公がクラスから彼らを追い出す。あるいは理念的に、そういうやり方に賛成できない真面目な女子生徒がクラスから出ていく。
 だが日本だったら、そこにはもっとはるかに大きな抵抗があるはずだ。社会的な進路の選択についても固定的だし同町圧力も強い。だから、教師の不愉快な命令に反抗することには多大な心理的エネルギーを必要とするはずで、だからそこには思い切った行動をとることに対する「恐怖」が生ずる。いわば保身の為に生じたそうした恐怖の代償として、それ以降の隷属に積極的に身を任せてしまうということは大いにありそうなのだが、そうした前提が、この映画にはない。
 だから、前述の、カースト下位の男子生徒についてはわかるものの、全体としては「こういうことってありそうだよなあ」というような観客の恐怖にはつながらないのだ。
 ところで彼についてはなぜわかるのか。それはいわゆる「スクールカースト」という制度・体制が、ファシズムという、支配者の下でのある意味での平等によって消滅したことによって、新たな自己承認が可能になったからだ。だからそうした体制が崩壊して、またもとのカースト制度に戻ることが彼には耐えられない。
 だから彼のエピソードについては実に巧みに、劇的に描かれていたと思う。演じていた役者の演技も素晴らしかったし、カタストロフの会場の描写も見事だった。

 さて、不満はまだある。
 映画にリアリティを感じなかったのは、こうした「実習」がどんなふうに運営されているのかがどうもよくわからなかったことにもよる。高校における、こうした「実習」というのがどうも想像しにくい。日本でも「総合的な学習の時間」とか、コース制のある学校での「実習」にはそれに類する試みを実施する余地はあるのかもしれないが、映画のように継続的な授業の枠で、しかも専門性のない教師がそれを担当するという設定に無理があると感じた。
 元になった実話では、実施したのは歴史教師だ。だが映画では「短大出の体育教師」という設定だった。これは教師集団における彼の劣等感がこの実習に彼をのめりこませたのだと、行為の必然性の根拠になっている。そこは一応「考えて」あるのだ。
 だが「短大出の体育教師」にこうした実習をすることに無理がある。さて、「独裁制」を実習で学びましょう、といって、何をするというのだ。歴史教師がさまざまな歴史的エピソードをロールプレイングしようということなら、企画は立ちうる。だがそんな専門性がないはずの「短大出の体育教師」に何ができるのか。だから、具体的に、生徒がのめりこんでいく過程がわからなかった。
 同時に、むしろ「体育教師」になら「独裁制」の実習も可能なはずだ。それを実行している運動部顧問が、日本にもしばしばいる。映画の中で描かれる水球チームの指導でこそ、それを日常的に行っていても良さそうなもんだ。そこでは実行できないから2流コーチだったのが、「実習」を通して、そちらもうまくいくようになった、というような展開には、残念ながら映画の一週間の中ではならなかった。

 さて、ネットで見る「実話」は、もっと面白くなりそうな想像をかきたててくれる。
 ネットの記述によると、こうした「実習」を始めたところ、生徒の成績が向上したという。これはどういうことだろう。1週間のうちに向上が表れるような「成績」とは何のことだ? しかもそれは「実習」を実施していないクラスとの比較でなければならないはずだ。どういう形でそうした成績が評価されるのだろう。
 ともあれ、これは描かれなくてはならない。ドイツの快進撃がなければナチス・ドイツは国民に支持されなかったはずだ。
 だが映画ではそれはどのように描かれていたのか。
 こうした全体主義的統制は、ある面では成功をもたらすはずだ。「良い先生」「カリスマコーチ」はヒトラーと同一線上にいるのかもしれない。

 基本的には良くできた、面白い映画だと言っていいのだろう。だが、関心があるからこそあれこれ考えさせられもし、不満も言いたくなってしまうのだ。

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