2017年9月29日金曜日

『THE WAVE』-不満と期待と

 山津波を描いた同名のディザスター・ムービーがあるようだが、そちらではない。確かにこんな一般名詞をそっけなくころがしておいたのでは、同名の映画ができてしまっても無理はない。この間の『Unknown』しかり。
 とはいえこちらはドイツ映画で、原題もドイツ語。
 有名な「看守と囚人」実験(スタンフォード監獄実験)をモデルにした映画は『es』『エクスペリメント』と観ているが、ネットで調べてみると関連してこの『THE WAVE』のこともしばしば話題にのぼっている。米カリフォルニア州サクラメント・カバリー高校教師の歴史教師、ロン・ジョーンズが1969年に行った「ザ・サード・ウェーブ」実験と呼ばれる試みを基にした映画だ。
 元の実話は、組織的な「実験」というより、ある教師個人によるある種の教育「実践」だ。人はナチスのようなファシズムにどのように順応していくのか、という問題意識によって、集団主義的な統制による授業を試してみたところ、一週間のうちに高校生たちはすっかり「党」への忠誠心に支配され、それ以外の社会との間に様々な問題を起こしたという。
 映画はこの「実践」の開始初日から、終了までの一週間の物語である。
 ドイツ映画とはいえ、例のヨーロッパっぽさがなくてアメリカ映画のようだ。ファシズムをテーマにした物語ということで、そのことに特別な意味を見いだしたくもなるのだが、トルコ人が登場人物として配されるくらいで(それはそれで物語の重要な要素の一つではあったのだが)、アメリカでもドイツでも意識せずに見てしまえる。つまり「なんだかわからないヨーロッパ映画」としてではなく、エンターテイメントか、社会派の映画として観ても良さそうだという感触だったのだった。そういえば『es』もドイツ映画で、やはりアメリカの作品と同じように見られる感触だった。『ハンナ・アーレント』もそうか。
 ということで怯まずに評価する。
 さて、さまざまなことを考えさせられた。だが、映画として満足かと言えば、大いに不満足である。ネットでは絶賛の声も多いが、いいのか、あんなもんで?
 最初は馬鹿にしていたファシズムに、生徒はすぐにのめりこんでしまう、というのが「実験」による知見のはずだが、映画を観ていてもどうにもそんな実感は得られなかった。一人、いじめられっ子として登場する一人の男子高校生がのめり込んでいく様子はそれなりに「わかる」と感じられたが、それ以外の大多数の生徒は、部分的には面白がったりするものの、到底「のめり込む」ような必然性を感じなかった。
 最初のうちは、どこまで本気? というような感じでその実習に参加していく。教師を敬称付きで呼ぶことにせよ、直立不動で発言することにせよ、まあしょうがない、という感じで実行し始める。だがそれが生徒を惹きつけていく必然性が描かれているようには見えない。「しょうがない」のまま1日目を終えているように見えるのに、二日目にはノリノリになっている。どうも共感できない。
 たぶん「恐怖」が描かれていないのだ。例えば、指示に対して気楽に応じていた生徒に対して、一応、学校という場における権威と、授業における約束が強制力を働かせて、気楽に構えていた生徒に、反抗することに対する思いがけない恐怖を感じさせられたら、その後でその支配に服することとそこから生まれる陶酔が描けそうなのだが、主人公の教師は、とりあえずそのように振る舞うものの、どうも本気らしく見えない。
 たぶんそれは最初の設定で、彼が「独裁制」を選んだのが不本意だったからだ。物語の最初に、主人公は「無政府主義」の実習を希望しているが、それは年長の教師が先に授業計画を提出してしまい、心ならずも「独裁制」に回されることになる。その後、どこかで本気になったようにも見えない。とりあえず誠実に授業に取り組もうとは思っているらしいが、演技であれ何であれ「本気」を決意した描写がない。
 実話の方では、教師自らの発案で実行している。本気で「独裁」したいと思わなくとも、その実験を成功させたいとは、本気で思うはずだ。映画ではその動機の強さがわからない。だから「そういうことになってるだろ?」といった曖昧な要請で生徒に指示しているように見えて、そこに「恐怖」が感じられない。
 同時に、集団に所属すること、支配者に隷属することの陶酔も、なんだか唐突に生じているように見える。全員足踏みに興奮したくらいで、それはまあ退屈な授業より「面白い」ひとときではあったろうが、陶酔を生み出しているようには見えない。

 「恐怖」が描けないのは、主人公の本気さの問題もあるが、日本の高校と、映画の中の高校の違いでもある。支配に「恐怖」が感じられるということは、支配に対する不満がありながら、不服従に伴う不利益が大きいということだ。支配をやすやすと受け入れるならば、あるいは不服従に不利益がないのなら「恐怖」は生じない。反抗的な不良男子生徒が気楽に、いつものように反抗すると、主人公がクラスから彼らを追い出す。あるいは理念的に、そういうやり方に賛成できない真面目な女子生徒がクラスから出ていく。
 だが日本だったら、そこにはもっとはるかに大きな抵抗があるはずだ。社会的な進路の選択についても固定的だし同町圧力も強い。だから、教師の不愉快な命令に反抗することには多大な心理的エネルギーを必要とするはずで、だからそこには思い切った行動をとることに対する「恐怖」が生ずる。いわば保身の為に生じたそうした恐怖の代償として、それ以降の隷属に積極的に身を任せてしまうということは大いにありそうなのだが、そうした前提が、この映画にはない。
 だから、前述の、カースト下位の男子生徒についてはわかるものの、全体としては「こういうことってありそうだよなあ」というような観客の恐怖にはつながらないのだ。
 ところで彼についてはなぜわかるのか。それはいわゆる「スクールカースト」という制度・体制が、ファシズムという、支配者の下でのある意味での平等によって消滅したことによって、新たな自己承認が可能になったからだ。だからそうした体制が崩壊して、またもとのカースト制度に戻ることが彼には耐えられない。
 だから彼のエピソードについては実に巧みに、劇的に描かれていたと思う。演じていた役者の演技も素晴らしかったし、カタストロフの会場の描写も見事だった。

 さて、不満はまだある。
 映画にリアリティを感じなかったのは、こうした「実習」がどんなふうに運営されているのかがどうもよくわからなかったことにもよる。高校における、こうした「実習」というのがどうも想像しにくい。日本でも「総合的な学習の時間」とか、コース制のある学校での「実習」にはそれに類する試みを実施する余地はあるのかもしれないが、映画のように継続的な授業の枠で、しかも専門性のない教師がそれを担当するという設定に無理があると感じた。
 元になった実話では、実施したのは歴史教師だ。だが映画では「短大出の体育教師」という設定だった。これは教師集団における彼の劣等感がこの実習に彼をのめりこませたのだと、行為の必然性の根拠になっている。そこは一応「考えて」あるのだ。
 だが「短大出の体育教師」にこうした実習をすることに無理がある。さて、「独裁制」を実習で学びましょう、といって、何をするというのだ。歴史教師がさまざまな歴史的エピソードをロールプレイングしようということなら、企画は立ちうる。だがそんな専門性がないはずの「短大出の体育教師」に何ができるのか。だから、具体的に、生徒がのめりこんでいく過程がわからなかった。
 同時に、むしろ「体育教師」になら「独裁制」の実習も可能なはずだ。それを実行している運動部顧問が、日本にもしばしばいる。映画の中で描かれる水球チームの指導でこそ、それを日常的に行っていても良さそうなもんだ。そこでは実行できないから2流コーチだったのが、「実習」を通して、そちらもうまくいくようになった、というような展開には、残念ながら映画の一週間の中ではならなかった。

 さて、ネットで見る「実話」は、もっと面白くなりそうな想像をかきたててくれる。
 ネットの記述によると、こうした「実習」を始めたところ、生徒の成績が向上したという。これはどういうことだろう。1週間のうちに向上が表れるような「成績」とは何のことだ? しかもそれは「実習」を実施していないクラスとの比較でなければならないはずだ。どういう形でそうした成績が評価されるのだろう。
 ともあれ、これは描かれなくてはならない。ドイツの快進撃がなければナチス・ドイツは国民に支持されなかったはずだ。
 だが映画ではそれはどのように描かれていたのか。
 こうした全体主義的統制は、ある面では成功をもたらすはずだ。「良い先生」「カリスマコーチ」はヒトラーと同一線上にいるのかもしれない。

 基本的には良くできた、面白い映画だと言っていいのだろう。だが、関心があるからこそあれこれ考えさせられもし、不満も言いたくなってしまうのだ。

2017年9月28日木曜日

『Unknown』-DVDの再生不良で

 オススメのソリッド・シチュエーション・スリラー映画とかなんとかいうサイトで紹介されている映画をTSUTAYAで探して。
 『Unknown』という題名の映画は二本あり、そういえばリーアム・ニーソンの方は観たことがあるのだった。あれっ? ここ3年のうちではないのか? そんなに昔ではない気がするのだが。

 さて、大作のあちらと違って、こちらはSSSだから金はかかっていない。
 …はずなのだが、始まって早々に閉鎖空間以外の展開が並行して描かれ、思いの外、金がかかっているじゃないかと思い直される(ま、といってやはり大作ではない)。
 この、SSSなのにそれ以外の展開が挿入されるパターンは『Saw』だし『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』だし(同じプロデューサーなのだっけ)。
 これは基本的に物語を立体的にする、良い構成だ。
 加えて今作は、閉じ込められた5人が皆、薬品の影響で記憶を失っており、徐々によみがえる記憶がフラッシュ・バックすることで、さらに立体感を増す。

 なかなかよくできていると思いながら見ていると、最後の15分くらいでDVDの再生が不良となり、よくわからないうちに終わってしまった。
 なんてことだ!

 観ていて、物語を面白くする上で、こうした方がいいだろうな、というアイデアが二つ、ただちに思いつく。
 記憶が戻るにつれて、ただ真相が明らかになっていく、というだけはつまらない。観客に対して、こういう物語なのだろうという「真相」をミスリードしておいて、それをひっくり返す、いわゆるどんでん返しはぜひ必要。『メメント』とか『マニシスト』がそうだったっけ。
 今作でも、どんでん返しは仕掛けられていたらしいが、どうなんだろ。どの程度の仕掛けだったものやら、
 もう一つは、記憶を失っている状態でとりあえず助け合って脱出しようとしているうちに生まれた、いわば「ストックホルム症候群」のような仲間意識が、記憶が戻ってからの現実と齟齬を起こしつつ、現実の方を凌駕する、というような展開があるといいなあ。
 観客にとっては映画が始まってからが世界の始まりだから、彼らは「仲間」なのだ。「仲間」になったのだ。それが「真相」をひっくり返す、というような構造には快感がありそうだ。
 今作がそうなっていたのかどうかも、やっぱり未確認なのだった。
 残念。

2017年9月22日金曜日

『花とアリス殺人事件』-面白さに満足

 この間の『打ち上げ花火~』の流れで、未見だった『花とアリス殺人事件』を見た。
 確かロトスコープを使ってるんだっけと思いながら、なんだかアニメの「ピーピング・ライフ」を思い出しながら見ていた。
 あちらは人物をCGで動かしているんだろうが、なんだろう、セリフの生っぽさが先にある感じが似ているのか。ロトスコープも、生身の人間が演じている「間」が、なんともいえずおかしみを生んでる。「ピーピングライフ」も、たぶんセリフの収録が先で、後から人物を動かしてるんだろうという気がする。
 笑いの感じも似ていると言えば似ている。
 ということはつまり、映画的な特別さはそれほどなかったのだった。岩井俊二が作る「世界」とでもいうような、特別な時空間があるというような感じは。
 それでがっかりしたかといえばそんなことはない。充分に面白かった。蒼井優のアリスは、中学生にしてはいささか声が老けているが、とぼけていたり、そのわりに激しいリアクションがあったり、面倒くさがったり活動的だったり、観ていて実に面白いキャラクターだった。
 どうして登場シーンがアンバランスなのかとは思ったが、鈴木杏の花の方も、後半に出てきて結局すっかりアリスに並んでしまう存在感が『花とアリス』だなあ、と満足。

 あの強烈な「むつむつみ」は何だか知っているような気がすると思ったら鈴木蘭々か! そういえば「Love Letter」に似たようなキャラクターで出てたっけ。

 ロトスコープの効果だかなんだか、アリスが街中を走っているシーンが、ただその映像だけで劇的なのはなんなんだろうな。

2017年9月20日水曜日

『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作

 ベン・アフレックとサミュエル・L・ジャクソンだから、悪い映画ではなかろうと、それ以外の予備知識なしで録っておいたのだが、いやこれは拾い物だった。
 髭のないベン・アフレックはこんな間延びした顔だったんだな、などと呑気に観始めたのだが、ソツのない描きぶりにあれよと見続けてしまう。

 ベンの弁護士とサミュエルの元アル中の保険外交員が、ハイウェイでの車線変更(チェンジング・レーン)がきっかけで接触事故を起こす。ベンは裁判に必要な書類を事故現場に置き忘れ、車の動かなくなったサミュエルは子供の親権をめぐる裁判に遅れて親権を失う。そこから要求と互いの行為への怒りが、脅迫や嫌がらせの応酬にエスカレートしつつ、それぞれの人生に対する見直しへとスライドしていく。
 次々と展開するお話をコントロールする脚本の出来には脱帽。これだけのスピード感で、これだけ起伏のあるエピソードを次々と詰め込んで、そこにどんな感情を付加していくかを充分に計算している。事態の収拾をはかろうとあがいたり、相手への怒りのあまり報復してそれを台無しにしたり、それでも反省して自分の人生を良いものにするために努力したり、それぞれの行動に充分の動因が働いている。
 そしてそのストーリーを描くための演技も演出も編集も文句のつけようのないうまさだ。親権を得るために戦うはずだった裁判に備えて、車の中で考えていた口上を言う間もなく裁判が終了し、それでも虚しく、芝居がかった口上を言いかけるが、無情にも裁判官に遮られてしまうシーンの滑稽さと哀しさ。裁判官がまったく自然な仕事ぶりをする常識人で、悪役なぞに描かれないバランス感覚。失意のサミュエルが、ベンの必要とするファイルを、裁判所入口のゴミ箱に投げ入れるシーンに観客が感じる焦燥の強さ。
 裁判事務所の共同経営者としての成功を守るか、倫理的な満足を選ぶかという選択は、それこそ「羅生門」のような観念的で、まるで現実感のない問題設定と違って、その成り行きに感情移入してドキドキした。依頼人の財団からの詐取の首謀者、事務所の上司である義父を演ずるシドニー・ポラックがまた良い。許される行為ではないはずなのに、自分の行為に対する信念の揺らぎはない。自分が救っている人間の方が多いという確信が自分の行為を支えているという哲学を語る場面は迫力があった。
 そして最初の車線変更が、最後には人生の車線変更へとつながる物語全体の構成は、本当に見事だった。最後のハッピーエンドを甘くなく描くことのできるバランス感覚は驚嘆すべきものだ。

 これがまたなんともはや呆れたことにネットでの評価は賛否半ばするのだった。口を極めて酷評する人も多い。
 登場人物たちが不愉快?
 もちろんわが身可愛さの保身も感情的な嫌がらせも醜い。
 一方で可能な限り紳士的に、常識的に振る舞おうとする努力も描かれていて、選択の難しさは充分描かれている。
 話の展開が退屈?
 あれほどの起伏と速度で展開するストーリーが退屈?
 いやはや、人の感じ方はこんなに理解しあえないものなのか。
 そうすると先日の『打ち上げ花火~』も、あれに感動したり面白がったりする人もいてもおかしくないわけだ。

2017年9月19日火曜日

『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば

 このタイミングでこの映画を観るつもりになったのは、先日「羅生門」論の中で大岡昇平の『野火』に触れたものの、実は未読のはったりであることに後ろめたさもあり、といって小説を読むより先に以前から気になっていた塚本晋也版『野火』を観ることにした、という情けない事情による。
 さて、ブログを検索してみると、塚本晋也はここ3年見ていなかったのだな。『HAZE』や『悪夢探偵』を観たのはそんな以前とは思えないので、たぶん3年よりちょっと前。
 本作は、そんな塚本晋也監督作品で、大岡昇平の原作も、話の枠組みは知っている、という限りにおいて、想像を超える映画とは思えなかった。
 「想像」というのは「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」といった評価の枠組みであり、それらは無論高いレベルで描かれている。だが、それ以上のものを見せてくれるのでは、という期待をしてしまっていたのが、そうでもなかった。
 ジャングルなどの自然の美しさが、ちゃんとそれと感じられるくらいの映像で描かれ、それと戦争の対比はいい。役者たちの醸し出す味も充分味わい深い。監督自ら演ずる主人公が所謂「鬼気迫る」演技をするのも、リリー・フランキーが、どうして本職じゃないのにこんなにうまいのかと思うようなとぼけた狡猾さ、憎たらしさを出しているのも評価できる。中村達也はもともと良い顔をした人だったが、これもミュージシャンの余技とは思えない存在感だった。
 だがそこで評価すべき映画ではないはずだ。この映画はやはり「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」…をこそ真っ当に感じさせるべきであり、それは確かに成功している。ネットの反応では、そもそもそれを見たがる人による評であるせいか、総じて高い評価を得ている。
 それでも、それ以上、ではなかった。
 たとえば、以前の作戦の失敗か、兵士の死体がごろごろと転がったままのフィールドを越えて向こうに行かねばならない作戦を実行に移すべく夜になるまで待った主人公たちが、闇に紛れてようやく動き出すと、いきなり目映いライトが点いて一斉射撃を受ける。その緩急は映画的には上手いなあと思う。
 だが、それに続く過剰な阿鼻叫喚の地獄絵図は想像のうちだ。塚本晋也ならそれくらいやるだろうと思う。
 つまり地獄絵図の過剰さでは「リアル」とか「狂気」は描けないのだ。その描写はよく思いついたなあ、とか、おお、よくできてるじゃん、とか、むしろ不謹慎な感想を抱いてしまう。だからネットにあるような「トラウマになりそうな…」といった感想はなかった。
 エピローグの、日本家屋の静謐と戦場の落差はすごかったが、そこでのトラウマは、やはり見たことのあるような場面に感じた。同時に、それもまた過剰だと感じた。あれが毎晩のことなら日常への復帰はできていないというべきだ。
 だからそれは、それができている人のリアルではない。

 映画から受ける感銘より、むしろ公式HPのメイキングの方が面白かった。困難の克服というありふれたドラマツルギーが、ちゃんと読む者を面白がらせてくれる。
 同時にこの映画を応援したいという感情も高まる。
 恐らく、「戦争」について考える時、折に触れ思い出して、ゆっくりと血肉化していけばいいのだろう。それが擬似的であれ、徐々に体験として定着しくように。

2017年9月17日日曜日

『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ

 『人狼ゲーム』シリーズは、どうも2作目の『ビースト・サイド』の評判が高いらしいのだが、行きつけのTSUTAYAになく、3作目の『クレイジー・フォックス』を借りてきた。
 『ファイナル・ディスティネーション』シリーズと同じく、観始めることに対するハードルが低いから、借りてきた数枚のうち、どうも先に観てしまう。

 さて1作目の『人狼ゲーム』はなかなか悪くなかった。それに比べるとこの3作目はまるで食い足りない出来だった。サスペンスにしろ頭脳戦にしろ、人間ドラマにしろ、全体に薄味。無名新人俳優たちの演技は総じて悪くなかったから、そのあたりの演出はいいのだが、やはり脚本の工夫が足りない。
 最もサスペンスを盛り上げるはずの、「誰が3人目の人狼なのか」という謎も、当の「人狼」がシルエットで登場して、別の人物に「お前かよ」と言わせておいて、さてそこから引っ張るのかと思ったら、すぐあとのシーンで正体を明かしてしまう。
 「人狼ゲーム」自体の経験は相変わらずないので、どのあたりが実際のゲームの勘所なのかはわからない。しかもそれを現実世界に移植した場合におこる変数の高次元化を、どこまで論理的に整合させているかは、正直頭が追いつけない。
 だが『サクラダリセット』がやっているようには緻密な論理構成をしていなさそうなのはわかる。
 例えば、各自がカードを見るときに「他人に見せても知らせてもいけない」というルールがあったって、現実に同じ部屋で一斉に見たら、横から見えてしまったり、思わず口に出したりしてしまうとかいう事態が当然起こるはずだ。それが起きないことになっている。それを防ぐ手だてが主催者側から図られているという説明もない。
 あるいは夜、人狼が村人を殺しに行く時には大騒ぎをしているのだから、当然みんなに正体が知れてしまうはずなのだが、それもないことになっている。人狼が村人を殺すったって、ゲームとして「殺した」ことになっているというのと違って実際に人狼女子が村人男子を殺すことができるものか。それを可能にする設定をしないのはやはり物語の手抜きだ。

 ゲームとしての「人狼ゲーム」は、参加者が進んで参加しているから、メンバーはルールを把握したうえで、ルールを守ろうという動機付けが強く、しかも架空の設定で展開してるのだからルールも守りやすい。
 ところが映画ではルールも知らないメンバーが、進んで参加しているわけでもない、現実の空間で展開するゲームだから、ルールの破綻は容易いはずだ。それなのに、それは起こらないことになっている。つまりゲームのルールを現実に適用するためのハードルが考慮されていないのだ。
 これがこの映画(原作も含めて)の根本的なジレンマだ。ゲームが現実に起こったとすると、そこに参加した人間にとってそれがどれほど過酷なものになるか、というのがドラマの動因になるはずなのに、それを現実的に引き起こすために解決しなければならない問題を無いことにしているから、結局、肝心のゲームを、いかにも作り物の「ゲーム」としてしか展開させられていないのである。
 そうしたジレンマを本気で解消しようというほどの意志は、この制作者たちにはないのだった。1作目について書いた時の期待は、結局かなえられず、それでも「期待」を抱けた1作目に比べて、失望に終わった本作にはがっかりせざるをえないのだった。

「羅生門」とはどんな小説か 9 -「羅生門」の主題

承前 8 「勇気」を持てなかったのはなぜか

 なぜ「勇気が生まれてきた」のか。それは遡って、物語の冒頭でなぜ下人が勇気が持てなかったのかを考えることによって解決されなければならない。
 といって筆者が現在の結論に至る前にそのように考えたのは、実はそのような問題設定によってではない。発想は、ある時に突然、結論として降りてきたのだった。下人のうちに最初に燃え上がった⑤の「憎悪」の描写が何を表しているかを考えているときに、不意にこれが最初に下人が「悪」に踏み出すことを躊躇わせた理由なのだと気づいたのだった。
 だから「なぜ勇気が持てなかったのか」という問題設定は、本当は解答から遡って設定された架空の問題である。だが授業で生徒にそれを意図的に考えさせるには、考えるべき問題が何なのかを明らかにしたうえで、その糸口を示す必要がある。
 「行為の必然性」と「主題」の一貫性が納得しがたいものであること、「行為の必然性」つまり「なぜ引剥をしたか」は「なぜ勇気が生まれてきたか」を考えることで明らかにすべきだということ、そして「なぜ勇気が生まれてきたか」は、「なぜ勇気を持てなかったか」を考えることで納得できる論理に至れるということ。
 「羅生門」の授業を貫く問いはそうして構想される。

下人が勇気を持てなかったのは、下人の考える「盗人になる=悪」の観念が幻想によって現実以上のものになっていたからである。この幻想を滅ぼしたのは、最後に語られる「老婆の論理」ではない。長広舌の前に描かれる「心理の推移」によって、幻想が幻想であることが読者の前に示され、同時に下人本人にとっても自覚されていくのである。引剥という「行為の必然性」は「極限状況」によって保証されるのではなく、ただその行為を阻んでいたものが消滅することによって生じているのである。というよりむしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自らに証明している、と言うべきかもしれない。
 このような読解による「羅生門」とはどんな小説か。「羅生門」の主題とは何か。
 これはいわば、空疎な観念による幻想が、現実の認識によって消滅する話、である。

 とすれば、筆者がわずかに以前の授業でも取り上げていた「にきび」はどういうことになるか。
 ここでの学習は小説における「象徴」についての考察を経験することだ。それは「山月記」における「月」、「こころ」における「襖」の意味を考察するための準備にもなる。もちろん他のさまざまな小説や詩歌を読む際にも、象徴という考え方は必須である。
 「にきび」が何かの象徴であると考えられるのは、とにかくそれが意味ありげだということによっている。
 「にきび」が象徴するものは、主題把握と当然密接に対応している。ある指導書が、にきびを「古い自我」と見なしている時、その主題把握は「新しい自我の覚醒」とでもいうことになる。
 以下列挙すると、若さ、未熟、優柔不断、迷い、純粋、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥がエゴイズムを肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。
 そして筆者による上記の主題把握によれば、「にきび」はそのまま「空疎な観念」の象徴だということになる。「空疎な観念」の象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった行為を実行にうつすしかないのである。

 「羅生門」に教材としての価値はあるか。長らく「ある」とは認められなかったが、現在では、以上のように読む限り「羅生門」に教材としての価値は高い、と思う。
 なぜ引剥をするのか、それがどのような主題を構成するのか、という問いを掲げ、「心理の推移」が「行為の必然性」を説明する論理を明らかにする考察は、高度な読解経験となることが期待できる授業過程である。
 その過程では「極限状況における悪は許されるのか」という問題が仮初の、観念的な問題設定に過ぎないこと、あるいは結末の行為の必然性が、老婆の長広舌などではなく、途中の下人の心理の変化から導き出されることを考察させたい。
 それはつまり、従来の国語科授業で行われる読解を、敢えて意識的に否定することである。まさしくそのためにこそ、本当に小説を読む体験として「羅生門」を「読む」のである。
 それが構想できる小説として、「羅生門」は確かに優れた教材である。

『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように

 この間『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』を観に行った晩、怒りのあまり、一緒に観に行った娘と、家で原作の岩井俊二版『打ち上げ花火~」を観たのだった。ずいぶん久しぶりだったが、あらためて良い映画だと思えた。会話のテンポは、子役たちの演技のせいでもあるが、編集のせいでもある。あらためてアニメ版の編集の下手さが実感されたのだった。

 その後で、十数年前に一度見たきりの『少年たちは花火を横から見たかった』を見直したくなって、レンタルしてきた。
 撮影から6年余り経って、20歳直前の山崎裕太と奥菜恵が、ロケ地を訪れて当時の撮影を振り返るドキュメンタリー。プロデューサーや岩井俊二自身のインタビューもあわせて、『打ち上げ花火~』がどんなふうに作られたのかがわかるのは興味深い。
 とりわけ、先日はからずも「奇跡のような」と形容した、あのプールのシーンが、本当に奇跡のように出来上がったのだと知らされるくだりは感動的だった。
 そして、出演者たちも言うとおり、「あの夏」が、何か実際に体験した思い出のように感じられる、というのが『打ち上げ花火~』という映画の感触なのだと、あらためて胸におちたのだった。
 そうしたあの映画の魅力をあれほどまでに否定してしまったアニメ版の罪は、繰り返して言うが、重い。

2017年9月15日金曜日

「羅生門」とはどんな小説か 8 -「勇気」を持てなかったのはなぜか

承前 7 不自然な心理をどう読むか

 「行為の必然性」=「なぜ引剥をしたのか」を明らかにするためには、直截的には、なぜ盗人になる「勇気が生まれてきた」のかを明らかにする必要がある。これには従来「老婆の論理」が解答であるとして、その自明性が疑われてこなかった。本稿はこれに納得できない、という立場から書き始められているのだが、だからといってそれは、元々「老婆の論理」が、なぜ「勇気が生まれてきた」のかを説明するには論理的に脆弱だと感じていた、ということではない。それよりも漠然と、老婆の言葉によって「勇気が生まれてきた」のだろうとは思いつつ、それではこの小説の主題が何なのかがわからない、と感じていたのだ。
 つまり「下人はなぜ引剥をしたのか」というより、ここで下人に引剥をさせることで何だと言いたいのかがわからないのである。
 それでも、物語の終盤、老婆の長広舌の後で下人に「勇気が生まれてきた」必然性は、読者にわからなければならないはずである。それが納得できなければ「羅生門」を読んだことにならない。「老婆の論理」に拠らない、下人の「勇気が生まれてきた」論理を明らかにしよう。

 発想を逆転させて、「勇気が生まれてきた」のはなぜか、ではなく、門の下ではなぜ「勇気」を持てなかったのか、と考えてみる。
 門の下で下人にあった②「迷い」とは、「a 飢え死にをする/b 盗人になる」という選択肢の間に揺れる逡巡である。
 この選択はどのような対立か。従来の主題設定からすれば「a 正義/b 悪」あるいは「a 良心・倫理/b 利己心・エゴイズム」だろうか。
 生きるためには選ばなければならないはずのbを選ぶ勇気が出ないのは、拮抗するaが強いから、という発想はごく自然な論理だ。つまり、なぜ「勇気」を持てなかったのかのいえば「正義感・良心・倫理感」が強いから、ということになる。⑤の「憎悪」の強調は、この脈絡への整合性が高い。悪に対する激しい「憎悪」は下人の正義感の強さの表れなのだ。
 だがこうした解釈は、髪の毛を抜いていたわけを聞いた後に起こる⑧「失望」と不整合である。「鬘にしようと思った」という答えが「平凡」だと思って失望するということは、下人はもっと「非凡」な、「許すべからざる悪」を期待していたということになる。どこに正義感があるのか。
 そもそも下人が強い正義感の持ち主だと素直に思えないのは、下人の正義感を示すはずの「あらゆる悪に対する反感」、⑤の「憎悪」が、どこか歪に形容されているからである。
  なぜ「勇気」を持ち得なかったのか、という疑問に対する答えとして、「正義感が強かったから」という理由は納得しがたい。

 では「勇気」をもてないのは単に弱かったからだろうか。従来の主題把握に拠れば「勇気」を持つ、つまり悪を肯定する論理がなかったから、ということになる。すると下人は強くなったことの証として引剥をするのだろうか。論理を手にすることが強くなることなのか。
 だが老婆が語る理屈は「悪を肯定する論理」などという大仰なものではない。下人の持ち得なかった論理を示してるのではなく、はじめから下人にもわかっていてできないでいたことに、単に開き直っているだけである。その真似をして引剥をすることに、大仰な主題を想定するのはばかげている。

 理屈だけなら、下人はまだ自分の置かれた状況を真剣には考えていなかったからだ、という理由も考えられる。つまりまだそれほどお腹が空いていなかったのだ。
 もちろんそんなふうに読むことはできない。そのように考えるならば、この小説は、自らの置かれた「極限状況」を自覚して、それに対峙しようとする姿勢を得る話、ということになる。これまで述べてきたように、この小説がそのようなものとは到底思えない。

 「勇気」を持てなかった理由を、これらとは別の理屈で説明できないか。この点にしぼって生徒に考えさせる。ここが「羅生門」の核心である。時間はかかるかもしれないが、生徒から発想されるまで待ちたい。

 筆者の現在の結論は以下の通りである。
 下人が「勇気」を持てなかったのは、下人の正義感が強かったからでも、下人のエゴが弱かったからでも、状況の深刻さへの自覚が足りなかったからでもない。下人が「悪」に踏み出すことをためらっていたのは、「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。それはいわば観念としての「悪」である。
 冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。最初にそのことが読者の前に示されるのは、「心理の推移」の⑤「憎悪」の描写を通してである。
 先に⑤の「憎悪」が不自然だと述べた。そして従来の読解が、この「憎悪」を「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」であると捉えているという指導書からの抽出を掲げた。それらは間違っていないが、最も重要な点を看過している。それは、この「憎悪」が「観念的」であるという点である。不自然なのは、肉体的、生理的、現実的でないからである。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。
「むしろ、あらゆる悪に対する反感」という「憎悪」の一般化、抽象化は、「憎悪」の対象が具体的でないことを表している。実体のない幻想としての「悪」である。「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」もまた、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。老婆の行為の何が、どうして、どのように悪いのかは考慮されていないのである。
 そして「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、対象が何であるかを本当には検討しないという意味で「観念的」である。「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、問題設定がそもそも観念的だったからであり、「もちろん」とは問題が真に差し迫った状況などではないことを示している。
 さらに、観念はしばしば、人の感情を過剰にする。下人の「憎悪」の激しさは、その対象が観念的であるがゆえである。⑥の、老婆を取り押さえる時に下人を支配する「勇気」は、観念に支配された者の蛮勇である。
  そして観念は、現実に即応していないために、熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえると、いきなり「憎悪」が冷めて「安らかな得意と満足」を感じてしまう。取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から幻想だったからだ。
  「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」というのは、つまり髪を抜くという行為に何か禍々しい理由のあることを期待していたことの裏返しにほかならないが、これも、下人が「憎悪」を抱いていた「悪」が、幻想としてふくれあがっていたことを示している。
 そして浮上してくるのは再び⑧「憎悪」である。「前の憎悪」とは⑤の「憎悪」を受けている以上、「悪に対する憎悪」であるには違いないが、⑤が幻想としてふくれあがった「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、⑧の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」である。
 これ以降、下人の態度は「あざけるような声」「かみつくように」「手荒く死骸の上へ蹴倒した」など、老人に向けられたものとしては甚だ優しくない。下人は静かに怒っているように見える。それは、老婆の返答が下人の現実認識に冷水を浴びせたからだ。「悪」が大きければ大きいほど、それに抗する自分の「正義」も大きくなる。そうした自己像もまた、老婆の「平凡な」答えによって打ち砕かれたのだった。下人にはそれが不愉快である。
 そうした下人の不快感の訳が分かっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく。
 下人の現状認識は最初から観念的であった。「極限状況」もいささか観念的にとらえられているが、同時に現実の問題でもある。それよりも「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定こそ観念的である。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリアは下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。
 「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認である。ここに付せられた「あざけるように」という形容について、いくつかの指導書に散見される「老婆の言葉に自己正当化の欺瞞を感じ取った」「正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉」といった解釈では不充分である。これは露わになった現実認識に対する不快の表れである。とすればこの嘲りは、老婆にのみ向けられたものではなく、これから自分がしようとする行為にも向けられたものであることになる。

 次節 9 「羅生門」の主題

2017年9月14日木曜日

『デッドコースター』-気楽に観られる

 『Final Destination』は、古くは『猿の惑星』『トレマーズ』、もうちょっと後では『Saw』『Scream』『Cube』などのようにシリーズで好きな映画の一つ。
 とにかく気楽に観られる。録画したものの、ちょっと気合いがいる、というような映画がHDにどんどんたまってしまうようになりがちなところ、こういうのは録ってすぐに消費できる。
 さて、どれがどれやらもちろんわからなくなっているし、観れば見覚えはあるのだが、先がどうなるかを思い出せるわけでもなく、2度にわたるどんでん返しは、やっぱりよくできているなあと感心したのだった。

『サクラダリセット』-まっすぐでまっとうでまえむきな

 映画版ではない。原作小説も未読。
 思いがけず2クールにわたって深夜放送されたアニメ版『サクラダリセット』が終わった。1話目を見た時に、なんだか会話の面白い話だ、というのと、ぼーっと見てると話がわからなくなるな、というのと、でもアニメ的には随分質の低い作品だ、という感想で、事前知識はなかったから、その後どうするか決めかねていた。
 4話目くらいで、これはすごいかもと思い始めたのは、科白だ。
 思いもかけない、まっすぐでまっとうでまえむきで、かつ知的な科白が、陳腐で恥ずかしいと思うより感動的でさえあり、これはいいかもと思って見続けるつもりになったのだが、諸事情あって何話か録り損ねて、ただでさえわかりにくい話が、いっそう追っかけにくくなった。
 それでも後半の2クール目の方は、数話まとめて観るようにして、話を追えるように心がけた。そうして最後まで観た時には、ここ数年でも出色の物語体験だと言える評価となった。

 アニメーションとしては最後まで、あまりに凡庸な、まるで褒めるところのない量産深夜アニメレベルを脱しなかった。まあそれでも、やたらと可愛い女の子が出てきたり、竜や騎士や剣が出てくる異世界ファンタジーだったりしないだけ、うんざりはしなかった。ただひたすらに面白みのない真面目なアニメだった。
 だが花澤香菜と悠木碧の演技の見事さを思えば、これがアニメ化されたことに充分な価値があると思わざるをえない。たぶんこの先、原作小説を読んでも、この二人の声でしか読めない。そしてそれが十分に情感を盛り上げるだろうと思われる。

 そしてなんといっても、たぶん原作のすばらしさだ(もちろんそれを損なわなかった高山カツヒコの構成も賞賛したい)。未読だから「たぶん」なのだが、つまりは物語の見事さだ。
 複雑にからみあった論理の構築は、三原順を思わせる。三原順とは我ながら、いささか唐突な連想だとは思うが、筆者にとって、複雑な構築物としての物語についての評価の基準は三原順なのだ。
 ただでさえメインの時間が巻き戻るから、今見ている物語世界がいつで、「その時点では誰が何を知っているか」についての認識が、登場人物と観客の間でずれていて、物語を追う意識が混乱する。
 その上で十分に頭の良い3人の登場人物の思惑が、互いに相手を上回ろうと策略をめぐらす。それは相手も十分読んでいるだろうから、その上を行こうとすれば…と、まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。しかも三つ巴で。
 寝る前のひとときに、眠りそうな頭で見るものではない。たちまち論理についていけなくなる。だがそれだけのレベルの論理であることはわかるところに驚嘆しつつ嬉しくなる。
 そして、最初のひっかかりであるところの、主人公をはじめとする登場人物たちの、まっすぐでまっとうでまえむきなこころざしが、最後まで物語を、すがすがしくも切なく感じさせた。
 実に驚嘆すべき物語だった。

2017年9月13日水曜日

「羅生門」とはどんな小説か 7 -不自然な心理をどう読むか

承前 6「心理の推移」を追う意味

 「老婆の論理」に「勇気が生まれてきた」根拠を求める従来の「羅生門」理解では、「心理の推移」を追うことは無意味どころか、そうした作品把握自体の障害となるはずである。一方で「心理の推移」には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。「心理の推移」が「勇気が生まれてきた」に決着する、どのような機制を考えなければならないか。
 具体的な授業展開を追ってみる。まず生徒に、下人の心理の読み取れる表現をマークさせる。最初に登場するのは①「Sentimentalisme」である。以下細かい状況説明は省くが、②「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」から「迷い・逡巡」→③「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」から「慎重・不審・緊張」→④「六分の恐怖と四分の好奇心」→⑤「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」→⑥「勇気」→⑦「安らかな得意と満足」→⑧「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」→⑨「冷然」→⑩「勇気」が抽出できる。
 ②や③は適宜言い換えやまとめをして確認する。また⑥の「勇気」は該当の本文中にはない語だが、後から「さっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕らえたときの勇気」と語られる「勇気」を時間順の位置においたものである。
 この「心理の推移」を追う過程で、どんな考察がなされるべきか。
 ④の「恐怖・好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが納得される心理である。
 だが、既に⑤の「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。不自然である。この不自然さは、その「憎悪」が理解できないとか共感できないとかいうより、「激しい」「松の木切れのように、勢いよく燃え上がり出していた」という強調が「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。」という作者による客観的な分析と(それこそ激しく)衝突するからである。充分に合理性があるというのなら激しさの強調は論理的に納得される。だが訳が分からないはずだと言いつつ、その「憎悪」が不自然なほど過剰に「激しい」と形容されているのである。これはどうかしている。
 かててくわえてそれが「あらゆる悪に対する反感」と抽象化されたうえで、分からないにもかかわらず「それだけですでに許すべからざる悪」と決めつけられている。焦点はぼやかされ、一般化されているにもかかわらず、短絡的に断定される。
 この、念入りに表現された不自然さは何を意味しているか。
 この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感しにくいという意味でも不自然だが、それだけではない。老婆の行為を「悪」と決めつける理屈は、死体の損壊を、死者への冒涜のように感じて憤っているのだろうという見当はつく。だがそれに素直に納得することはできない。そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか。羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか。そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に引き起こす。だからこそここに「極限状況」などない、と言えるのだが、作者はそうした不自然さを指摘することなく、その「憎悪」について、それをどのようなものだと考えるべきかの情報を読者に提示してみせる。
 認識に合理性がないこと。対象が一般化されていること。短絡的に決めつけていること。にもかかわらずその情動が過剰であること。
 こうした情報をどのように受け取るべきかがにわかにわかりにくいことが、この部分を「不自然」と感じさせているのである。下人の心理が不自然である以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことこそ「不自然」なのである。
 この部分の下人に生じた「憎悪」について、複数の指導書からそれを説明した語句を列挙してみる。「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」である。作者は下人の「憎悪」をそのようなものと印象づけようとしているのだ、というのが従来の理解である。こうした理解は「老婆の論理」を得た下人が引剥をするという行為に及ぶ必然性を説明するところまで、そのままつながっていく。悪を憎悪することと悪を選ぶことは、ともに「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」なのである。
 こうした解釈には同意できない。この部分の「憎悪」と、最後の行為の選択は質の違うものだという感触がある。では、この「憎悪」の描写から、読者は何を読み取るべきなのだろうか。この「憎悪」の描写から、「行為の必然性」を導く機制はいかにして見出されるか。

 同様に⑦の「安らかな得意と満足」の脳天気さも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。これは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。
 だが問題は、⑤の「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問がまるで解決していないのにこの「満足」が訪れて、「憎悪」が忘れ去られるという点である。というか、なぜ「老婆が死人の髪の毛を抜くか」は「下人には、…わからなかった」にもかかわらず、そもそも問題視されてもいないのである。
 ⑦「安らかな得意と満足」については、それが、事態の解決とかかわりのない、というより事態が何なのかという把握に関係のない、という点を確認しておこう。

 ⑧「失望」ももちろん不自然だが、ここでは、下人が何を望んでいたことを示しているのかを確認しておこう。「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを期待していたことになる。これはなぜか、というより、これは何を示しているか。

 以上のような「心理の推移」を追う授業過程は、どこの授業でも行われているのだろうが、問題は、それが「行為の必然性」につながっていないという点である。だが、上に見たような念入りに書かれた不自然は、それがこの小説にとって意味あることを示している。そこに、「行為の必然性」、つまりはこの小説の主題にかかわる論理を見出さなければならない。

次節 8「勇気」を持てなかったのはなぜか

2017年9月11日月曜日

「羅生門」とはどんな小説か 6 -「心理の推移」を追う意味

承前 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ

 もう一つ、筆者に長年不可解だったのは、「羅生門」を扱う授業において「下人の心理の推移を追う」という読解が必須の授業過程であると見做されていることである。
 むろん小説の授業において「登場人物の心理を読み取る」ことは定番の授業展開である。だがそれも先述の「例文として読む」に終わるのではなく、「作品として」読もうとするならば、そうして読み取った心理が、何事か主題にかかわるのでなければならない。つまり、そのような登場人物の心理を描くのは、この小説がどんな小説だと言っていることになるのかという論理的帰結がなければならない。
 だが心理の推移から、引剥をするという「行為の必然性」を説明している論はほとんどない。引剥は「生きるため」に為されるはずである。だからこその「極限状況に露呈する人間悪」だったのではなかったか。そしてそれを可能ならしめたのが老婆の提示した論理である。
 つまり「極限状況」を前提に「老婆の論理」が示されれば下人の「行為の必然性」は説明されるのであって、物語中盤を占める「心理の推移」はこうした主題把握には無関係なのである。
 一方で「羅生門」における下人の心理は、どうみても意識的に詳細に描かれている。心理の推移を追おうとすると、その不自然さがいやでも目につく。読者は「憎悪」にも「侮蔑」にも共感できないばかりか、その変化の急激さ、振幅の大きさにもついていけないと感ずる。だからこそそこに意味を見出さずにはいられない。
 にもかかわらず、この「心理の推移」は「極限状況に露呈する人間悪」という主題把握によっては「行為の必然性」を説明しないのである。
 それどころかむしろ、不自然なこの「心理の推移」そのものが下人が極限状況におかれているという主題の把握の障害となる。「心理の推移」を追うほどに、下人が極限状況におかれてなどいないことが強く感じられてくる。
 たとえば、悪に対する憎悪にかられるのは、はっきりと極限状況に置かれているという設定と相反する。本当に「極限状況」に置かれてるなら、悪に対する憎悪など生じたりする余裕はないはずである。「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」という一節には、はじめの問題設定である選択の前での迷いが、実はまるで拮抗していないことが、図らずも露呈している(いや、たぶん図っている)。「極限状況」があっさり忘れられてしまうことを「もちろん」と言い放つのである。
 あるいは、老婆を捕らえて「ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足と」に浸る姿の脳天気さも、どうみても極限状況に置かれている者のそれではない。
 つまり、状況設定としての「極限状況」と、最後に提示される「老婆の論理」を短絡させて下人の行為の必然性を説明するところにのみ「極限状況において露呈する人間悪」などといった主題が想定できるのだが、授業において途中の「心理の推移」を丁寧に追っていけば、そうした主題把握が小説本文の細部を無視した図式的なものであることがわかるはずなのである。

 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその不安定な心理こそが、根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにして引剥をさせるという「行為の必然性」を支えている、という理屈である。
 こうした論を立てるならば、この小説は「下人が盗人になる物語」ではない。引剥をする=盗人になるという選択も、推移の一場面に過ぎないことになるからである。主題は「移ろいやすい不安定な心理」とでもいうことになる。吉田精一の言う「善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿」である。
 だが推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえるが、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそれをした、ということになるのだから。
 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥をする下人の行為には、何かしら、この物語における「必然性」があるのだろうという手応えを感ずる。それは、途中に描かれる「心理の推移」の過程における一つ一つの「心理」とは違う、この物語の核心に関わっているという感触である。この行為は、どう見ても意識的に描かれる「心理の推移」の決着点としての選択でなければならない。

 次節 7 不自然な心理をどう読むか

2017年9月9日土曜日

「羅生門」とはどんな小説か 5 -「老婆の論理」の論理的薄弱さ

承前 4「極限状況」の嘘

 先に、下人の行為は老婆の論理によって可能になった、と書いた。だが、可能になることとそれをすることの必然性とは違う。可能になりさえすればそれをするというのなら、可能になった者がそれをすることの必然性は問うまでもない。だがその動因となるべき「極限状況」を認めることができないのだから、可能になったからといって行為の必然性はないのである。
 それでもやはり、引剥をするという下人の行為には、それをなぜ敢えてするかという必然性が、この小説をどのようなものとして読むか、つまり小説の「主題」と密接に関わる論理があると見なさなければならないだろうという確信はある。次のように書く作者がその「必然性」を充分に意識していないとは思えない。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
「これ」とは老婆の長広舌であり「ある勇気」とは「盗人になる」勇気である。下人の裡には確かにこのとき、盗人になる勇気が生まれてきている(そう書いてある)。だが、勇気が生まれさえすれば当然それを実行しようとするだけの動機は、実感に乏しい「極限状況」によっては支えられない。
 そして物語の中盤では、奇妙な心理の推移が描かれた末に、物語の結末では、いわば思い出したかのように「勇気が生まれてきた」からといって引剥をするのである。これを、下人にとっての必然性とともに、作者にとっての必然性、つまりこの小説をどんな小説として描こうとしているか、という疑問として考察すべきである。だから問題は、なぜ「勇気が生まれてきた」かである。
 こうした疑問が従来の「羅生門」論において看過されているのは、それが自明なことだと思われているからである。上の引用にあるように、老婆の話を聞いたから、である。老婆の語る論理が、すなわち下人の心に「ある勇気」を生んでいるのである。そして、勇気が生まれさえすればそれを実行するだけの動機は「極限状況」によって保証されている。論理的整合には何ら疑問はない。
 だがこの論理は、すでに述べたように状況の「極限」性が薄弱であることから破綻している。それだけではない。よく考えてみると、老婆の語る理屈が勇気を生んでいるという因果関係にも、実は納得できるほどの根拠はないように思える。
 老婆の語る、いわゆる「悪の肯定(容認)の論理」は次のようなものだ。
せねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。
だがこれは、冒頭で下人が羅生門の下で考えていた次のような逡巡とどう違うのか。
「(生きるために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
老婆の認識は、それを聞く以前から下人が理解していた状況認識と変わらない。「老婆の論理」とは、ただそれを「しかたがない」「大目に見てくれる」と開き直っているというだけである。他人が開き直っているのを見て、自分もかまわないと思ったというだけのことが、どうして「新たに老婆の論理を得た」ことになるのか。
 念のため。もちろん「老婆の論理」にはもう一つ、「悪人に対しては悪が許される」という論理が含まれている。だが「悪人に対しては」などという限定をしてしまえば、すべての人間を対象にした盗みをはじめとする悪を肯定する論理になり得ないことは明白だし、相手を選ぶのなら、避けられない「極限状況」という設定とも論理的に矛盾する。
 問題となる「老婆の論理」とは「極限状況」におかれて為す悪は許される、というものだ。この「緊急避難」の論理は、最初から下人に認識されている(「しかたがない」という文言は下人の思考にすでに見える)。わかっていてできないだけだ。なおかつ「極限状況」は描かれていない。
 「極限状況」ばかりか「老婆の論理」にも、「行為の必然性」を支えるだけの論理的強度はない。

 だがそれでは「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」はどういうことになるか。ここからは、やはりどうみても老婆の語る理屈が下人の心に勇気を生んだのだ、という因果関係が読みとれるように見える。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
という一節を、誰もが
老婆の話を聞いて、下人の心には盗人になる勇気が生まれてきた。
と言い換えてしまう。そしてこの言い換えられた一文は、「羅生門」の粗筋を語る時に必ず登場する。つまりぎりぎりまで細部をそぎ落とした粗筋においても、「勇気が生まれてきた」ことは決して落とせない展開上の要素なのである(もちろん「盗人になる決意をした」などという言い換えには既に解釈が含まれている)。なぜならこの一節こそ「行為の必然性」を支えていると考えられているからであり、「行為の必然性」こそこの小説の主題を支えているからだ。
 そしてそこに必ず「老婆の話を聞いて」という冠が被さる。粗筋を語る時には、物語の展開の必然性が露呈するから、「勇気が生まれてきた」の原因を語らないと落ち着きが悪いのである。
 粗筋とはすなわち物語の把握である。その小説をそのようなものとして捉えたことのあらわれが粗筋である。すなわち「勇気が生まれてきた」のは「老婆の話を聞いた」からだ、という因果関係を我々はそこに見ているのである。なぜ「勇気が生まれてきた」のか、という問いは最初から看過されている。
 では「老婆の論理」が「行為の必然性」を支える強度を持たない、つまりそこに因果関係があると認めないとすると、「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」という明白な一文をどう考えればいいか。
 「これを聞いているうちに」とは必ずしも「これを聞いて」ではない(まして「これを聞いたから」ではない)。これは因果ではなく、単に時間経過を示しているだけなのだ。
 つまり「勇気が生まれて」くる動因は老婆が長台詞を語り出す前の展開中にあるのであり、長広舌が始まる時点で「行為の必然性」は既に準備されているのである。

 次節 6「心理の推移」を追う意味

2017年9月7日木曜日

「羅生門」とはどんな小説か 4 -「極限状況」の嘘

承前 3「行為の必然性」の謎

 「こころ」について語られる言説に「エゴイズム」という言葉の登場しないことが稀であるように、「羅生門」について語るときに必ず登場する言葉が「極限状況」だ。それはなんだか、自明な、疑ってはならない前提と考えられているように見える。
 もちろん論者の言う「極限状況」が何を指しているかはわかる。「おれもそう(引剥)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた下人の状況である。都は荒れ果て、羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。下人は行くあてもない。こうした状況を誰もが「極限状況」と称する。
 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。これのどこが「極限状況」なのか。
 昔から「羅生門」がわからないと感じていたのも、「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかったからだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。読者としては、物語を受け取る上で登場人物が不道徳な行為をすることに対する抵抗のハードルは低い。引剥をした、だからどうした。
 したがって「羅生門」を読んでも「飢え死にか盗人か」が問題として設定されているようには感じない。それなのに「羅生門」を論ずる上で法律概念である「緊急避難」などを持ち出すのは見当外れである。
 小説は読者にとって一つの体験である。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、すべての要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。上記の主題把握はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。極限状況における悪は許されるか? もしもそれをしなければ死んでしまうという状況で悪いことをするのは許されるでしょうか? そんな問いはこの小説の読者に提示されてはいない。読者は極限状況だと説明されるだけで、極限状況を生きることはない。現に飢えていない下人はまるで「極限状況」に置かれてなどいない。論者がそうした問題設定を観念的に創作しているだけである。
 「生きるためには悪をなすことがゆるされるのか」という「緊急避難」的問いを主題とするためには、大岡昇平の「野火」や武田泰淳の「ひかりごけ」のような「極限状況」を読者に「体験」させなければならない。

 だが下人がそれをすることの前で迷っていたのも事実である。「極限状況」は、肉体的には描かれていないが、確かに下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。
 だが、意識されてはいるものの、確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「必然性」を支えるほどの論理的強度を持たない。下人がなぜそんなことをするのか分からないと読者が感ずるのはそれゆえである。
 それはすなわち、作者が下人にそれをさせることによって何を言っているのか分からないということである。つまりは小説の主題がわからないのである。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を晒すはずである。「極限状況」を体験させるはずである。それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在のもつエゴイズム」などと大仰に言われても、そんなものはこの小説を読んだ実感とはかけはなれているのである。
 吉田精一、三好行雄に始まる従来の主題把握は、「羅生門」という小説を読むという体験に相応した感触がまるでしない。そのような主題把握によって「羅生門」を教材として、授業で読解することが価値あることだとは思えない。読解の先にそのような主題が浮上してくるという見通しが立たないからである。

 では「羅生門」の主題として「自我の覚醒」「自我の解放」を読み取るのはどうか。ここには可能性がありそうな感触があって、一時期はそうした方向で授業することが魅力的に思えていた時期もあった。
 だが結局こうした主題把握にも納得できない。現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」が、そのような主題と齟齬をきたすからである。「黒洞々たる夜があるばかり」の「下人の行方」に「覚醒」だの「解放」だのといった肯定的な(あるいは脳天気な)主題を読むことはできない。
 そもそも「盗人になる」ことを「覚醒」だの「解放」だのという小説を、どうして高校生に読ませたいのか。そんな、にわかに「道徳」的な疑問を筆者が抱いてしまうのも、それが小説の読解として抽出された主題ではなく、観念的に構成された主題だからである。

 では、そもそも「引剥をする」ことは「盗人になる」ことではないと考えてはどうか。老婆の着物を剥ぎ取るという行為は、老婆の論理をそのまま老婆に投げ返すことを意味しているのであって、それは下人が盗人になることを決意したのではない、という解釈である。だからこそ下人は、原話にあるように老婆の抜いた死人の髪や死人の着物には手をつけることなく、老婆の着物だけを剥ぎ取ったのである。
 だがそれでは、結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。これでは、物語の主人公が老婆になってしまう。自らの利己的論理、詭弁によって自らが被害者になる物語。星新一や「ドラえもん」によくある因果応報譚。

 引剥ぎという反社会的な行為を敢えて肯定的に描いているのだとか、実はこれは老婆の物語なのだとか、アクロバットが楽しいのはそれが見事だと思えるうちであって、腑に落ちなければ与太話に過ぎない。
 結局、「極限状況」を認めることができない以上、従来の理解では「行為の必然性」はわからず、したがって主題もわからない。

 次節 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ

2017年9月5日火曜日

「羅生門」とはどんな小説か 3 -「行為の必然性」の謎

承前 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性

 「羅生門」がどんな小説なのか、何を言っている小説なのかがわからないと感ずる最大のポイントは、物語の最後で下人がなぜ老婆の着物を剥ぎ取ったかがわからないという点である。
 この「わからない」は、下人がそんなことをした心理がわからないということでもあるが、同時に、作者が下人にそれをさせることによって、何を言いたいのかがわからない、ということでもある。この行為の必然性を、物語の論理―つまり「主題」―として語れることが「羅生門」を理解することであるように思える。
 といって、常に登場人物の特定の行為の必然性こそ物語の「主題」だというわけではない。事件ではなく、淡々とした日常の描写こそを目的とした小説はあるだろうし、物語を流れる時間や空間の感触を描出することが目的の小説もあろう。あるいは行為における必然性の欠如こそが「実存」であるなどと言いたい小説もあるかもしれない。
 だが「羅生門」がそうした小説だとは思えない。下人が「きっと、そうか」と言って老婆の着物を剥ぎ取るには、何か納得できる必然性がありそうである。冒頭に、行為に対する迷いが提示され、結末で行為の実行があるという構成は、そこに必然性を見出さないまま読み終えることはできない力を読者にもたらしている。にもかかわらず、その「必然性」がわからない。
 それに比べてこの小説のもとになっている『今昔物語』の一編「城門登上層見死人盗人語」には、そのような感触はない。老婆の着物を剥ぎ取る男は最初から「盗人」と形容されているし、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。となると、なぜそんな話を伝えたいのか(それが「主題」だ)がわからない、ということになるのだが、「城門登上層見死人盗人語」の主題は、盗人の行為にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という事実そのものを読者に伝えることなのである。
 一方の「羅生門」では、明らかに下人の行為の意味にこそ主題を読み取るべきなのだろうと思われる。
 問題は、この、「行為の必然性」と「主題」の論理的な連続である。なぜ剥ぎ取ったかを納得することは、すなわちこの小説をどのような小説として読むかということである。それが筆者にはわからない。
 もちろん、引剥という行為の必然性は、序盤に置かれた「飢え死にをするか盗人になるか」という問題に決着をつけたということだと理解することはできる。そして迷いを抜けて行為することができたのは、老婆の論理を得たからだ。そしてここから導かれる主題は、「極限状況における悪の肯定」「悪を選ぶエゴイズム」「悪を選ばざるをえない人間の弱さ」「人間存在そのものの悪」…などということになろうか。伝統的な「羅生門」の主題である。
 だがそれがどうしたというのか。そのように読む「羅生門」は何か面白い小説なのか。そういう小説を読むという体験は、何か国語学習に資するところがあるのか。
 別にそうした主題が不道徳的だとか倫理に反するなどと言うつもりはない。倫理に反することが描かれることが読者に感銘を与えることはあるだろう。あるいは教室で道徳に反する小説を扱ってはならないとも思わない。読解の過程でそのような主題が抽出されるなら、それも文学の可能性として教室で享受してもいい。
 だが、単にそうした読み方で「羅生門」が作品としてあるいは教材として価値あるものとは思えないのである。そのように「行為の必然性」を措定して、そこから導かれる「主題」をそのように措定し、さてそれが面白い小説だとは思えない。面白さのわからない小説の「主題」が信じられない。そんな小説をどうして書きたいのか、納得できないからだ。となると結局、教材としての価値もわからない。
 さらに、わからないという前にまず、そのようには読めない。それは、上記の論が前提する「極限状況」が、そもそもこの小説には描かれてはいないからである。

次節 4「極限状況」の嘘

2017年9月3日日曜日

「羅生門」とはどんな小説か 2 -教材としての価値、「主題」を設定する必要性

承前 ○ ブログ的前置き
 
 「羅生門」とは何を言っている小説なのか。それは何か自明なことなのだろうか。
 教材としての「羅生門」をめぐる言説の中でいつも奇妙に思うのは、この小説が、つまるところ「どんな小説か」についての一致した見解の存在が疑わしいにもかかわらず、教材としての価値は決して疑われていないらしいという点である。いわく「完成度が高い」、「緊密な世界を構成している」…。それは認める。だがつまるところ何を言っているのかを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
 わからなくても読んで面白い小説はある。また「完成度が高い」ことは、それだけで鑑賞に値する。読者としては小説が何を言っているかがわかることは必須ではない。「檸檬」は長いこと、何を言っているかわからないが、好きだし、何か凄いことはわかる、という小説だった。村上春樹だって基本的にいつもわからない。
 問題は「教材として」である。
 「どんな小説か」というのは、いわゆる「主題/テーマ」のことだ。「羅生門」の主題とは何か。この小説は何を言っているのか。それがわからなくて、どうやって授業でそれを扱うことができるのか。
 といって授業で小説を扱うことは小説の主題を教えることだ、などと考えているのでは毛頭ない。
「羅生門」の内容は以上のようであるが、これから、主題はなどと教師が押しつけるのはやめたほうがよさそうだ。主題は、などとまとめたり論じたりするのは、教師ではなく学習者たちでなければならないように思われる。各人がそれぞれ読みとり、それらが対比され、より高次元の主題が、話し合いのうちにまとまれば、それは最も望ましい姿であろう。そこで、ここでは主題はなどと論ずるのはひかえておく。(筑摩書房「国語Ⅰ 学習指導の研究」より「主題と構成」鈴木醇爾・猪野謙二)
 
「羅生門」の主題は、作品を「どう読むか」「どのような角度からとらえるか」によって、見解がさまざまに分かれることだろう。(略)いずれにせよ、「どの主題が正しいか」ではなく、大切なのは「どのような〈読み〉に基づいて、そのような主題が見いだせたのか」という、その〈読み〉のプロセスなのである。(三省堂「国語Ⅰ 指導資料」長谷川達哉)
正論である。
 国語の授業としての教材の意義は、それを「読む」こととそれについて「議論する」ことの中にしかない。主題の提示が授業の目的ではない。小説の主題そのものは学習内容などではなく、そんなものはテストの「正解」などにもなりえない。といってテストの「正解」になりそうなことを教えるのが国語の授業でもない。
 だが、少なくともそうした読みや議論の決着点についてはそれなりの見通しがなければ、それを授業で展開することはできない。
 むろん、ともかく「授業」という形を成立させるだけなら、どこへ向かうべきかがわからずに、とりあえず内容を追うことに時間を費やすことはできる。あるいはこれまでに提言されているいくつもの切り口はある。「状況設定を描写の中から把握する」「下人の人物造型についてまとめる」「下人の心理の推移を追う」「動物比喩について考察する」「作品の世界観を味わう」…。
 だが、結局のところそれらが有益であるためには、なんらかの主題を設定するしかない。「羅生門」がどんな小説であるかという見通しがなければ、さまざまな授業過程の意義、適切さが判断できないからである。
 そうでなければそれは「作品」の読解ではなく、文法問題など、「例文」を使った言語技術の習得のための学習に過ぎなくなる。もちろん小説だろうが詩だろうが評論だろうが、教科書所収の教材文をそのように使う自由はある。だがそうした使い方で済ますのは惜しい。そうした文章が連なった「作品」そのものを読解するところまで教科書教材を使いたい。そのためには主題の想定が必要なのである。授業という場が最終的にそれを特定する必要はない。だが、読みはそこを目指さざるをえない。
 もちろん、世間で「羅生門」がどのように語られているかは知っている。だがそこには次のような問題がある。
これまで三十年以上、日本中のほとんどの高校生に読まれ、高校教師が必ずといっていいほど授業で扱ってきたこの作品は、しかしその主題がまだ確定していない。(桐原書店「探求 国語総合 指導資料」)
 
「羅生門」の主題は、一見明解なようだが、実はかなり幅があり、一つにしぼるのは困難のように思われる。(第一学習社「新訂国語総合 指導と研究」)
だからこそ、先の「正論」がある。いろいろに考えられるから、限定するのはやめよう、生徒に考えさせよう、そのことにこそ価値がある…。正論ではあるが、欺瞞的でもある。そんなことが本当にできるのか。それを理念通り実施している授業がどれほどあるだろう。実際に、生徒からどのような「主題」が提出されるというのだろう。
 だから、筆者は最近まで、何度となく機会のあった一学年国語授業の担当時において「羅生門」の授業をまともにしたことがなかった。「羅生門」が何を言っている小説かわからなかったからだ。ただ「日本人の教養として」と言って読むだけである。せいぜいが「にきび」のもつ象徴性についてと、それこそ主題について若干の考察をし、それでもみんなであれこれと考えていると楽しくなるものの、結局「とにかくわからない」といって終わる。せいぜいが2時限程度である。
 やはり、どんな教材であれ、考えるべきテーマがあってこその読解である。
 明示的に書かれていて、当然のように読み取れる情報は、こちらが指示しなくても生徒も読み取る。生徒がそれをするかどうかは、それを生徒自身がする必要があるように授業を設定するかどうかという問題で、こちらがそれを「教える」必要があるわけではない。それ以上の、ただ読んだだけではわからないはずの情報を「読み込む」ことを企図するならば、授業者にそうした見通しがなければならない。それがなければ授業は成立しない。

 一方で、世にあふれる「羅生門」論は、それぞれに「羅生門」の主題を語っている。「羅生門」について論じるということは、「羅生門」が「どんな小説か」を言うことにほかならない。それは教材としての「羅生門」ではなく、「作品」としての「羅生門」について語る研究なり批評なりに課せられた使命であり自由である。だがそれらの提示する「羅生門」像は「一つにしぼるのは困難」なのである。
 「しぼる」べきだと言いたいわけでは無論ない。繰り返すが、主題の提示が授業の意味だと考えてはいない。
 だが、上記のような指導書の言説に見られる「主題」論が、まっとうな正論であるにもかかわらず奇妙に言い訳じみて見えるのは、そうして提出されるさまざまな「主題」が、結局多くの読者を納得させていないにもかかわらず、それでも教材としての価値を疑ってはならないことが前提されているからである。
 あるいは百出する主題論についてはこんな言い方もある。さまざまな主題が想定できることこそ「羅生門」がすぐれた作品であり、すぐれた教材であることの証なのだ…。
 だがこれも詭弁にしか聞こえない。そうした多面性に価値があるとすれば、それぞれの「主題」がそれぞれに説得力があると思えればこそだ。設定される主題に応じて一つの作品がさまざまに見えてくる、というような多面性が認められれば、それは芸術作品として、また教材として価値あると納得できる。だが繰り返すが、筆者は、これまでに納得できる「羅生門」論を見たことがない。

いささか駄言を弄した。次回からもうちょっと具体的な読解に踏み込む。

 次節 3 「行為の必然性」の謎

2017年9月1日金曜日

「羅生門」とはどんな小説か 1 -ブログ的前置き

 これから数回、授業で扱う「羅生門」について論ずる。
 呆れたことだ。今更「羅生門」について語ることがあるのか。これだけ多くの目にさらされ、論じ尽くされているこの小説について、まだ何か言うか。
 我ながらそう思わないでもないが、これまでさんざん書いた「こころ」についてだって、同じくらい日本人のほとんどが読んでいると思われるのに、みんなそうは読んでいないと思うから、言うのだ。
 いやもちろんどこかで誰かが同じことを言ってるのかもしれないが、少なくともとりあえず広く人々の耳目に触れる場所にはそうした見解がごろごろと転がっているわけではない。「こころ」であれば、語られる紋切り型は相変わらず「エゴイズム」だ。それは「私」の目からそう見えているに過ぎないのに。あるいは「恋か友情か」だ。そんなこと「こころ」のどこにも書いてないのに。
 「羅生門」も同じように、どこを見ても「極限状況」だ。どうしてそんな大仰なお題目にみんな納得しているのだ。あれのどこに「極限状況」が描かれているのだ。そしてまたしてもこちらも「エゴイズム」である。そんなわかりきったことが露呈する小説を、どうして有り難がって読む価値があると思えるのだ。
 そう、さらにわからないのは、これが教材として価値ある小説だと、誰もが疑わないらしいことだ(まあ実際には疑っている教師も多いんだろうけど、誰もあからさまには言わない)。それどころか、これをすばらしい教材だと本気で考えているという発言を直に聞いたことも少なくない。
 もうこれを高校一年生に読ませることはお約束になっていて、どこの出版社も教科書から外すわけにはいかなくなっている「国民」教材として、今更その教材価値が問われない。
 どうしてなのだろう。みんな、あの小説が何だと思っているのか。どうして高校生に読ませる価値があると思うのか。
 なのにそのことを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
 面白い「羅生門」論はある。だが、これが教材として優れていることを納得できたことはない。作品として面白くないというのはまあ個人的な好みだから殊更に言い立てなくとも良いが、少なくとも、これが何を言っている小説なのか、誰か納得できるように教えてほしい。それがわからないのに、教室でどう読めというのか。読解の果てにどこに行けるという見通しもないのに、どうして教材として価値あるものだと信じられるのか。

 そんなことを言いながら書き出すのは、最近、ひょんなことから、この小説についての「納得」が不意に訪れたからだ。最初に読んだ高校一年生の時から40年近く経って。そして商売柄、30年来、さんざん読み返したというのに。今更。
 誰も(目につくところでは)言っていないと思うので、書く。
 題名はとりあえず「『羅生門』とはどんな小説か-なぜ『勇気が生まれてきた』のか」ということにしておく。 

 次節 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性