2017年9月7日木曜日

「羅生門」とはどんな小説か 4 -「極限状況」の嘘

承前 3「行為の必然性」の謎

 「こころ」について語られる言説に「エゴイズム」という言葉の登場しないことが稀であるように、「羅生門」について語るときに必ず登場する言葉が「極限状況」だ。それはなんだか、自明な、疑ってはならない前提と考えられているように見える。
 もちろん論者の言う「極限状況」が何を指しているかはわかる。「おれもそう(引剥)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた下人の状況である。都は荒れ果て、羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。下人は行くあてもない。こうした状況を誰もが「極限状況」と称する。
 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。これのどこが「極限状況」なのか。
 昔から「羅生門」がわからないと感じていたのも、「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかったからだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。読者としては、物語を受け取る上で登場人物が不道徳な行為をすることに対する抵抗のハードルは低い。引剥をした、だからどうした。
 したがって「羅生門」を読んでも「飢え死にか盗人か」が問題として設定されているようには感じない。それなのに「羅生門」を論ずる上で法律概念である「緊急避難」などを持ち出すのは見当外れである。
 小説は読者にとって一つの体験である。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、すべての要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。上記の主題把握はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。極限状況における悪は許されるか? もしもそれをしなければ死んでしまうという状況で悪いことをするのは許されるでしょうか? そんな問いはこの小説の読者に提示されてはいない。読者は極限状況だと説明されるだけで、極限状況を生きることはない。現に飢えていない下人はまるで「極限状況」に置かれてなどいない。論者がそうした問題設定を観念的に創作しているだけである。
 「生きるためには悪をなすことがゆるされるのか」という「緊急避難」的問いを主題とするためには、大岡昇平の「野火」や武田泰淳の「ひかりごけ」のような「極限状況」を読者に「体験」させなければならない。

 だが下人がそれをすることの前で迷っていたのも事実である。「極限状況」は、肉体的には描かれていないが、確かに下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。
 だが、意識されてはいるものの、確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「必然性」を支えるほどの論理的強度を持たない。下人がなぜそんなことをするのか分からないと読者が感ずるのはそれゆえである。
 それはすなわち、作者が下人にそれをさせることによって何を言っているのか分からないということである。つまりは小説の主題がわからないのである。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を晒すはずである。「極限状況」を体験させるはずである。それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在のもつエゴイズム」などと大仰に言われても、そんなものはこの小説を読んだ実感とはかけはなれているのである。
 吉田精一、三好行雄に始まる従来の主題把握は、「羅生門」という小説を読むという体験に相応した感触がまるでしない。そのような主題把握によって「羅生門」を教材として、授業で読解することが価値あることだとは思えない。読解の先にそのような主題が浮上してくるという見通しが立たないからである。

 では「羅生門」の主題として「自我の覚醒」「自我の解放」を読み取るのはどうか。ここには可能性がありそうな感触があって、一時期はそうした方向で授業することが魅力的に思えていた時期もあった。
 だが結局こうした主題把握にも納得できない。現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」が、そのような主題と齟齬をきたすからである。「黒洞々たる夜があるばかり」の「下人の行方」に「覚醒」だの「解放」だのといった肯定的な(あるいは脳天気な)主題を読むことはできない。
 そもそも「盗人になる」ことを「覚醒」だの「解放」だのという小説を、どうして高校生に読ませたいのか。そんな、にわかに「道徳」的な疑問を筆者が抱いてしまうのも、それが小説の読解として抽出された主題ではなく、観念的に構成された主題だからである。

 では、そもそも「引剥をする」ことは「盗人になる」ことではないと考えてはどうか。老婆の着物を剥ぎ取るという行為は、老婆の論理をそのまま老婆に投げ返すことを意味しているのであって、それは下人が盗人になることを決意したのではない、という解釈である。だからこそ下人は、原話にあるように老婆の抜いた死人の髪や死人の着物には手をつけることなく、老婆の着物だけを剥ぎ取ったのである。
 だがそれでは、結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。これでは、物語の主人公が老婆になってしまう。自らの利己的論理、詭弁によって自らが被害者になる物語。星新一や「ドラえもん」によくある因果応報譚。

 引剥ぎという反社会的な行為を敢えて肯定的に描いているのだとか、実はこれは老婆の物語なのだとか、アクロバットが楽しいのはそれが見事だと思えるうちであって、腑に落ちなければ与太話に過ぎない。
 結局、「極限状況」を認めることができない以上、従来の理解では「行為の必然性」はわからず、したがって主題もわからない。

 次節 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ

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