2017年9月11日月曜日

「羅生門」とはどんな小説か 6 -「心理の推移」を追う意味

承前 5「老婆の論理」の論理的薄弱さ

 もう一つ、筆者に長年不可解だったのは、「羅生門」を扱う授業において「下人の心理の推移を追う」という読解が必須の授業過程であると見做されていることである。
 むろん小説の授業において「登場人物の心理を読み取る」ことは定番の授業展開である。だがそれも先述の「例文として読む」に終わるのではなく、「作品として」読もうとするならば、そうして読み取った心理が、何事か主題にかかわるのでなければならない。つまり、そのような登場人物の心理を描くのは、この小説がどんな小説だと言っていることになるのかという論理的帰結がなければならない。
 だが心理の推移から、引剥をするという「行為の必然性」を説明している論はほとんどない。引剥は「生きるため」に為されるはずである。だからこその「極限状況に露呈する人間悪」だったのではなかったか。そしてそれを可能ならしめたのが老婆の提示した論理である。
 つまり「極限状況」を前提に「老婆の論理」が示されれば下人の「行為の必然性」は説明されるのであって、物語中盤を占める「心理の推移」はこうした主題把握には無関係なのである。
 一方で「羅生門」における下人の心理は、どうみても意識的に詳細に描かれている。心理の推移を追おうとすると、その不自然さがいやでも目につく。読者は「憎悪」にも「侮蔑」にも共感できないばかりか、その変化の急激さ、振幅の大きさにもついていけないと感ずる。だからこそそこに意味を見出さずにはいられない。
 にもかかわらず、この「心理の推移」は「極限状況に露呈する人間悪」という主題把握によっては「行為の必然性」を説明しないのである。
 それどころかむしろ、不自然なこの「心理の推移」そのものが下人が極限状況におかれているという主題の把握の障害となる。「心理の推移」を追うほどに、下人が極限状況におかれてなどいないことが強く感じられてくる。
 たとえば、悪に対する憎悪にかられるのは、はっきりと極限状況に置かれているという設定と相反する。本当に「極限状況」に置かれてるなら、悪に対する憎悪など生じたりする余裕はないはずである。「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」という一節には、はじめの問題設定である選択の前での迷いが、実はまるで拮抗していないことが、図らずも露呈している(いや、たぶん図っている)。「極限状況」があっさり忘れられてしまうことを「もちろん」と言い放つのである。
 あるいは、老婆を捕らえて「ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足と」に浸る姿の脳天気さも、どうみても極限状況に置かれている者のそれではない。
 つまり、状況設定としての「極限状況」と、最後に提示される「老婆の論理」を短絡させて下人の行為の必然性を説明するところにのみ「極限状況において露呈する人間悪」などといった主題が想定できるのだが、授業において途中の「心理の推移」を丁寧に追っていけば、そうした主題把握が小説本文の細部を無視した図式的なものであることがわかるはずなのである。

 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその不安定な心理こそが、根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにして引剥をさせるという「行為の必然性」を支えている、という理屈である。
 こうした論を立てるならば、この小説は「下人が盗人になる物語」ではない。引剥をする=盗人になるという選択も、推移の一場面に過ぎないことになるからである。主題は「移ろいやすい不安定な心理」とでもいうことになる。吉田精一の言う「善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿」である。
 だが推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえるが、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそれをした、ということになるのだから。
 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥をする下人の行為には、何かしら、この物語における「必然性」があるのだろうという手応えを感ずる。それは、途中に描かれる「心理の推移」の過程における一つ一つの「心理」とは違う、この物語の核心に関わっているという感触である。この行為は、どう見ても意識的に描かれる「心理の推移」の決着点としての選択でなければならない。

 次節 7 不自然な心理をどう読むか

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