2017年9月17日日曜日

「羅生門」とはどんな小説か 9 -「羅生門」の主題

承前 8 「勇気」を持てなかったのはなぜか

 なぜ「勇気が生まれてきた」のか。それは遡って、物語の冒頭でなぜ下人が勇気が持てなかったのかを考えることによって解決されなければならない。
 といって筆者が現在の結論に至る前にそのように考えたのは、実はそのような問題設定によってではない。発想は、ある時に突然、結論として降りてきたのだった。下人のうちに最初に燃え上がった⑤の「憎悪」の描写が何を表しているかを考えているときに、不意にこれが最初に下人が「悪」に踏み出すことを躊躇わせた理由なのだと気づいたのだった。
 だから「なぜ勇気が持てなかったのか」という問題設定は、本当は解答から遡って設定された架空の問題である。だが授業で生徒にそれを意図的に考えさせるには、考えるべき問題が何なのかを明らかにしたうえで、その糸口を示す必要がある。
 「行為の必然性」と「主題」の一貫性が納得しがたいものであること、「行為の必然性」つまり「なぜ引剥をしたか」は「なぜ勇気が生まれてきたか」を考えることで明らかにすべきだということ、そして「なぜ勇気が生まれてきたか」は、「なぜ勇気を持てなかったか」を考えることで納得できる論理に至れるということ。
 「羅生門」の授業を貫く問いはそうして構想される。

下人が勇気を持てなかったのは、下人の考える「盗人になる=悪」の観念が幻想によって現実以上のものになっていたからである。この幻想を滅ぼしたのは、最後に語られる「老婆の論理」ではない。長広舌の前に描かれる「心理の推移」によって、幻想が幻想であることが読者の前に示され、同時に下人本人にとっても自覚されていくのである。引剥という「行為の必然性」は「極限状況」によって保証されるのではなく、ただその行為を阻んでいたものが消滅することによって生じているのである。というよりむしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自らに証明している、と言うべきかもしれない。
 このような読解による「羅生門」とはどんな小説か。「羅生門」の主題とは何か。
 これはいわば、空疎な観念による幻想が、現実の認識によって消滅する話、である。

 とすれば、筆者がわずかに以前の授業でも取り上げていた「にきび」はどういうことになるか。
 ここでの学習は小説における「象徴」についての考察を経験することだ。それは「山月記」における「月」、「こころ」における「襖」の意味を考察するための準備にもなる。もちろん他のさまざまな小説や詩歌を読む際にも、象徴という考え方は必須である。
 「にきび」が何かの象徴であると考えられるのは、とにかくそれが意味ありげだということによっている。
 「にきび」が象徴するものは、主題把握と当然密接に対応している。ある指導書が、にきびを「古い自我」と見なしている時、その主題把握は「新しい自我の覚醒」とでもいうことになる。
 以下列挙すると、若さ、未熟、優柔不断、迷い、純粋、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥がエゴイズムを肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。
 そして筆者による上記の主題把握によれば、「にきび」はそのまま「空疎な観念」の象徴だということになる。「空疎な観念」の象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった行為を実行にうつすしかないのである。

 「羅生門」に教材としての価値はあるか。長らく「ある」とは認められなかったが、現在では、以上のように読む限り「羅生門」に教材としての価値は高い、と思う。
 なぜ引剥をするのか、それがどのような主題を構成するのか、という問いを掲げ、「心理の推移」が「行為の必然性」を説明する論理を明らかにする考察は、高度な読解経験となることが期待できる授業過程である。
 その過程では「極限状況における悪は許されるのか」という問題が仮初の、観念的な問題設定に過ぎないこと、あるいは結末の行為の必然性が、老婆の長広舌などではなく、途中の下人の心理の変化から導き出されることを考察させたい。
 それはつまり、従来の国語科授業で行われる読解を、敢えて意識的に否定することである。まさしくそのためにこそ、本当に小説を読む体験として「羅生門」を「読む」のである。
 それが構想できる小説として、「羅生門」は確かに優れた教材である。

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