2015年8月28日金曜日

『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーパー)

 娘が夏休みの宿題で、なんらかの意味で「歴史物」といえる映画を観て、その背景となる歴史とともに感想を述べるというレポートの題材として、『英国王のスピーチ』を選んだ。以前一度観ていて、内容を知った上で選んだのだ。夏休み終盤のこの時期についに観るというので、ついでに一緒に観る。

 物語は、第二次世界大戦の開戦時に英国王だったジョージ6世が、吃音を克服して、ナチスドイツへの宣戦布告のラジオ放送によるスピーチをするまでを描く。
 アカデミー作品賞受賞作だ。面白いことはわかっている。前に観た時も面白かった。感動的でもある。そこらじゅうが面白い。
 中心となるのは言語療法士とジョージ6世の吃音克服の訓練なのだが、無論これは単なる機能障害に対する訓練ではなく、吃音の原因として映画の中で描かれている精神的な緊張の緩和をどう実現するか、という問題である。そのために、早口言葉や体操などの肉体的な訓練もする。それが精神の緊張の緩和に資するならば。
 だが主人公の英国王とともにもう一人の主人公といってもいい言語療法士のライオネル・ローグが、それまで解雇された何人もの、正式な資格を持った言語療法士と違ったのは、吃音の克服の鍵が機能的な訓練にあるのではないことを理解していたことだ。英国王を特別視せずに、王宮ではなく自身の自宅である治療院での治療を了承させ、後の英国王を愛称で呼び、友人として振る舞う。吃音の原因は王子としての生育歴、あるいは王族としてふるまわなければならない現在の状況にあることを見抜いていたのである。
 とすれば、吃音の克服は、機能訓練による快復とか上達などではなく、すなわち端的に、コンプレックスの克服にほかならない。生来の左利きやX脚を矯正され、厳しい父親に抑圧された過去を持つ自分を告白し、王族としての重圧に押しつぶされそうな現在の自分を受け入れ、自然に生きることが、どもらずにしゃべれることに結果するのである。
 ここが、この物語を、数多あるスポーツ映画の感動に、少しばかりの上乗せをしている。というか、むしろ共通点は多いといっていい。「ロッキー」「がんばれベアーズ」「ザ・ベスト・キッド」「シコふんじゃった」「ウォーター・ボーイズ」…、弱者が頑張って練習して勝ちました、というパターンのスポーツ根性映画は枚挙にいとまない。面白い映画は面白い。『英国王のスピーチ』も、実はそうした、頑張ったものが報われ、祝福される幸福を描いた映画だ。
 そしてその描き方が充分にうまければ、物語は感動的になる。もちろん充分にうまい。だが、これがアカデミー賞で作品賞に輝くには、さらなるプラスアルファが必要だともいえる。
 前述の『ロッキー』もまたアカデミー作品賞受賞作だ。おそらくそこには、「頑張ったスポーツ映画」としての感動に加えて、「貧しい労働者であるイタリア系移民の成功」という、アメリカン・ドリーム物語の体現が要因となっている。
 そして『英国王のスピーチ』の場合は、クライマックスのスピーチが、ナチス・ドイツに対する宣戦布告の国民放送であるという点で、その成功に、単なるスポーツ映画における大会決勝戦の勝利とは違った意味合いを見ているのだろう。
 今回見直して印象深かったシーンの一つに、ヒトラーの演説のニュース映像を見ながら、主人公が「演説が上手い」と評する場面がある。主人公はその前に国王の戴冠式を成功裡に過ごしており、だからこそ国民を熱狂させるヒトラーの演説を、羨望でもなく嫌悪でもなく、単に感心してみせることができている。そしてそれはヒトラーのような狂信的な熱狂に人々を巻き込むのとは違った形で、主人公の語りかけが人々のうちに静かにしみ入っていくようなクライマックスのスピーチの成功を際だたせる。
 そしてもうひとつ、今回見直して印象深かったのは、前に観た時には、クライマックスのスピーチを、大会決勝戦における9回裏2アウトで迎えた主人公の打席のように、成功を祈る関係者の視点からのみ見てしまったのに対し、同時にそれ以上に多くの人にとって、それがファシズムに対する自由主義の戦いの宣言だったのだという重みである。
 スピーチの成功は、主人公が幼少期からのコンプレックスや英国王という重圧から自由になって、一人の個人としての彼自身になれたことを意味しながら、同時にそれは自由主義を代表する言葉として、ある理念の象徴になるという二重性を担っていることをも意味している。
 こうした物語の構造が、この映画を数多のスポーツ根性映画を超えるプラスアルファを持った作品にしている。

2015年8月27日木曜日

『誰も知らない』(監督:是枝裕和)

 うまくタイミングが訪れたという感じで、ようやく。
 『そして父になる』が現実の子供取り違え事件をもとにしているように、これは実際に起きたネグレクト事件に基づいて作られている。親に置き去りにされた4人の子供が、マンションの一室で4人で生きていく姿を、2時間20分で描く。12歳の長男を演じた柳楽優弥がカンヌ映画祭で史上最年少の主演男優賞を受賞したことは大きな話題になったから、もう15年近く気になってはいたのだ。
 観ながら、『歩いても 歩いても』で驚嘆したような圧倒的なうまさはない、と思った。だがいかんせん、忘れがたい映画であることは否定しようもない。岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』などと同じような印象である。きっと大嫌いな人もいるが、心を捉えられてしまう人もいる、といった、痛みを伴わずには観られない映画。

 是枝監督作品ということで最初から期待があるから、ハードルは高い。そこからすれば不満はある。編集が無駄に間延びしているように思えるし、何より救いがない。
 安易な救いを描くことは、それだけ作品を軽いものにしてしまう。ではその悲惨が永久に続くというのか? 悲劇的な結末であれ、いずれ事態の変化が訪れることは確実なのだから、そうした展開への予感だけでも描かずに、強い悲劇の後に、緩慢な、永続的な悲劇に戻ったかのような展開に戻ったところで作品世界を終わらせるというこの映画の結末にどういう納得が得られるのかは、やはりわからない。
 元になった事件は、この映画に描かれるよりずっと強い、陰惨な悲劇の後に、とりあえずは悲劇の終了があったのである(むろんそれはまた別の緩慢な悲劇のはじまりであったのかもしれないが)。
 曖昧な書き方はやめよう。実際の事件では、映画における主人公にあたる長男と、その友人の中学生の虐待によって幼児が死亡したそうである(ネット情報を安易に信ずることはできない、のかもしれない。この「現実」は「事実」ではないかもしれない)。これは、こうした事態そのものの帰結としての強い必然性がある展開である。
 だが、映画では二女の死因は椅子からの転落である。むろんそこから死亡という最悪の展開を回避できなかったのは、やはり事態の招く必然ではある。子供たちだけで手をこまねいている事態が、二女を救えなかったのだとは言える。
 だが直接の死因が、子供たちだけの生活が招いたものではないことと、二女の遺体を羽田空港近くの草原に埋めるという展開の感傷性が、悲劇の質を曖昧にしている。現実には幼児の死は虐待死であり、遺体は発見を恐れて隠蔽されたのである。それはこうした子供置き去りという事態そのものの招いた悲劇である。救いはない。
 それなのに映画では、最後の場面で戻っていく、変わらない悲劇的事態が、二女の「埋葬」の儀式とともにまるで甘美なDistopiaのようにさえ感じられてしまう。
 それでいいのか?
 そしてもちろん、子供たちが然るべき機関に保護されたからこそ、こうした事実が明るみに出たのであり、子供たちだけで生き続ける日々は、現実には終わりを告げたのである。

 そもそも、ここに「いじめ」に遭っているらしい女子高生をからめることは物語的な必然を感じるものの、だとすればそれですら事態がこのように変わらないことに、なおのこと苛立ってしまう。『王様ゲーム』『生贄のジレンマ』などで感じた苛立ちである。バカすぎるだろう、いくらなんでも、というウンザリ感である。
 だがもちろん、こうしたことは高い割合で起こりうること、展開として自然なことでなくてもいいのだとはいえる。普通では考えられないほど愚かな人々の振る舞いを、わざわざ描く物語があってもいい。『シンプル・プラン』なども、そうした、うんざりするような愚かな展開が、アメリカという大国の荒廃を感じさせて巧みだった。
 だとしたら、この女子高生を登場させることの意味はなんなのだろう。救われない者同士の共感が「救い」のように感じられる、先の見えない共同体のありようがともすれと甘美に見えるとすれば、その感傷性はやはり不健全なのではないだろうか。

 映画的なうまさは、あえてドキュメンタリーのように見せる手法を採ることによって抑制しているのかもしれない。もちろん、ちびたクレヨンが絶望的な閉塞感を感じさせる、とか、やはり是枝監督の映画作家としての手腕は垣間見えるのだが。
 それにしてもあの間延びした編集はなんなのだろう。
 だがあの長さにつきあうことが、この子供たちの置かれた状況の閉塞感を観客がいくらかなりと共有するために必要なのだともいえる。
 だからこそこれは間違いなく忘れがたい作品なのだが。

2015年8月26日水曜日

『ザ・バンク 墜ちた巨像(原題:The International)』

 ずいぶん前から録画されたままHDにあった。2度ほど、最初の方を見てはやめたのだが、これはなかなかの映画だぞという感触があって、だからこそ、時間のないときには観られないと思い、留保していた。
 さてようやく観たのだが、いやはやすごい映画だった。
 冒頭と題名から、銀行の不正を調査する捜査員たちのクライム・サスペンスだと思っていたのだが、そのうち話が大きくなってポリティカル・サスペンスといった趣になってきたかと思いきや、途中にはド派手な銃撃戦の描かれるアクション映画にもなる。
 犯罪捜査のレベルでも、主人公の、クライブ・オーエン演ずるインターポールの捜査員と、ナオミ・ワッツ演ずるアメリカの検事が、ドイツ、イタリア、アメリカの刑事らによる協力を得て捜査を進めていく過程がテンポ良く描かれ、それだけでも第一級のクライム・サスペンスだと言える。
 凄いレベルの脚本だなあと思っていると、事件の決着は、単に銀行の不正の立証と犯罪者の逮捕というレベルではすまされないことが明らかになってくる。相手は複数の国の政府、軍、多国籍企業、犯罪組織といった「国際的」なレベルであることがわかってくるのである。捜査妨害はもちろん、暗殺どころか公然と銃撃戦まで起こして都合の悪い証人や関係者を消そうとするし、一国の司法では裁けない対象なのである(題名が『The International』なのはそういうことだ)。
 主人公たちは二つの選択を迫られる。一つは、この先に、自らの安全どころか家族の安全が保証されない、というよりはっきりと危険であるのがわかっていて捜査を続けるか。
 もう一つは、これが通常の司法の枠内では裁けない以上、どう決着させるか。上からの命令に従って諦めるか、法に則らない形で、自らの信ずる正義を遂行するか。
 二つ目の選択については、破滅型のインターポール捜査員がそのまま突き進むのだが、一つ目の選択については、同じその捜査員が、協力者である家族持ちのアメリカの検事を、捜査から手を引くように説得するのである。この選択の現実性を考えたとき、検事は捜査から手を引く。
 だがこれが苦い現実追認に終わらぬよう、映画のラストでは彼女が新たに国際犯罪捜査の責任者になったというニュースが挿入されたりもする。

 捜査員や銀行関係者、政治家たちが過不足なく描かれるのに対し、重要な役どころである暗殺者のキャラクター造型が、狙いはわかるもののもうちょっと、という残念なところで終わっているのは、期待水準が高すぎる。なまじ暗殺者の「心の闇」を描こうとしているのがわかるからこそ、「ちょっと浅いんじゃないか」という印象にもなってしまう。
 だがいくらかでもそれが描かれるからこそ、敵対する主人公と暗殺者が、巨大な敵を相手に図らずも共闘してしまう成り行きには喝采を送りたくなる。結局、脚本といい演出といい、おそろしくうまい。

 お話作りだけでなく、とにかく映画としての演出が、もう隅から隅までおそろしくうまい。冒頭で、雨の街角で捜査員が毒殺されるシークエンスを観ただけで、これは並の監督じゃないぞと思わされる。構図といいカットの切り替えのテンポ感といい。
 舞台として、おそろしく映画的に面白い建築物が次々と出てくる。問題の銀行やインターポールの本部の近代的な壮麗さ。トルコのイスタンブールのブルーモスクや周辺の街並みの迷宮感。
 中でもニューヨークのグッゲンハイム美術館はその造型だけでも面白いのに、その中で繰り広げられる銃撃戦は、これでもかというアイデアに満ちあふれて、本当に圧倒される(そのさなかに、さっきの主人公と暗殺者の共闘の場面で喝采!)。
 そして、銃撃戦でも見られる視点の上下のバリエーションの豊かな、立体感のある空間の描き方も、たぶんこの監督の持ち味なんだろう。街角での暗殺者の追跡劇のシークエンスでも、走るクライブ・オーエンを追っていくカメラが徐々に上昇していくと思ったら、問題の車が止まっているであろう大通りに出たところで、通りをやや俯瞰する高さから、信号待ちで停まっている車両の群れを写して止まる。その動きが、その後に続く、車両の群れから問題の暗殺者の乗る車を特定するまでのサスペンスの予感と同期して、はっとするほど印象的だ。

 クライブ・オーエンは、去年「トゥモロー・ワールド」で顔を覚えたのだが、その前に「ボーン・アイデンティティー」の暗殺者で見ているのか。相棒の検事はずいぶん美人の女優だが、誰だっけと思っていると「リング」のナオミ・ワッツだった。
 監督のトム・ティクヴァは、これが初めて。覚えておこう。

 1年間に観た映画を振り返る記事の後、最初に良い映画を観た(まあ、狙って観たのだが)。

2015年8月23日日曜日

今年のライブ 2015

 前記事で、ブログで1年間触れてきた映画について振り返ったあとの記事は、今年のライブのことだ。そもそも当ブログの二つ目の記事が去年の恒例ライブのことだった。
 今年はメンバーの復帰や加入などで音楽的な幅が出てきたことと、PAが比較的安定して耳に優しかったことで、それなりに聴ける音楽が披露できたかと思う。少なくとも演奏している側は楽しかった。

 というわけで今年のセットリスト。去年より5分短い45分で8曲。

1.強く儚い者たち(Cocco)
2.にじいろ(絢香)
3.小さな恋のうた(モンゴル800)
4.Sunshine Girl(moumoon)
5.おわりのはじまり(くらげP)
6.たしかなこと(小田和正)
7.中央フリーウェイ(荒井由実)
8.星のかけらを探しにいこう(福耳)

 こちら、クロスフェードのダイジェスト。


2015年8月22日土曜日

1年間で観た映画、テレビドラマ

 1年前に『マレフィセント』の感想を書く場が欲しくて突発的に始めたブログが、何とかここまで続いた。これはひとえに「観た映画については書き残す」と決めたからだ。
 日々の生活の中でどんな重要なことがあろうが、あれこれ言いたいことがあろうが、ブログに書くわけではない。それをするといきなりプライベートに触れてしまって、ネット世界との距離が測れなくなる。
 それでも時折は書き残したいと思うこともあって書きはするのだが、それはとりわけ重要だからという基準で選ばれた話題だというわけではない。書く手間とプライバシーに抵触しないこととを勘案しながら、かつ書くだけの時間的余裕がその後、数日のうちに訪れたというタイミングの問題でもある。
 そんなふうに基準が曖昧だと、とてもこんなふうにあても実りもない行為は続かない。SNSは相手のいることだから、その応答の中で続くこともあるだろうが、まあある種のSNSとはいえ、ほぼ個人日記に近いこんなブログを続けることは難しかったはずだ。
 というわけで映画だ。このルールがかろうじてこのブログを、放置、消滅というありがちな成り行きから救っている。といってもちろん、世の多くのサイトのように、ちゃんと世の人々に読ませようという気のない、映画の内容をほとんど紹介しない記述は、あくまで自分の備忘録にしかなっていないのだが。

 というわけで1年経ったら振り返ってみようと思っていた、1年間に観た映画。単に自分のために以下に挙げてみる。75本。

『マレフィセント』
『のぼうの城』
『グッドウィル・ハンティング』
『華氏451』
『誰も守ってくれない』
『ウォンテッド』
『幸せのレシピ』
『Xファイル ザ・ムービー』
『新しい靴を買わなくちゃ』
『台湾アイデンティティー』
『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』
『魔法にかけられて』
『フィッシャー・キング』
『88ミニッツ』
『Jersey Boys』
『エクスペンタブルズ』
『麒麟の翼』
『ヒッチャーⅡ』
『孤独な嘘』
『婚前特急』
『ハルフウェイ』
『大鹿村騒動記』
『武士の家計簿』
『劇場版 タイムスクープハンター』
『アウトレイジ ビヨンド』
『エターナル・サンシャイン』
『清須会議』
『ダークナイト ライジング』
『沈黙の戦艦』
『トゥモロー・ワールド』
『鈴木先生』
『猿の惑星 創世記』
『劇場版 銀魂 完結篇』
『名探偵コナン 史上最悪の2日間』
『コンタクト』
『ウェス・クレイヴン's カースド』
『PARTY7』
『TRICK 劇場版 ラストステージ』
『ツーリスト』
『網走番外地』
『トライアングル 殺人ループ地獄』
『そして父になる』
『Mr.&Mrs. スミス』
『昼下がりの情事』
『川の底からこんにちは』
『Tightrope』
『見えないほどの遠くの空を』
『風立ちぬ』
『エヴァンゲリオン 劇場版Q』
『サブウェイ123 激突』
『ネスト』
『ももへの手紙』
『寄生獣』
『ボクたちの交換日記』
『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』
『人狼ゲーム』
『塔の上のラプンチェル』
『世界侵略: ロサンゼルス決戦』
『ファミリー・ツリー』
『かぐや姫の物語』
『はじまりのみち』
『おとなのけんか』
『アパリション-悪霊-』
『生贄のジレンマ』
『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』
『ルームメイト』
『ダレン・シャン』
『FIN』
『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』
『シンプル・プラン』
『エイリアンズVS.プレデター2』
『閉ざされた森(原題「Basic」)』
『LAST7』
『ミッション・インポッシブル』
『コンスタンティン』

 75本というと5日に1本くらいか。もちろん、まとめて3本くらい観る週末があったり、3週間くらい観られない時もある。
 さて、こうして並べてみるとランキングしたくなるのが人情だ。だが、こういうのは観たタイミングによって評価が公平でないことは承知している。そのうえであえて順位をつけずに10本を選ぶなら、以下の作品たち。

『幸せのレシピ』
『Jersey Boys』
『エターナル・サンシャイン』
『沈黙の戦艦』
『トゥモロー・ワールド』
『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』
『おとなのけんか』
『FIN』
『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』
『閉ざされた森(原題「Basic」)』

 心温まるドラマ『幸せのレシピ』『Jersey Boys』、SFとして出色だった『エターナル・サンシャイン』『トゥモロー・ワールド』『ラスト・ワールド』、シチュエーション・スリラーというよりコメディーとしてよくできていて楽しかった『パーフェクト・ホスト』『おとなのけんか』、堂々たるエンターテイメント『沈黙の戦艦』『閉ざされた森』など、玉石混淆の中で確実に光る玉もあった1年だった。
 そして『トライアングル』『そして父になる』『見えないほどの遠くの空を』の3本はいくらか考察を加えたりして、その意味でもとりわけ印象深い。

 今年は『ウェディング・マッチ』による坂元祐二の再発見から『問題のあるレストラン』に熱狂し、そこから『最高の離婚』『Mother』などの連続ドラマを見直したり、古沢良太の『デート』、宮藤官九郎の『ごめんね青春』、木皿泉の『昨夜のカレー、明日のパン』などもあって、テレビドラマも面白いものの多い一年だった。『64』の完成度にも驚いた。

『コンスタンティン』(監督:フランシス・ローレンス)

 キアヌ・リーブス主演のエクソシスト物…などというより、神と悪魔の対立の図式の中で両義的な存在、いわゆるトリックスターたる「コンスタンティン」というダーク・ヒーローの活躍するアクションムービー。
 テレビ欄には「ホラー・サスペンス」って書いてあったんだけどな。
 キアヌが『マトリックス』シリーズの後に、シリーズ化を目論んだ作品だとか、『ハリー・ポッター』シリーズのスタッフだとか、ハードルの上がる惹句を先に聞いてしまうから、こんなもんかと思ってしまう。アメリカ映画の辛いところ。
 ビルのフロアにうようよと集まった半悪魔連中に聖水を浴びせるのに、ビルの貯水槽に聖水を混ぜて、スプリンクラーを作動させるとか、白スーツのサタンやパンタロンのガブリエルのキャラクターとか、面白いアイデアはあるんだが、いかんせん、脚本が浅い。
 フランシス・ローレンスは『アイ・アム・レジェンド』の監督なのか。愛しのディストピア映画として、もちろんゾンビ映画としても忘れることのできない一本ではある。もちろんあの結末にはまったくがっかりだったのだが、前半の、人気のなくなった廃墟のニューヨークの街並は実に良かった。「ダーク・シーカー」の設定も、単なるゾンビや、より設定の近い「28日後」のウィルス感染者に比べて、面白くなりそうな設定ではあるのだが、それをぶちこわす結末に失望した。
 ところが、調べてみると、この映画はもともと別の展開で終わるよう作られていて、そちらならば充分納得できる結末であるように思われる。それで観ていれば評価も今より高い一作になっていたかもしれない。惜しいことだ。モニターテストに参加した見る目のない観客のせいで。尤もその後は『ハンガー・ゲーム』なども録っているそうだから、ヒットには恵まれた大監督ではあるのだが。

2015年8月20日木曜日

『ミッション・インポッシブル』

 ああまた! 観始めてから、これは観たことがあるぞという記憶が甦るパターン。そして決定的に先が読めるほど覚えてもいない、という。そしてなおかつ、大物俳優演じる彼が黒幕だったというオチだけは覚えている、という。
 『ミッション・インポッシブル』は、シリーズの1から4まで観ているのだが、これが一番面白くなかったように感じた。ブライアン・デ・パルマにして!
 たぶん、悪い映画ではないんだろう。最初の作戦の失敗までは、画面作りにしても、さすがデ・パルマという奥行きを感じさせたんだが、最後の、高速列車の壁面にすがりついて、トンネルの中に入ったヘリコプターと闘うアクションなどは荒唐無稽に過ぎて白けてしまった。20年近く前だと、これもそこそこ見られる「ド派手なアクション」ってことになるのかいな。

2015年8月15日土曜日

『ウォーキング・デッド』

 娘が常に続きを観たがっているが、こういうことは年寄りは気が長くなっていて「そのうち」がすぐに何年にもなる。だが若者はそういうわけにもいかないので、折を見てとうとうシーズン4を観始める。
 驚嘆する。脚本も演出も入れ替わっているだろうに、どうしてレベルが落ちないのだろう。毎回面白い。第4期だというのに。
 このドラマの面白さは「選択の難しさ」の前で立ち止まる人々をぎりぎりまで真摯に描くことによって成り立っている。ゾンビの徘徊する世界という設定がそうしたドラマ作りを可能にしている。生き延びるために優先しなければならないことは何か? それが、我々の日常などよりはるかにシビアに、それだけ増幅された形で「難問」として目の前につきつけられる。安易な正解はない。だから選択した後で煩悶する。はたしてそれが正しかったのか悩む。
 その選択の結果の残酷さに震え、幸運に震える。
 毎回そうした状況設定をきっちり作り上げてくるスタッフに脱帽。

2015年8月14日金曜日

『LAST7』

 『FIN』『ラスト・ワールド』の流れでDistopia物、あるいは終末物を観たくなった。ゾンビ物は基本、それなのだがここはゾンビをはずして、それ以外の終末物をと、一度観たことがある『LAST7』を見直す。
 ロンドンの街から人々が消失して、主人公ら7人だけが人影のない街をさまよう、という大好物の設定(そういえば前エントリで熱く語った『遠すぎた飛行機雲』も、設定こそ戦時下だが、作品世界の空気はほとんどこうしたDistopia物のそれだ。むろんあの作品のテーマがそれだけでないことは論じたとおりだ)。
 だが、これまたネットではとびっきりの悪評なのだ。
 わかった、認める。確かに大した工夫もない。結末のカタルシスもない。オチの説明は『FIN』ほどの突き放し方はしていないものの、納得できるとはいいかねる。その点は、脚本の段階で物語が練り込まれて、結末に深い納得が得られる『ラスト・ワールド』などとは比べものにならない。
 それでも、それほどの不満はなかった。まず人気のない街中を少人数で歩くというシチュエーションを、とりわけ才気溢れるとはいえないまでも決してチャチには見えない映像で見せていたし、個々の場面の登場人物の言動や展開に、作り手の頭の悪さにいらいらさせられるような不自然さも感じなかった。確かに無駄にフラッシュバックの回数が多いとか、無駄にグロいとかいう不満はある。物語の広がりもない。
 だがまあ、これは人類消失もののSFではないのだ。そう誤解させるパッケージは罪だがそうでないことを知った上でこういう世界を楽しむには悪い出来ではない。確かに『FIN』のように、違和感の強い世界観を意図して構築しているのが感じられるような魅力もないのだが。

NHK杯全国高校放送コンテスト

 現在は関係していないのだが、気にはなっていて、毎年夏になるとテレビ放送をチェックしている。NHK杯高校放送コンテストの全国大会。娘と、ちょうど帰省していた息子も一緒に観る。彼らも、ここ数年来観ているので、それなりに通時的な評価もできる。
 そのうえで、今年は、とりわけテレビドラマ部門で、不愉快な放送視聴となった。理由は単純に、こんなひどい作品が全国の頂点なのかと、納得のできない不全感が残ったことだ。本当に、このレベルが全国から集まった作品の上位3作品なのか?
 本当にそうなら、今年の高校生たちがたまたまそうだったのだ、ということなのかもしれない。昨年の青森工業高校の作品は悪くなかった。好感がもてた(それでも下記の理由で、納得はしきれないのだが)。
 だが例えば、放送されて観ることのできる上位3作品の中の順位にも不信感はある。この三つでこういう順位かぁ…と腑に落ちない思いが残る。ドキュメンタリーは、ほとんど横並びだよなあ、と思いつつ、とりわけ掘り下げが浅いと感じていたものが優勝だったりするし、ドラマはそもそもが全国の上位3作品がこれか、というがっかり感があるうえ、その中でも許しがたいほどひどいと感じられたものが準優勝だったりする。
 もちろん、受容の感覚(つまり「好み」)は哀しいほどに人それぞれだ。流行の歌や芸能人に嫌悪感を抱いたり、自分の大好きな物に世人のほとんどが無反応だったりするのは子供の頃からの習いだ。
 そして、多少なりとも客観的・理性的であるはずの「評価」も、これまた驚くほど人それぞれでばらつくものだと思い知らされる経験も枚挙にいとまない。それはこのブログに映画の感想を書く度に、ネット上での評価とのズレを思い知らされて、承知していることではある。
 だが、ある映画が面白いと感じられるかどうかは、その日の体調や前日の過ごし方や、鑑賞前の期待値などによって大きく上下するものだろうが、コンテストで順位をつけるという行為が、こんなに「人それぞれ」でいいのだろうか。それとも単に、審査員と我が家の評価が食い違っているというだけのことなのか?

 コンテストの結果に納得できる、つまりあの作品(あるいはパフォーマンス)はすごいと素直に納得できれば、負けた悔しさも来年へのモチベーションも健全でありうる。それはコンテストを通じてその分野の発展を図ろうとする目的のために必要不可欠の条件のはずだ。
 だがそれよりも何よりも、コンテストの結果に納得がいかないことは、コンテストの参加者にとって悲劇である。外から見ていくら不全感だの不愉快だのいったところで、参加者当人の思いの激しさには無論及ばない。
 そのことが想像できるからこその「不愉快」なのである。

 こういう思いを、今回よりもずっと強く抱いたのは実際に、関わった作品をもって参加した平成22年のNHK杯放送コンテストの全国大会のときのことだ。その時には、煩悶のあまり、まったく縁のない(同じ年の全国大会に参加していた学校という点ではある種の縁もあるとは言えるが)学校の放送部宛に手紙を書き送ってしまった(学校の公式アドレス宛にメールで送ったのだった)。
 ただ、上記のような不愉快を解消したかっただけだと言っても間違いではないのだが、同時に、それはその「当人」たちの感じているであろうそれをいくらかでも晴らしたいと勝手に思ってもいたのでもあった。「不愉快」自体がそこから生じてもいるからだ(本当に独りよがりの「勝手な」思い込みだが)。
 それはこんな手紙だった。


 突然お便りします。某県の高校で放送に関わっております。先日のNHK杯放送コンテストの決勝のNHKホールで貴校のテレビドラマの主演の女の子を見かけ、思いあまって声をかけてしまった者です。
 NHK杯そのものは、高揚したお祭気分で過ごしたうえ、幸いにも本校は作品がひとつ決勝に進出し、3日間、楽しかったと言ってもいいのですが、直後に感じていた後味の悪さが、今に至るも、ずっと心にひっかかったまま、今も折に触れて思い起こされます。テレビドラマ部門の審査結果についてです。
 昨年のNHK杯も3日間、準々決勝からテレビドラマを追っていたのですが、準々決勝会場で青森東高校「転校ものがたり」と、松山南高校「ねえさん」を見た時の驚きは忘れられません。
それ以前のテレビドラマ部門出品は本校の過去の入賞作も含めて、所詮高校生が頑張って作ったもの、の域を出ませんでした。もちろん、作品をひとつ形にすることの労力はわかったうえで、物語にせよ映像にせよ、「これはやられた」と思わされるようなものにはお目にかかったことがなかったのです。一昨年の小野高校「この指とまれ」なぞも、そうした意味で、労作だとは思うものの、とても一般の鑑賞に堪えるような「作品」ではありません。
 それが「ねえさん」の、見るものの心をつかむ力と、「転校ものがたり」のあらゆる要素における完成度は、完全に「作品」としてその出自を問わずに享受できるレベルでした。この二作品に、準決勝会場で見た沖縄開邦高校「保健室の住人」を加えた三作品は、完全に他作品と段違いの力をもっており、昨年のNHK杯決勝は、テレビドラマ部門については、その意味できわめて納得できる、いわば「当然」という印象で発表を聞いていました。その中でも完成度の点で図抜けている「転校ものがたり」が優勝であろうとは予想していたのですが、審査結果を聞いたときは、むしろ自分の判断と審査員の判断が一致したことに安堵したものでした。
 今年度もまた準々決勝からテレビドラマ会場に居座って、玉石混淆の作品群につきあったのですが、私のいたA会場で青森工業高校「Tais-man」を見た時の驚きは、昨年の「ねえさん」「転校ものがたり」に匹敵していました。このレベルの作品が去年に続いて出てきたのか、と。
 夜、宿でB会場の上映作品を録画してきた生徒達と、いくつか印象的だったという作品を見た際、北海道の小樽潮陵高校「椅子」と貴校の「遠過ぎた飛行機雲」に、やはりうならされました。とりわけ「飛行機雲」の、戦時下の高校生という設定もさることながら、前半で二人が飛行機雲の正体を知らないという設定が明かされるやりとりの時点で、これは尋常じゃないぞ、と居ずまいを正され、その後、最後まで、その世界観、テーマ性、出演者の演技から演出、編集まで、あらゆる要素が尋常なレベルではない作品の力に圧倒され続けました。
 準決勝会場では、当然のように進出した「椅子」「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」をあらためて見直しながら、これは昨年驚かされた「転校ものがたり」らのレベルに肩を並べていると思っていました。あえて言うなら「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」の二作品が「転校ものがたり」と同等のレベル、「椅子」と「美術室のアイツ」がそれに次ぐレベル、以上4作品とそれ以外の作品との間にも大きな開きがある、というのが二日間見終わっての感想でした。
 決勝会場では、昨年の結果に対する信頼から安心して、上記4作品のうち3作品が決勝に進出しているものと、当然のように思い込んでいました。それが、あの結果です。信じがたい、という驚きとともに思い出されたのは、準決勝の審査員の選評です。
 貴校の作品が優良賞にとどまったのは、おそらくその完成度の高さゆえです。選評において審査員のNHKディレクターの中村氏は「映画っぽい作品が多かったという先生方の感想」があったという趣旨のことを最初に述べていました。それが第一声だったのは、おそらくこうした意見が審査結果を左右したことの表れです。中村ディレクターが個人的にそれについてどう考えているかは、あのコメントの中ではわかりませんでしたが、審査員団全体として、テレビドラマの審査においてわざわざ「映画っぽい」という感想を述べるのは、作品の、「作品」としての完成度(完結性というか)をとりわけ意識した上で、それを肯定的にか否定的にか判断していることの証左です。
 そのうえで、今年度の準決勝審査員は、「映画っぽい」作品より、高校生が作る「テレビドラマ」を上位に置きたいと考えたのです。商業ベースにのせても評価できる完成度の高い作品より、あくまで「高校生らしい」、未熟な作品の中から入賞作を出したかったのです。
 これは、私にはきわめて不健全な判断であると思われます。もちろん、完成度の高い「映画っぽい」作品より、「高校生らしいテレビドラマ」を選ぶという立場も、理屈としてはありうるのでしょう。放送活動は報道活動であり「作品」づくりの場ではないのだ、とか、完成された作品より未完成な作品の方が可能性を残している、とか、そもそも高校の放送活動は教育の一環なのだ、とか。
 あるいは単に「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」よりも「美術室のアイツ」「空色レター」「恋文」の方が好きだ、とシンプルに思う審査員が多かったのだとすれば(ちょっと信じがたいのですが)、それはそれで仕方がないとも言えます。人の「好み」はいかんともしがたい。しかし、何らかの「評価」をするという意識があって、「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」よりも「美術室のアイツ」「空色レター」「恋文」を高く評価したのなら、その批評眼の欠如は驚くべきものです。
 一方でおそらく私には、高校の放送活動というものへの思い入れが欠如しているのです。私は単に私を感動させてくれるものを見たい(聞きたい)。破天荒な未完成が面白いならそれもまた良し、です。プロの作るテレビ番組にはない「高校生らしさ」が面白いなら、結果オーライです。それが面白いなら。
 でも単に未熟さや稚拙さでしかない「高校生らしさ」や、映画に嫉妬しているだけの「テレビドラマらしさ」をことさらに持ち上げて、完成度の高い作品を排除しようとする心理が、高校放送に携わる審査員に働いたように思われてならないのが、この審査結果に感じる後味の悪さです。
  私が「不健全な」といったのは、生徒達が真摯に自分達の作品を作り上げようとするとき、それが自分達にはまったくあずかり知らぬ「高校生らしさ」という要素の有無によって評価されてしまうという事態です。作品は、単に自分にとって面白ければいい。最終的な評価者は自分だけだ(もちろんスタッフは複数いるので、それぞれにとっての「自分」ですが)、と信じて、より良いものを誠実に、真摯に作っていくしかない。その果てに、多くの人が認める「良い」作品が生まれるのではないでしょうか。そのことに誠実であり、なおかつ特別な才能のある者がスタッフにいた幸運なチームが、結局「良い」作品を作り上げるのではないでしょうか。そうした幸福な作品を、素直に讃えるコンテストでなかったことが(今年のテレビドラマ部門については)、残念でなりません。
  決勝進出の三作品については、「美術室」は前述のとおり、それなりに納得のできる質の高さをもっていて、なおかつ「高校生らしさ」を備えていました。決勝に進出した時点で、これが優勝であるのは納得されるところです。しかし同テーマの作品としては2008年の優秀賞、青森県立田名部高等学校の「壁」の方が力があると思います。
 「空色レター」は、ソツなく作ってくるなあと、悔しく思いました(「悔しく」というのは、それなりに手が届く、という感触を含んでいます。「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」にはそのような対抗意識の生まれる余地がありません)。
 「恋文」は「なんでこれが?」というのが感想です。むろん好感の持てる作品であるのは間違いないのですが、準決勝進出作品の中でこれが抜きん出ているとはとても思えません。よって決勝進出三作品にもかなりの開きがあるものと思われ、結果の順位は納得のいくものでした。
 貴校の「遠過ぎた飛行機雲」は、本当に素晴らしかった。先に述べたように世界観、テーマ性、出演者の演技から演出、編集まで、あらゆる要素が、です。どんな才能の持ち主がいるのだ、と驚嘆したのですが、それもそれを支えるスタッフあっての作品です。ごくろうさま。そしておめでとう。このように「幸福な作品」を生み出せたことに対して。
 主人公二人以外の誰の姿もないあの作品の世界が、思い起こす度になんだか郷愁のような懐かしささえ感じさせます。高校生が素直に夢を語ることの困難と、困難故の安穏を、戦時下という設定で描いたあのテーマは、実はそっくりこの現実の抱える困難の裏焼きではないか、と考えるのは穿ちすぎですか?
 二週間以上も過ぎてまだもやもやと晴れないもどかしさをつらつらと書き綴ってしまいました。審査員に向かって言いたいことではありますが、こういうのは当人たちに向かって言っても仕方がないのが世の常です。せめて素晴らしい作品を作った皆様に、こういう感想を抱いた参加者が、きっといっぱい(とりあえず私の周りにも)いるのだということをお伝えしたくて筆を執りました。
 またお互い、良い作品を持ち寄って、来年もお会いしましょう。
佐賀県立有田工業高校 放送部様

 このメールを出してしばらくして学校に連絡が入った。所用で上京するこの放送部の顧問の先生が、上京のついでに面会したいというのだった。
 思ってもみないことだった。

 2時間ほど、あれこれと高校放送業界のことやら、「遠すぎた飛行機雲」その他の作品のことなどお喋りして、ついでに有田工業高校放送部の作品集DVDをいただいたのだが、今回、久しぶりに、DVDに収録されている「遠すぎた飛行機雲」を見直してみた。
 もう何度観たかしれない。やはり素晴らしい。本当に奇跡的に素晴らしい。そしてそれは単なる偶然のような「奇跡」ではなく、まぎれもなく部としての力の集積でもあり、真摯で誠実な努力と、あまりに真っ当な技術力の賜物なのだった。
 これが上記のような評価をされるNHK杯とは、いったいどこに向かっているのか。

2015年8月9日日曜日

『閉ざされた森(原題「Basic」)』監督:ジョン・マクティアナン

 ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンというのだから安い映画ではなかろうと観始めた。軍の訓練を舞台にしてはいるが、戦争物ではなく、サスペンスというか、結論を言えばミステリーだった。
 いやあ、面白かった。ネットで評価の低い人の言うように、確かにアメリカ人の顔と名前が覚えられなくて話がわかりにくい。が、幸いにも録画して、しかも途中で何度も確認して先へ進めたので、二転三転する真相が明らかにされていく展開の前の段階で、ある程度の人物関係を把握できた。だから、この映画の肝であるどんでん返しは充分に楽しめた。どうもミステリーらしいという情報を先に得ていたのは、この際、ラッキーだった。事件が把握できないまま結論だけ知ってしまったら残念な印象に終わってしまったかもしれない。
 『戦火の勇気』も、戦場を舞台にした、いわゆる「藪の中」もの(関係者の証言が食い違っているから真相が確定されない、という)だった。もちろんあれも面白かったが、『閉ざされた森』はそれ以上だった。結末前のカーニバルを背景としたシークエンスの迷宮感と、大どんでん返しの最終結末が明らかになる時の快感が見事だった。しかもありがたいハッピーエンド!
 もしかしたら、よく考えれば『ツーリスト』同様の矛盾がどこかにあるのかもしれないが、それも次回観る時に探してみようという気になるくらいには大満足だった。誰の作品だ? と思ったらジョン・マクティアナンじゃないか! 『ダイ・ハード』はオールタイム・ベスト10作品だ。『プレデター』の1作目もそうなのか。おまけに脚本のジェームズ・ヴァンダービルトって人は『ゾディアック』(デビッド・フィンチャー監督)の制作と脚本も手がけている。こちらが知らなかっただけで、最初から期待してもいい作り手の作品なのだった。

2015年8月7日金曜日

『エイリアンズVS.プレデター2』

 『エイリアン』シリーズも『プレデター』シリーズも全部観ていて、『エイリアンvsプレデター』も面白かったから、観ない理由はないんだが、観始めるとなんだか見覚えがある。この感じが怪しい。既視感のある場面もありつつ、まるで記憶のない場面が大半という、このパターンは時々あるな。つまり観てはいるが、どうでもいい映画だったというケースだ。
 錚々たる監督の並ぶ『エイリアン』『プレデター』本家シリーズはどれもエンターテイメントとしてよくできた映画ばかりである。『エイリアンvsプレデター』も、『バイオハザード』シリーズのポール・W・S・アンダーソンらしい隙のない物語運びだった。
 何も南極にプレデターの遺跡があるとか、『プレデターズ』のようにどこぞの惑星を舞台にするとかいう大がかりな物語設定にしなければ面白くないというわけではない。地球の、我々のいる街に舞台を置くのはむしろ予算をかけないで良い映画を作ろうという志さえあれば悪くない選択だ。
 そうであればこそ、とにかくも脚本と演出の勝負ではないか。この日常に化け物を放り込んで起こりうる小さなドラマを積み重ねてサスペンスを盛り上げるか、そうでなければやはり物量作戦のロケと特殊撮影だ。どちらも中途半端な本作は、やはりたぶん観たことがありながらもその程度の印象しかない凡作だった。