2015年8月28日金曜日

『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーパー)

 娘が夏休みの宿題で、なんらかの意味で「歴史物」といえる映画を観て、その背景となる歴史とともに感想を述べるというレポートの題材として、『英国王のスピーチ』を選んだ。以前一度観ていて、内容を知った上で選んだのだ。夏休み終盤のこの時期についに観るというので、ついでに一緒に観る。

 物語は、第二次世界大戦の開戦時に英国王だったジョージ6世が、吃音を克服して、ナチスドイツへの宣戦布告のラジオ放送によるスピーチをするまでを描く。
 アカデミー作品賞受賞作だ。面白いことはわかっている。前に観た時も面白かった。感動的でもある。そこらじゅうが面白い。
 中心となるのは言語療法士とジョージ6世の吃音克服の訓練なのだが、無論これは単なる機能障害に対する訓練ではなく、吃音の原因として映画の中で描かれている精神的な緊張の緩和をどう実現するか、という問題である。そのために、早口言葉や体操などの肉体的な訓練もする。それが精神の緊張の緩和に資するならば。
 だが主人公の英国王とともにもう一人の主人公といってもいい言語療法士のライオネル・ローグが、それまで解雇された何人もの、正式な資格を持った言語療法士と違ったのは、吃音の克服の鍵が機能的な訓練にあるのではないことを理解していたことだ。英国王を特別視せずに、王宮ではなく自身の自宅である治療院での治療を了承させ、後の英国王を愛称で呼び、友人として振る舞う。吃音の原因は王子としての生育歴、あるいは王族としてふるまわなければならない現在の状況にあることを見抜いていたのである。
 とすれば、吃音の克服は、機能訓練による快復とか上達などではなく、すなわち端的に、コンプレックスの克服にほかならない。生来の左利きやX脚を矯正され、厳しい父親に抑圧された過去を持つ自分を告白し、王族としての重圧に押しつぶされそうな現在の自分を受け入れ、自然に生きることが、どもらずにしゃべれることに結果するのである。
 ここが、この物語を、数多あるスポーツ映画の感動に、少しばかりの上乗せをしている。というか、むしろ共通点は多いといっていい。「ロッキー」「がんばれベアーズ」「ザ・ベスト・キッド」「シコふんじゃった」「ウォーター・ボーイズ」…、弱者が頑張って練習して勝ちました、というパターンのスポーツ根性映画は枚挙にいとまない。面白い映画は面白い。『英国王のスピーチ』も、実はそうした、頑張ったものが報われ、祝福される幸福を描いた映画だ。
 そしてその描き方が充分にうまければ、物語は感動的になる。もちろん充分にうまい。だが、これがアカデミー賞で作品賞に輝くには、さらなるプラスアルファが必要だともいえる。
 前述の『ロッキー』もまたアカデミー作品賞受賞作だ。おそらくそこには、「頑張ったスポーツ映画」としての感動に加えて、「貧しい労働者であるイタリア系移民の成功」という、アメリカン・ドリーム物語の体現が要因となっている。
 そして『英国王のスピーチ』の場合は、クライマックスのスピーチが、ナチス・ドイツに対する宣戦布告の国民放送であるという点で、その成功に、単なるスポーツ映画における大会決勝戦の勝利とは違った意味合いを見ているのだろう。
 今回見直して印象深かったシーンの一つに、ヒトラーの演説のニュース映像を見ながら、主人公が「演説が上手い」と評する場面がある。主人公はその前に国王の戴冠式を成功裡に過ごしており、だからこそ国民を熱狂させるヒトラーの演説を、羨望でもなく嫌悪でもなく、単に感心してみせることができている。そしてそれはヒトラーのような狂信的な熱狂に人々を巻き込むのとは違った形で、主人公の語りかけが人々のうちに静かにしみ入っていくようなクライマックスのスピーチの成功を際だたせる。
 そしてもうひとつ、今回見直して印象深かったのは、前に観た時には、クライマックスのスピーチを、大会決勝戦における9回裏2アウトで迎えた主人公の打席のように、成功を祈る関係者の視点からのみ見てしまったのに対し、同時にそれ以上に多くの人にとって、それがファシズムに対する自由主義の戦いの宣言だったのだという重みである。
 スピーチの成功は、主人公が幼少期からのコンプレックスや英国王という重圧から自由になって、一人の個人としての彼自身になれたことを意味しながら、同時にそれは自由主義を代表する言葉として、ある理念の象徴になるという二重性を担っていることをも意味している。
 こうした物語の構造が、この映画を数多のスポーツ根性映画を超えるプラスアルファを持った作品にしている。

0 件のコメント:

コメントを投稿