2020年7月26日日曜日

『ジュラシック・ワールド/炎の王国』-毎度

 『怪物はささやく』のバヨナ監督による、シリーズ第5作。意識はしていなかったが、調べてみるとここまでの4作もテレビ放送で観ているのだった。
 もちろん劇場では3D上映なんだろうから、そうして、大音量で観るべき映画ではあるんだろう。だが、テレビでは、やたらとこちらに飛んでくるものが多いのと、あまりに不自然にギリギリで危機を回避する場面の連続で、かえってしらけてくるのだった。
 最初の島の、火山噴火による大スペクタクルは圧倒されたし、そこに残される首長竜の切なさはうまかったが、本土に移ってからの大部分は、毎回の感じに尽きた。バヨナ監督だから、といった特別感はなかった。
 サスペンスにしても、『スーパーマン』や『キングコング』と同じような、スケール感の違和感が拭えない。なぜちょうど良い危機のレベルに調整されてしまうのか、といった不信感が頭をもたげてしまうのだった。

2020年7月25日土曜日

『怪物はささやく』-高いレベルの画作り

 新作が公開されるというので『ジュラシック・パーク/ワールド』シリーズの第5作がテレビ初放送だというのだが、その監督の前作というので、これは『ゴジラ』のギャレス・エドワーズにとっての『モンスターズ』か、と観てみる。
 が、調べてみると『モンスターズ』のような低予算映画とはいえない、堂々たるメジャー映画なのだった。シガニー・ウィーバーやリーアム・ニーソンが出ている。

 始まってみると、またこれが堂々たる画作りで、安っぽくない(『モンスターズ』も、低予算の中で安っぽく見えない巧妙な画作りはしていたが)。CGの「モンスター」が作り物っぽいのは限界なんだろうが、途中に挟まれるアニメーション・パートのレベルはものすごく高かった。いちいちの画面が、それだけで一枚画として見られる芸術的な画の連続で、しかも視点の移動や物の変形など、アニメとして工夫すべき点がおそろしく高いレベルで成立していた。本当に、驚くくらい。
 そしてアニメ・パートで語られる挿話がいちいち印象的なのも、とてもよい。

 全体として、良い映画ではある。主役の少年ルイス・マクドゥーガルも、哀しげな困ったような顔が実に良かった。
 お話としても、切ない物語を感動的に描いている、とは言える。
 だが、仕掛けとしては単純で「これだけ?」と思ってしまったのは、画作りの豪華さに対して、お話が単純に感じたせいか?

 それにしても一つ前に観たのが、カメラワークが単調な長回しの映画であることが特徴の『翔んだカップル』で、それに比べていちいちのカメラワークや編集に凝った本作は、あまりに「映画」として異質な物に感じた。
 そして、それだけに作り物じみて感じられる本作に比べて、『翔んだカップル』の生々しい手触りがいっそう強く感じられるのだった。

2020年7月23日木曜日

『翔んだカップル』-普通なスターという両義性

 相米慎二に愛着はない。30年くらい前には『台風クラブ』も『光る女』も、徒にわけのわからない演出をして観客を煙に巻くのが芸術的だと思っているのかと言いたい感想を、当時もった。
 だが今、観ることのできない『雪の断章』をもう一度観たくてしょうがないし、後期の評価の高い作品も機会があれば観てみたい。

 監督デビュー作の本作は、時代を感じさせるダサさは確かにある。この間何本かまとめて観た韓国映画のように、滑稽な言動がお約束のように描かれるのはどちらかといえば不快だ。そんなものを求めている観客に向けて作られているとは思えないのに。
 そして、お話がよくできているとも思えない。脚本が丸山昇一だとはエンディングクレジットで知ったが、どちらかといえば丸山の評価を下げた。
 人物像も作りが雑でまとまりに欠ける。これは相米の演出方法のせいもあって、これでこそ醸し出されるリアリティもある。それは登場人物というより役者のリアリティで、役者の未熟さがそのまま人物像の混乱に表れている。それでもいいという評価もあるだろうが、主人公の二人くらい、もっと微妙に描いても良いのに、と思った。
 有名な長回しは、功罪あるだろう。視点の切り替えによる情動の誘導や画作りの面白さがないことによる平板さを上回る演技の熱が生まれているか。あるような気もする。
 これも時代柄しょうがないとはいえ、家事を女性しかしないのが前提となっていて、そのことについてのエクスキューズがないのも、今観ると不愉快ではある。「翔んだ」などという、「新しさ」を表す形容(かえってそれこそ古めかしい)がついているというのに。

 だが観終わって、この感じは『君の膵臓が食べたい』のようだと思った。認めるのに抵抗のある、しかし否定しがたい、ある懐かしい感じ。都合の良い願望を伴っているから、恥ずかしいが、しかし抗いがたい愛着。
 男優は鶴見辰吾よりは尾美としのりが良い仕事をしている。屈折しつついい友人でもいようとする人物像を達者に演じていた。
 女優は石原真理子は魅力がまだ発揮されていないが、なんといっても薬師丸ひろ子が圧倒的。
 この映画の魅力は、もちろん設定にそのほとんどを負っているのだが、薬師丸ひろ子の存在がやはり大きい。
 今観ると、やはり映画の主演をするには不似合いな「普通さ」が、おそらくこの映画の後味に大きく貢献しているのだ。「普通の女の子」といえばキャンディーズだが、薬師丸ひろ子の「普通」さに比べればやはり「アイドル」然としていた。それはステージ衣装の非日常性と、言動の作為のせいで、この映画当時の薬師丸ひろ子こそ「普通」に見える。
 それでいて同時に「銀幕のスター」でもあるという特異なアンビバレンスを体現していたのだった。
 それが、この物語を、まるで自分が経験したかのような懐かしさとして体感させる。

 上で「つまらない」と評した画作りだが、やはり坂道を自転車で下る有名なシーンは、やはりどうにも印象的だった。

2020年7月19日日曜日

『海底47m』-シンプル

 海中に吊したケージの中でサメを見るというシーンは、いくつかのサメ映画で見たことがあるが、サメ映画の本義としては、ケージを破壊するほどのサメのでかさと獰猛さを描くところだが、この映画ではそれも、なくはないが、それだけでは保たないので、その描写は、あるにはあるが、頻発はしない。
 それよりもケージを吊していたウインチが壊れて海底までケージが落ちてしまう、という現実的な恐怖を描く。題名もそのままでシンプル。
 
 こんなシンプルなアイデアだけで一本の映画になるのかいなと心配していると、最後辺りのドンデン返しに工夫はあるとはいえ、全体には素直な作りだった。
 しかし、海底の絶望的な恐怖は実にリアルで、それだけでも作品として成功している。
 ケージを出る必要はあるが、ケージを出たときの寄る辺無さ。
 そして海底が崖状に落ち込んで、下が暗くて見えないところを泳いで進む恐怖。
 サメ映画ではない。暗い海中に対する恐怖は実に共感できる。サメ映画ではない。
 これを表現できているだけで成功である。

2020年7月11日土曜日

『ミッドサマー』-奇妙な決着

 コロナ騒ぎの前に観に行く予定を立てていたのだが、上映中止になって流れていたのだが、営業再開に伴って最近あちこちでまた上映されだしたので、候補を探って、渋谷の小さな映画館で上映されているディレクターズ・カット版170分を観てきた。当初の通りそもそも誘ってくれた娘と。
 アリ・アスター監督の前作『継承』は、興味は引かれているのだが観ていない。もちろん観たい。タイミングを見計らっているだけだ。これを宇多丸さんが年間ベスト1に挙げているのだ。本作も期待してしまう。

 終始手堅い演出で、確実に恐怖を高めていく物語運びは、なるほど上手い。
 問題の「その村」に着くまでがまず相当に長いのだが、主人公の背景をこれくらいに描かないと、確かに物語の決着にいたる流れに説得力が得られないから、それもまた充分な必然性がある。演出が手堅いから、映画を観ることの快感がどの断面にもあって、飽きることもない。
 そして「その村」の明るさと美しさは、なるほど前評判どおりだ。『ハリーの災難』の紅葉は「総天然色」とでも言いたい人工的な美しさ(形容矛盾)だったが、本作は現在の技術で高精細になって、いよいよ「総天然色な自然」にも見えるが、一方でその美しさが不穏でもあり、それはそれでやはり「人工的」な美しさではあるのだった。
 その不穏は、「いつくるかいつくるか」という不安/期待の裏返しである。
 そして、期待通りに(時折は期待を裏切って)その不安は現実になる/ならない。
 恐怖と言うより居心地の悪さ。  
 ストーリーの型も味わいも『ゲットアウト』を連想させる。
 だが敵はそれを「悪」とは呼べない「伝統」「習慣」である。
 倒すべき相手ではなく、逃げるしかない状況なのだが、逃げおおせて終わるハッピーエンドではない、観たこともない奇妙な決着をみる。

 さて、大いに面白かったのだが、帰ってからネットの評価を見ながら思ったこと。
 主人公の恋人が「クズ」と評されるのは、それほど同意できない。
 二人の関係はきわめて微妙な配慮が行き届いた適切な描写がされていて、どちらもがそれなりに分別のある常識的な言動をしながら、それでもやむをえず心が離れていく現実的な残酷さを描いていたと思う。したがって、最後の悲劇を、因果応報的なカタルシスで受け止めることはできなかった。結末は現実的な悲劇が、そのまま不条理な悲劇に転換していると感じた。
 結末は、主人公にとっての救いになっていることは、理屈の上ではよくわかるのだが、それでも観客がそれを素直に喜べないという居心地の悪さがこの映画の後味の良さ/悪さなのだろう。

 途中で何度か笑えてきたのだが、ホラーだというのに可笑しいとすら感じる「変」さは、狙っているのかどうか判然としなかったが、ネットには笑えるという感想もあり、これもありうる感じの一つなのだと得心。

 終わって駅までの渋谷の街は12時近いというのに多くの若者で溢れていて、これから帰れるのか、帰らずに夜を明かすのか。

2020年7月5日日曜日

『ハリーの災難』-アンバランス

 まるで画のような、不自然とも言えるほど綺麗な紅葉の野山の風景に圧倒される。いや、そういう映画ではない。一人の男の死体をめぐるドタバタのブラックコメディ。
 コメディだからこういう扱いでいいのだろう。死体に対する扱いが不謹慎であることに目くじらを立ててもしょうがない。
 だが登場人物達が何をどう感じているかで、物語のサスペンスがかわってくる。それにどの程度の不安を感ずるのか、何を喜ぶのか。
 どうもそれがよくわからない。観ていてピンとこない。
 「二枚目」の画家と未亡人の「ヒロイン」の突然のメロドラマも、どうして必要なのかわからない。映画のお約束として、ということなのだろうが、観ているこちらはまるで要求する気になれず、喜ばしくもない。

 全体としては三谷幸喜風のスラップスティックとしてはよくできたお話なのだろうと思いつつ、上記の様なわけでどうにもしっくりいかず、感情が動かなかった。
 シャーリー・マクレーンの可愛さと紅葉の美しさというだけでは。

2020年7月4日土曜日

『めまい』-よくできたサスペンスだが

 ヒッチコックでもとりわけ名高い本作だが、初めて観る。
 なるほど、どこへ連れて行かれるかわからないストーリー展開のサスペンスがすごい。オカルト展開を半信半疑で観ていると、驚くような意外な決着をみて、どうなっているのかと思っていると、そのうち合理的解説がなされるドンデン返し。
 とてもよくできたサスペンス映画だと思いつつ、名高い高所恐怖症の「めまい」描写は、まあどうでもいいと思ったし、ジェームズ・スチュアートとキム・ノヴァクの年の差が不自然で、ラブロマンスに違和感がありすぎた。いきなりすぎだろ、という感じも。

2020年7月2日木曜日

『ドント・イット』-売り方を間違っている

 『ドント・ブリーズ』と『イット』に乗っかって、ホラー映画として見せたいんだろうが、全く間違っている。そんな風に売ってしまえば、不評の嵐になるのは目に見えている。オカルトではあるがホラーではない(終わり近くにいくらかホラーテイストがあって、これはむしろこの映画の失敗でさえある)。
 ホラー映画を借りたつもりだったが、そうでなかったことに不満を言うつもりにはならなかった。
 子供を亡くした母親が降霊術を行う、というただそれだけを丁寧に描いた映画。
 だが、おもしろさはその手順が興味深いというよりむしろ、それを手助けする降霊術に詳しい中年男が胡散臭いことによっている。母親が、どこまで信じればいいのかに迷い続ける間、観客もまた、これがどういう映画なのかを疑い続ける。どのあたりに決着させるつもりなのかよくわからんのだ。
 感じの良くない人間でないのは確かだが、降霊術に関しては本物かもしれない。そう思って観ていると裏切られるエピソードも描かれる。
 「儀式」というものについての根本的な怪しさもある。その様式にはどんな合理的な理由があるのか? 説明ができなくても信じるしかない部分もあるんだろうが、伝承に伴う情報の歪曲だってあるだろうと思えば、そこをそのまま信じるべきか迷う。
 結局はオカルトなのだが、同時にそれは母親の内的なドラマでしかないともいえる。外的には何が起こったわけでもない、ともいえるからだ。

 淋しいイギリスの風景が全体に良い感じ。ヨーロッパ映画だなあ。
 そういう映画だと知らせて、それで観たい人に見せればいいのに。単なるB級ホラー映画だと思わせて、ホラー映画として面白いことを期待している人に見せるのは売り方が間違っている。