2023年8月21日月曜日

『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』-脚本のうまさでひっぱる

 評価の高いホラー・サスペンスを。

 確かに亡霊がわらわらと出てきてヒロインを脅かすのだが、ほとんど怖いわけではない。それよりも、この後どうなっていくのかというサスペンスの方が物語をひっぱる。ある種の、精神的なタイムリープが設定されているのだが、過去の誰と現在の誰が対応しているのかについて観客をミスリードさせて意外な結末で締めるという、かなりよくできたお話だった。

2023年8月19日土曜日

『キャスト・アウェイ』-相対化

 これもまた「世界サブカルチャー史」の導きがなかったらあえて観ようとは思わなかったであろう映画だが、観始めるととても面白い。飛行機事故で遭難して無人島で4年過ごし、筏で海に乗り出したところで貨物船に発見されて生還する、というそれだけの話なのだが、となれば問題はディテールだ。文明社会での生活ぶりと、無人島でのサバイバル生活の対比、サバイバル生活における飲み水や食料、火の貴重さや孤独との戦い、物資の調達などを、どれほどリアルに感じさせるか。

 もちろん甘いという批判はあろう。実際のところ生き延びるのは困難だろうが、ありえないと断定してしまう必要はなかろう。あることにしないと物語は成立せず、その中ではそれなりにありそうな細部を描く。

 そして文明社会に戻ってきて、そこにある豊かさがあらためて相対化される。この感じは最近では『トレイン・スポッティング』で、荒んだ生活と真っ当な社会生活が対比されることで、その「真っ当」さが相対化される感覚と似ている。本作では文明の利便性は、文明社会にあっては当たり前だからこそその価値をあらためて再浮上させつつ、だからこそその価値を失っていることを実感させもする。例えば「チャッカマン」でカチカチと火を点けて憮然とする主人公は、無人島での火起こしの苦労を思い出しているのだろうが(観客も同時に想起する)、その表情はその便利さに感謝するというよりは、火が起きたときの感動を失っていることを示しているのだ。

 孤独と愛情も同様だ。無人島でバレーボールに顔を描いて「ウィルソン」と名付け、話し相手にする設定は、孤独を描写する巧みな方法だった。筏からウィルソンが流されて遠ざかって行くシーンは本当に悲しかった。映画は、悲しいと感じさせるだけの描写に成功していたのだった。そして、戻ってきて再会できた妻とまた別れなければならない最後は、文明社会にあっても、本当に価値あるものを失うことの痛みは、状況にかかわらない普遍的なものであることをも感じさせた。

 最後に、遭難によって届かなかった荷物を送り先に届けようとするエピソードは、因果を収束させようとする脚本的な魅力に富んでいたが、それだけでなく、最後の交差点の先に拡がる空間の茫漠とした広がりが未来に対する不安と期待を象徴していることは明らかで、そのことを強く感じさせる映画的な描写は素晴らしかった。

2023年8月15日火曜日

『打ち上げ花火』-「懐かしい」

 最近の「家庭教師のトライ」のCMが本作のパロディであることに気づいたのは、あろうことが筆者ではなく、本編を見たこともない娘だった。そんな話題が帰省した息子を交えたタイミングで交わされたのを機に、やはり観たことがないという息子と観直した。さらに勢いに乗って『少年たちは花火を横から見たかった』まで。

 前回観た時から長い時間を経ているわけではないので、感想は前回と大きく変わるわけではない。やはり感動の中心は「懐かしさ」だった。

 それから、あらためて『少年たちは』を観て、本作には「銀河鉄道の夜」がモチーフになっていることと、未定稿の朗読劇が主役二人によって実演されているシーンに感慨を覚えた。最近丁度、朗読劇にかかわっていて、その中で「銀河鉄道の夜」が候補として検討されたのだった。あらためてアニメ版を観直し、初めて原作を通読した。

 そんなこともあっての朗読劇は、なんとも面白いと思えたのだが、とはいえ、ありえたかもしれないその場面としてそれを朗読によって想像すること自体がやはり奇妙に「懐かしい」のだった。

2023年8月14日月曜日

『クライマーズ・ハイ』-それぞれの「善」

 もう一度あの凄さを確かめたくて録画して観ると、実際に日航機事故のあった時季にあわせた放送なのだということに、10数年ぶりに観直してみて気づいた。

 あらためて原田眞人監督作なのだということも今回認識した。多分前に観たときには原田眞人の他作品についての認識もなかったのだろうと思う。そう思って観ると、本当に見事に原田眞人ならではの群像劇なのだった。新聞社のフロアにいる数十人がそれぞれの「自分」を演じていて、それが細かく画面に掬い上げられている。撮影も編集も、神業のように思える。その演出プランを可能にしている脚本も本当に見事だ。同じ原田監督の『浅間山荘』でも同じように感じたが、例えば同じタイプの物語であるはずの『Fukushima 50』がこれにはるかに及ばないのをみると、原田眞人がどれほどすごいかをあらためて感じる。

 もともと原作の魅力の多くの部分はまさしく、それはそれは見事な群像劇であることだ。単に多くの人物がリアリティを持っているというだけではない。多くの「立場」が、それぞれにリアリティを持っていることが、横山秀夫の原作の見事さなのだった。単に善悪の対立ではない、それぞれにとっての「善」の対立。

 それをあますところなく描ける映画監督としては、現在の日本映画で原田眞人以上の監督は思いつかない。


 18年前にはNHKのドラマ版の『クライマーズ・ハイ』にもえらく感心した。そこで映画版を観終わってすぐ、ドラマ版も観直してみた。やはり尋常のドラマにはない緊張の連続する重厚なドラマだった。が、ほとんど同じ尺の映画版は、単に画面の単価が高いという以上に、脚本も演出も、さまざまな細部が詰められていて、密度の高い、本当に見事な物語になっているのだった。


2023年8月11日金曜日

『ブラック・ボックス』-好みの結末

 事故によって記憶に障害のできた主人公が、実は事故の際に別の「人格」をインストールされていたのだ、という設定なのだが、この設定を素直に受け入れられない。

 この手の設定では、脳に障害があって体が健康な者と、その逆に不治の病に冒された健康な脳とが組み合わせられるのが合理的だが、本作では二人とも事故で脳に物理的な損壊を受けてしまう。生前の「人格」がデジタルデータになっていて、それをインストールするとその人になるなどという科学力がどれほど未来のことになるのか想像できない。他人から見た「その人」がデジタル的に再現できるようになるのはそれほど遠くないだろう。だが、そうしたAIが自意識を持った「その人」自身になるのは、次元の違った困難を伴うはずだ。「その人」を構成する情報がどれほど多量なのかも、それをどうデジタル情報に変換するかも、想像だに難しいはずだが、それが、それほど未来であるようにも設定されていないらしい映画内世界において実現するなどという設定を受け入れることができない。

 無理な設定を受け入れないと物語、とりわけSFを享受することはできないのだが、それが可能になるのは、それに対するリアリティをどれくらい描こうと努力するかに応じているのだ。この映画ではそれが描かれているとは言い難い。そもそも「脳死」を「植物状態」と混同しているのではないかとさえ思える。「脳死」ならば物理的な損壊によって既に脳の機能が消失しているのだから、そこに「人格」のインストールも何もないだろうに。

 物語は、元の体の人格とインストールされた人格との戦いになるのだが、物語的には、元の体の方が優勢になるのは目に見えている。なぜなら元の体の持ち主の娘との生活が描かれ、観客がそちらに感情移入してしまっているからだ。この葛藤をシリアスに描くなら、インストールされた人格の家族についても(あるいは個人の人生について)同じくらいの比重で描いて、観客がどちらかに簡単に肩入れできないように描かなければならない。

 その上で人格同士の戦いの結末は一応は決着するとして、二つの人格が混ざったような新しい人格になったのだというような結末が好みだなあ。無茶な技術で利己的な操作をしたマッドサイエンティストが罰せられるような単純な結末はつまらない。

 安っぽい作りだとは言わないが不満のない高評価とは言い難い。アマゾンレビューの高評価と一致しない。

2023年8月10日木曜日

『ブラック・フォン』-明確な欠点

 同日に二本立て。

 『アンテベラム』は批評家には低評価だったのだそうだ。一方の本作は高評価だという。よくわからない。好き嫌いはどうにも人それぞれとはいえ、映画的な力は『アンテベラム』の方がはるかに上だ。もちろんそれは面白いかどうかとは等しくはない。本作に別の面白さがあれば良い。

 連続殺人鬼に掠われた主人公の少年が過去の被害者の幽霊のアドバイスによって殺人鬼に打ち勝って脱出するという、ストーリーはシンプルなものだ。5人の幽霊のアドバイスがすべて結びついて最後の脱出を成功させるという伏線回収が見事で、それだけで悪くない映画ではある。

 だが明らかな不満も数々ある。

 アドバイスは監禁場所の地下室にある黒い電話を通してなされる。電話で話していると、近くにその被害者の幽霊が不意に現れるのが悪趣味ではある。画面に不意に幽霊が血まみれの姿でフレームインして、観客にいたずらにショックを与える安易な演出が低俗なのだ。幽霊は主人公の味方をしようとしている。生前の姿でいいではないか。いや、姿もいらない。電話で話しているのだから。

 被害者の生前の描き方にバラつきがあるのも気持ちが悪い。描かれないと感情移入もできないし、描かれている被害者は冗長に感じる。いよいよ主人公の番になるのは映画の開始から3分の1ほどなのだが、そこまでに自然な形でそれぞれの被害者のエピソードを描けないものか。

 殺人鬼の動機が中途半端に謎なのも気持ち悪い。ブギーマンのように自動的なわけでも、快楽殺人でもないらしい。ある種の期待を被害者の少年に対してしているらしい(ゲームをしたがっている)のだが、それが充分にわかるようには描かれない。ホラーというゲームにおいてはルールが明確にならないと不全感が残る。「ルールがない」というルールでさえ。

 ある種の超能力をもっているらしい妹が救出劇に寄与するのかと思いきや、結局まったく関係なく主人公は幽霊の助力のみで脱出する。これも物語の因果論的に不全感が残る。

 肝心の「黒電話」の由来もわからない。


 以上のように明確な欠点が数々あるのだが、まあ上記のような意味でつまらなかったわけではない。

『T2 トレインスポッティング』-前作という「青春」

 あの破滅的な物語に対して、20年経って、完全な続編を作ろうと、どうして思いたったものか。だが「青春」には決着をつけるべきなのかもしれない。どうなるのか気になるというのは、『1』の中だけではないともいえる。彼らのその後の人生がどうなるかはやはり気になるのが当然かも知れない。

 さて映像表現はますますグレードが上がって、観ていること自体に映画的な快楽がある。意外性の高い画角と挿入映像、編集のテンポ。見事だ。

 で、物語の方はと言えば、それなりに救いもあるが、相変わらずの退廃的な生活ぶりの変わらなさは、もしかしたら、思いのほか「青春」なんてものの特別さはないという結論なのかも知れない。そういえばちょうど今観ている「最高の教師」というドラマの中で、高校生が教師に「青春って何?」と問いかけるシーンがあって、脚本では高校生の頃について「後から振り返ってあれが『青春』かもしれないと思う」と語っているが、そのことの特別さが明らかになっていたわけではなかった。ドラマを見ながら自分も考えてしまって、そんなものの特別さはないな、と思ったのだった。

 そう、人間はそう変わらない。相変わらず退廃的な生活を送る者はいる。そういえば『1』でも、中年のヘロイン中毒者もいた。犯罪者に若い者が多いという傾向もあるまい。

 にもかかわらず、映画は、『1』をしばしば参照し、あきらかに現在から観たノスタルジーについて語ってもいる。そしてそれは成功している。登場人物が『青春』時代を物語として書き起こし、どうやら最後にその原稿が出版されるような展開になることが示される。なんだか懐かしいと感ずるはずの観客の反応が充分に予想されている。

 もしかしたらあれは、監督や俳優陣にとって『1』を作ったときのことがまさしく「青春」だったということかもしれない。


2023年8月7日月曜日

『トレインスポッティング』-「青春」の一つのあり方

 ダニー・ボイルの出世作をようやく。

 映像センスが並みでないのは冒頭からいたいほどわかる。だがヘロイン中毒のなんとも荒んだ若者たちの生態をひたすら描くこの物語をどう受け取ればいいのかしばらく戸惑う。もちろん意図的ではあるが、かなり不快ではある。不潔だし、自堕落だというだけでなく、単に犯罪を繰り返すのはきわめて迷惑だ。クライム・サスペンスとして描かれているわけではないから、現実レベルで感情移入して彼らの周囲の者、近親者あるいは被害者に同情してしまう。彼らの一人の赤ん坊が死ぬエピソードでは、赤ん坊の死体をリアルに作ってじっくり映す思い切った演出にドキドキした。ここははっきり映さずにそれを見る人たちの嘆きでそれと知らせる演出をしそうなものだが。単に「無軌道な青春」という美辞麗句ではすまされない荒廃であることには充分自覚的だと観客に知らせる。

 どうなるんだろうと素直に気になる。どう決着させるつもりなんだろう。因果応報的な納得をさせるつもりはあるんだろうか?

 前半部は特に中心的なストーリーをもたずに「生態」を描いていたのが、終盤でまとまった犯罪計画を追う展開になって、ストーリー的な推進力も増して、ますます気になる。どう決着させる?

 結局は、ある意味では「量刑」に応じた決着にも感ずるような終わり方だが、むろんハッピーエンドというわけにはいかない。そんなことが許されるわけではない。

 だが一方で、最後の最後になって、こうしたどうしようもなく退廃的な生活の対極にある「普通の」生活に対する疑問が生ずるようにしかける。なるほど、ではこれも「青春」の一つのあり方なのか?