事故によって記憶に障害のできた主人公が、実は事故の際に別の「人格」をインストールされていたのだ、という設定なのだが、この設定を素直に受け入れられない。
この手の設定では、脳に障害があって体が健康な者と、その逆に不治の病に冒された健康な脳とが組み合わせられるのが合理的だが、本作では二人とも事故で脳に物理的な損壊を受けてしまう。生前の「人格」がデジタルデータになっていて、それをインストールするとその人になるなどという科学力がどれほど未来のことになるのか想像できない。他人から見た「その人」がデジタル的に再現できるようになるのはそれほど遠くないだろう。だが、そうしたAIが自意識を持った「その人」自身になるのは、次元の違った困難を伴うはずだ。「その人」を構成する情報がどれほど多量なのかも、それをどうデジタル情報に変換するかも、想像だに難しいはずだが、それが、それほど未来であるようにも設定されていないらしい映画内世界において実現するなどという設定を受け入れることができない。
無理な設定を受け入れないと物語、とりわけSFを享受することはできないのだが、それが可能になるのは、それに対するリアリティをどれくらい描こうと努力するかに応じているのだ。この映画ではそれが描かれているとは言い難い。そもそも「脳死」を「植物状態」と混同しているのではないかとさえ思える。「脳死」ならば物理的な損壊によって既に脳の機能が消失しているのだから、そこに「人格」のインストールも何もないだろうに。
物語は、元の体の人格とインストールされた人格との戦いになるのだが、物語的には、元の体の方が優勢になるのは目に見えている。なぜなら元の体の持ち主の娘との生活が描かれ、観客がそちらに感情移入してしまっているからだ。この葛藤をシリアスに描くなら、インストールされた人格の家族についても(あるいは個人の人生について)同じくらいの比重で描いて、観客がどちらかに簡単に肩入れできないように描かなければならない。
その上で人格同士の戦いの結末は一応は決着するとして、二つの人格が混ざったような新しい人格になったのだというような結末が好みだなあ。無茶な技術で利己的な操作をしたマッドサイエンティストが罰せられるような単純な結末はつまらない。
安っぽい作りだとは言わないが不満のない高評価とは言い難い。アマゾンレビューの高評価と一致しない。
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