2016年4月10日日曜日

『わらの犬』 -「暴力」への陶酔

 サム・ペキンパーのオリジナルではなく、リメイクされたもの。名高いオリジナルは未見。オリジナルが名作の評価が定着していると、リメイクが誉められることはめったにない。ネットでも評判は良くない。
 だが監督が、この間観た『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』の監督、ロッド・ルーリーだったので、ある程度の期待はした。
 悪くない、と思う。オリジナルに冠せられる「すさまじい暴力描写」というのがどのくらいなのかわからないが、こちらもそれなりの緊迫感はある。
 ただ、「暴力」というのが、派手なアクションであったり、血飛沫が飛ぶ、いわゆる「ゴア・シーン」だったりを指しているとすると、この映画は凡庸の部類だ。わざわざ「破壊」や「残酷」と区別して「暴力」描写と言っているのは、それに登場人物や観客がどう反応するかによるのだろう。
 「暴力」とは言ってみれば、日常からの、意志に反する逸脱を強制させる力を指すのだろうか。気弱な男だと言っていい主人公デヴィットが、南部の住民との、トラブルの果ての、思いがけない殺し合いの過程で、陶酔するように「暴力」の虜になっていく描写はやはり「破壊」でも「残酷」でもなく「暴力」をテーマにした映画なのだと感じた。
 そしてその逸脱が、やがて復帰しなければならない日常の困難さを予想させ、虚しさとして描かれるラストシーンも悪くない。

2016年4月9日土曜日

『Friends after 3.11 劇場版』 -「岩井美学」の陰に

『Friends after 3.11 劇場版』(監督:岩井俊二)

 震災後1年の時点で公開されたドキュメンタリー。題名にあるとおり、震災復興や原発事故に取り組んでいる人たちのインタビュー。原発事故について言及している人たちは基本的に反原発・脱原発の立場の人たちばかり。まあそうだ。今更原発推進の立場の発言を対置したドキュメンタリーを作ればそれはそれですごいだろうが、そういう人が「Friend」であることは難しいだろうし。
 中でも小出裕章さんの話がひびいたのは多分、本人の長い間の科学的で合理的で真摯な問題への関わりが背景にあるからだ。
 それとFRYING DUTCHMANの「humanERROR」の長回しはすごかった。You-tubeにもいろんなバージョンがあるが、映画中の映像に匹敵するのはこれか。


 レコーディングされたものも、Liveによっても、これほどの力をもたないものがあるのを見ると、吐き出される言葉の力はパフォーマンスそのものに拠っているってことだ。
 作品のテキストだって素晴らしいと思うけど。

 それでも、映像の美しさも、出ずっぱりの岩井俊二自身の深刻そうな顔も、例によって「岩井美学」で、それが問題をバランス良く捉えることよりも、情緒的になんだか真摯な気分にさせることだけにひっぱっているんじゃないかという疑念も拭えない。

2016年4月3日日曜日

菜の花

 スマホユーザーではないので写真なし。そもそも車中から視界に入れるだけで運転を止めたりはしないのだが、利根川沿いの堤防はあちらこちらと菜の花の群生が黄色を散らして、内心、歓声を上げつつ走る。
 駐車場近くまで来てから、空き地に群生を見つけて車を停め、2,3本を手折って母の病室に持参する。

2016年4月2日土曜日

『ライフ・イズ・ビューティフル』 -ホロコーストと幸福感

 見終わって、日本語のエンドクレジットを見るまで、主演のロベルト・ベニーニが監督でもあるとは知らずにいた。役者としてアカデミー主演男優賞は妥当だとして、この巧みな脚本を書き、細部の描写まで見事な作品全体を監督までしているのか。恐るべき才能ではある。
 批判するブログが、ほとんど炎上状態になるほど、万人受けする映画である。前半の、テンポ良く物語が語られつつ、伏線の回収などがアクロバティックに着地するところには、拍手喝采を送りたくなる。くだんのブログの批判は尤もとも感じたが、そういう批判をするほどのリアリティの水準を保証してはいない映画だとも思うので、素直に喜んで観ていた。
 だが後半のホロコーストの展開は、やはり重い。それは『シンドラーのリスト』のような、正面切ってそのテーマを描く物語とはまるで比較できないほど、リアリティのないものではあるが、語り口の軽さとの対比において、やはり充分な負荷ではある。そしてその負荷故にラストの幸福感は実に大きい。

p.s
 上記のブログ上の論争を見ていて、実に示唆に富んでいたのは、あの映画のリアリティの水準は、あの映画が、主人公の視点から描かれたものではなく、主人公の子供の視点から描かれたものだからだ、という、ブログ主に対する反論コメント中にあった指摘だ。
 なるほど。確かにエンディングで近くで主人公は死に、これが「私」(主人公の子供)の語った「父の物語」であることがナレーションによって明示される。そう考えればあのリアリティの水準には納得がいく。
 もちろん物語の語り手は、作品の隅々に渡って統一されたりはしない。あちこちに作者が顔をのぞかせる裂け目がある。あの悪夢のような死体の山はそうした裂け目から一瞬のぞいた「あちらがわ」であるようにも感じられるし、「悪夢のよう」である以上、やはり子供の目から見たホロコーストではあるようにも感じられる。