2018年12月31日月曜日

平成最後の紅白歌合戦

 正直を言えば「RIZIN」が気になっているのだが、まあ録画しているから後でもいいと、珍しく家族が「紅白歌合戦」にチャンネルを合わせているのに任せて、チラチラ見ながらパソコンをいじっている。
 ものすごくいろいろと天こ盛りにしているのは平成最後だという特別感なのだろうか(まあいつも見ているわけではないから「特別」かどうかよくわからないが)。全体に今年のヒット曲というより懐メロになっているのは最近の尋常の番組構成なんだろうが、今年の松田聖子やユーミンが複数曲をメドレーにするのも、まあそういうことか? サザンが最後に出て、1曲目が終わってパーカッションが始まった途端に「勝手にシンドバッド」だとわかってしまったのも、この流れならではだ。

 それよりなにより、個人的にはユーミンの「やさしさに包まれたなら」のバックに鈴木茂が出てて、あの間奏をオリジナルそのままに生演奏したのには感動した。

2018年12月30日日曜日

『チョコレート・ドーナツ』-感動作であることは間違いないが

 やたらと「感動作」という触れ込みが目立つ。LGBTと障害児をモチーフとしているのだ。気楽に観られるかどうか怪しいが、見過ごせないとも思って。
 ゲイのカップルが障害児を養子として育てようとしてぶつかる困難を描く。「実話に基づく」という枕詞があったが、後から調べると、モチーフくらいだそうだ。
 問題は、それなのに物語が1979年のものとして語られることだ。ネットで見ると、感動の声と共に疑問の声もあるのだった。やはり。
 確かに、ものすごく感動的だった。涙なくして観られない。裁判シーンの弁論も主人公たちと子供の生活も、実に心に響いた。
 それでも、ゲイカップルに対する偏見から生ずる、障害児を引き取ることを阻止しようとする弁護士や判事の情熱のありようがわからない。少なくとも裁判シーンは、隠微な形で表れる偏見を描いているわけではない。ある論理によって主張がなされ、その理を認めるから裁判所が決定をする。だが、その情熱のありようがどうも飲み込めない。
 そこに、物語の舞台は1970年代なのだ、というエキュスキューズが登場する。だがなぜそれを今観るのだ? 歴史を記録しようという動機か? 感動させることが目的の映画らしいのに。
 現在、公的にLGBTに対する差別発言をすることが許されているとは思えないから、現在を舞台としてこの物語を描くならば、公的なコンプライアンスがどうなったとしても、なお残る偏見がどのようにこの問題として立ち現れるかが描かれるはずだ。
 だが舞台が1970年代だから、公的な偏見が許されてしまう。なんせそういう時代だったのだから。だから単に相手側の弁護士や判事はひどいやつだ、というふうにしか見えない。
 本当は、人間はある認識に立って世界を見るしかなく、その認識によって世界がどれほど違って見えるかが描かれなければならないはずなのに。

2018年12月28日金曜日

今クールのアニメ

 今クールは見続けているアニメが6本もあって、「消化」するのがなかなか大変だったので、全部終わったこのタイミングで記録しておく。軽い感想のみ。

 『SSSS.GRIDMAN』は、先日書いたように特撮ヒーローに愛のない筆者にして見続ける気にさせるくらいに、アニメとして見事な作品だった。まず高校生たちの描き方が驚くほどセンスが良いのだった。あのカットと台詞の、絶妙な間のとりかた。そして怪獣の出没する奇妙な街の描き方もいい。
 とりわけ9話の「夢・想」の回は、特定の人物の想念が世界を作っているという作品全体の世界観が一話に凝縮されており、演出といい作画といい、うならせる一編だった。
 最終話まで観て、手放しで絶賛というにはわずかにもうちょっとだった。新条アカネの歪みや狂気がどうにも観念的・類型的で。ここがもっとつきつめて描かれていれば、最後の救いもさらに感動的だったのだが。
 でも最後のカットで実写に変わるあたりはやはり気がきいてる。

 『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』は最初の3話の盛り上がりに興奮して、これは最後まで観ようと決めた。ライトノベルらしい外連味と甘酸っぱさが楽しい。調べてみると原作小説がアニメ2話から3話で描かれるようで、最初の3話が原作の最初の一冊なのだ。正直、結局これを超えるエピソードはこの後にはなかった。

 『ツルネ』は、今期の京アニということで一応。スポンサーNHKということで手を抜くまいとも思い。
 だがどうにも期待外れ。アニメーションのレベルはむろん高いのだが、話がちっとも面白くならない。

 『色づく世界の明日から』は題名の通り、初回の「色」の鮮やかさが圧巻で見始めたんだが、物語的にはありふれた高校青春展開の予想をまるで超えない上に、主人公のウジウジがどうも鬱陶しくて面白くならない。あいかわらず美術の色使いは目を瞠るものがあるんだが。

 『やがて君になる』は、美術のレベルが極めて高いのもすごいが、何より演出が驚くほどうまい。しばしば、ちょっとうなるほどうまい。微妙な心理描写とか画面のレイアウトとかカットの切り替えとか。とりわけ感心したある場面を原作の漫画で読んでみたのだが、アニメの方がはるかに劇的だった。台詞の間とかその場面に被る列車の通過とか。
 ただ、話の百合展開にはついていけない。

 『INGRESS THE ANIMATION』は、そのCGアニメの手法が『亜人』を思い出させたのと、調べてみると原作となるゲームの発想が面白そうなので期待して最後まで観たが、結局それほど面白くならないまま終わった。現実とリンクさせるゲームは壮大なスケールを感じさせるのかもしれないが、アニメで描かれても厨二な感じしかしなくて。

 結局最後まで面白かったと思えたのは『SSSS.GRIDMAN』『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の2本なのだが、この2本、年を越えてすぐに再放送だって。やはりそういう評価なのな。世間的にも。

2018年12月27日木曜日

『モンスターズ 新種襲来』-誠実だが図式的

 宇宙から飛来した宇宙生物が地球環境に適応して「害獣」と化した世界を舞台とした「怪獣映画」の2作目。前作の南米から今作は中東へ舞台を移して、怪獣たちも適応による進化だか何だか、形態が変化している。
 前作が面白かったからもちろん期待は大きい。だが、始まってみるとギャレス・エドワーズが製作だとわかってアレッとなる。監督は別の人だ。トム・グリーンという新人監督は、後でディスク特典のスタッフ・インタビューを見ると、もちろん仲間褒めもあるが、とにかく誠実に作ったようだし、真面目な映画であることもよくわかる。
 シリアスな映画だ。怪獣映画とはいえ『トレマーズ』のような気軽なノリで見ていい映画ではない。
 というか、ネット評でも多く見られるように、これはもはや怪獣映画ではない。前作が怪獣のいる世界におけるロードムービーだったように、今作は戦争映画だ。そしてそれが、残念ながら前作のようには評価できない。
 第1作はロードムービーなんだから、怪獣と戦わなくてもいい。主人公は怪獣退治をしようとしているわけではない。だが2作目は登場人物たちが皆兵士で、武器を持っていて、それでも怪獣と戦うことがテーマでないのなら、何のために『モンスターズ』の続編である必要があるのか。
 もちろん何であれ面白ければ良いのだ。戦争映画として面白ければ良い。
 だが、結局この映画は「本当に恐ろしく愚かしいのは人間だ」と言っているだけだ。監督は、解釈は観客に任せるなどと聞いたようなことを言っているが、それほど深遠なことを言っているとは思えない。そしてそのテーマなりメッセージなりは、わかる。殊更にそう描こうとしているのが。
 だから怪獣映画にならない。怪獣退治の映画にならない。怪獣を挟んで、アメリカ対アラブの戦争が描かれる。
 怪獣という新たな自然環境に対して、それを「共生」とまでいかずとも、なし崩し的に受け入れようとするアラブと、人類に対する脅威として排除せずにはいないアメリカという図式も、それこそ図式的に過ぎる。といってそこから生ずるアメリカ対アラブという対立にリアリティを感じなかったのは、アラブ側の、怪獣を受け入れようとしている心情が語られないから、アメリカとの対立の双方の論理が飲み込めないからだ。
 むしろ現実の対立を前提に、ここではそれを怪獣をめぐる対立として跡づけようとして成功していないのだ。

 全体としてもどかしさから不満が先に立ったが、先述の通り誠実で真面目に作られていて、ドラマもシリアスだ。デトロイトという街の閉塞感が兵士の供給につながっているという現実の描き方も、戦場の狂気も、やはり図式的とはいえ誠実に描いている。技術的にも上手い。
 とりわけ巨大な怪獣が群れているラスト近くのカットは、戦争に対する絶望を象徴していると見做すだけでは惜しいほどの絶望感を感じさせた。

2018年12月22日土曜日

『ラスト3デイズ 彼女のために』-うまいが腑に落ちない

 ポール・ハギスがハリウッドリメイクを決めたというのを見て、事前情報なしにレンタル棚から選んだ。冤罪で収監されている妻を脱獄させるべく苦闘する夫を描いたフランス産サスペンス映画。
 悪くない。絶望的な状況からそういう突飛な選択をする夫の心情も描けているし、作戦実行における緊迫感もある。母子の微妙な心理はうまく描いていた。
 工夫を凝らした展開もちょっといい。病院からの脱出の際、追ってくる警察を振り切って逃げつつ、前方からはパトカーが迫る。轢き殺すわけにもいかないから停まったのは狭い通路で、左右の壁に挟まれてドアを開けて外に出るスペースがない。そこで主人公たちは車を乗り越えてパトカーの背後に逃げる。バックして追うと、狭い通路を出たところで救急車両と衝突する。
 最後にどうなるのかと思っていたら、結局逃げおおせて、これからの逃亡生活が困難であることが暗示されて終わり。ええっ? 成功するの? 予想外。
 冤罪がどうにかして晴れるという展開なんだろうと思っていた。それらしい意味ありげな伏線らしき描写があって、その回収がない。なぜだ?
 うまい映画だと思うが、腑に落ちない。

2018年12月18日火曜日

『CODA』-可もなく不可もなく淡々

 2012年から5年間の坂本龍一を追ったドキュメンタリー。そこに関わった映画や過去のライブの映像が挿入される。
 ニューヨークの自宅やその周囲のたたずまいや、時折やはり音楽的に良いなあと思う場面もあるのだが、彼の語る思想にそれほど感心するでもなく、あっさりと見終わってしまった。
 これに心を動かされるとすれば、坂本龍一への個人的な思い入れだろうか。それなしに面白い映画なのだろうか。

2018年12月16日日曜日

『シン・ゴジラ』-シミュレーション・ドラマとしての怪獣映画

 『君の名は』と『この世界の片隅に』を劇場で観た年に『シン・ゴジラ』は観なかった。アニメと特撮というジャンルに対する応援の気持ちの差だった。「ウルトラマン」と「仮面ライダー」、それぞれをシリーズとして追った特撮世代ではあるのだが、たぶん、先に特撮を卒業して、物心ついた頃から観ていたという意味では同じつきあいのアニメは結局卒業せずに追ってきて、その中で多くの作品に触れてきたジャンルとしての思い入れの差が、この選択に表れた。
 といって、劇場版エヴァンゲリオンに対する落胆もあって、庵野秀明だからといってレンタル店に並んだらすぐ、というような思い入れもなくてテレビ放送を待っていたのだが、1回目を見逃してこれが2回目。
 期待していたのは、怪獣が出現するという事態に対する日本の反応のリアルさだった。世間的にもそれが評判だったような印象でもあるし。
 観てみると、官邸の描写はむしろ戯画的だな、と思った。大臣たちが、いかにもそれぞれの担当省の利害の立場から発言する。しかし実際の会議の中ではそんなことはないはずだ。緊急事態に対して、もっと個人の性向が表れるだろう。
 役者陣の演技も総じて大根だ。そういう演出なんだろうが、まあ世界設定でもある。とりわけ主人公の二人、長谷川博巳はもともと大根演技が持ち味だし、石原さとみは人物設定に無理がありすぎて大根にならざるをえない。
 ということでリアルな人間ドラマよりも、シミュレーション・ドラマとしての展開の面白さというべきなんだろうな、これは。一方で怪獣の出現が人々の日常にどう影響するかをリアルに描く怪獣映画などというものを観てみたいと思ったり。
 怪獣映画としては、ヤシオリ作戦における電車の使い方とか、ビルを倒壊させてゴジラを固定するとかいう「創意工夫」と、それが実現するときの喝采を送りたくなるような高揚感が素晴らしかった。
 それから、第4形態のおなじみのゴジラになって、おなじみの熱線で街をなぎはらうシーンで、これまでの怪獣映画で感じたことのない「えらいことになったな」という戦慄を感じたのは、それだけ実在の街にゴジラがいるというリアルな感触が描かれていたからだろう。
 これを実現しているだけでもやはり成功作というべきなのだ。

2018年12月12日水曜日

『アンフェア The End』-まあシリーズ物なので

 確か『THE MOVIE』は面白いと思って観た覚えがあるのだが、いかんせん、テレビシリーズを見ていないから、思い入れの浅さが感動の薄さにつながる。それだけ、単独の映画としては弱いということでもあるのだが。
 主人公のキャラクターも作り物過ぎるし、この話で主人公となる永山絢斗に対するヒロインの信頼も根拠があるように見えず、ヒリヒリするようなドラマ的感銘が生じなかった。誰が裏切るのかわからないというのがこのお話のサスペンスなのではないのか?
 それにしても『沙粧妙子 最後の事件』の浅野温子に始まって『QUIZ』の財前直見からこの『アンフェア』シリーズの篠原涼子まで、キャラクターが似すぎているのはなぜだ。たぶんアメリカのミステリーに元ネタがあるんだろうが。
 ちなみにこの中では『QUIZ』だけ全部見てる。『ケイゾク』『Trick』『Spec』あたりと比べても最も面白いと思う。まあヘレン・ミレンの『第一容疑者』のような超弩級の物語に比べるのは無理だが。

2018年12月2日日曜日

劇団6番シード公演「劇作家と小説家とシナリオライター」

 娘の招待で劇団6番シードの25周年記念公演「劇作家と小説家とシナリオライター」というお芝居を観てきた。
 題名にある三人の作家が共同で一つの物語を作り、メディアミックスで展開するという企画のために会議室に集められる。アイデアを出し合い、世界観、登場人物、物語のシノプシスを組み立てていく。
 始まってすぐに、台詞が掛け合いになる、よく練習された芝居に安心する。金を取る舞台だけのことはある。
 物語を作る物語、つまり自己言及的な物語だ。三人の作家の中には劇団を持つ劇作家もいる。映画を撮る映画はそれなりに面白くなることが多い。最近でいえば『カメラを止めるな』がそうだった。素材や舞台や登場人物に対する知識もあり、愛情もある。面白くなるのも当然だ。
 舞台は、物語を作るために三人が話し合う場面と、それぞれの作家の物語、そして作られつつある物語が重層的に展開する。物語作りの話し合いのシーンと物語内物語は、同時に舞台上で展開する。そして物語内物語の登場人物を演ずる役者が、そのままそれぞれの作家の個別の物語において、別な、物語内での「実在の」人物を演ずる。物語の層が複雑にからみあう。
 そして、物語の最終場面で、物語内に登場するある人物が、「三人の作家が物語を作るという物語」を作るという展開になる。物語がウロボロス的円環を成すのだ。
 全編の複雑な物語の構成に感心しきりだったが、とりわけこのラストには脱帽だった。