2016年3月31日木曜日

『シャイン』 -無垢である痛みと幸福

 監督のスコット・ヒックスといえば一昨年『幸せのレシピ』を絶賛して以来だが、そもそも寡作な人でもある。だが良い映画を撮る。とりわけ評価の高いこれが面白くないわけもない。
 アカデミー主演男優賞を獲ったジェフリー・ラッシュもまた、助演男優賞ノミネートの『英国王のスピーチ』以来だが、確かにノミネートのライオネル・ローグ役に比べても、こちらのデイヴィッド・ヘルフゴット役は強烈だった(奇しくも両方とも実在の人物を演じている!)。
 そして演じられたキャラクターは現実のヘルフゴットそっくりだそうだが、それを知るまでもなくその痛みや幸せや情熱や狂気が観るものの胸を打つのだった。そのポイントは恐らく「無垢」が体現できていることだろう。無垢を背景として浮かび上がるさまざまな情感が強烈に伝わってくるのだ。
 その中でも、痛みが描かれるからこそ、いくつかの場面、とりわけ映画の最後に描かれる幸福が嬉しい。

 ところでヘルフゴットの病名については、映画を紹介したブログ類では大抵「心を病み…」などという表現になっているが、ウィキペディアの本人の項では「統合失調症」となっていた。
 だが映画の中の描写では、発達障害(身の回りが片付けられない)のように見えたり、アスペルガー症候群(他人の気持ちに配慮できない)のように見えたりする。とりわけ、トランポリンを跳び続けるエピソードは、まるごと『君が僕の息子について教えてくれたこと』に登場したアスペルガー症候群の男性の行動そのものだった。
 かつてはアスペルガー症候群と統合失調症は混同されていたというが、現在では別の状態だと考えられているという。
 どうなのだろう。

2016年3月30日水曜日

『0:34』(原題:『Creep』) 監督:クリストファー・スミス

 TSUTAYAでDVDを借りて観たのだが、まあ期待はしていなかった。ただ『トライアングル』が大のお気に入りなので、同じ監督が作った映画を観てみたいという興味からだった。
 結果としては残念な映画ではある。が、腹立たしい映画だというわけではない。いや、ネットでは主人公の行動がいちいち腹立たしいという感想も散見されるが、それを否定はしないものの、大きな瑕疵ではないとも思えた。それよりは地下鉄にいる殺人鬼との攻防という設定でやれることをやりつくしていると評価できるほどのアイデアは盛り込まれていないことが残念だった。
 それでも、最終電車が出た後の地下鉄のホームに取り残されて、地上に出るシャッターが閉められてしまい、人気のない地下鉄構内をうろつくという不安感がもう得難い魅力ではある。むしろ形のある殺人鬼が不必要に思われてきさえするくらいだ。
 それからラストで、生き残った主人公がホームレスに間違われる件の描写は、本当にうまいと思う。まだあるかと思わせてがらりと空気を変えて、日常の戻ってきた地下鉄を描く。生死をくぐり抜けてきた主人公のいる場所と地下鉄の乗客のいる場所の落差の大きさが、目眩のような違和感を感じさせる。見事だった。

『永遠の僕たち』(原題:『Restless』 監督:ガス・ヴァン・サント)

 最近もっとも面白い漫画のひとつに、『響(ひびき)』という、天才的な小説を書く才能を持ったエキセントリックな女子高生の物語がある。作者の柳本光晴という人は、前に『女の子が死ぬ話』という、まったくそのままの内容の一巻完結のデビュー作品を、ブックオフで見つけて立ち読みして、妙に感動させられてしまったことがあったのだが、『響』を読み始めて、連載をいくつか経るまで、両者が結びついていなかった。あの、生硬なんだかあざといんだかよくわからない『女の子が死ぬ話』よりも、『響』ははるかにまっとうにエンターテイメントしていて、素直に応援できるのだが、『永遠の僕たち』を観て『女の子が死ぬ話』のことを思い出したのだった。
 こちらも若い女の子が脳腫瘍で死ぬ話だ(『女の子が死ぬ話』は白血病か何かだったかもしれないが)。若くして死を宣告されて、それを受け入れていく女の子とそれを見送る同世代の主人公の痛みがよく描けていて、どちらも美しい物語である。
 が、『女の子が死ぬ話』の「生硬なんだかあざといんだか」という感想が、ともかくも若い、可愛い女の子が死ぬという設定をぬけぬけと物語の核にしてしまうところがまぎれもなく「あざとい」でもあり一方で「生硬さ」とも感じられていたのに対し、『永遠の僕たち』は、映画としての描写力が洗練されすぎて、いまさら「あざとい」と言うのも間抜けに思えるし、むろん「生硬」でもありはしない。彼女の死後、葬儀の際に映画の中の主人公と彼女の思い出の場面のいくつかがフラッシュバックして、それを思い出している主人公が、泣くのではなくむしろ微笑みを浮かべるシーンは、本当に美しくて切ないのだが、なんだか綺麗すぎるとも言える。
 それに比べて以前「生硬」とも思えた『女の子が死ぬ話』は、実は女の子の死を、いくつかの連作短編的な構成で多面的に描いていて、その試みは意外なほど野心的とも思えてきた。
 かように、あれほど大量の資金や人手や手間のかかった映画は、桁がいくつ違うかというほどのローコストの漫画や小説と常に同じ基準で比較されてしまう。

2016年3月20日日曜日

『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』(原題:『Nothing But the Truth』)

 録画した映画がすっかりHDに溜まっているのはいつものことだから、知らない映画であるところの本作は、珍しく事前にネットで評判を見た。好評だ。かなり好意的に紹介されている。ということで録画して、それほど長くもないことだし、と録画したてのほやほやで観る。
 いや、これはアタリだった。期待以上だった。
 情報源を秘匿する新聞記者と、情報源の公開を求める権力の対立は、「ジャーナリズムの社会的意義+表現の自由」vs「国家の安全保障+法律の運用」という鋭い対立をなす価値を双方十分に描き込んでいて、その葛藤は実に堅固で重量感のある手応えを感じさせるものだった。
 脚本も演出も、出演者の演技、とりわけ主役のケイト・ベッキンセイルの演技も見事だった。事態が悪化していく焦燥感やぎりぎりのところで信念を貫き通そうとする意志の強さ。いい加減な安請負をする弁護士を端役で扱うのかと思っていると、これがまた誠実に仕事して、対立構造を支える。マット・ディロンの検事(刑事だったか?)も単なる敵役として薄っぺらい悪役に終わるのではなく、立派に一方の価値を体現しているのだった。
 実際には単なる価値の対立だけではなく、邦題にあるとおり、後者には権力の既得権益を防衛しようとする力が働いていたり、前者には人情がからんでいたり、と不純な要素がはいるのだが、もちろんそれも物語の陰影を深める。
 
 それにしても英題を違う英語に置き換える邦題の付け方はどうしたものだろうか。『Nothing But the Truth』(真実以外の何物でもない)がわかりやすいとは言えないが『ザ・クリミナル』がわかりやすいとも言えない。そこに「合衆国の陰謀」って? カットの関係かもしれないが、それがわかるほどにはその部分は描かれてなかったとおもうんだけど。

2016年3月19日土曜日

『クロール 裏切りの代償』(原題:『CRAWL』)

 TSUTAYAの「ミステリー」の棚で、わざわざ「TSUTAYAだけ!」のコピーのついた、どうみてもB級の映画を選ぶ。何とかいう映画祭で賞を取ったらしいのだが、たぶんB級であることは免れず、だからといってそれがつまらないということにはならない、もしかしたら意外な拾い物にあたるかもしれない、とか懲りもせずに借りてみる。経験上、外れることの方が多いのはわかっているが。
 観てからネットの反応を見ると、5段階で1ちょっとという評価のサイトばかりで、まあやっぱり、ではある。
 殺し屋が、動機もよくわからず、依頼の殺し以外に主人公の女の子をも狙ってきて、彼女が彼女の家が舞台であるという地の利を活かして闘う、という話ではある。一般家屋が舞台の闘いは「スクリーム」シリーズを始め枚挙に暇なく、始まると強い既視感がある。
 それでもまあ、そういうのを覚悟して借りたのではある。自業自得だ。スリルとサスペンスは、ないこともない。いや、ある。楽しい。
 もちろんネットの不評の理由である、そこら中に納得できない不全感があるというのは同感ではある。殺し屋が最後の最後まで、なぜ主人公を狙っているのかわからないという、それをはずしてどうするよ、という中心部が不全なのだ。あれはわざと? それともこちらの読解力不足?
 どうみても作り手の頭が悪いだろ、という怒りとは違って、期待値も低いことだし、怒りはないが不全感はある。

2016年3月2日水曜日

『クラウド・アトラス』(監督:ウォシャウスキー姉弟&トム・ティクヴァ)

 場所も時代も異なる6つの物語が、時空を超えてつながる壮大なドラマ…とか何とか言うテレビ欄の紹介で録画。だが2時間枠を2回分の前後編という長尺で、いつ観られるものやらと思っていたところ、珍しく夕飯後の宵が早い時刻から手空きになったので、ちょっと最初の方だけ、と思って観始めて、結局前後編一気に観てしまった。
 またしても、録画してから観るまでに時間をおいたら、監督も出演者も忘れてしまっていた。チープなのか信頼できそうなのかも、しばらくわからない。どちらとも感じられるような妙な手応えなのだ。役者も、どうもトム・ハンクスみたいな顔の男があちこちにいるなあと思っていたら、前編が終わって、次の週の後編を観始めて、映画紹介の時にそれがほんとにトム・ハンクスだとわかった。それを今更「みたい」と確認もてずにいたのは、現代劇の中で、いつものトム・ハンクスの顔で出てきていなかったからだ。
 「場所も時代も異なる6つの物語」が、細切れにされて、ミルフィーユのように重ねられ、束ねられて語られる。数分ごとに時代も場所もシチュエーションも異なる物語の中に、いきなり飛び込んでしまう。そのうち、それらの物語に共通する人物、小道具、設定があることがわかって、それぞれの物語がつながっていくのがわかる。例えばトム・ハンクスは、それぞれの物語の中で様々な人物を演じているのだなとわかってからは、フォレスト・ガンプばかりを探しているわけではなくなった。かなり特殊なメイクでいろんな人物を演じ分けているのはわかったが、エンドロールの「解答」を見るとそれでも見逃していたのもあり、トム以外の俳優については、もっととんでもなく意外な一人多役があったりもした。
 さて、映画の構成自体は大いに好みだった。どこからどこへ跳んで、そのつなぎにどんな意味を持たせるかは、頭の整理整頓がさぞや大変だろうなあと思いつつ、観ながらワクワクした。未来編の、超高層ビルの間を、細い橋のようなものを渡す逃走劇が、過去編の、帆船の帆柱の上を渡るシーンにつながる。こういうときには思わず、おおっとなる。
 だが、最終的には、どれかの話がものすごく良かったというようなことはないのだった。残念。どれも良かった、くらいの期待をしていたのだが。そして、ミルフィーユ構成も、その細切れの展開が、伏線とその解答というふうにかかわっている部分はそれほどなくて、たんなる細切れの乱雑なミルフィーユに過ぎなかった。
 ものすごく手間をかけて、たとえばチームで構成を練り込む、とかいう労力を惜しんでこれだけの大作を作るのはもったいない。

 ついでに、6編中の3編の監督、ウォシャウスキーは、その珍しい名前で『マトリックス』シリーズだとわかるが、残り3編の監督、トム・ティクヴァが、去年の私的ベスト10『ザ・バンク』の監督であることは、あとから調べるまで思い至らなかった。『ザ・バンク』の時に感じた圧倒的な感じはなかった。
 さらについでに、原作のデビッド・ミッシェルという作家が、ブログをはじめたばかりに取り上げた『君が僕の息子について教えてくれたこと』に登場した「僕」なのだった!