2018年3月29日木曜日

『ソロモンの偽証』 -人間を描かない人工物としての映画

 引っ越しというイベントがあったせいですっかり映画を観るようなまとまった時間がとれずにいた。
 その間にも録画してあったものもあり、とりあえず、もうすぐ一人暮らしを始める娘がうちにいるうちに観てしまおうと『ソロモンの偽証』前後編を一気に。
 宮部みゆきの原作がつまらないわけはないだろうと信頼していたし、映画も、評価の高かった『八日目の蝉』の成島出だし、というような期待が毎度だめなんだよなあ。
 観始めてしばらくすると、もうだめだ、ということがわかってくる。
 この監督は人間をちゃんと見ていない、ということがわかってくる。映画的にありがちな情緒を描くことを優先して、人間を描いていない映画なのだということがひしひしとわかってくる。
 それでも宮部みゆきは裏切るまい、と前編を見終えたところですっかり意気消沈した気分を励まして、後編を観た。映画的にはだめだろうが、物語のミステリー的興味は満たされるんだろうと思ったのだった。
 それにしてもだ、いったい何を期待すればいいのか、まるでわからないまま後編に流れ込むのはどういうわけだ。事件に何か謎の部分がありそうには思えない。警察が自殺と結論した転落死事件を、殺人ではないかなどと疑う要素は観客にはない(登場人物たちにはあるらしいが、観客から見れば、単に噂話に振りまわされる愚かな人にしか感じられない)。そしてそのどんでん返しがあるのではないかという期待もさせない。それでいったいどんな「想像もできない真実」があるのだろうと、逆に期待してしまった。
 そして見事に裏切られた。驚くようなことは何も起こらないのだった。いじめの当事者を告発する場面の激情も、いじめられていた者の保身による偽証も、とりわけ緊迫感を感じさせるようなものではなく、裁判の首謀者による自己告発が結末に訪れるに至っては、何をベタな自己憐憫の茶番だ! と怒りさえこみあげた。
 しかもそんなことで、このどこまでも茶番な裁判が、何事か良かったのだと満足気に受け止められているようなのだ。どこが? 何をしたかったのかという動機もわからないまま盛り上がって実行に移された裁判だったが、どこにカタルシスを生ずるような展開を認めればいいのかわからなかった。
 だがネット評では、原作からしてすでにそうらしいのだ。では一体何を期待して映画を観ればよかったのか? ともかくも人間ドラマ? それにしてはこの監督はあまりに「人間」を描けないのだった。
 そして、どこの観客がこれに面白さを感じているのだ。「キネ旬」8位って、なんだよ!?