2021年7月23日金曜日

『攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY』-最高に高品質

 神山健治作品を続けて。

 昔テレビで放送されているのを断片的に見たはずだがなんだかまるで話が把握できなかった。前のテレビシリーズとの関係もわかってなかったし、そもそも話はきわめて複雑だったのだ。

 警察組織を舞台にしているのだから当然犯罪が起こらねばならず、捜査の過程で大掛かりなアクションも描かれる。緊迫感は高く、ダイナミックだ。

 だが事件の全貌は容易には明らかにならない。現在の日本の延長としての未来の日本がかかえる社会問題として、目につくたけでも、難民受け入れ、テロリズム、老人福祉、児童虐待といった諸問題が事件の背後に見え隠れして、そこに本作の主要テーマである電脳化の問題がからむ。

 対立は、例によって充分な正当性が双方にないと興醒めになってしまうのだが、その点は充分。日本の抱える問題に対して解決を図るべく、部分的な人権侵害や法を逸脱する方策をとることに対する信念と、それを取り締まるべき警察組織の対立。

 その中で起こる人間ドラマの重厚さ。

 とりわけ、登場人物の一人が、自分の娘のために命を投げ出す決意をする場面の緊迫感は実に緻密に演出されていて、感動的だった。

 その上で、この事件そのものが単なる政治的信念の問題ではなく、『攻殻機動隊』全体に通ずる電脳ネットワークにおけるゴーストの存在に拠るらしい真実が垣間見える結末まで、恐ろしく高品質な物語が紡がれていた。

 『ULTRAMAN』による神山健治評価の凋落を一気に挽回する最高級の作品。


2021年7月18日日曜日

『009 RE:CYBORG』-郷愁に浸ることなく

 神山健治作品くらいちゃんと追ってもよさそうなもんなのに、本作でさえ13年も放っておいた。『ひるね姫』も見ていない。もうすぐ閉店するというゲオの棚に見つけてようやく。

 とはいえ『攻殻機動隊SAC』から『東のエデン』まではともかく、『精霊の守人』が残念だったのと、『ULTRAMAN』に心底がっかりしたから、同じCGアニメの本作はどうか。

 「ウルトラマン」を現代版にする、という発想は最近の「シン・ゴジラ」から、この後の「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」まで共通している。世代的に、子供の頃に洗礼を受けた世代が作り手になっているということなのだろう。

 そこで作られるものとしては、庵野秀明の方は着実に仕事をしているというのに、アニメ版『ULTRAMAN』がなぜあれほどひどいことになってしまったのかは、まったくもって謎だった。これが『攻殻機動隊SAC』と同一人物の手になるものだと信じられないというほど。

 さて『009』の方はどうか。


 結論としては『ULTRAMAN』のようにひどくはなかった。が、『攻殻機動隊SAC』ほどのレベルでもなかった。

 もともとの原作『009』が今やどう見ても子供向けでしかないのは明らかだ。その制約があるのだろうか?

 それに比べて『攻殻機動隊』はもともとの視聴者対象を、あたう限り高く設定しても良い。それがあの高品質を保証しているのかもしれない。

 とはいえ、『009』が対象としているかつての子供は今や高齢者だ。だから原作に合わせて子供向けアニメを作るべきなのか、大人の鑑賞に堪えるものすべきかが定まらない。単なる郷愁として見ることを想定するのだというなら、いたずらに高度なSFにしてしまうのはふさわしくない、という判断もあるかもしれない。

 そもそも主人公たちの年齢も、どう設定すべきか。原作通りにするなら、ヒロインが60台になるのだそうだが、それでいいのかという問題がある(で、結局やめて、そこそこ成熟した女性にしてしまって、なんだか清純なヒロインの面影を求めてしまう旧作視聴者には不満もあろう、という感じ)。

 だが、とりわけ原作に思い入れのあるわけではない身としては、いたずらに郷愁に浸ることなく、単なるエンターテインメントとして観たい。

 そういう意味では、アニメーションのレベルは高いし、主人公の能力「加速装置」が何を可能にするのか、といった思考実験を比較的真面目に探究しているのは楽しかった。

 

2021年7月9日金曜日

『星を追うこども』-あまりにひどい

  あまりにひどいので何かの間違いか(こちらが必要な情報を受け取ってないからか)と思って、翌日もう一度見直したがやはりそうではない。これは唖然とするほど酷い映画だった。

 唖然としたのは期待との落差のせいだ。新海作品と思わなければこれほど驚きはしない。そしてまたアニメーションの質の高さとの落差がなければ。

 質の高いアニメとはいえ、あの新海誠が何をジブリ擬きをやっているのか、まったく理解できない。ジブリっぽいということなら、米林宏昌作品、宮崎吾朗作品でさえ、これよりはましだと言っていい。「メアリと魔女の花」の最初のあたりにはワクワクさえした。「ゲド戦記」の旅は宮崎駿のイメージだとはいえ、本作のアガルタの旅よりよほどイメージ豊かだった(『アーヤと魔女』のひどさはいい勝負かもしれないが)。


 最初の違和感は序盤で、トトロと祟り神を足して2で割ったような化け物が登場するシーンの演出だった。いかにも恐ろしげな様子で主人公に吠えてみせるが、それでいてなぜ襲ってこないのかわからない。もしかしてこれは主人公からは怖く見えるだけで、化け物自身が怖がっているか戸惑っているということなのかと思って2度目に注意してみると、現れた「ヒーロー」が闘っているから、ちゃんと危険ではあるらしい。

 だが危険を証し立てる攻撃はしない。大きな口を開けて牙を見せて吠える。

 つまり単に虚仮威しなのだ。

 この、あまりに下手な演出に呆れていると、その後は全編がこの調子なのだった。


 面白いものを作るのは難しい。しかしひどいことになることをなぜ止められないのか。

 登場してたちまち主人公の心を奪ってしまう「ヒーロー」が、主人公とどういう関係なのか、何のために地底世界アガルタからやってきたのか、なぜすぐに死んでしまうのか、しかもなぜわざわざ岩の上から逆さまに落ちるのか(そんなことをすれば死体がどれほど悲惨なことになることか!)、といった当然の疑問を、どういうわけで観客に説明しなくていいと思えるのか、全く理解できない。観客はまるでオイテケボリなのだ。

 主人公がアガルタから地上にきた男と地上の女の間に生まれた子供であるという極めて重要な設定も、その気になれば推測は可能かもしれないが、それをさせるような導因が物語に埋め込まれていないから、マンガだか小説だかにあるという情報をネットで見て初めて知るばかり。

 なぜそのことを主人公本人が知ることの感慨を観客に味わわせなくてもいいのか。

 この構図は先日の『スーパーカブ』炎上問題と同じだ。アニメの観客には「それらしい」雰囲気だけを見せていればいいという判断なのだ。物語の辻褄、必然性がどうなっているのかを知らせる必要はない、と。

 だがそれではどのようにして登場人物の感情に共感して、物語の起伏に同調して、心を動かせば良いのか。


 アガルタがモンゴルのようなパタゴニアのような風景なのも、きれいなのはいいが、腑には落ちない。青空に白い雲を浮かばせてどうする。地底の異世界というなら「逆さまのパテマ」のようにクラクラくる世界観を見せるでもなし。

 世界設定といい物語の展開といい登場人物の行動原理といい、とにかく全編ツッコミどころしかない。


 そして悲しいことに主人公の女の子の不自然な幼さと序盤の「ヒーロー」の異様に優しい口調は、かなり気持ち悪かった。いずれも声優のせいではなく、演出のせいだ。

 物語がひどいと、そこに生きる人物までこのようにしか描かれない。

 本当に悲しいことだ。