2018年8月27日月曜日

『V/H/S ファイナル・インパクト』-期待しなければいい

 ファウンド・フッテージ物ということで以前からネット上で知っていたのだが、レンタル屋で見つけて。残念なことにシリーズ3作目しかなくて、しかも後からネットで評判を確認すると、1,2に比べてすこぶる評判が悪い。
 短編オムニバスの、基本はPOV。
 確かに、それぞれ特別な面白さではなかったが、こういうのはまあそういう期待度に見合っているともいえるのだった。そして「世にも奇妙な物語」あたりよりは確実に質が高い。
 だからといって、とりたてて考えたり書き残したりしたいということでもないのだが。
 いや、悪くない。1,2作を見かけたら観てみようと思うくらいには。

2018年8月17日金曜日

『岸辺の旅』-納得できない

 書店で黒沢清と蓮實重彦の、この映画についての対談を立読みして、録画したまま手のつかずにいたのを観る気になった。
 死んだ夫が、ほとんど生身の人間と同じような形態で現れて、3年間、行方不明の夫の帰りを待っていた妻とともに旅に出るのだという話の骨格は知っていた。「岸辺」が現世と死者の国の境界を意味していることも見当がつく。何か、じわじわと「成仏」的な救済が感じられるような物語なんだろうという期待をしていた。
 確かにそうだった。それは間違いではない。
 だが蓮實が触れる浅野忠信のコートの色や女優が床に座るシーンなどは、どうにも何の感動も呼び起こさないのだった。
 いくらか共感できるのは、深津絵里が道路の反対側に走っていって、残された浅野忠信が妙に遠くに感じられるショットになって音が止まるシーンの印象的であることと、蒼井優がすごいということくらいか。
 もう一つ、観ながらアッと思ったカットがあって、終わってからもう一度本屋に行って対談の続きを読んでいたら、そのことに触れていたのは興味深かった。鳥の影が地面を横切るのが画面に映り込んでいて、これは偶然か狙いかと蓮實が聞くと、黒沢が、よく気がつきましたと返しそれは偶然だと答え、さらに別なシーンではCGで書き込んでいるのだというのだ。鳥の影は死者の国からの使者のような象徴性を帯びているということなのだろうが、そういった物語的な因果律の納得よりも、映画に紛れ込んだ「異物」としての驚きがあったのだ。

 いくつかの場面に感興を覚えつつも、結局、その評価については、物語的にも映画的にも、あれこれ納得はできないのだった。
 そう、まず物語的になんだか納得できない。物語は、旅の途中で別の死者たちと関わり、彼らを「成仏」させたあとで主人公も成仏するというのが端的な要約なのだが、たとえば最初にかかわる死者であるところの小松政夫が成仏するきっかけとなるのがなんなのか、わからない。生前のDVを告白したことか。観客的にはそれはその時に知らされた情報だろうが、それは死者にとっては繰り返し訪れていた悔いであるはずである。そもそもその悔いが死者をこの世に留まらせていたのだという理屈もよくわからない。妻へのDVへの悔いが?

 そして映画的にこれが優れた作品であるという評価にも、にわかに納得しがたいものがある。風に揺れるカーテンとか急に暗くなる画面とか、いつもの黒沢演出は、まあ悪くない。花の写真の切り抜きが壁一面を埋めているのが、徐々に照明を当てられて観客に見えてくるシーンは、さすがに映画的な感銘を受けた。
 だが、蓮實との対談でも触れていた、あえて死者が消える場面を唐突に見せるカットのつなぎ方は、正直、違和感しか覚えなかった。単に素人臭いという感じだった。といってCGで消えていく様子を描いてほしいというわけではない。そして、その場面を描かずに、時間をとばして、後の展開につなげるのは逃げかもしれない。
 それでも、消えていく死者の肩を抱く浅野忠信が、次のカットで宙を抱くように手を伸ばしているという演出は、ほとんどふざけているのかというようなつなぎかただった。死者が消えた後の手の伸ばし方が不自然に真っ直ぐ過ぎるところなぞも、あまりに芝居が素人すぎる(そもそもが浅野忠信という役者は常に素人臭いんだかなんだかわからない芝居をする役者ではあるが)。
 その死者が消えるまでのシークエンスは、画面に映る山中に流れる霧があまりにあからさまにチャチいCGであることにまずびっくりしていると、そのままチャチな学芸会のような芝居が続くのにもびっくりしてしまう。まるで仲間うちで作りましたというような低予算映画的な手触りなのだ。これはいったい何の効果を狙った演出なのだろうか。腑に落ちず、感銘を受けるということもない、わけのわからない場面だった。
 蓮實重彦がどういうわけでこの映画を評価しているのかが、結局わからず、もやもや。ついでにくだんの同書に収められている阿部和重の「岸辺の旅」論は、まったくよく考えられたものだというような論理で、完全に「トンデモ」に感じられた。

2018年8月16日木曜日

『運命じゃない人』-知的な構築物

 『カメラを止めるな』的な映画を、ということで『鍵泥棒のメソッド』の内田けんじの未視聴のデビュー作を。
 TSUTAYAなどにはたぶん置いていなくて(時間をかけて探したわけではないが)、YouTubeにアップされていた、何語だかわからない(少なくとも英語や中国語や韓国語ではない)字幕の入った動画で。
 3作目『鍵泥棒』と2作目『アフタースクール』の素晴らしさからは、どうしたって期待してしまう。こういう期待は無論危険なのだが、結局のところ、見事に期待に応える出来だった。素晴らしい。

 映画の中の場面は、年号や月日、あるいは前の場面に対する時間軸上の関係(「一か月前」とか)が示されないことには、それがいつのことなのかわからない。だから物語に緊迫したリズムを作るためには観客の中の時間経過の感覚を適切にコントロールする必要があるのだろうし、下手な映画は、前の場面に続く次の場面が、どれくらいの時間経過のあるつながりなのかを観客に誤解なく伝えていないことがある。
 つまり、画面に映された場面は、基本的には時間順なのだろうという前提で観客は観るしかないのである。
 この映画はこの前提を逆手にとって、場面が時間順に観客に示されるわけではないことを伏せて、「その時」がきたら、ああ、あの場面には裏にこういう展開があったのか! という驚きを演出するのだ。
 物語は、大きく三つの層で語られる。
 第一部は不器用な主人公の不器用な恋物語のようなものとして、それなりのほのぼのとした味わいを感じさせる。そしてそれはある意味では完結した物語として観られるように作られている。
 第二部は日を改めて、いわば「後日譚」が描かれているのだろうと、観客は上の「お約束」によって見ている。その観客の前に、突然見覚えのある場面が現れて、実は時間的にはこちらの方が過去のことだったのだと知らされる。物語が進むにつれ、いくつもの驚きが観客にもたらされる。そして、第一部のほのぼのとした味わいとは違って、こちらはハラハラしたサスペンスが感じられるように作られている(決して深刻なものではなく、ユーモラスではあるが)。
 ともあれ、この中盤の物語も、一応の完結(解決)をみて、すでに観客の満足度は高い。
 ところが驚いたことに、さらにここにもう一つの物語が重なってくる。やはり物語がある程度進んでいくうちに、見覚えのある場面やセリフが登場するに及んで、観客は、またか! という驚きの連続にさらされる。しかもこの3層目のドラマ性がまた高いのも見事だ。
 そして、すべての物語が終わって、いったん、エンドロールが流れ始めて、なんとそれが巻き戻る。結末にはもういちど、ささやかだが幸福などんでん返しがあるのである。

 知的な構築物を堪能した。

2018年8月10日金曜日

『IT』-楽しいホラー映画

 90年のテレビ映画は、放送でもビデオレンタルでも見ていて、忘れ難い物語の一つである。3時間という長さのせいもあるし、それ以来、娘の「ピエロ恐い」という発言によって我が家ではたびたび思い出されるせいもあるし。
 夏休みのホラー映画特集のリバイバル上映で、見逃していた2017劇場版がかかるというので、前作の影響を受けていない末の娘と劇場鑑賞。
 冒頭のシークエンス、テレビやネットで何度か目にした、主人公の弟が襲われるシーンで、あれっと思う。恐怖のピエロ、ペニーワイズが牙を剥き出しにするのは構わないが、そのまま幼児の腕が噛み千切られるという描写に違和感を覚える。こういう物理的な害を及ぼすって設定なのか、この映画は?(だがこれは原作にも描かれている描写なのだそうな!)
 その後も次々と恐怖の犠牲者は出るが、それらは、ちょっとやり過ぎじゃないかというようなベタな怖がらせ方で観客の神経に訴えるような場面は多い。たとえば単に迫ってくる、逃げても追いかけてくるという演出や、ゾンビ風メイクの「お化け」というのはちょっと安っぽいんじゃないの? と思っていたが、そういえばあれは子供の側の「怖い」という受け取り方に合わせた現れ方をするのだから「ベタな」のは当然なのだった。だからこそ、物理的な害をなすというようなことはないはずなのだが、あれっ? じゃあさっきの弟のは?
 好意的に解釈するのなら、弟は単なる事故死であって、「弟の死」こそが兄である主人公の恐怖であるのだから、それが兄にとって怖いと感じられる形で描写されているのだ、という解釈もできないわけではないのだが、まあその場面を兄が見ているわけではなく、観客がいわばその代わりにそれをその形で見ているってことか?
 "IT"の活動期間が27年周期だとか、地図を重ねてみると事件の場所の共通点がわかるとか、怖がらなければ何も害を及ぼさないとか、なんとなくホラー的「傾向と対策」がありそうなのだが、オカルト設定がどこまで統一的に定められているのかはどうもわからなかった。
 それにしても、恐怖の対象(つまり克服すべき対象)が、高い割合でつまるところ親の支配だというのはアメリカ的だ。とすれば来年公開だという大人編では「成功」からの転落が恐怖ということなのだろうか。それではペニーワイズの出番は?
 ともあれホラー映画としては、劇場で観たせいもあってとにかく音が怖いということもあるが、充分にその恐怖を楽しめた。
 だがそれより、駄目少年グループががんばる話としてのジュブナイル的側面の方が大きな印象を与える映画だった。そうした場面ではユーモアもたっぷりで、しばしば声をあげて笑ってしまったりもしたのだった。
 そうなると来年公開されるという大人編には何が残っているんだろうか。期待はできないが見届けずにはいられない。

2018年8月8日水曜日

『オデッセイ』-不足のない娯楽作

 嵐に見舞われた火星探索隊が火星を緊急脱出する際に事故に遭って死亡したと思われて一人だけ火星に置き去りにされた主人公が火星で生き延びて救出されるまでの2年近い日々を描く。
 食糧の確保、脱出計画と、具体的な方策を試行錯誤して生き延びる様子はもちろん見ていて興味深い。だが、その成功と失敗を分ける変数がどれくらいなのかがわからないから、実際のところそれがどれほど大変なのかはわからない。たぶんありえないほどうまく行き過ぎている(そしてたぶん丁度良く、死なない程度に主人公に試練を与えている)んだろうと思う。
 それよりも映画の魅力は主人公の前向きな人物造型だ。困難な状況に絶望することなく現実な解決策を探っていくというだけではなく、ユーモアを忘れない。ここには、サバイバルの業務と並行して日課として映像で自分を記録するという設定が生きている。原作でもそうなのだろうか。映画では実際にマット・デイモンがカメラに向かって喋るし、それをボーン・シリーズの平田広明の二枚目声ではなく、神奈延年の軽い声で吹き替えているのが、能天気なキャラクターを造型していて良かった。
 もう一つは並行して描かれる地上の救出作戦だ。地球に帰還中の火星探査チームとともに、主人公とどうやって通信し、どうやって救出するか、地上チーム内でのぶつかり合いや駆け引き、そして協力が描かれる群像劇が、物語に厚みを与えている。
 設定に対して過不足ない起伏をつけた、巧みなストーリーテリングに人物描写で、最後に救出作戦が成功するカタルシスまで、間然するところのない娯楽作といっていい。
 だが、そう感じさせるほどの丁度良い負荷も含めて、何か観る者を揺り動かすほどの痛みを与えることもない、まさに「娯楽作」ではあるのだった。

2018年8月4日土曜日

『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級

 とにかく映画館で映画を観ようという機会があって上映中の映画を調べてみると、最近評判になっているこれが丁度上映しているのだった。そうして、拾い物、というくらいの期待はしてもよかろうと思って行ったのだが、思いがけず、生涯ベスト級の映画を観てしまった。
 ゾンビ映画を撮影していると本物のゾンビが現れ…という設定と、長回しがすごいということと、シーンの意味が後で変わるということと、ラストには多幸感が得られるということと、低予算映画であることのみが事前情報。
 長回しと言えばアルフォンソ・キュアロンの『トゥモロー・ワールド』がすごかったが、あれでも6分ほどだそうで、それに比べてこちらは37分というから桁違い。それに、キュアロンのはCG合成を駆使しての6分で、実際に演者とカメラがその時間に撮影を続けているわけではない。そういえば『LA LA LAND』の冒頭ハイウェイも、ものすごい長回しに見えるシークエンスだが、あれももちろん合成だろ。
 だからこそ空間の設計が見事に組み立てられて、そこを自在に移動する視線が映画的な(ゲーム的? ジェットコースター的?)な快楽をつくりあげていた。撮影には当然レールもクレーンも使っているんだろう。
 一方の本作では、合成なしに本当に37分をワンカットで撮り切っている。しかもすべて手持ちカメラだ。画面は揺れるし、オートの絞りはすぐに切り替わらないから屋内と屋外で場面が連続する時には画面が明るすぎたり暗すぎたりする。低予算映画らしい画面のチャチさから、合成であるという可能性を感じさせないが、そもそも本当にそうだと宣伝しているのだから信じない理由はない。『トゥモロー・ワールド』や『LA LA LAND』のように、そもそも通常の手作業では撮影不可能と感じられるような圧倒的な映像技術で観る者を圧倒する、というような意図が感じられる、ある意味で押しつけがましい長回しではなく、本当に仲間が創意工夫でやりきったというような、熱気と高揚感に溢れる手作業の長回しなのだ。
 だがこの映画の価値はここではない。いや、これだけではない、というべきだろう。この37分だって、随分と楽しい。だがここまでには、そこここに「うまくない」と感じられる部分はある。だがそれが伏線として、あえて演出されたものであることが後半にわかる。ここからはもう本当に脚本の見事さに脱帽するしかない。
 まず、この冒頭の長回しの終わりに、エンドロールが流れるのを見て、あれ? っとなる。事前情報からは「ゾンビ映画を撮っている映画クルーたちが本物のゾンビに襲われる」という物語なのだと思っていたから、いくつもあるカットの中で、冒頭のカットがとりわけ長い、ということなのかと思っているとそうではなく、これは物語内物語の入れ子構造になっているのだった。事前情報の映画紹介は、この冒頭のワンカットについてのみの紹介なのだった。
 画面のトーンが変わって、そこからの物語がいわば「映画」になる。映画愛溢れる…と評される本作だから、最初のワンカットこそが自主映画もどきの低予算映画(しかも映画作りをする物語という設定がますます自主映画っぽい)なのだと思っていたが、そうではないのだ。そこまでは、物語内の設定としても映画ではなくテレビ番組だし、大げさな芝居もリアルタイムで物語が進行する感触も、言ってみれば舞台劇的でもある。
 だがそのシークエンスが終わってからが本当に「映画」なのだった。それも「新人監督による低予算映画」らしからぬ見事なまでにこなれた商業「映画」なのだった。低予算映画だというのは事実だというのに。
 そうした安定した手触りにのせて、なんともはや、思い出しても溜息の出るような見事な脚本による物語が展開する。小ネタから大ネタまで、さまざまな伏線が次々と回収される快感とともに、はずさない手堅い笑いや、親子の絆の確認などといったベタなくすぐりとともに最後には、頑張る人たちが何事かを成し遂げる、というまっとうすぎる物語のカタルシスをたっぷりと味わうことができる。
 しかも多くの登場人物の群像劇として、それぞれがそれぞれの物語において、それをやるのだ。
 しかもそれらはすべて、いわゆる「無名の」俳優たちによって演じられている。本当の映画のエンドロールで、俳優の名前が役名と似ているのに気づいて、あれ、と思ったが、後から調べてみると、すべて当て書きなのだそうだ。ということはつまり、もはやこの映画の作られ方自体が、映画内物語の外側に、さらに入れ子になってこの物語そのものだということではないか。
 日本映画としては『12人の優しい日本人』『キサラギ』『鍵泥棒のメソッド』に続く、最高レベルのエンターテイメント映画である。