2017年2月28日火曜日

『クローバー・フィールド』 -完成度の高い怪獣映画

 『Monsters』の流れで、一緒に観た娘に低予算怪獣映画の秀作を見せようと、まずは『Cloverfield』。次は『グエムル』の予定。
 
 POVは、低予算で映画を作る工夫として好感のもてる手法だ。モキュメンタリーも工夫の方向がはっきりして、単なる観客というより、作り手の側に想像が及ぶような鑑賞の仕方が楽しかったりもする。
 『クローバー・フィールド』は、低予算のPOV映画というわりには、堂々たるCGが怪獣映画としてスケールの大きなパニックを描いていて、初見の時から、おそろしく見応えがあるなあ、と感心したものだった。邦画の合成があれほどちゃちに見えるのは、アメリカの「低予算」にさえ遠く及ばないほどの予算規模だということなのか、技術的な問題なのか。
 観直してみると、やはり、最初のパーティーの場面を過剰に長々と描くことで、POVという手法の安っぽさとも相まって、怪獣登場のパニックの派手さとの落差が強烈に増幅されるという効果が巧みだと感心した。最初から低予算映画ですよと開き直るから、その完成度に対してのハードルが下がる。そして完成度はすこぶる高いのだ。
 物語としても、最初の怪獣襲来から、ブルックリン橋への避難、地下鉄のトンネル内での小クリーチャー来襲、感染症の危機、倒壊しそうなビルでの恋人救出劇…とイベントが連続して、その起伏に翻弄された印象から、密度の高い物語を体験したという満足感が得られる。
 完成度の高い、楽しい映画だ。

2017年2月24日金曜日

『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作

 ギャレス・エドワーズのハリウッド・メジャーの第一作『ゴジラ』はあまり感心しなかったが、その前の低予算デビュー作のこちらはどうも評判がいいので見てみた。怪獣映画なのにロード・ムービーというコンセプトにも惹かれるものを感じたし。
 宇宙から、生命体のサンプルを持ち帰った探査船がメキシコ上空で大破し、地上で生き延びた生命体が増殖するメキシコが「危険地帯」として隔離されている世界。新聞社の社長令嬢をメキシコから連れ帰ることになったカメラマンと令嬢の道行きを辿るというから、本当にロード・ムービーだった。
 「怪獣」などというモノがいるのだとして、それがただちに人類存亡の危機をもたらすほどのものだとしたら、それは大規模予算のパニック映画になってしまうはずだし、それほどのモノではでないとしたら、そんなものはさっさと捕獲するか駆除してしまうはずだから、何年もの間、ある意味では「怪獣」と共生している世界というのは一体どういう事情なのだろうと思って観てみると、なるほど、こういう感じなのかと腑に落ちた。
 要するに、ジャングルに交じって生きている、その大きさから、度はずれて厄介な野生動物ではあるが、それでも生態系にそれなりの位置を占めつつあるという存在になっているのだ。個体数もよくわからず、生態も把握しきれず、かろうじて人的被害を抑えようとはするが、時折被害は出てしまう、という…。
 壁のポスターには、むしろ怪獣よりもそれを攻撃する軍の空爆こそが人々の批判の的になっている世論のあることが示されている。
 つまりはこの「怪獣」はゲリラのようなものなのだ。ベトナム戦争でもイラク戦争でも、アメリカ軍がいくら強大でも、だからといって容易に決着はついたりしないのだ。
 なるほど、そういうあり方も可能なのか。

 もう一つ、現代社会を反映した要素として、メキシコを封鎖するためにアメリカ国境との間には巨大な壁が建設されている、という設定がある。映画が作られた2010年にもそれはすでに不法移民の問題を示唆していたのだろうが、現在、ああいうこと言ってるのがアメリカ大統領になった今では、その設定の符合がアメリカ人にはどう見えているのだろう。
 その巨大な壁をメキシコ側から二人が見る風景を始め、とにかく風景の印象的な道行きだった。
 壁を見るために登ったのは、マヤ文明か何かの遺跡だった。あるいは映画のあちこちに見られる廃墟も、それが怪獣の存在を示すという物語上の意味合いだけでなく、もう風景として美しい。
 映画としては、特に前半、短くて印象的なカットを連続させる編集のリズムがやけにうまくて、「情念」だか何だかを醸し出すべくたっぷりと長回しされる邦画のリズムに比べて、見ているだけでもう快感だなあと思っていた。
 人間ドラマとしては、同行の二人が惹かれ合っていく様子が、どうも吊り橋効果だとは思いつつも感情移入してしまい、それでもままならない関係がなかなかに切なかった。
 そして怪獣映画としては、特に派手なパニック映画、ディザスター映画を求めているわけではないので、いくつかの場面に見られるサスペンスで充分満足できた。 
 というわけで、思いがけず満足度の高い秀作に出会えたのだった。

2017年2月17日金曜日

『アクロイド殺し』 -映画における叙述トリック

 テレビドラマの「名探偵ポワロ」シリーズの「アクロイド殺し」を。
 実は原作未読なのだ。あの、ミステリー史上屈指の名作と言われる小説を。
 さらに実は、個人的なミステリー事始めはクリスティーなのだった。小学生の時に図書室で借りて読んだ『海辺の殺人』が、まっとうな推理小説の楽しさを最初に教えてくれた小説だった。

 ところがこの『海辺の殺人』=『なぜエヴァンスに頼まなかったのか』を長じて文庫本で読んでも、北村薫推薦の『象は忘れない』を読んだ時も、どうにも乗れない、というか、ちっとも頭に入ってこないのが参ったものだった。
 子供の時は単にストーリーを追えていたからかなあ。訳文もシンプルだったのだろうか。
 翻訳文がどうにもだめなのだ。スティーブン・キングなども、今まで読み進められたためしがない。どれも挫折してしまう。

 にもかかわらず有名どころを知っておきたいというさもしい根性で「ポワロ」シリーズをいくつか見てみたが、どれもちっとも面白いと思えないのも困ったものだった。淡々と事件の要素が並べられて、といってそれを組み合わせて真相を探るようなパズラーとして見る気にもなれず。殺人が劇的だったりは決してしないし。

 結局「アクロイド殺し」も、淡々と見終わってしまって、さて何があれほどこの作品を有名にしてるんだっけなと思い出してみると、果たして最初の方で「そうだっけ?」と頭をよぎった、あの「手記」という設定にからんだトリックのせいだったのだ。
 ええっ!? だめじゃん。
 そもそも映画には「一人称」が使えない上に(それでもナレーションを一人称にするくらいのことはできるだろうに)、「手記」が犯人の手によるものであることが最初から明かされている(そここそがこの作品を特殊なものにしているというのに!)
 どういうわけなのだろう。制作陣はこの作品が唯一無二(では厳密には、ないらしいが)であるところのトリックを台無しにして、ありふれた「ポワロ」物の一つとして作っているのだ。なんのため?

2017年2月15日水曜日

「博士の愛した数式」の授業 3 ルートの怒りの意味、映画版

 承前

 病院から帰った後、ルートが母親に見せる奇妙な苛立ち、怒り、涙は一体何を意味するか。
 この章段はいかなる事態として読むべきだろうか。

 前段の終わり「博士と私の靴音は重なり合い、ルートの運動靴はプラプラ揺れていた。」は確かに指導書の言うように「私と博士の心が親和を取り戻したことを示す表現となっている」のだが、それはつまり「私」と博士が擬似的な夫婦のように描かれているということであり、この時、ルートの立ち位置は、すっかり「子供」のそれである。「運動靴はプラプラ揺れていた」とは、博士におぶわれて自分の足で歩かない子供の立場に甘んじているということだ。母子家庭にあって必ずしも安楽な、子供という立場ではいられないルートにとって、それは心地よいものであるはずだ。
 この心地よさは、なぜ「不機嫌」に反転するか。

 ルートは、自らの怒りの訳を「ママが博士を信用しなかった…ことが許せないんだ。」と語る。だがルート自身は博士を信用しているのだろうか。そもそも博士は実際に信用に足る人物なのだろうか。
 とてもそうだとは言えない。ルートの負傷にあたって、博士は「動揺」し「混乱」し、まるで役に立たない。「私」の判断で病院に連れて行く段になってようやく大人の男としての力を発揮するが、総じて「任せる」には不安な人物に違いあるまい。
 むろんそのことをルートもまた痛いほど感じているはずだ。病院に運ばれることになる怪我の際も「ルートは一人で事を収めようとし」ている。父親としての博士におぶわれて感ずる安らぎが本当には安定した確固たるものではないことことに気づかざるを得ないほどに、ルートは怜悧である。ルートの苛立ちは、母親の博士への疑念自体に向けられているのではなく、むしろ母親が懸念した博士への不安が現実となってしまったことによって生じているのである。とすれば、それを現実にさせたのは自らの過失である。したがって、本当に責めるべきなのは自らであることに、ルートは気づいている。
 指導書の解説でもこの「不機嫌→怒り」が母親に対するものだけではないことが指摘されている。
 自分自身の行為によって博士を極度の混乱に陥らせたことで、ルートは自分自身に深く傷ついている。…博士に対するその罪の意識が、怒りの矛先を、博士を不安視し、自分をいらだたせた母親へと向けさせているのではないかと考えられる。
この「怒り」が、単に母親を「許せない」と思っているだけではなく、自分にも向けられているのだと読み取ることは重要である。ルートに自傷的な振る舞いをさせるのはいわば自責の念である。「不機嫌」の、「怒り」の正体が自らの責任の追及から発している以上、それは単純に母親を責めることにならない。
 だからルートは黙って涙を流す。愛すべき博士の名誉を守れなかった自らの無力に泣くのは、その責任を引き受けようとする矜恃の裏返しである。「罪の意識」を感ずるのは「罪」を自らの責任として引き受けようとする気概に拠る。
 この「罪の意識」が強い感情として表出するのは、前段における博士への親愛の情の故である。つまりルートは博士の名誉を守りたいのである。だからようやく怒りの理由を口にする時「ルートは私を見据え、泣いているとは思えない落ち着いた口調で言」う。言葉こそ母親を責めているが、そうした母親の懸念を否定することで、自らの責任を引き受けようとするルートは一人の「男」である。
 だが前段の「運動靴はプラプラ揺れていた」が、先に述べたように、ルートが子供という立場に身を任せる心地よさを表しているように、本当はルートは子供でいたいとも思っている。そしてルートが子供でいるためには、博士が擬似的な父親として信用に足る人物でなければならず、そのためには、ルートが自律できなければならない。
 つまりルートは、言ってみれば、子供でいるために大人にならなければならないという、奇妙な背理のうちに置かれている。それこそここでルートが置かれた混乱である。

 ここに表現されているのは、有り体に言えばルートの「成長」という事態にほかならない。ここに描かれているのは、母親に苛立ち、母親を非難する息子と、それに突き放される母親の断絶ではない。自分への非難の中に息子の成長を見て取る母親の歓喜である。
 博士の名誉を守ろうと母親を非難し、同時に名誉を守ることができなかった自らの非力を嘆くルートは、「こども」という安楽に甘んずることを望むがゆえに、それを守る力を求めてそこから一歩を踏み出そうとする「男」である。
 そう考えるからこそ、このシークエンスはまぎれもなくハッピーエンドなのである。

p.s

 上記の授業は、昨年度に行ったものを、今年度再び、整理した形で実施したものだ。
 今年は思いついて映画版の「博士の愛した数式」の該当場面が参考にならないかと気になって、見直してみた。
 文章の読み比べは、以前から授業のメソッドとして重要視しているのだが、評論の読み比べに限らず、「羅生門」における「今昔物語」などの原典との読み比べ、マンガ化されたものがあればそれとの比較、あるいは映像作品との比較など、複数のテクストを比較するのは、常に有用な読解学習の機会となる。
 だがそれは、一方が他方の理解を助けることが期待されるからではない。そもそも国語科学習とは、教材の「理解」を最終目的としてはいないからである。国語科学習における教材文の「理解」とは、あくまで「理解」を仮の目標としておくことで、学習の導因、インセンティブとなることが期待されるという、当面の「仮の目標」である。
 学習自体は、読解行為、考察そのものにあるのであり、読み比べはそのための糸口である。
 そして、思考とは常に比較である。情報が「差異」でしかない以上、情報の発生は比較によってしか起こらない。思考は差異線をなぞるようにして展開する。

 だが、小泉堯史監督による映画版は、期待したような考察を可能にしてはくれなかった。
 原作の、母親が外出しているうちにルートがナイフで指を切ってひどく出血し、病院に行くという顛末が、映画では草野球の練習の最中に他の選手とぶつかって転倒して頭を打って病院に運ばれるという設定になっている。展開が違っているから、映画を見ていると最初のうちは、このシークエンスが問題のエピソードだとは気づかない。だが病院の待合室でルートの治療を待っている場面辺りで、もしやそうなのかと思っていると、結局そうなのである。
 わけがわからない。どういうわけでこういう改変をするのか。映画の尺の問題で削るのなら、エピソードごと切ってしまえばいい。後の展開に必須のエピソードでは、まるでない。
 ルートの怪我の原因について、博士が自分に責任があると思い、なおかつその事態を博士が自分で収拾できずに混乱に陥ることは、このエピソードの必須要件である。だが映画ではそれがまるで描かれない。その混乱の中でこそ、三角数は語られる必要があるのだ。そこにある秩序が小説の言葉で「崇高」と語られるのは、博士の混乱との対比があるからだ。
 だが映画では、あろうことか博士は落ち着き払って、心配げに待つ母親に、数学の話をもちだして、したり顔で教訓を垂れる。
 どういうわけでこういう改変を思いつくのか、まるでわからない。
 なんという、人間の心理に対する無神経、無理解。
 問題のルートの怒りも、博士に野球のコーチを任せることを懸念する母親に対する怒りとして描かれるだけだ。ルートの怒りは、夕食の帰り、博士におぶわれている場面で既に露わにされる(アパートに帰り着いてからではなく!)。そして母親はその怒りの意味をただちに理解して、ルートに謝るのである。ルートの自責の念も、成長も、まるで描かれることはない。
 演出以前に脚本も自ら書き下ろしている小泉監督が、小説に描かれた、授業で分析したような心理の機微をまるで理解していないことは明らかである。
 もちろん、この場面だけでは、「授業」という特殊な場がこのような読みを可能にしているだけだ、とも言える。だが、物語の結末部にある決定的な喪失についても映画がまるで描いていないのは、もはや、この映画が何を語ろうともしていないことの証左である。この映画は、まったく、ただなんとなく、このお話を絵解きしたに過ぎない。そこに美しい桜並木でも映しておけば「良い映画」風のものを作ったつもりになっているのだ。

p.s2
 おそらく明治書院の、平成30年度版の「現代文B」では、恩田陸の「オデュッセイア」も、小川洋子の「博士の愛した数式」も収録から漏れてしまうだろう。これらはいわば「流行作家」枠であり、改訂の際に入れ替わる可能性が高い。
 たぶん編集部では先日の恩田陸の直木賞受賞のニュースを、歯噛みして見たに違いない。「オデュッセイア」を収録からはずしたのを悔いて。
 だが「オデュッセイア」も「博士の愛した数式」も、小説として魅力があるというだけでなく、それを素材として「読む」という行為を実践する「教材」として、きわめて価値の高い小説であった。出版社の指導書からはそうした価値の自覚が伝わってはこず、編集部にとっては、やはり単なる「流行作家」枠なのかもしれない。

p.s3
 いやはや驚いた。30年版「現代文B」でも、「オデュッセイア」「博士の愛した数式」、ともに収載継続だった!
 教材としての可能性を高く評価する者として、編集部の英断を言祝ぎたい。

2017年2月14日火曜日

「博士の愛した数式」の授業 2 野球中継と涙の意味

 承前

 さて、さらなる考察を誘導するため、生徒に、考える材料を提供する。
 注目させたいのは、この後2ページにわたって描写されるルートと「私」のやりとりに、随時挿入されるラジオの野球中継である。
 実はここまでの問答の途中で、この野球中継の挿入がうるさい、という印象を述べた生徒がいた。こうした感想が授業という場に提出されるのは有益なことである。こうした違和感こそ、考察を展開する糸口になるからである。
 この野球中継はルートと「私」の会話の無意味な背景ではない。どうみても意図的な挿入である。といって「不機嫌の原因がタイガースでないのは明らかだった。」「ルートの耳には何も届いていなかった。」とあるから、この野球中継が直接、ルートや「私」の心情に影響しているというわけではない。むしろこれが意味するものは、読者に向けて物語の方向性を指示することである。
 もちろん、じっくり読まないと生徒にはそれがどのような方向であるかを把握することが難しい。まず野球の試合がどのような状況であるかを把握するのが難しい。「亀山」「桑田」がどちらのチームの選手であるか、ルートがそれらのチームに対してどのような立場であるか確認する。
 「私」は不機嫌なルートの態度に「タイガース、負けてるの?」と問う。ここからは、ルートがタイガースに肩入れしていることを確認する。
 続いて試合の状況である。この場面の序盤で、ゲームは九回表、巨人とタイガースは同点である。ルートは不機嫌の理由を聞かれて、答えることなく怪我をした手を机に打ち付ける自傷的なふるまいをする。中盤でタイガースの「亀山」がバッターとなる。「亀山」が「桑田の球威に押され……二打席連続三振を喫しています…」という状況を伝えるアナウンスが挿入されたあと、ルートは「声も漏らさず、体も震わせず」「涙だけをこぼしていた」。タイガースは「負けてる」わけではないが、劣勢である。
 そして、ルートの怒りの訳がルート自身の口から語られた後、それに対する「私」の反応についての説明・描写を一切差し挟まずに、次のようにこの章は終わる。
 亀山が二球目を右中間にはじき返した。和田が一塁から生還し、サヨナラのホームを踏んだ。アナウンサーは絶叫し、歓声はうねりとなって私たち二人を包んだ。
この描写は何を意味しているか。どのような印象を受けるか、と生徒に聞いてみる。
 ここに示されている、タイガース選手の劣勢からのサヨナラ勝ちという展開は、明らかに事態の好転である。つまりこの場面は全体としてハッピーエンドへ向かって決着しているのである。必ずこのことを確認しておく必要がある。つまり、ルートの怒りが母親に向かって爆発することは、肯定されるべきことなのである。

 もうひとつの手掛かりはルートの流す涙について述べた次の一節である。
 けれど今回は、かつて目にしたどの涙とも違っていた。いくら手を差し出しても、私が拭うことのできない場所で、涙は流されていた。
この一節については教科書の「研究」でも「どのようなことか」と問うている。だがこの問いに対する「母親という立場では触れ得ない心の世界を息子が持ったことをはじめて知らされたということ」という指導書の解説ははほとんど同語反復にしかなっておらず、この涙の機制を説明してはいない。
 問題は「私が拭うことのできない場所」という一種の比喩表現が意味しているものをどう捉えるかである。
 生徒には「かつて目にした」「涙」と目の前の「涙」の違いは何か、と聞く。今までの涙は「私が拭うことのでき」る「涙」であり、この時の「涙」は「拭うことのできない場所」で流される「涙」である。では「私が拭うことのできない場所」とはどこか。どこで流される涙ならば「拭うこと」ができるのか、と聞く。それらと今回の涙の違いは何か。
 指導書は、今回の「涙」が「男の涙」と形容されていることに注目している。この点は重要である。だがそれが「息子に突き放されて手の届かない母親の思いを伝えている」と解説されてしまうと、先に確認した、このシークエンスをハッピーエンドとして読むという方向と齟齬が生ずる。
 この涙は、母親との断絶を意味しているのではなく、「男の」が示すとおり、素直にルートの成長を意味していると読むべきである。そのうえで、このシークエンス全体の意味に位置づける必要があるのである。

 問題を整理しよう。考えさせたいのは、このシークエンス全体の意味である。ルートの「怒り」は何を意味しているか、である。だがこうした問い方は、生徒にとってわかりやすい形ではない。したがって、実体に応じて、前段の親和的な雰囲気が「不機嫌」に変化した理由は何か、という問い方になるのは構わない。ルートはなぜ「不機嫌」になり、なぜ苛立ち、なぜ泣くのか。
 つまり最初の問いである。ただしその際、先の諸点を考慮に入れることを必須条件とする。

  1. なぜ「とたん」なのか(態度の急な変化のわけ)。
  2. なぜすぐに理由を言わなかったのか。
  3. ルートの涙が「拭うことのできない場所」で流される「男の涙」であるということ。
  4. このシークエンスがハッピーエンドであること。

 ルートの語る「ママが博士を信用しなかったから」は、充分にルートの怒りを説明していない。なぜ前段から態度が急変したかも、すぐに怒りの理由を母親に言わないかも、充分には説明できない。ルートは「怒り」を押し隠して、表面上、和やかな空気を作っていたのではなく、むしろ前段の三人の間に生まれた親和的な雰囲気こそ、ルートの「怒り」を生んだのではないか。
 といって、博士に対する親愛の情が、博士を信用しなかった母親への怒りに変化したのだ、と言っただけでは、涙の訳がわからない。ルートの涙にただ「突き放され」たと感じたと言っただけでは、ハッピーエンドであるという読み方ができない。
 では一体、このシークエンスはどのような事態を表現しているのか。

 続く。

2017年2月13日月曜日

「博士の愛した数式」の授業 1 登場人物の心理を読む授業

 明治書院「高等学校 現代文B」には、「本屋大賞」第1回と第2回の受賞者の作品が収録されている。しかも小川洋子の「博士の愛した数式」は、その第1回受賞作品そのものの一部抄録である。一方の第2回受賞者の恩田陸の作品は、本屋大賞受賞作品「夜のピクニック」ではなく、独立した短編「オデュッセイア」である。
 「博士の愛した数式」と「オデュッセイア」を読むには、それぞれかなり違った作法が必要になる。もちろんどちらもただ読むことで楽しめる良質なエンターテイメントとして享受することにいささかの不都合もない。だが授業という場でそれを取り扱うには、読むことにおいて必要とされるそれぞれに適切な作法を意識化しておくことが望ましい。
 たとえば「オデュッセイア」では、ファンタジーとしてその世界観を捉えながら、最終的にはその象徴性についての考察へと展開することが可能である。
 一方「博士の愛した数式」では、伝統的な国語科の授業での小説の取り扱い方である「登場人物の心理を考える」という作法が適切である。その小説世界の人間関係、状況に読み手自身を重ねながら、その喜怒哀楽を感じ取るのがふさわしい小説だからである。
 「博士の愛した数式」という小説にとって、記憶が80分間しか保てないことと、数学をこの上なく愛しているという、「博士」に施された二つの特殊な設定が肝であるのは確かだ。だがそれを「数学的真理は崇高なものだ(と博士は考えている)」などとまとめてみせても、それで小説を読んだことにはならない。授業で小説を読む意味もない。正面切ってその問題について授業で考察するというより、小説自体を読みつつ、「博士」の喪失感や悲哀、あるいは「数式」の崇高さを感じ取っていくしかない。だからこそこの小説では伝統的な「登場人物の心理を考える」という展開に持ち込むしかないのである。
 以上の教材観に基づく筆者の授業の様子について以下に描写する。

 登場人物の心理を詳細に追っていくという展開の授業で扱う意義のある最も適切な場面は、教科書収録部分の終盤、病院から帰った「ルート」が奇妙な「怒り」を露わにする場面である。
 ルートの怪我と病院への搬送、待合室の三角数から三人での外食まで、言わば物語のクライマックスとも言えるイベントの後、一行の空白を挟んで、物語は意外な展開をみせる。
博士と別れ、アパートまで帰り着いたとたん、なぜかルートは不機嫌になった。
ここから始まるシークエンスは時間をかけて考察するに値する、実に小説的な読解力を要求される場面である。
 まずは一読しただけの段階で、章段冒頭のこの部分について「なぜか」を聞く。2ページ後の、次の一節がその端的な解答になっているという因果関係は把握しておく必要があるからである。
  「ママが博士を信用しなかったからだよ。博士に僕の世話は任せられないんじゃないかって、少しでも疑ったことが許せないんだ。」
この応答は容易である。右の二カ所には確かな因果関係がある。続けて、これが具体的にどの場面のことを指しているかを確認する。教科書にして7ページほど遡ると、「私」が買い物に出る前、ルートに「大丈夫かしら」と問いかける場面がある。このやりとりを探し当て、ルートの「怒り」の伏線となる記述が見出せるか、教室みんなで確認する。
 ここには、母親の問いかけに対し「ぶっきらぼうに」答え、「私など相手にせず」に博士の書斎に駆けていくルートが描かれている。
 ここに「不機嫌」の萌芽を読み取ることは確かにできる。この伏線とその回収は明らかに意図的なものである。作者はルートの「怒り」を描く上でこの場面を想起するように読者に求めているのである。
 だがこれだけで「なぜか」が説明され尽くしていると考えることは、まっとうな小説読者としてはできない。その勘は、そんなに単純な感じではないな、という違和感である。
 この違和感を言葉にしてみるなら、こんな感じだ。これがルートの怒りの理由であるとすると、それはこのやりとりの後で、怪我して病院に運ばれて、帰りに外食してアパートへ戻る、という展開がこの怒りに関係ないことになってしまう。博士への「私」の懸念はこれらの展開の前に既にルートに表明されているからだ。仮にルートが怪我などせずに、「私」が買い物から戻ったとしても、ルートの怒りはやはり爆発しただろうか。そうした想像は困難である。
 したがって、「私」の博士への懸念は、ルートにとって母親への不満として心に留まってはいるが、それを激情に変えたのはその後の展開であると考えられる。何がルートの心を波立たせているのか。

 右の確認に続いてさらに問う。
 なぜ「とたん」なのか? この急な態度の変化はどうして起きたのか?
 同じ問いが教科書の脚問にも設定されている。指導書は次のように解説する。
 博士と別れ、母子ふたりになったことで、それまで抑えられていたいらだちが抑えられなくなったと考えられる。
生徒もまた同様の理由を口にする。こう答える生徒には「抑えられなくなった」のなら、すぐに言えばいいのに、なぜこの後2ページも黙っていたり泣いたりするのか、と反問する。
 さらにいえば、前段落の「外食」のシークエンスでは、「ルートは大喜びだった」「満足していた」「ヒーローにでもなったつもりでいるらしかった。」「大威張りで」「素直におんぶをしてもらった」「夜の風は心地よく、おなかはいっぱいで、ルートの左手は大丈夫だった。もうそれだけで、十分満足だった。」と肯定的な表現が並ぶ。ここから、「それまで抑えられていたいらだち」を読み取ることはできない。それを読者に伝える描写はない。
 したがって、このルートの怒りは単に上機嫌の演技の下に抑えていた不機嫌が露わになったとかいうことではない。むしろ、前段落の肯定的な表現、三人の間にもたらされた親和的な空気こそが、ルートの不機嫌をもたらしていると考えるべきであり、その機制を明らかにすることが、この場面の読解として豊かな収穫をもたらしそうだという予感がある。

  この項、続く。

2017年2月12日日曜日

『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画

 ブログ開設の直前に観た映画だ。素晴らしく面白かったのだが、今、テレビで観ても同じように感じるものか。

 いやあ素晴らしかった。楽しかった。感動した。
 冒頭の母親や妹のトラブルを処理してからのお見合いSNSの描写から、もう既にうまい。思い切って「ウィンク」ボタンをクリックするまでの躊躇いと、思い切ってクリックするドキドキ、なのにシステムにはじかれてしまう肩透かし、ともう絶妙な描写にニヤニヤしてしまう。
 この、「思い切って」がその後エスカレートしていく。平凡で地味な仕事をしている冴えない中年男という設定の主人公が、見つからない写真のネガを探してグリーンランドに行き、あまつさえ酔っぱらい男の操縦するヘリコプターに離陸寸前で飛び乗り、北の海に飛び込んで鮫と戦う。一度ニューヨークへ帰ってから、もう一度アフガニスタンからヒマラヤへ。軍閥の族長が銃剣で貫いて食べる母親のオレンジケーキや、ヒマラヤのシェルパたちとの草サッカーなど、端々に「うまい」と感嘆することしきり。
 アイスランドの火山の裾野の草原をスケートボードで滑走する爽快感と開放感は快感と多幸感に満ちていたし、そこで火山が噴火してしまうスリルは映画的高揚感いっぱいだった。
 それでも、もっとも感動的なのは、長い冒険の果てに訪れる「青い鳥」的日常讃歌である。結局、日常的な「地味な」仕事の価値を最大限、他人から認められ、感謝される、という結末に、しみじみと幸せな気分に浸されて見終われる映画なのだった。娘も「こういう映画が観たかったんだよ!」とこの感じ方に太鼓判を押してくれた。

2017年2月10日金曜日

『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス

 ポリティカルサスペンスとして名高い作品をようやく。フランスのドゴール大統領暗殺を企む謎の殺し屋「ジャッカル」の暗殺計画とフランス警察の捜査をドキュメンタリー・タッチで追う。
 …というようなありがちな紹介のとおり、最近の演出過多な映画やらテレビドラマやらを見慣れた目には、最初のうち、あまりに淡泊な描写に拍子抜けする。
 これは最後の暗殺決行とそれを阻止する警察の銃撃戦の場面まで一貫している。昨今の映画なら、緊迫した音楽で盛り上げ、細かいカットでアップにしたりロングにしたり、ここぞというところはスローモーションにして…と、これでもかと劇的に見せるであろうクライマックスも、あれよと終わってしまう。むしろワイヤーアクションだかなんだか、ジャッカルが壁まで吹っ飛ぶアクションにびっくりするくらい、全体は淡泊なのだ。
 それでも、最初のうちの拍子抜けに負けずに観ているとどんどん面白くなる。
 特注のライフルが完成して、市場で西瓜を買うのはもしやと思っていると、はたして試射の標的にするのだった。ご丁寧に顔らしきものをペイントして木に吊す。何発か撃っては当たり所を確認して、スコープの微調整をする。おおよそ真ん中に当たるところまで調整が終わって、さて、何やら違う弾をこめる。これはもしやと思っていると、西瓜が爆発したように木っ端微塵に四散して、これは注文の際に話題にしていた炸裂弾なのだと知れる。本番ではドゴールの頭がこうなるのな、と想像させて、これこれ、こういうところが楽しいのだ。
 ルベル警視を演じたマイケル・ロンズデールという俳優の、人の良いおじさん的風貌と手際の良い捜査のギャップも楽しい。有能な捜査官の仕事ぶりに感心しつつ、それをかいくぐって計画を着々と進めるジャッカルからも目を離せない。

 ところでジャッカルが途中で協力者を得る手段が「色仕掛け」というのはどうなのよ。「ゴルゴ13」は商売女だったっけ? 池上遼一の「傷負い人」や、藤木直人主演のNHKドラマ「喪服のランデブー」など、どういうわけでこう都合良く協力者が現れるんだよと思われる設定の源流はこのジャッカルあたりなのだろうか。

2017年2月7日火曜日

『ハーモニー』 ーアニメが不自然を描く困難

 伊藤計劃アニメ化プロジェクト第2弾。第3弾の『虐殺器官』の公開にあわせてのテレビ放送だ(『屍者の帝国』の放送はどうなったのだろう)。
 CFを見る限り『虐殺器官』はかなりアニメーションの質が高そうだが、『ハーモニー』や『屍者の帝国』はそれほど期待できなかったのだが、監督はなかむらたかしとマイケル・アリアスでSTUDIO 4℃の制作なのだった。それなりのものを作っているはずだと期待する。
 確かに画面設計などには見るべき画も多い。いくつかの場面では手のかかった仕事をしていると思えた。特にPG12の原因となったであろう例の場面などは(それともあれはミァハの設定が原因か?)。

 だが結局、面白い映画ではなかった。
 そもそもが、原作は面白い小説だったか?
 確かに伊藤計劃の作品は凄い。その設定の斬新さも、その設計の緻密さも、細部に横溢している。『ハーモニー』でいえば「生命主義」という設定と、人間の「意識」とは何か? という問題設定だ。
 そして、集団自殺事件の、場面としての戦慄も、自殺か他殺かを選択させる焦燥感にも、展開としての面白みはあった。
 だが『ハーモニー』では、肝となる、「生命主義」下での少女たちの閉塞感にどうにも共感できなかった。これは致命的だった。
 まして映画では、小説の一人称による心理説明がない分、ミャハの破滅願望も、それに惹かれていくトァンの心理もまるで物語において希薄な印象にしかならない。原作を読んでいてさえそうなのだ。映画だけ見る人は、結局、何の話かよくわからない、という印象に終わってしまうのではなかろうか。
 「意識のない部族の人々」なども、当人たちを登場させないことには、その設定がどういうことなのかを観客に伝えるのは難しい。台詞の中で次々と説明だけされてしまい、人類がそうなるということがどんなことなのか、誰が想像できるんだろ。これは原作でもそうだ。概念としての新鮮さはあったのだが、そうした人々との直接の遭遇がないのは、いかにも残念だった。
 したがって、結末でも、なんらのカタルシスも戦慄もなく、まるで平坦な気分で見終えてしまった。
 
 アニメとしても、AR(拡張現実)の表現など、『ターミネーター』の昔、30年以上前からまるで変わっていない。電脳空間での会議なんて『攻殻機動隊SAC』『すべてがFになる』をはじめ、枚挙に暇無いにもかかわらず、それを今更、粗いデジタル表現にして、電脳空間であることを示すなんて、なんという時代錯誤なセンスだろう。電脳空間が完全にリアルで、かついきなり現実と切り替わるというような演出をしないかぎり、そこでの斬新さを表現することはできないではないか。

 SFの実写映画化を日本で実現することはほとんど絶望的に難しいのだが、この作品に関しては、アニメでしか、あの未来社会を描くことが難しいだろうと思いつつ、アニメならではの弱さも出たと思う。
 「生府」の支配する「生命主義」に統一された社会というのがどのように不気味な世界なのか。誰もが健康で穏やかで、美男美女で…。
 だがそれをアニメで描いても、単に下手なアニメにしか見えない。アニメはもともと不自然に美男美女ばかりの世界で、誰もが穏やかな不自然さは、単に演出の下手さにしか見ないだろう。
 もともと「自然」を描くのが難しいアニメで「不自然」を描くことの難しさよ。

 じゃあどうすればよかったのか。作品を批判的に語る度に頭をよぎる。ま、責任など無いのだから言いっ放しにしてしまえばいいのだが。
 ともかくも、あの百合要素は要らない。

2017年2月3日金曜日

『スティーブ・ジョブズ』 ー狂気と演説

 といってもダニー・ボイル監督版の方ではなく、2013年のジョシュア・マイケル・スターン版だ。
 アップルに思い入れはない。パソコンはずっとWindowsだし、iPodもiPadもiPhoneも使ったことがない。映画を観ていると、Macの発売が大学生の頃だったのかぁ、などと他人事のように思う。パソコンの購入などそれよりも10年以上も後のことだ。
 だから、単に歴史物としても興味はあったが、そこに実感の伴った感慨はない。だが、もちろん、そこに生きる人の悦びや痛みを味わうことはできるようにはよくできた映画だった。
 たとえば作り話だとも言われる、ガレージで発足した会社「アップル」に最初の大口出資者、マイク・マークラが現れて出資を決める場面。短いショットで次々とその場にいる者の表情を映し、その後の成功への期待を感じさせる昂揚感が場面に充ち満ちている。
 新しいことを始めるワクワクする気分。努力が形になる充実感。事態がうまくいかないもどかしさ、苛立ち、怒り。そしてもちろん挫折の痛み。目的のために冷酷に切り捨てたものの喪失感。
 ジョブズ自身は成功の裡に終わるのだから、物語はハッピーエンドなのだが、その陰で、アップル共同創業者の、大学時代の友人ダニエルがアップルを去るエピソード、スティーブ・ウォズニアックの離脱、そしてマイク・マークラの穏やかな解雇(?)は切ない。
 そのすべての強度がスティーブ・ジョブズなのだろうと感じさせる映画だった。それが事実の忠実な反映であるかどうかはともかく。

 二つほど。
 創業者であるジョブズがアップルを追い出される奇妙な顛末については、なるほどこうもあろうかと、そのバランスがうまく描かれていた。
 スティーブ・ジョブズの革新に対する確信の強さは、それこそがあの成功を生み出す核心なのだろうと思わざるを得ない。ある種の極端さが変革には必要だし、困難なイメージの実現のためにはそれを強くイメージして、諦めずに実行することが必要だ。
 映画は、ジョブズの持っているその狂気ともいえる意志が、あのアップルの成功をもたらしたのだろうと感じさせることには成功している。
 だがそうした狂気が常に実現や成功に終わるとは限らない。結局は製品開発は実現しないかもしれないし、ビジネス的に成功しないかもしれない。
 だがこれを途中で諦めていたら「結局」も何もないのだ。
 といって、ことはビジネスである。しかも大企業となればそこには企業の論理がはたらく。損失を出す部門は縮小されるし、企業活動の障害となるものは排除される。
 したがって、ジョブズが経営から排除されるのは、やむを得ない決定でもある。
 だが、ジョブズを主人公とする物語では、追い出す側が悪役に描かれるのは必然だ。『セッション』の鬼教官、J・K・シモンズ演ずる取締役員アーサーは嫌味な現実主義者だ。そうした企業の経営方針からは、アップルの今日の成功はなかったということになる。
 しかしそれはあくまで結果論であり、アーサーは別の企業を成功に導いているかもしれないし(現実的にそうだし)、ジョブズのような経営者が成功しなかった例は無数にあるだろう。ジョブズが冷酷に切り捨てたプロジェクトや社員に、小規模なジョブズ的可能性があった可能性だって大いにある。
 アーサーとジョブズは、対立する二つの価値を体現していると同時に、個々の事例において表裏いずれにも変わりうる、やってることは同じ「リーダー」でもある。
 だからアップルの例は結果論なのだ。成功したという現実から遡って、ジョブズのやり方が良かったかのように感じられるだけなのだ。だがその成り行きは常に拮抗した可能性同士のゆらぎに過ぎない。
 ただし、ジョブズが風呂に入るのが嫌いで同僚から苦情が出ていたとか、髭を剃らずにジーパンにセーターで仕事をするとか、エキセントリックで協調性がないとか、そういう、穏当なビジネスマンとして珍しいスタイルがビジネス上の成功をもたらしたわけではない。その奇矯が成功と拮抗しているわけではない。
 拮抗しているのは、強く実現を望む意志の狂気と、バランスを優先する理性的な常識感覚である。そしてそれはどちらが正しいというわけではない。
 ただ、歴史を変えるほどの変革には、やはり狂気じみた意志が必要なのだということは心に留めておいても良い。

 もう一つ。
 西洋はつくづく演説の文化だと思わされた。ジョブズのプレゼンテーションは有名だし、スタンフォード大学卒業式のスピーチはもちろん面白い。それにしても、何事につけ、まず演説によるアジテーションがあるのだ。映画のさまざまな場面が、その演説を劇的に見せることに費やされている。
 ジョブズだけでない。結果的にジョブズをアップルから追放するジョン・スカリーがアップルCEOに就任するときにも、やはり長い演説が描かれる。
 さまざまな価値ある事柄は、価値があることを、強い、巧みな言葉で言い募ることで価値あるものとなっているのだ。
 アップル製品そのものの価値が、例えばユーザーの描写によって描かれたりはしない。製品の価値を訴える演説にうっとりする人々の表情によって描かれる。
 アジテーションに続いて、チームが一様に意志を感じさせる表情とともにゆるやかな横列隊形を作って画面手前に歩いてくるスローモーションが度々描かれるのだが(『アルマゲドン』の宇宙飛行士チームのように)、その演説に観客が乗せられていなければ、それはほとんどお笑いのようにさえ感じられるはずだ。
 成功に先立って、こうした演説が何が何でも必須であるように見えるというのは、どこまで事実かわからないが、とてもアメリカ的だなあ、と感心したのだった。