2017年2月13日月曜日

「博士の愛した数式」の授業 1 登場人物の心理を読む授業

 明治書院「高等学校 現代文B」には、「本屋大賞」第1回と第2回の受賞者の作品が収録されている。しかも小川洋子の「博士の愛した数式」は、その第1回受賞作品そのものの一部抄録である。一方の第2回受賞者の恩田陸の作品は、本屋大賞受賞作品「夜のピクニック」ではなく、独立した短編「オデュッセイア」である。
 「博士の愛した数式」と「オデュッセイア」を読むには、それぞれかなり違った作法が必要になる。もちろんどちらもただ読むことで楽しめる良質なエンターテイメントとして享受することにいささかの不都合もない。だが授業という場でそれを取り扱うには、読むことにおいて必要とされるそれぞれに適切な作法を意識化しておくことが望ましい。
 たとえば「オデュッセイア」では、ファンタジーとしてその世界観を捉えながら、最終的にはその象徴性についての考察へと展開することが可能である。
 一方「博士の愛した数式」では、伝統的な国語科の授業での小説の取り扱い方である「登場人物の心理を考える」という作法が適切である。その小説世界の人間関係、状況に読み手自身を重ねながら、その喜怒哀楽を感じ取るのがふさわしい小説だからである。
 「博士の愛した数式」という小説にとって、記憶が80分間しか保てないことと、数学をこの上なく愛しているという、「博士」に施された二つの特殊な設定が肝であるのは確かだ。だがそれを「数学的真理は崇高なものだ(と博士は考えている)」などとまとめてみせても、それで小説を読んだことにはならない。授業で小説を読む意味もない。正面切ってその問題について授業で考察するというより、小説自体を読みつつ、「博士」の喪失感や悲哀、あるいは「数式」の崇高さを感じ取っていくしかない。だからこそこの小説では伝統的な「登場人物の心理を考える」という展開に持ち込むしかないのである。
 以上の教材観に基づく筆者の授業の様子について以下に描写する。

 登場人物の心理を詳細に追っていくという展開の授業で扱う意義のある最も適切な場面は、教科書収録部分の終盤、病院から帰った「ルート」が奇妙な「怒り」を露わにする場面である。
 ルートの怪我と病院への搬送、待合室の三角数から三人での外食まで、言わば物語のクライマックスとも言えるイベントの後、一行の空白を挟んで、物語は意外な展開をみせる。
博士と別れ、アパートまで帰り着いたとたん、なぜかルートは不機嫌になった。
ここから始まるシークエンスは時間をかけて考察するに値する、実に小説的な読解力を要求される場面である。
 まずは一読しただけの段階で、章段冒頭のこの部分について「なぜか」を聞く。2ページ後の、次の一節がその端的な解答になっているという因果関係は把握しておく必要があるからである。
  「ママが博士を信用しなかったからだよ。博士に僕の世話は任せられないんじゃないかって、少しでも疑ったことが許せないんだ。」
この応答は容易である。右の二カ所には確かな因果関係がある。続けて、これが具体的にどの場面のことを指しているかを確認する。教科書にして7ページほど遡ると、「私」が買い物に出る前、ルートに「大丈夫かしら」と問いかける場面がある。このやりとりを探し当て、ルートの「怒り」の伏線となる記述が見出せるか、教室みんなで確認する。
 ここには、母親の問いかけに対し「ぶっきらぼうに」答え、「私など相手にせず」に博士の書斎に駆けていくルートが描かれている。
 ここに「不機嫌」の萌芽を読み取ることは確かにできる。この伏線とその回収は明らかに意図的なものである。作者はルートの「怒り」を描く上でこの場面を想起するように読者に求めているのである。
 だがこれだけで「なぜか」が説明され尽くしていると考えることは、まっとうな小説読者としてはできない。その勘は、そんなに単純な感じではないな、という違和感である。
 この違和感を言葉にしてみるなら、こんな感じだ。これがルートの怒りの理由であるとすると、それはこのやりとりの後で、怪我して病院に運ばれて、帰りに外食してアパートへ戻る、という展開がこの怒りに関係ないことになってしまう。博士への「私」の懸念はこれらの展開の前に既にルートに表明されているからだ。仮にルートが怪我などせずに、「私」が買い物から戻ったとしても、ルートの怒りはやはり爆発しただろうか。そうした想像は困難である。
 したがって、「私」の博士への懸念は、ルートにとって母親への不満として心に留まってはいるが、それを激情に変えたのはその後の展開であると考えられる。何がルートの心を波立たせているのか。

 右の確認に続いてさらに問う。
 なぜ「とたん」なのか? この急な態度の変化はどうして起きたのか?
 同じ問いが教科書の脚問にも設定されている。指導書は次のように解説する。
 博士と別れ、母子ふたりになったことで、それまで抑えられていたいらだちが抑えられなくなったと考えられる。
生徒もまた同様の理由を口にする。こう答える生徒には「抑えられなくなった」のなら、すぐに言えばいいのに、なぜこの後2ページも黙っていたり泣いたりするのか、と反問する。
 さらにいえば、前段落の「外食」のシークエンスでは、「ルートは大喜びだった」「満足していた」「ヒーローにでもなったつもりでいるらしかった。」「大威張りで」「素直におんぶをしてもらった」「夜の風は心地よく、おなかはいっぱいで、ルートの左手は大丈夫だった。もうそれだけで、十分満足だった。」と肯定的な表現が並ぶ。ここから、「それまで抑えられていたいらだち」を読み取ることはできない。それを読者に伝える描写はない。
 したがって、このルートの怒りは単に上機嫌の演技の下に抑えていた不機嫌が露わになったとかいうことではない。むしろ、前段落の肯定的な表現、三人の間にもたらされた親和的な空気こそが、ルートの不機嫌をもたらしていると考えるべきであり、その機制を明らかにすることが、この場面の読解として豊かな収穫をもたらしそうだという予感がある。

  この項、続く。

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