といってもダニー・ボイル監督版の方ではなく、2013年のジョシュア・マイケル・スターン版だ。
アップルに思い入れはない。パソコンはずっとWindowsだし、iPodもiPadもiPhoneも使ったことがない。映画を観ていると、Macの発売が大学生の頃だったのかぁ、などと他人事のように思う。パソコンの購入などそれよりも10年以上も後のことだ。
だから、単に歴史物としても興味はあったが、そこに実感の伴った感慨はない。だが、もちろん、そこに生きる人の悦びや痛みを味わうことはできるようにはよくできた映画だった。
たとえば作り話だとも言われる、ガレージで発足した会社「アップル」に最初の大口出資者、マイク・マークラが現れて出資を決める場面。短いショットで次々とその場にいる者の表情を映し、その後の成功への期待を感じさせる昂揚感が場面に充ち満ちている。
新しいことを始めるワクワクする気分。努力が形になる充実感。事態がうまくいかないもどかしさ、苛立ち、怒り。そしてもちろん挫折の痛み。目的のために冷酷に切り捨てたものの喪失感。
ジョブズ自身は成功の裡に終わるのだから、物語はハッピーエンドなのだが、その陰で、アップル共同創業者の、大学時代の友人ダニエルがアップルを去るエピソード、スティーブ・ウォズニアックの離脱、そしてマイク・マークラの穏やかな解雇(?)は切ない。
そのすべての強度がスティーブ・ジョブズなのだろうと感じさせる映画だった。それが事実の忠実な反映であるかどうかはともかく。
二つほど。
創業者であるジョブズがアップルを追い出される奇妙な顛末については、なるほどこうもあろうかと、そのバランスがうまく描かれていた。
スティーブ・ジョブズの革新に対する確信の強さは、それこそがあの成功を生み出す核心なのだろうと思わざるを得ない。ある種の極端さが変革には必要だし、困難なイメージの実現のためにはそれを強くイメージして、諦めずに実行することが必要だ。
映画は、ジョブズの持っているその狂気ともいえる意志が、あのアップルの成功をもたらしたのだろうと感じさせることには成功している。
だがそうした狂気が常に実現や成功に終わるとは限らない。結局は製品開発は実現しないかもしれないし、ビジネス的に成功しないかもしれない。
だがこれを途中で諦めていたら「結局」も何もないのだ。
といって、ことはビジネスである。しかも大企業となればそこには企業の論理がはたらく。損失を出す部門は縮小されるし、企業活動の障害となるものは排除される。
したがって、ジョブズが経営から排除されるのは、やむを得ない決定でもある。
だが、ジョブズを主人公とする物語では、追い出す側が悪役に描かれるのは必然だ。『セッション』の鬼教官、J・K・シモンズ演ずる取締役員アーサーは嫌味な現実主義者だ。そうした企業の経営方針からは、アップルの今日の成功はなかったということになる。
しかしそれはあくまで結果論であり、アーサーは別の企業を成功に導いているかもしれないし(現実的にそうだし)、ジョブズのような経営者が成功しなかった例は無数にあるだろう。ジョブズが冷酷に切り捨てたプロジェクトや社員に、小規模なジョブズ的可能性があった可能性だって大いにある。
アーサーとジョブズは、対立する二つの価値を体現していると同時に、個々の事例において表裏いずれにも変わりうる、やってることは同じ「リーダー」でもある。
だからアップルの例は結果論なのだ。成功したという現実から遡って、ジョブズのやり方が良かったかのように感じられるだけなのだ。だがその成り行きは常に拮抗した可能性同士のゆらぎに過ぎない。
ただし、ジョブズが風呂に入るのが嫌いで同僚から苦情が出ていたとか、髭を剃らずにジーパンにセーターで仕事をするとか、エキセントリックで協調性がないとか、そういう、穏当なビジネスマンとして珍しいスタイルがビジネス上の成功をもたらしたわけではない。その奇矯が成功と拮抗しているわけではない。
拮抗しているのは、強く実現を望む意志の狂気と、バランスを優先する理性的な常識感覚である。そしてそれはどちらが正しいというわけではない。
ただ、歴史を変えるほどの変革には、やはり狂気じみた意志が必要なのだということは心に留めておいても良い。
もう一つ。
西洋はつくづく演説の文化だと思わされた。ジョブズのプレゼンテーションは有名だし、スタンフォード大学卒業式のスピーチはもちろん面白い。それにしても、何事につけ、まず演説によるアジテーションがあるのだ。映画のさまざまな場面が、その演説を劇的に見せることに費やされている。
ジョブズだけでない。結果的にジョブズをアップルから追放するジョン・スカリーがアップルCEOに就任するときにも、やはり長い演説が描かれる。
さまざまな価値ある事柄は、価値があることを、強い、巧みな言葉で言い募ることで価値あるものとなっているのだ。
アップル製品そのものの価値が、例えばユーザーの描写によって描かれたりはしない。製品の価値を訴える演説にうっとりする人々の表情によって描かれる。
アジテーションに続いて、チームが一様に意志を感じさせる表情とともにゆるやかな横列隊形を作って画面手前に歩いてくるスローモーションが度々描かれるのだが(『アルマゲドン』の宇宙飛行士チームのように)、その演説に観客が乗せられていなければ、それはほとんどお笑いのようにさえ感じられるはずだ。
成功に先立って、こうした演説が何が何でも必須であるように見えるというのは、どこまで事実かわからないが、とてもアメリカ的だなあ、と感心したのだった。
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