2019年8月13日火曜日

「I was born」を「読解」する 1 -問いを立てる

 吉野弘の散文詩「I was born」の父親は、息子に向かって、なぜ唐突に蜉蝣の話をするのか。その話によって何を伝えようとしているのか。
 だがこのように問うことは間違っている。

 長い間、教科書の定番教材であり続けている吉野弘の「I was born」は、なによりも、読むだけで生徒の心に強い印象を残すことが期待される魅力的な詩として、是非生徒に触れさせたいと思わせる作品なのだが、実は読解の楽しさが期待できる、授業教材としてすぐれたテキストでもある。
 読解とは、テキスト内の情報に、ある構造を想定する思考である。部分的な関連性であれ、全体的な一貫性であれ、テキスト外部への敷衍可能性であれ、テキスト内の情報がある文脈の中に位置付けられたと思えたときに「読解」が成立する。
 「I was born」を「読解」したとき、そこに何が見えてくるか。

 導入として吉野弘の別の有名な詩に触れたり、散文詩という形式に触れたりするのも有益だ。しかるのち「読解」へ向かう思考を始めるための最初の問いは次のようなものである。
問 この詩の中で、最も大きな謎は何か。何がわかればこの詩がわかったと感じられるか。
 思考を開始するためには問題を明確にすることが有効だ。というより、問われて答えることより、問題を発見することこそ重要である。だからどんなテキストを教材として取り上げた際にも、まずこうした問いを生徒に投げかける。
 様々なレベルの問いが発想される。容易に答えられる、もしくは最初から答えが想定されている問いから、答えようのない問いまで。
 例えば「作者はこの詩で何が言いたいか」「この詩のテーマは何か」は問題系が広すぎる。「何が言いたいか」「テーマは何か」はすべてのテキスト読解に適用できる問いだ。だから問いとして間違っているわけではないが、ここでは、このテキストにおいては何を考えることが「言いたいこと」「テーマ」を明らかにすることになるのか、と問うているのである。
 とはいえ詩は、その言葉そのものが現前であるような言葉のありようなのだから、本文を離れた「言いたいこと」を抽象化することは、詩を読むという行為から離れてしまう。このような読解を揶揄して、「言いたいこと」を言いたいのなら詩を書かずに「言いたいこと」を書けばいいのだ、などとよく言われる。それはそうだ。だが、そうした理想的な詩の享受を教室という場で実現することは難しい。方法論も定かではないそうした理念は、テクストの曖昧な読解を出来合いのテーマへと結びつけるばかりで、結局かえって理念に反することになりかねない。
 一方、文学鑑賞ではなく言語学習としての国語科授業を行っているのだから、「言いたいこと」を抽象化することが有益な学習行為なのだと考えられるならばやってもいい。
 だがこの詩の「言いたいこと」はわからないのか? それこそが謎なのか?
 こう言ってはどうか。この詩の「言いたいこと」は「命の重さ・尊さ」だと。
 そう言ってみると、これが外れているようには思えない。同時に、そう答えられることがこの詩がわかったということになるとも感じられない。
 それでも、なぜ「命の重さ」が作者の「言いたい」ことだと考えられるのか、と問うことには学習の意義がある。そのような観念が詩の中からどのようにして抽出されるかを考えることは国語科の学習として有益だ。
 一方で生徒は往々にして「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」「父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか」といった言い方で「謎」を語ろうとする。確かにそれらが既にわかっている、という感触はない。それらは「謎」として読者の前にある。
 だが実はこの問いはこの詩を「読解」する上で有効ではない。
 試しに生徒に聞いてみよう。するとこれも「言いたいこと」「テーマ」と同様に「命の重さ」へ収斂してしまう。その時読者は、父親の言いたいことが詩そのもののメッセージであると見なしている。ならば先ほどと同様、なぜ父親が「命の重さ」を伝えようとしていると考えられるのか、と問うてみよう。
問 この詩が読者に、あるいは父親が息子に「命の重さ」を伝えようとしていると考えられるのはなぜか。
 こうした問いに対するありがちな回答は次のようなものだ。
 息子の言った「人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」は、一見したところ誕生への不満否定とまでは言わないまでも感謝の不足として受け取られかねない。「生まれたくて生まれたんじゃない。生んでくれなんて頼んだ覚えはない」は安手のドラマの非行少年が口にするお決まりの科白だ。父親はこうした息子の発言に対して、親の犠牲を示すことによって、命は親から引き継がれたものだからそれだけの重みがあるのだ、と息子の生命への軽視をたしなめようとしたのだ。
 説明できてしまった。謎は解けた。
 これが国語科授業で示される一般的な「I was born」の解釈である。あるいは道徳の授業かもしれない。
 こうした理屈を立てることはそれほど難しいことではない。だがこうした説明がこの詩の読後感に釣り合っていないのは明らかである。例えば、「興奮」した息子の言葉は、むしろ嬉しそうであり、そこに生の軽視や不満、親への糾弾の響きを父親が聞き取ったりはしないはずだ。だから読者はそんな理屈でこの詩を読んだりはしない。説明の為の思考が、読者の中で起こった「読解」と乖離してしまうのだ。
 確かに、この詩から受ける感銘は「命の重さ」を感じるということだ、と言っても間違いではない。だが「命の重み・大切さ」という表現は、あらかじめ用意された道徳的価値を表すお題目である。そうしたフレーズが想起されることもまた、テキストをある構造=文脈に位置付けているのだから冒頭の言い方で言えば確かに一つの「読解」ではある。だが詩のテキスト内情報を充分構造化することなしに、出来合いのお題目を引用してすますことと、この詩を読解するという行為との間にはなお大きな隔たりがある。
 にもかかわらず、この詩の「謎」はここにあるという感じは確かにする。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」はやはりにわかにはわからない。そしてこの問いに「命の重さを伝えたかったから」といった答えを対応させても、その「謎」が解けたという感覚はない。だがその答えが明らかに間違っているとも思えない。「父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか」という問いに対して「命の重さ」という答えを対応させるのも同様である。答えは間違っていないのに謎が解けたとは感じられない。
 つまり、論理のたどり方が間違っているのである。
 そもそも「a 父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか。」「b 父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか。」という二つの問いの仮の答えとして上に提示した論理は、実際の読者の思考の順序と逆である。aは五聯「少年による文法の話」から、bは六聯「父親による蜉蝣の話」から考えるべきであるように見える。また実際にもまず少年の話を聞いてから父親が話すのだから、説明の際にabの順になるのは、テキスト上の情報提示順としても出来事の生起順としても自然である。
 だが読者はbを考えてからしかaを考えることはできない。五聯は、それを聞いた者が一義的に何かを言いたくなるような話ではない。だから読者は五聯から直接aを考えたわけではなく、六聯から「b 何を伝えたいか」を抽象化し、それが五聯と対応することを確認する、という順序でしかabの問題を考察することはできないのである。
 そのようにして読者は六聯から「命の重さ」というメッセージ(b)を抽出し、それを導き出した要因(a)を五聯から考え、そこに論理を組み立てる。そしてそれを説明の段階でabの順に並べ直す。それが上述の説明である。
 だがこれでもまだ正確ではない。六聯は一義的に「命の重さ」という観念を抽出できるほど単純なテクストではない。蜉蝣の生態を語る父の言葉には「悲しみ」「つめたい(初出では「淋しい」)「せつなげ」といった形容があるものの、それを「命の重み」などという観念に変換することはできない。一旦そうした観念が立ち上がってしまうと、それは自明なことのように錯覚してしまうが、その内容からだけなら、蜉蝣の生態の「不思議さ」でも「壮絶さ」でも、生命の「儚さ」でも「貪婪」でも、さまざまな「観念」をそこに対応させることができる。母の死の真相についての衝撃もまた、安易な観念への変換を拒絶する。
 だから六聯からのみ父の言いたいことを考えることは、本当はできない。
 第五聯で語り手自身が「その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。」と問うている。だがこの答えは詩の中で語られることはなく、父は脈絡の不明な蜉蝣の話を始める。息子の話はなぜ父に「驚き」を与えたのか。またその「驚き」とはどのようなものか。その「驚き」が蜉蝣の話を父親にさせる動因となっているのは明らかだが、その正体が第五聯から読み取れるわけではない。第六聯で蜉蝣の話をしたこととの論理的な対応から遡って推測するしかない。
 結局「a 父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか。」という〈原因〉は五聯に求められるべきであるように思えるが、それは六聯で実際に話されたことから遡って考えるしかないし、「b 父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか。」という〈メッセージ〉は、六聯に表出しているのだが、それは五聯に呼応することでしか意味を確定できない。つまり五聯と六聯は、相互に意味づけ合っているのであり、どちらかが先に単独で何かを意味しているわけではないのである。
 したがって、立てるべき問いは次の通りである。
A 第五聯「文法上の発見」と第六聯「蜉蝣の産卵」はどのような論理でつながっているか。
B この時の父親の抱いている感情はどのようなものか。
 生徒の立てる問いの定番が「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」であるのなら、授業者の問いの定番は「この時の『僕』と父親の気持ちを考えてみよう」である。登場人物の「気持ち」を問うのは小学校以来の国語科授業の定番ともいえる展開だが、「気持ち」という言葉の曖昧さはそのまま読解の曖昧さを招き寄せ、さらにそれを語る言葉の貧しさにつながってしまう(だから実際には授業者は滅多にそんな問いを発しない。教科書などの手引きやテスト問題がそれを出題するだけである)。
 せめてこれを「心理」と言い換え、いささかなりと読み取るべきこと、語るべきことを明らかにする。登場人物の「心理」とは、「思考」と「感情」のことである。何を考えているか、どんなことを感じているか、である。
 そして父親の「思考」も「感情」も、六聯の記述からb「息子に何を伝えたいのか。」を一義的に読み取れはしないし、といって五聯から性急にその原因を探そうとしても見つかるわけではない。
 Aの問いは、父親の思考を跡づけることであると同時に、作品として成立しているテキストの文脈を、読者として読み取るということでもある。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いの形では前述の通り考察の論理が自覚されないまま道を逸れてしまううえ、父親の意図や感情が混ざって焦点がぼやける。これをBとして切り離し、Aは文脈の論理を追う。父親の思考も感情も、「なぜ話したか」「何を伝えたかったか」もすべてこの、文脈の論理から推測するしかないのである。
 とはいえ文脈の論理は、父親自身にも無意識であって構わない。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いの形ではつい父親の「意図」を考えてしまうが、Aで問うているのは必ずしも明確に「意図」されたものとは限らないのである。そして後述するように、父親はその論理を明確に諒解したような「意図」を持って蜉蝣の話をしたわけではないのだと筆者は考えている。さらには一般的にいえば作者にすらそうした論理が無自覚であっても構わない。それは読者がこのテキストを「読解」するうえで想定する論理のことである。そうした論理が登場人物や作者に自覚されたものであるかどうかは、併せて考えるべき問題であるとともに、区別して考えるべき問題である。
 一方でBの「感情」はまた難物である。「気持ち」を問う発問が貧しくなりがちなのは、感情を表す語彙が限られているからである。喜怒哀楽では人の感情のありようの微細な綾を表すことはできないと感ずるから、しばしば「…という複雑な感情」などという曖昧な言い方しかできないことも多いのだが、それでもまずは表現しようと考えてみることで読解が促される。この時の父親は喜んでいるのか怒っているのか悲しんでいるのか(少なくともそう書いてあるからには「驚いている」のではあろうが)。その感情のあり方は、第五聯と第六聯をつなぐ論理とどのように整合しているか。

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