承前
さて、以上のような「読解」に基づく「I was born」の授業を参観した、育休明け間もない女性教諭が、腑に落ちないという顔をしている。彼女は、「生む」ことが「自分の意志ではない」という結論に、納得がいかないと言う。生むことはやはりどうしたって自分の意志なのではないか。
筆者にも、出産を経験したばかりの女性の実感を等閑視することはできない。上記の結論は、若い男性詩人の観念的な生命観に過ぎないのだろうか。あるいは筆者の理屈をこねまわした浅薄な読解に過ぎないのだろか。
実は生徒の中でも、上記の結論に異を唱える者はいる。
だが、あらためて考えればこの選択はまぎれもなく、まずは妻の選択であるよりほかにない。妻が生むと言わずに夫が母体の危険をかけた選択をするなどということはありえない。
このことは、自らの命をかけて子供を生むことが、まさしく「意志」であることを示している。
さて、以上のような「読解」に基づく「I was born」の授業を参観した、育休明け間もない女性教諭が、腑に落ちないという顔をしている。彼女は、「生む」ことが「自分の意志ではない」という結論に、納得がいかないと言う。生むことはやはりどうしたって自分の意志なのではないか。
筆者にも、出産を経験したばかりの女性の実感を等閑視することはできない。上記の結論は、若い男性詩人の観念的な生命観に過ぎないのだろうか。あるいは筆者の理屈をこねまわした浅薄な読解に過ぎないのだろか。
実は生徒の中でも、上記の結論に異を唱える者はいる。
補 この詩が「生むことは自分の意志である」ことを主張していると考えることは可能か。ここで、問Eで考察した夫婦の選択について思い出そう。母体の危険をおしても子供を「生む」という選択をすることへの葛藤について、読者の目はつい詩中に登場する父親に向けられてしまう。
だが、あらためて考えればこの選択はまぎれもなく、まずは妻の選択であるよりほかにない。妻が生むと言わずに夫が母体の危険をかけた選択をするなどということはありえない。
このことは、自らの命をかけて子供を生むことが、まさしく「意志」であることを示している。
結論はとうに出ていたのだ。
「生むことは自分の意志である」とすれば「生まれる/生む」という対比は「自分の意志ではない/意志である」という意味で「対立」だということになる。第五聯と第六聯は逆接しているのだろうか。
だが蜉蝣は上述のとおり、個体の生命維持よりも生命の循環に殉ずるという母親のありようを示している。先ほどまではここから「生まれることと同様に生むこともまた自分の意志ではない」という文脈を読み取ってきたのだった。これが問Eから導かれる「生むことは意志だ」という帰結と矛盾するのである。
いや、ここにこそ「対立」を読み取ればいいのだろか。虫には自分の意志はないが、人間は自分の意志で選択するのだ、と。
だが蜉蝣の卵が掉尾の「白い僕の肉体」と重ねられていることは明らかだし、詩全体の論理としても、「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみ」の前で虫と人間を区別することは、この詩のメッセージにそぐわないように思える。
ことは自らの生命の否定という悲劇の大きさに関わるまい。子供が生まれてから親が強いられる経済的負担、時間的制約、あるいは自らの未来の可能性の喪失など、何らかの引き替えなしに子供の誕生という現象はありえない。親自身の何らかの犠牲を引き受ける覚悟なしに「生む」という選択はできない。
つまり、一人の個人の選択に委ねられた自由をなにがしか放棄する、つまり自分の意志を捨てることである。
それ以上に、生まれてくる子供の健康は、なにがしか確実に運命の手に委ねるしかない。つまり自分の意志ではどうにもならないことを受け入れるしかない。しかし紛れもなくそれは自分の意志でそうするのである。
「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いに答えるならば、以上の認識を息子に伝えようとしているということになるのだが、むしろ父親自身がそのような厳しさと重さをあらためて受け止めていると言うべきである。
問Aに答える形で言い直すなら、息子の「生まれることは自分の意志ではない」という言葉に、父親は「では生むことは意志なのだろうか」という自問自答とともに蜉蝣のありようを提示している、ということになる。必ずしも肯定か否定かを結論づけるような論理が父親の中で明確になっていると考えなくとも良いのである。そしてこの問いの答えは上記に見たとおり肯定でも否定でもあるのである。
Bの父親の感情としても、先の「生命に対する敬虔な思い」は変わらないとしても、同時に一般論としての「生命」ではなく、そこに殉ずることを選択する妻の意志をあたらめて感じ取っているのだと考えると、言葉の裏に秘められた父親の感慨の深さがあらためて感じられる。
そして、こうした選択にまつわる「意志」の問題が「生まれる」側に無関係でいられようか。確かに「生まれる」ことは「自分の意志ではない」としても、自分の意志を捨てることを選択する意志によってこの世に生まれた子供は、そのことを知って「生まれる」=「生きる」ことを自らの意志によって選択しなおすことを託されていると受け止めるべきなのではないか。
実はここまで考えてから調べてみると、作者吉野弘自身が次のように述べているのである。
だが第六聯を、卵について語っているのだと把握したとき、第五聯と第六聯はどちらも「生まれる」側について語っているのだという一貫性のもとに「意志ではない/意志である」という「対立」を形成する文脈によって接続しているということになる。
だが卵を「意志の心像」として読むためには、やはり上記のような読解が必要だったのであり、そうでなければ卵に形象される意志とは、単に親の命を食い尽くす貪婪なものでしかない。
だが、「生まれる」側の意志とはあくまで「生む」側の意志を引き受けるものとしてある。
「I was born」には、「生む/生まれる」ことは自分の意志を超えた、生命の循環という自然の摂理に殉ずることであり、しかしそれをまぎれもない自分の意志によって選ぶことの厳しさと重さを少年が引き受けるドラマが描かれている、というのが以上の「読解」による帰結である。
こうした結論は、冒頭近くで提示した「命の重さ」をテーマとした詩である、という読解と違いはない。
にもかかわらず、以上のような読解を経ずに導き出される「命の重さ」とはもはや同じものだとは思えない。
最初に提示したのはいわば「道徳」的お題目である。だがそれが間違っているとは思えないのに、一方で何かが違うという予感だけがある。その予感を跡付けるのが、詩を「読解」するという、読者による主体的/能動的行為である。
そのとき、出来合いのレッテルに過ぎなかったお題目に、血が通う。
この詩を道徳教材として安直に「教訓」を引き出すことも、文学作品として曖昧に「鑑賞」することも、間違っているというよりは意味がない。国語科授業的な「読解」を経てこそ、道徳/文学/教材という対立を超えたところでこの詩に出会えるのである。
「生むことは自分の意志である」とすれば「生まれる/生む」という対比は「自分の意志ではない/意志である」という意味で「対立」だということになる。第五聯と第六聯は逆接しているのだろうか。
補 第六聯が「生むことは自分の意志である」ことを示していると考えると生ずる矛盾を指摘せよ。父親が話の中で蜉蝣に亡き妻を重ねていることは間違いない。蜉蝣と妻は隠喩/象徴関係になっている。先ほどの対比関係で言えば「類比」である。この蜉蝣の話を、どうすれば「生むことは自分の意志だ」ということを表わしているのだと読むことが可能なのだろう。あきらかに母親との「類比」を示しているこの蜉蝣にも「意志」を認めるべきなのだろうか。
だが蜉蝣は上述のとおり、個体の生命維持よりも生命の循環に殉ずるという母親のありようを示している。先ほどまではここから「生まれることと同様に生むこともまた自分の意志ではない」という文脈を読み取ってきたのだった。これが問Eから導かれる「生むことは意志だ」という帰結と矛盾するのである。
いや、ここにこそ「対立」を読み取ればいいのだろか。虫には自分の意志はないが、人間は自分の意志で選択するのだ、と。
だが蜉蝣の卵が掉尾の「白い僕の肉体」と重ねられていることは明らかだし、詩全体の論理としても、「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみ」の前で虫と人間を区別することは、この詩のメッセージにそぐわないように思える。
補 「生むことは自分の意志である」という認識をどのように結論づけたらよいか。ここから辿り着くのは、つまり「生む」という行為は、自分の意志を否定することを自分の意志で選び取ることなのだという奇妙な結論である。
ことは自らの生命の否定という悲劇の大きさに関わるまい。子供が生まれてから親が強いられる経済的負担、時間的制約、あるいは自らの未来の可能性の喪失など、何らかの引き替えなしに子供の誕生という現象はありえない。親自身の何らかの犠牲を引き受ける覚悟なしに「生む」という選択はできない。
つまり、一人の個人の選択に委ねられた自由をなにがしか放棄する、つまり自分の意志を捨てることである。
それ以上に、生まれてくる子供の健康は、なにがしか確実に運命の手に委ねるしかない。つまり自分の意志ではどうにもならないことを受け入れるしかない。しかし紛れもなくそれは自分の意志でそうするのである。
「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いに答えるならば、以上の認識を息子に伝えようとしているということになるのだが、むしろ父親自身がそのような厳しさと重さをあらためて受け止めていると言うべきである。
問Aに答える形で言い直すなら、息子の「生まれることは自分の意志ではない」という言葉に、父親は「では生むことは意志なのだろうか」という自問自答とともに蜉蝣のありようを提示している、ということになる。必ずしも肯定か否定かを結論づけるような論理が父親の中で明確になっていると考えなくとも良いのである。そしてこの問いの答えは上記に見たとおり肯定でも否定でもあるのである。
Bの父親の感情としても、先の「生命に対する敬虔な思い」は変わらないとしても、同時に一般論としての「生命」ではなく、そこに殉ずることを選択する妻の意志をあたらめて感じ取っているのだと考えると、言葉の裏に秘められた父親の感慨の深さがあらためて感じられる。
そして、こうした選択にまつわる「意志」の問題が「生まれる」側に無関係でいられようか。確かに「生まれる」ことは「自分の意志ではない」としても、自分の意志を捨てることを選択する意志によってこの世に生まれた子供は、そのことを知って「生まれる」=「生きる」ことを自らの意志によって選択しなおすことを託されていると受け止めるべきなのではないか。
実はここまで考えてから調べてみると、作者吉野弘自身が次のように述べているのである。
そうして私は以前長くこだわっていたことの意味を、一瞬理解しました。決定的だった心像は、蜉蝣の卵です。それは、ひとつの意志でした。生み出されるというひとつの宿命の心像でありながら、それは、みずから生をうけようとしている意志の心像だったわけです。(『詩の本Ⅰ 詩の原理』筑摩書房)
母蜉蝣の体内を満たす卵を、詩人は明確に「意志の心像」として描いているのだ。「宿命の心像でありながら、…意志の心像だった」と、相反する両面を見ているのである。
ここまでの読解は第六聯を母蜉蝣と少年の母、つまり「生む」側について語っているという把握に基づいて、第五聯と第六聯は「生まれる/生む」という対比を構成していると述べた。だが第六聯を、卵について語っているのだと把握したとき、第五聯と第六聯はどちらも「生まれる」側について語っているのだという一貫性のもとに「意志ではない/意志である」という「対立」を形成する文脈によって接続しているということになる。
だが卵を「意志の心像」として読むためには、やはり上記のような読解が必要だったのであり、そうでなければ卵に形象される意志とは、単に親の命を食い尽くす貪婪なものでしかない。
だが、「生まれる」側の意志とはあくまで「生む」側の意志を引き受けるものとしてある。
「I was born」には、「生む/生まれる」ことは自分の意志を超えた、生命の循環という自然の摂理に殉ずることであり、しかしそれをまぎれもない自分の意志によって選ぶことの厳しさと重さを少年が引き受けるドラマが描かれている、というのが以上の「読解」による帰結である。
こうした結論は、冒頭近くで提示した「命の重さ」をテーマとした詩である、という読解と違いはない。
にもかかわらず、以上のような読解を経ずに導き出される「命の重さ」とはもはや同じものだとは思えない。
最初に提示したのはいわば「道徳」的お題目である。だがそれが間違っているとは思えないのに、一方で何かが違うという予感だけがある。その予感を跡付けるのが、詩を「読解」するという、読者による主体的/能動的行為である。
そのとき、出来合いのレッテルに過ぎなかったお題目に、血が通う。
この詩を道徳教材として安直に「教訓」を引き出すことも、文学作品として曖昧に「鑑賞」することも、間違っているというよりは意味がない。国語科授業的な「読解」を経てこそ、道徳/文学/教材という対立を超えたところでこの詩に出会えるのである。
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