2021年6月13日日曜日

『シン・エヴァンゲリオン』-ついに「卒業」

 純粋に期待してとか流行に乗ってとかいうのではなく、いわば浮世の義理で映画館に行くことにした。

 そうして、『破』と『Q』をもう一度見直して、レイトショーに行く。映画館に行くことも、それがレイトショーであることも、なかなか非日常で良い。そういうシチュエーションにワクワクしないでもない。

 だが結局手放しで「良かった」とか「感動した」とか言う気になれずモヤモヤ。


 とにかくわからないことだらけなので考察サイトなどあれこれ目を通したり。

 これがまた「ああ、なるほど」となるわけでもない。

 それは充分分かっても良いことなのに、観客がうかつだったからわからなかったのだ、と思い知らされるようなことではなく、推測に飛躍がありすぎて、信じていいかもわからず。「わかる」ことのカタルシスがない。


 あまりにモヤモヤしたままなので、決着をつけるべくもう一度観に行く。『破』と『Q』と、テレビシリーズの何話かを見直しさえして。いろいろと前よりは「解る」ことで感動するようになったかといえばそういうわけでもなかったが、もうここまでにして、いい加減「感想」をまとめる。


 同じ映画を映画館で二度観るのは「カメラを止めるな」以来だ。

 そして始まる映画は、相変わらず目も眩むような高い技術のアニメーションに、文字通り目も眩むようでもある。オープニングのCGの戦闘描写などは。『破』『Q』と観てさえ、さらに上をいく自己ベスト更新といった感じだ。というか、現在のアニメのベスト更新と言っても良い。

 ところが、オープニングが一段落して『Q』のラストの続きとなる「第三村」のくだりになると、いつもの「エヴァンゲリオン」の鬱陶しさでげんなりしてしまう。

 一方に綾波擬きが人間らしさを取り戻していくほのぼの展開があるのも、そこが感動ポイントだとはわかるものの、どうも嘘くさいと感じてしまう。こんなに「古き良き」昭和な農村が、平成やら令和やら大災害やらを経て、あっさりと復活するなんて設定を、どうにも受け容れ難い。あのおばちゃんたちの、あまりに手垢のついた「昭和な」おばちゃんぶりは何事なのか。あっさりとみんな良い人に描かれて、その裏にある大災害の傷跡も見えない。そういうリアリティのなさに、気持ちが入っていかない。

 そしてシンジの「失語症」描写にうんざり。

 大災害はみんなにとって多かれ少なかれ傷を残しているはずで、シンジがとりわけそれを大きく受けているわけではない。それなのに、なぜそれが許されるのか。確かにアスカ(とトウジの義父)だけがそれを許しはしないが、そこだけに共感して、周りの人々に共感できない。その疑問に対し、本人が「なぜみんなこんなに優しいんだよ!」と叫ぶのは尤もだが、その答えとして「みんなあなたが大好きだからよ」に納得がいかない。

 ここがもう観客として失格なのだ。シンジが好きでなければ観ていられない。だがどうしたら彼が好きになれるのか。

 そうでない身に、一連の描写は耐え難い。放浪の末に「第三村」に到着するまでに何も飲まず食わずだったのか。そんなことがないとすれば、トウジの家で、義父の怒りをかってまで出された物を食べないとか、ケンケンの家でも、口に押し込まれるまで食べない、などという描写は、絶望による無気力を、わざわざそこだけ見せているということにしかならない。

 そういうふうに見えるからうんざりするのだ。

 言われるままに食べるものの、積極的に礼を言わない、とか口にして吐いてしまうとかいうさりげない描写によって、シンジの心の傷を描写するならばわかるが、辻褄の合わない非現実的な描き方が、共感を拒む(首輪を観て吐くのは、それはそれでお約束的過ぎて)。

 「家出」をして廃墟で蹲って何日過ごすのかわからないが、そこでようやく泣きながら「食べる」という行為に至るものの、例えば座り続ければ単純にお尻が痛くなるんじゃないのか、とか、排泄行為はどうなっているんだろう、などと思ってしまう(プラグスーツは排泄物を処理してしまうのだろうか? そうかもしれない)。

 つまり廃人のように落ち込むというのが、共感不可能なほどに「わざとらしい」のだ。実際はもっと間抜けなものではないのか。辛うじて生命維持を、言われるままにであれ為し続けて、その隙間に襲ってくる絶望の深さを描写する、というような描写があればそこに共感もあろうものを。


 そこから「本隊」に復帰してからの展開にも、胸熱というより、わけのわからなさばかりが先行する。

 ミサトに対して見せるシンジの大人の顔は悪くなかったが、何よりも戦闘の原理がわからない。

 わからなくてもいいのだ、という説もあるのだが、原理がわからないとどういうふうに感情が動くべきなのかわからない。だから「考察」なのだが、上記の通りそこにも挫折したままで見ていると、この戦闘はどういう価値をめぐって、どういう力関係が均衡しているかが解らない。

 物理的な感覚もわからない。例えばヴンターなどという巨大な戦艦が何かにぶつかることの衝撃がどのようなものか、見当もつかない。そもそも物理空間でもないらしいし。そうなると危機感が抱けない。焦燥感もない。これは毎度の「スーパーマン映画の不可能性」だ。

 そうするとカタルシスもないことになる。


 そして問題は闘う相手のゲンドウだ。

 今回は「人類補完計画」が何やら明らかになったらしいが、それが解ってすっきりするより、それが個人的な動機だったらしいことが描かれることに心底がっかりした。個人を突き動かすものが個人的な動機であることは構わない。だがそこに実現されるべき価値は、そこにも一理あると思わせてくれないと。

 この不満は近いところでは『新聞記者』でも強く感じた

 ゲンドウは、ある価値の実現に向けた冷徹な現実主義者で、そこに反発するにせよ打ち倒すにせよ、充分な強さを持っていなければ力が拮抗しない。そもそもが主人公側にまるで共感可能な価値の追求が見られないというのに、それが拮抗すべき敵が同程度に「子供」だったなんて、あれにどう感動すれば良いのかわからない。

 理念よりも個人の感情が動機なのだというドラマツルギーは意識的なんだろうが、それにはノれない受け手なのだ(「進撃の巨人」がやはり個人の感情が選択の動機になっているにもかかわらず、その選択を受け止めざるを得ない厳しさで描かれていると感じるのは、やはりその力の拮抗において充分にバランスがとれているからだ)。


 戦いが物理的なものではなく象徴的なものになった途端に、市街戦になったところで、一旦は「胸熱」になった。象徴的な虚構であることをことわって、やっぱり肉弾戦で市街戦だよなあ、と思ったら、ここは流麗なアニメーションかとおもいきや、CGがぎこちない。なんだろうと思ったら、これは意図的なのだ。「街が破壊される」のではなく、「模型が動く」。建物が壊れるのではく、散らかる。

 あれっと思っていると、そのまま背景画を突き破って「スタジオ」空間に入ってしまう。

 ああなるほど、こういうことにしたいのか、と思っていると例のテレビ放送を連想させる白黒の線画の試験的なカットを入れたりして、ラストは実写の市街地空撮に移行する。

 このメッセージには共感できたし、その開放感は一度目に観た時にも悪くない印象だった。

 しかしこれを本当に感動的な「卒業」と感じるためには、たぶんまず「入学」が必要なのだ。テレビシリーズから全ての劇場版まで観ているにもかかわらず、とうとう「入学」しないうちに「卒業」を迎えて、少しだけその開放感と喪失感を味わったものの、やはり決して良い観客ではないのだった。


2021年6月2日水曜日

『劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』-デジャヴの喪失感

  今年度上半期に再放送していた「Steins;Gate」をようやく通しで見直して、その感動で「Steins;Gateゼロ」2クール分まで見直した。全体像がわかってくると感動もひとしおだったので、未見の映画もこの際。

 名作たるテレビシリーズに比べて、何か圧倒的なものがあったとはいわない。劇場版ならではの作画の質の高さはあったが、テレビシリーズもまた作画の質は高かった。いくつかの背景美術がとりわけ質が高いと思ったが、それをアニメーションの質と言っていいか。

 そう、そもそも動きの少ないアニメーションだった。映画で主人公を務める牧瀬紅莉栖のモノローグに被せる止め画が多く、映画としてどうなの? と思わないでもない。

 だが一方で、物語も画面も動きが少ないものの、その閉塞感が、映画という完結した器にふさわしいとも言えた。世界線のズレによって本編主人公がいない世界といえば『涼宮ハルヒの消失』だ。その胆は観客が知っている人物がいなくなってしまった喪失感だ。特定の登場人物の記憶にだけはその存在が残っていて、その焦燥感と欠落感が観客にも共感される味わいだ。古くは「時をかける少女」でこの感覚を知ったものだ。

 この映画では「デジャヴ」という現象をこの喪失感で新たに解釈し直して、派手ではないが何だか自主映画っぽい小品の愛おしさがあるのだった。

2021年6月1日火曜日

2021年第1クールのアニメ

  1クール通して見たアニメに関しては書き留めておこうと去年あたりに決めた。

 だが1年まとめてだと手間が大きくなるから、1クール毎にまとめてにしようと決め、さて令和3年最初のクールだが、もう溜まってしまっている。3月で放送の終わったアニメを観終わるのに、もうすぐに2クール目が終わるという6月になっているのだ。そして2クール目のアニメは、最初のうちに淘汰したものを除くと、録りっぱなしで今に至る。これを消化するのに3クール目が費やされるんじゃなかろうか?

 とまれ、ようやく観終わった前クール。



「はたらく細胞」「はたらく細胞BLACK」

 軽く観られる教養マンガ。とはいえ「BLACK」の方は意外な感動作となった。劣悪な環境で、だが誠実に仕事をすることでしか、自分を含む世界全体を支えられないことはわかっているのに、労働環境は容易に改善されない。働くことの意味を問うたり、世界が救われるカタルシスを味わったり。なかなか良かった。


「約束のネバーランド 2nd」

 今期は「ホリミヤ」と「ワンダーエッグ・プライオリティ」とともにCloverWorks作品を三つ見続けた。どれもアニメーションのクオリティが落ちずに1クールを維持できる会社の力は賞賛すべきだが、本作は第1シーズンほどには楽しめなかった。前作の、閉ざされた環境からの脱出を賭けた騙し合いは、外の世界の広さに対する幻想と反比例するように濃密だったように思えるが、第2シーズンではその外の世界に舞台を移して幻想が消え去ってしまうと、その中での主人公たちの重みに合わせて「幻滅」が起こってしまうのだった。


「ホリミヤ」

 上に続くCloverWorks作品で、これは毎回実に胸キュンな場面が丁寧に描かれる、とても好もしいアニメだった。

 ところでなぜ登場人物の使っているのがすべてガラケーなのかと思っていたら、作品の発表がその頃なのだった。

 基本的に好もしいと思いつつ腑に落ちないのは、登場人物たちが高校生活を終える切なさと希望が描かれながら、まるで進路が描かれないのはどういうわけなのかという疑問が解消しなかったことだ。大学受験を考えていないのがどうしてなのかと思っていると、専門学校に進むのでもなければ就職するのでもない。そういう意味で、これは結局現実を描いてはいない、ある種の「高校時代」というお伽噺なのだということなのだろう。


「ワンダーエッグ・プライオリティ」

 野島伸司が脚本だというので成り行きを見届けずにはいられないと思った。案の定、CloverWorksのアニメーションは最後まで高品質で素晴らしかったのだが、脚本のエセ文学趣味は相も変わらぬ野島伸司なのだった。周囲の無理解にうじうじと悩む思春期というパターン化された文学。

 ロケーションが思いがけず近所で驚いた。


「ひぐらしのなく頃に」

 新作2クール目のオリジナル展開に期待したが、主人公を変えて、それほどの効果はなかった。


「BEASTARS」

 草食獣と肉食獣の共存する社会を描く原作は、むろん人種差別や性差別をアナロジーとしてテーマに据えている。そこで描かれる問題に対する追究の深度は原作に負っているのだろうが、それだけでなく、これは原作を超える要素を持つ数少ないアニメ化作品だ。細やかな感情の描写が、よく考えられた画面の中のアニメーションによって的確に表現されている。細やかな分、激しい感情の表出が上滑りにならない。レゴシの不器用さとハルの可憐さも、声優たちの演技も含めて、原作の漫画的戯画化以上に、繊細に立ち上がっていた。

 極めて質の高いアニメーション作品だった。


「Dr.STONE」

 1期目は徐々に明かされていく設定が気になったり、科学知識の応用が楽しかったりしたが、2期目は物語の展開が単調な「戦闘-攻略物」に終わって、感情の描き方の戯画的な誇張についていけなかった。


「異世界ピクニック」

 第一回の異世界観が実に魅力的で見続けたが、2回目以降はレベルが落ちたまま、最後まで持ち直さなかった。全体を通したヒキも解決しないまま、消化不良。といって気になるから来シーズンを見ようという気にはならない。


「怪物事変」

 これもやはり第一回のクオリティが続かなかった。作画などの作業量は当然コストと時間の制約があるから仕方ないのだろうが、細部の演出が雑になるのはなんとかならないか。それは原作がそうなのだろうか。「怪物(けもの)」がどんどん安っぽい特撮の怪獣のようになる。人物の行動原理もいたずらに「マンガ」的になる。シーズン1の最後で「事変」という言葉の意味がようやく明かされて、壮大なドラマが始まりそうな展開で終わったが、来シーズンに期待もできない。


「進撃の巨人」

 ついに最終章だというのだが、原作に追いついて終わる想定なんだろうか。

 ともかく、一貫して驚くべき展開を続ける原作は奇跡的な名作と言っていいが、アニメもまたレベルを落とすことなく最終章まできたのは賞賛すべき仕事だ。監督も替わって、CGの使用も増えたがとりわけがっかりするような質の低下がない。

 このまま最後まではしりきってほしい。


「呪術廻戦」

 1.2話の凄まじい作画力に圧倒され、オープニングとエンディングにも感心して、開始時は楽しみにしていたのだが、3話目くらいから作画レベルが落ちて、しばらくすると録りっぱなしになっていた。そしたらまさか2クールとは思わなかったから、録画だけしておいて、観るのが随分と遅れた。

 終了後1ヶ月も経ってからようやくまとめて観てみると、これはやはり面白い。作画が時々レベルを上げて、肝心なところをちゃんと見せるのもいいが、そうそうたる声優陣も頼もしい。

 それと、原作の力なんだろうが、呪術というものに対するなかなかに哲学的な考察をしているのもいい。「ハイキュー」レベルとはいわないが、「鬼滅の刃」よりはよほど大人の鑑賞に堪える。


「Steins:Gate」

 10年前の放送当時、子供たちと見続けたのも懐かしいが、それだけではない。2クール24話を見直して、通して見ることによって設定が把握されると、さまざまな感情がより的確に、必然性のある場面で喚起されるのだ。

 繰り返す世界で悲劇を止められない胸の痛みも、その中で愛するものを守ろうとする戦いの悲壮さも、その中でかろうじて守れたものの大切さも、しんしんと胸に迫る。

 そして物語の展開の大きな起伏も、複雑に組み込まれた構成も、まず骨格となる物語が実に誠実に、知的に作られている。

 そしてアニメーションもすこぶる質が高い。作画が崩れないのも良いし、写実的なインサートの風景描写も、アニメが単なる絵解きになっていない。

 そして宮野真守と花澤香菜の演技の素晴らしさ。


 物語の全体像がわかったところで、勢いに乗って「Steins:Gate 0」を見直す。全23話。

 もう、物語の登場人物に対する愛着もあるし、アニメの質は「1」より落ちたとはいえ、もう一つの世界線で起こったこととして描かれる物語は、これもまたよく練り込まれていて充分に面白い。いくつもの印象的なエピソードを含んで、最後には「1」につながる大きな円環を作る。


 勢いに乗って映画版も観てしまった。