2014年12月30日火曜日

「名盤ドキュメント はっぴいえんど『風街ろまん』」

 アナログのマスターテープをミックス前の状態で聴きながら、制作時のエピソードを関係者に訊くという企画は『MASTER TAPE ~荒井由実「ひこうき雲」の秘密を探る~』と同一シリーズかと思っていたのだがそういうわけではなくて、新しく始まった「名盤ドキュメント」と称するシリーズの井上陽水「氷の世界」、佐野元春「ヴィジターズ」に続く第3弾なのだった。上記全て見ているが、同様の企画は海外でもスティービー・ワンダーの「メイキング・オブ『キー・オブ・ライフ』」で見たことがあるし、ザ・バンドの「メイキング・オブ『ザ・バンド』」はDVDを持っている。どれも興味深い。
 とりわけ今回のはっぴいえんどは、私が中学生の時に初めてレコード屋でレコードを買ったのがベスト盤の『CITY』だったこともあり(『風街ロマン』でこそないが)思い入れも深い。「夏なんです」「花いちもんめ」あたりは中学生の頃に最も好きな曲に数えても良いほどに思い入れがあったし、「風をあつめて」はここ十年来、夏のライブでは唯一入れ替わりのない定番のレパートリーだ。
 もちろん番組としてはまるで食い足りない。テレビということで一般視聴者を対象として中途半端に想定しているのが既に全く間違っている。最初からこんな番組は思い入れのある者しか見ないのだ。わかりきった解説はばっさり省いていい。星野源など出す必要は全くない。
 それよりもジャケットイラストの宮谷一彦(漫画家としての諸作品はほとんど持っている)こそ出演させてほしかったが、そうでなくともそもそも全曲解説にはなってないではないか。また、言及されているにしても充分な分析もされているとは言い難い。佐野史郎と高田漣も有効活用しきれず勿体ない。
 ついでに無論「風をあつめて」は好きな曲だが、どうしてあればかりが「名曲」として特別扱いされるのか。カバーが多いのは、単に歌いやすいからではないのか。原曲を超えるカバーなどできるはずもない唯一無二のバージョンである「夏なんです」の方が、私にとってよほど特別な一曲だ。その意味では佐野史郎が、夏の喫茶店で「夏なんです」がかかるのを聴くのは人生の中でもそうとう幸せな一瞬のひとつだ、と語ったのは我が意を得たり! の思いだった。
 そういえば書いていて思い出したのだが、高校一年生の時の美術の授業で、自分の好きな曲で架空のレコードジャケットを作るという課題の時に「夏なんです」のジャケットを描いたのだった。卒業時に提出したそれを返してもらえないかと先生の所へ言いに行ったが結局見つからず、謝られたが実に残念だった(というか、今もって残念きわまりない)。
 とまれ、初心者向け基本情報や星野源や「風をあつめて」ばかりに集中しすぎた解説を省けばもっと、と思いはするものの、それでもともかくも全体としては興奮を抑えきれずに観てしまった。
 そしてなにより、この場に大瀧詠一がいないのはいかにも残念だが、生きていてもきっと大瀧は出演しなかっただろうな。それでも大瀧のコメントがどんなものだったか、その興味深さを考えると、その喪失感は計り知れない。

『猿の惑星 創世記』

 この間の「暗い未来の映画って大好き」の「暗い未来の映画」といえば『ソイレントグリーン』だろ、というのは我々の世代には相当の共感を持ってもらえるものと信じているが、もうひとつ『猿の惑星』シリーズもあの時代の誰もが知っているお話だ。尤も映画のタッチは「暗」くはない。だが「人類衰退」物でもあり、「核戦争で地球が滅亡」物でもあるところが、60~70年代のSFだ。「終末」物SFは我々の原体験である。
 それに比べると新しい『猿の惑星』は、この後に人類の衰退が待ち構えていようと、あまり「暗」くもないし、第一、未来でもない。そうしたSFっぽさを味わう映画というよりは、ひたすらエンターテイメントとして楽しめる映画だった。最初からシーザー達、猿の動きのCG合成の見事さは、やはり三池崇史や山崎貴とは違う。そこがクリアされれば後は脚本で、その構成も申し分ない。シーザーの人間社会での生き辛さもちゃんと伝わってくるし、施設に収容されてからそこの支配者になっていく過程には映画的なワクワク感が満載だった。
 ただ、ラストは最近のいくつかの洋画同様、不全感を拭えなかった。ウィルス感染はどうなった? それにミュアウッズ国定公園の森はチンパンジーの棲めるような環境なのか? そこに棲んだとて、そのあとに間違いなく決行されるであろう人類による猿殲滅作戦を免れまい。良い人ではあるが思慮に欠ける主人公とシーザーの別れの悲しみを超えて、なんとなくメデタシメデタシ的な空気で終わってどうする?
 と思っていたら、調べてみると、あれは単にカットされているのであって、上記二つもちゃんと次の『新世紀』につながるように解決しているのだった。メデタシメデタシ。

「こころ」9 ~遺書を書いたのはいつか

 今年度の授業の成果は前半の「曜日を確定する」の展開だし、その前の要約しながらの通読という展開も、いささかしんどかった(生徒が、である。しんどそうにしている生徒が持ちこたえてくれることをハラハラしながら見守るこちらも多少はしんどかった)が、手応えはあった。
 だが新鮮な驚きをもたらせてくれたのは、先に触れた、「K」の遺書は上野公園の散歩の晩(「曜日の確定」授業の結論に拠れば自殺を決行した前の週の月曜日)に書かれたものであり、「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」だけが自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたのでははないか、という解釈である。これを述べたのは先述の通り、とある女子生徒だったが、別のクラスで同じ見解を述べる男子生徒がいたのである。二人は今年度の4クラスの中でもとりわけ信頼の置ける生徒である。それが図らずも同じ解釈に至ったのである。
 管見によればこうした解釈を唱える研究者はいない。さんざん読みこんできたつもりの私も、そもそも発想したことがなかった。前回はこの解釈について次のように述べた。
 結論としてはこの見解には首肯しかねる。「墨の余りで書き添えたらしく見える」という描写は、この最後の文句までが一連のものとして書き足かれたものであることを示している。したがって遺書全体が、やはり土曜の晩に書かれたものであると考えるべきだと思う。
さらにこの説を否定したいと考えるのは、「K」がこの日の昼間言った「覚悟」が処決の覚悟だとしても、「覚悟」は「決意」ではなく、「K」はこの時点ではまだ処決を実行に移すに至る契機を得ていないと考えるからだ。
 一般的な解釈は、深夜の「K」の訪問を自殺の決行のための偵察であるとする(にもかかわらずそれを忘れて「K」が「私」に裏切られたから自殺したかのように「エゴイズム」テーマ説を唱える)。私は深夜の訪問は「K」から「私」への不器用なアプローチであったと考えるし、「覚悟」を実行に移すには上記の「二日余り」が契機として必要であったと考えている。だからこの晩に「K」が遺書を書いているとは考えなかった。
 だがその後考えているうちに、次第にこの説の説得力が増してきた。
 「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」を除けば、それ以外の文言をこの晩の「K」が書き付けることを想定するのは、この時点での「K」の心理からしてもあながち不可能ではない。昼間の「覚悟」は自ら処決する覚悟であることは疑い得ないからだ。
 だが、そもそもそうした解釈を受け入れるためには、漱石がそれを意図し、そのサインを読者に提示していることを納得する必要がある。文中で否定されていない解釈というだけなら、相当程度のトンデモ解釈でも明らかに文中で否定されるわけではないし、整合的に成立するというだけでも解釈の幅はかなり広く確保される。
 だが小説は現実ではないのだから、作者が想定した物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのである。とすれば、この「遺書は月曜の晩に書かれていた」という、明らかにはされていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインは見つかるか?
 これが見つからないと考えていたからこそ、こうした説を否定していたのだが、考えているうち、そもそも先に否定するための根拠として挙げた「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える」という文言こそが、この部分とそこまでの部分の書かれた日時の断絶を示しているのではないか、とも考えられることに気付いた。
 なぜそこだけが「書き添えたらしく見える」のか、については去年、考えられる理由を列挙してみた。
 その文言の後半になるにつれ、墨がかすれ気味になっていくことを指しているのもしれない。あるいは、そこまでが堅い「候文」であるのに、ここだけが幾分崩れた口語調になっているということかもしれない。また、そもそも他の部分が「礼」や「依頼」といった、宛先である「私」へ向けたことが明白である文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような調子であるせいかもしれない。
こうした「見た目」や「文体」や「内容」による差異によってこの文言が特別な位置にあることが示されたとしても(だからこそこの文言をめぐる考察が一般的な授業展開だとしても)、あくまでそれは「遺書を書く」という一連の行為の中での差異であるとして、そこに表れた「K」の真情を探る考察が必要だと思われていた。
 だが、こうした意味ありげな特徴(「符牒」といってもいい)こそが、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものであるという「真相」を読者に知らせようとしているサインなのではないか?
 だがまだ読者がそれと気付くための符牒としては不充分である。そもそも差異のもつ意味合いとしては、先に「月曜日に遺書の本文は書かれていた」という解釈がなされなければ、その差異を日時の断絶を意味するものとして解釈することなどできないのだ。だからこうした解釈はまずもって月曜の「K」の深夜の訪問を自殺の決行のための偵察であると解釈することに付随して成立したことは間違いない。
 深夜の訪問の意味をそのように解釈しないとして、それでも「K」がこの時、遺書を書いていたのだという「真相」を漱石が想定していたとしたら、それはどんなサインとして文中に記されているのだろうか?
 43章にはこうある。
 上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜でした。私はKが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。
例によって「私」は「K」を闘争的に捉えている。「私」は「K」という「敵」に「勝利」していると感じている。だが「K」が「迷惑そう」なのは、「私」が「勝利」や「得意」を感じているのと相対的に「K」が「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。「K」は一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてである。「K」にとってそれは「恋か道か」というような選択の問題ではない(「こころ」という物語が巷間言われているように「恋か友情か」という選択の物語でなど、いささかもないように)。言うまでもなく、はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてである。
 まずはこのように「K」の心を何かが占めていたことを確認して先を読み進めると、「K」の訪問は次のように書かれている。
 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵のとおりまだ灯火がついているのです。
この「灯火(あかり)」は「Kの黒い影」を演出するものとして言及されるのだと考えられがちだ。つまり読解のための関心は「黒い影」に焦点が合っている。だがふと視線を逸らせてみれば「灯火」は「K」の室内に灯って、そこで「K」が「宵」から過ごした時間を暗示しているとも思えてくる。「K」は何をしてそこまで起きていたのか?
 「Kの黒い影」は「黒い影法師のようなK」と繰り返されて読者の注目を誘導するが、一方「灯火」も「洋灯(ランプ)」と繰り返される。「K」は暗闇で沈思黙考していたのではなく、ランプの下で何事かしていたのである(むろん「私」に声をかけるにあたって灯りを点けた可能性もなくはないが、「宵のとおり」という形容は灯りが宵からその時点まで連続して灯っていたことをイメージさせる)。
 さらに次の一節である。
 Kは洋灯の灯を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。けれども彼の声はふだんよりもかえって落ちついていたくらいでした。
「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」は、「K」の存在が「私」にとって不可解な、不気味なものとして感じられていることを示しているのだ、などと説明されることが多いが、もちろんこれも「私」と「K」の意思の疎通の断絶を示す構図でもある。
 だがそれより看過できないのはそれに続く「けれども彼の声はふだんよりもかえって落ちついていたくらいでした。」である。昼間「私」によって死刑宣告を受け(「精神的に向上心のない者はばかだ」は「K」にとってはそういう意味にほかならない)、「彼の目にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました」と形容されていた「K」が、夕方に「私」の世間話を「迷惑そう」にしていた「K」が、この場面で「落ちついていた」とわざわざ形容されるのはいかにも不自然である。いったいどういうわけか?
 この点については去年の段階では次のように書いた。
 一つの解釈は、実際に「落ちついていた」のではなく、「私」の不安がその裏返しとして「K」の言葉を「落ちついていた」と感じているのだ、というものである。
 もう一つの解釈は、昼間の最後の台詞「覚悟ならないこともない」によって、「K」は自身の決着の行方について、一定の〈覚悟〉を宣言することで(または自覚することで)、抱えていた苦悩について一段落させたのだ、というものである。自殺という決着点の宣言は、ただちに決行しなくても、それを他人に向けて宣言することでとりあえず今現在の迷いに安定を与えたのだと考えられるのである。
だがさらに今回の説を想定するならば、「K」は懊悩に決着をつける道として昼間口にした「覚悟」を実行に移すための証としての遺書を書き終えることで、現在の迷いに対して一応の納得を得たと考えることができるのではないか?
 だからといって依然としてこの晩に「K」が自殺を決行しようとしていたとは考えられない。その決定的な理由は、そうした解釈では、物語がこの後、お嬢さんとの婚約の事実を知ってから「K」が自殺するという展開に至るドラマツルギーの必然性と整合しないと考えるからである。そして「K」の訪問の意味も、やはり「K」から「私」へのアプローチであるとも思う。
 それでもなお、上記の二つの解釈で「K」の声がなぜ「落ちついていた」のかという理由として確信するに足る納得をしきれなかったのが、「K」は遺書を書き終えて隣室をのぞいたのだという想像によれば、相対的に強い納得が得られるとは思う。
 こうした「納得」は、繰り返すが、正確に言えば「なぜKの声は落ちついていたのか?」という疑問に対する「納得」ではなく、「Kの声が落ちついていたことを書き込むことで作者はどのような解釈に読者を導こうとしているのか?」という疑問に対する「納得」である。

 さてこの「新説」についての結論は、当面は「保留」とする。まだ確信しきれない。だが一蹴することはできないし、考慮する価値のある解釈であると思う。
 すると、問題の土曜の晩には、「K」は十日余り前にしたためておいた遺書を読み返し、そこに溢れる悲痛な思いを書き添えてから「手紙を巻き収めて…封の中に入れ…机の上に置き」、さらに襖を開けて「私」の寝顔を眺めてから、徐ろに実行に及んだという場面が想像されることになる。
 これがまだ前後の解釈に決定的な変更を迫るものかどうかはわからない。が、とりあえず今年の授業の成果として記録しておきたい。

2014年12月29日月曜日

『鈴木先生』

 テレビドラマが放送されていた2011年はまだ東北大震災から1ヶ月余りしか経っていなかったなんて、今ではまるでその時の感じが思い出せないのだが、ともかく一緒に観ていた息子と共に、当時テレビ放送されていた連続番組としては毎週、最も楽しみにしていたのははっきりと覚えている。原作は「ヨルムンガンド級」だから、丁寧につくりさえすれば間違いはないのだが、観始めてすぐ期待以上だと興奮した。エンドロールを見ると脚本はまだ「リーガル・ハイ」で評価を不動にする前の(しかし『キサラギ』で期待絶大の)古沢良太だし、画作りがどうみてもテレビドラマではなく映画のそれだった。長谷川博巳も面白い役者だと思ったし、生徒たちも総じてうまい。とうとう来春からNHK朝ドラの主役になってしまう土屋太鳳も、この時に初めて知った。
 それが記録的な低視聴率と数々のテレビ賞受賞という正反対の評価を同時に受けていると知ったときには不思議な気がしたのだが、恐らくそれは原作も同じだ。一般には誰もが知っているとは言い難いが、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞もしている。知り合いには薦めたいが一般に有名になって欲しいというわけでもない。
 さて劇場版だが、テレビドラマを超えるものではむろんなかった。原作では鈴木先生的な教育効果が、最初は少数の生徒からクラス全体に拡大していって、最終的には学校全体を巻き込むことになる。その最も見所となるのは基本的には討論である。認識が次々と更新されていくダイナミクスにこそ『鈴木先生』という物語の最大の魅力があるはずだ。だからクラスレベルにまで拡大したところで終わったテレビシリーズに続く劇場映画は、それが学校全体を巻き込んだ討論会になる原作終盤をこそ描いて欲しかった。確かに生徒会選挙は描かれ、そこでの北村匠海の演説は悪くなかった。が、「認識の更新」は一回きりで、「次々と」というほどのダイナミクスを生み出すには至らなかった。
 で、映画的にはやはり立て籠もり事件をメインに据えることになるのは致し方ないか。だが、実写映画で見てしまうと、学校立て籠もりだのレイプだのといった展開はどうにも無理があって違和感が強すぎた。原作はもともとどうみても「やり過ぎ」感満点な描写を笑いながら受け入れるのが読者のお約束になっている過剰性をもったマンガなのだ。それをそのまま実写映画にするのは辛い。風間俊介演ずる立て籠もり犯の鬱屈も充分に描かれてはいず、行動が唐突に感じられてしまったし、小川が飛び移る校舎の間隔は広すぎて、映画的なギミックというよりは、映画そのものをシリアスな物語のテーマに不釣り合いなちゃちな「お話」に堕してしまっていた。
 それでも悪い印象ではなく見終えられたのは、北村匠海の演技が凄かったからだ。上記の演説場面ではなく、選挙結果を受けて会長就任を受け入れる逡巡を表現したシーンである。たっぷりの間をとった演技が、演ずる「出水」の潔癖さと思慮深さと意志の強さを印象づける素晴らしい演技だった。驚いて見ていたら、そのシーンの終わりに横にいた息子も同時に「すごい」と言って、はからずも同じ感銘を受けていたのがわかったのだった。
 余談ながらエンドロールを見ていて、ロケに使われた中学校が私の出身中学校の隣の中学校、連れ合いやその一族の通った(姪が現在も通っている)中学校であることを知ってびっくり。学校の屋上から見えているのは富士市の街なのだった。

「こころ」8 ~備忘録的に

 ようやく休みに入ってまとまった時間がとれるようになったので、懸案の「こころ」についての最低限の「まとめ」をしておく。

 前回触れた、「私」と「K」の間で「進む/退く」が反対の意味で使われているという解釈をきっかけとして、授業はその後40~42章にわたる上野公園の会話を詳細に検討していくのだが、この分析が、教科書収録部分を授業で扱う「こころ」読解のための最大のポイントだと思う。その詳細はこれ以上ここには記さないが、ここで二人の会話のすれ違いを明確にしておくことが、その後の物語の様相をまるで違ったものにしてみせる。たとえば次の一節。
 私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。
この一節は多くの指導書などでも、「私」が「K」を「敵」として捉えていることを示す表現であると指摘される。むろんそれは間違いではない。だがこれが「私」の側からの一方的な見方でしかないことは、当の「K」の側からもこの会話の意味合いを考えなければ充分には理解できない。「私」の側からしか見ないならば、「K」にはそのつもりがなかろうと、やはり「K」は「私」にとってはお嬢さんをめぐる「敵」に違いなのだ。だが「K」の側からこの一連の会話を捉え直してみると、「K」はその、お嬢さんをめぐる利害においていささかも「私」と敵対してはいないのである。そのことを認識しないでいると、例えば
 こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
といった一節も言葉通りに読んでしまうだけだが、考えてみると「K」が「私の利害と衝突する」ことなど、「K」が意図も意識もしていないというだけでなく、そもそもそのような可能性はなかったのである。「K」が「生活の方向」=「進む」を「転換して」も、「退く」先にはお嬢さんとの恋愛があるわけではなく、ただ自らを処決する道しかなかったのだから。
 だが先の一節がさらに驚くべき様相を見せるのは、「Kは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらい」とか「彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じ」などという、印象的な比喩を使ってまで殊更に強調された「K」の心の裡が明瞭だという事態の判断が、実は「K」の心を読み違えていたとわかったとたんに、そっくりそのままの絶対値でひっくりかえる瞬間である。つまりこの強調は「わざと」なのである。漱石は「K」の心の裡を「私」がまるでわかっていないことを充分承知の上で殊更に「わかっている」と言わせているのである。
 そうした目で眺めてみると例えば46章の
 夕飯の時Kと私はまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんはいつもより嬉しそうでした。私だけがすべてを知っていたのです。
なども同様の読み換えが必要になることがわかる。「何にも知らない」のは「K」ばかりではなく「私」こそそうなのだし、むしろ「何にも知らない奥さん」こそが事態を最も正確に捉えている可能性が高いのである。にもかかわらず、語り手の「私」がそういうからにはそうなのだろうと、読者は素朴にそうした認識を受け入れてしまう。そうして「私」の目からのみ見られた「エゴイズム」をめぐる物語が「こころ」という物語なのだと信じられているのである。

 さて、上野公園の会話については、さらにいくつかの注意すべき点に触れつつ、「居直り強盗」を解釈する展開と、「進む/退く」「強い/弱い」「道/恋」「向上/ばか」という四つの対比を同一の対比軸で並べて整理する、という展開には少々まとまった時間をかけた。だがやはりこの場では詳細を記さない。だが、記録として以下の点は書き留めておきたい。
○「私」にとって
進む ←→ 退く
強い ←→ 弱い
 恋 ←→ 道
ばか ←→ 向上

○「K」にとって
進む ←→ 退く
強い ←→ 弱い
 道 ←→ 恋
向上 ←→ ばか
という整理をしてみることは、両者のすれ違いの構造を明瞭にするためには有益だが、さらにここに「K」の言う「覚悟」とは何を意味しているかを考えてみると、後者の「K」にとっての対比要素の「道 ←→ 恋」という対比が間違っていることにも考えが及ぶことが期待される。上の対比を板書して、「でもこれって間違っているよなあ。どこ?」と訊いてみて、そのことに考え及んだ生徒がそれぞれのクラスでいたことは、実は半ば諦めていた予想を裏切るという意味で期待以上だった。そう、「K」にとって「道」の対比要素は「私」にとってのそれのように「恋」なのではなく「死」なのである。

 43章、上野公園の散歩の晩の「K」の真夜中の訪問の意味するものについては論争的に展開できるから、やはり扱っておくと面白い。
 47章の「要するに私は正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。」についての込み入った解釈については、それほど立ち入るつもりはなかったが、「足を滑らせた」が「Kを出し抜いて奥さんに談判を開いたこと」だとする指導書などで一般的な解釈を採らない私としては、「Kに正直に言わなかったこと」だという解釈がすんなり生徒から出てきたのも拍子抜けだった。むろん好ましい展開だが。
 48章、「K」の自殺を発見する場面の「ほぼ同じ」「黒い光」については去年書いたものでは多大な紙幅を費やして論じたが、そこまでにもはや期末までの時間が残っていなかったので割愛し、最後の2時間ほどに詰め込んだのは「K」の遺書の末尾の書き足しと「私」が遺書を「机の上に置」いたという行為の意味と、47章の後半、奥さんから婚約の事実を告げられた「K」の反応の意味から、その後の処決に至る「二日余り」の意味を考えるという展開である。ここまでのペースに比べてとりわけ詰め込んだ観が強いことは否めないが、多くの生徒を置き去りにしても、これくらいのペースで授業を展開するスピード感はそれなりに面白い(一部の生徒とこちらにとって)。
 二学期を通して「こころ」を読みこんでいった最後の授業の最後の10分間は、一般的に考えられているエゴイズムと罪悪感をめぐる物語としての「こころ」と、私の考える意思疎通の断絶の物語として「こころ」を対比してみせるという、いわば「総まとめ」を話しきって終わった。
 だが、さらにここに書き留めておきたいことを最後に一つ。以下次号。

2014年12月25日木曜日

『トゥモロー・ワールド』

 全く予備知識無しに観始めてすぐ、菅野よう子作品時代の坂本真綾のとりわけ素晴らしい曲の一つ「ピース」の冒頭の「暗い未来の映画って大好き」というフレーズを思い出してしまった。坂本真綾のいうのは恐らく『ブレードランナー』あたりなんだろうが、我々の世代はすべからく『ソイレントグリーン』を思い出すべしである。まあそれはともかく『トゥモロー・ワールド』である。いやはやおそるべき映画だった。「暗い未来」が画面の中に実在している。そしてその退廃的な空気がなんだか懐かしくも重苦しい。そして美しいのである。
 とにかく「画」としての美しさがいちいち尋常じゃない。ロケにしてもセットにしても、光の当たり方から角度から、考えずに撮っていてはああいう画は撮れないはずだ。だからといってもちろん、美しい風景を撮った環境ビデオなどではなく、緊迫感溢れるSFサスペンスなのである。
 いちいちの演出も考え抜かれている。カメラをどこから撮って、そこで登場人物達やら物語の動向やらがどんな動きを見せるかを、細心の注意を払って演出しているのが端々から感じ取れる。
 とりわけラスト近くの戦闘シーンの緊迫感は尋常じゃなかったし、驚異的な長回しにも心底驚かされ、「映画」としてはオールタイム・ベスト10クラスだぞと興奮して、それにしてはアルフォンソ・キュアロンって監督は知らんなあ、などと暢気に思っていた浅薄を今となっては恥じる。調べてみると『ゼロ・グラビティ』で今年話題だった監督じゃないか。それどころか、うちの子供達とも共通認識の『ハリー・ポッター』シリーズ最高傑作『アズガバンの囚人』も監督している。あれは実に面白い映画だったが、まあ原作が良いのかも知れぬと思っていたから、今回のことでやはり監督の力量でもあるのだとあらためて認識した。
 で、驚異の長回しは、やはりそれが“売り”なのだった。ネットでの言及もいちいちそれだ。で、なおかつ“驚異の”は、特殊な技術で合成することによって実現したものだと知って感心しこそすれ、がっかりはしなかった。三池崇史とか山崎貴とかのCG合成には大抵の場合がっかりしてしまい、なぜこれを実写にする、アニメにすればいいのに、と思わされるのに、外国のこの手の特殊撮影の技術の高さはどういうわけだろう。日本がこういう分野で明らかに遅れをとっているのは不思議だ。まあその分、二次元アニメに特化して人材が集中しているということか。
 だからといって映像技術がただ素晴らしい映画だったというわけではない。物語を追う流れのどの断片も、熟慮をこらしたらしい細心の演出がなされていると感じさせる「映画」的描写力が素晴らしいのである。ついでにいえば、冒頭の爆発といい、ジュリアン・ムーアの死亡にいたる襲撃シーンといい、椅子に座る後ろ姿のマイケル・ケインが自殺しているのかと思わせてただの居眠りだとわかるシーンといい、赤ん坊の出現で戦闘が中断したと思ったらたちまち再開するシーンといい、いちいち観る者の予断を裏切るギミックもサービス精神旺盛だ。
 惜しむらくは、結局物語的には弱かったことだ。そこが文句なしにベスト10クラスと評価しきれない瑕疵ではある。もちろん大きな瑕疵でもある。『トゥモロー・ワールド』という偽英題(英語かと思いきや邦題だという。原題は『Children of Men』だって。)のがっかり感は許すとしても。赤ん坊が生まれなくなった世界の絶望感は、胸に迫るほどの共感力はなかったし、だから赤ん坊の存在で戦闘が停まって、人々が道を空けるシーンは感動的ではあったが、もっと大きな物語の中にこのエピソードが位置付けられなかった期待外れは否めない。

2014年12月24日水曜日

『沈黙の戦艦』

 かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』は「ヨルムンガンド級」の名作だが、その二番煎じというか“柳の下の泥鰌”商法で『沈黙』シリーズと名づけられたスティーブン・セガールの映画は、一つも観たことがなかった。というわけで初体験は第一作の『沈黙の戦艦(原題:Under Siege)』である。ついでにいえば、コンセプトは『ダイ・ハード』の丸パクリであるところも“柳”である。テロリストに占拠された船の中で、拘束を免れたスティーブン・セガールが一人、テロリストに対抗するのである。なんともはや。
 だが、楽しい映画だった。むろん大名作の『ダイ・ハード』(私的ベスト10に数えられる)のような高度に練り込まれた脚本の素晴らしさはない。が、展開はスピーディーで飽きさせないし、セガールのアクションは(抑えめではあるが)見事だった。何より、テロリストのトミー・リー・ジョーンズが素晴らしかった。『ダイ・ハード』のアラン・リックマンや『レオン』のゲイリー・オールドマン以上といっていい悪役ぶりだった。芝居のキレといい溢れる狂気といい、いやはや恐れ入った。トミー・リー・ジョーンズってのは今まで、役者としては原田芳雄と同じような位置づけで意識されていたのだが、このキャラクターは、はたして原田芳雄に演じられただろうか。
 ついでにゲイリー・ビジーの嫌味な悪役も実に板についてるのだが、どうも見覚えがあるぞと思ったら、ジェイク・ビジーの父親か! 二代続く悪役の家系!?
 それにしても主役のセガール、ずるいほど強い。安心できていいというか、サスペンスが生じないというか。でかい体で余裕の笑顔を浮かべるだけで魅力的というところもずるい。

2014年12月23日火曜日

ヤングシナリオ大賞「隣のレジの梅木さん」

 フジテレビの「ヤングシナリオ大賞」の創設は1987年というから、私が大学生の頃で、第一回の坂元裕二も第二回の野島伸司も、大体同世代。なんとなく思い入れもあって、見つけると観るようにしているのだが、四半世紀も続く有名なシナリオライター登竜門だというのに、心に残るような作品にはなかなか出会えない。
 今年度の「隣のレジの梅木さん」も、もしかしたら脚本はいいのかもしれないが、残念ながら映像化されたテレビドラマはひどいものだった。しかもそれが、基本的に脚本のせいではないかという印象を与えるのだ。人物の造型がシリアスでありながら深みに欠けて、行動が唐突にすぎる。なんら観る者に(とりあえず私に)何の共感も切迫感も感じさせない。物語の展開そのものもそうだ。主要な登場人物三人の抱える問題を並行して描きながらそれをからめる、というねらいは悪くないんだろうと思う。だからもしかしたらやはりこれは演出や編集のせいかもしれない。

 なんだかここんとこ、映画もドラマも残念な印象を語る記事ばかりだ。これはそれこそ残念な印象を読者に与えるような気がする。辛口批評が痛快、とかいうような切れ味を見せるほど書き込んでもいないしな。まあ、自分用のメモ・備忘録ということで御寛恕を。

2014年12月22日月曜日

『ダークナイト ライジング』

 『ダークナイト』はもちろん名作だし、『バットマン ビギンズ』も(定かではないが)良い印象があるので、期待したものの、残念な鑑賞後感(「読後感」に相当する「映画を観た後の感じ」を表す言葉ってなかったっけ?)に終わった。一緒に観ていた息子も同様の感想。
 シリアスなドラマとしての見所があったか? どうもそうとは思えない。ベインがゴッサムシティを制圧して、核爆弾で脅すところに『ダークナイト』のジョーカーの要求と同じ、ヒリヒリするような焦燥感を期待したのだがその後の展開はぐだぐだで期待はずれ。
 とするとなんだ? 主人公の苦悩か? 「エヴァンゲリオン」でも碇シンジの苦悩が一つの吸引力であるような作品評を目にするが、あれはそんな中二な問題が魅力であるとはとても思えない。『ダークナイト』でも、そこは鬱陶しいばかりだ。
 じゃあアクション? だが擬斗は古典的に過ぎて、『エクスペンダブルズ』あたりの見事なアクションを観てしまうとがっかり。
 もしかしたらバットマン・カーなどのギミックの面白さに喝采を送ればいい映画なのか? これだけの大作で、もったいつけたシリアスなタッチなのに? 大体そんなものに興味ももてないし。
 もしかしたら、三部作を通して、映画館で観ると大いに感動したりするのかもしれないが。

2014年12月21日日曜日

『清須会議』

 「テレビ初登場」とかいう仰々しい煽り文句で3時間近い放送時間をとって放送したわりに、つまるところ面白くなかった。「清須会議」という素材が面白くなりそうな予感はテレビのCFから感じていたが、それが生かせているようには到底思えなかった。「評定ひょうじょう」の面白さときたら『12人の優しい日本人』のはずじゃないのか? 二転三転する議論の行方やその裏に進行するかけひき、と言葉にすれば『12人』と同様の面白さを盛り込めるはずの設定なのに、この質量の違いはなんなんだ。といって『マジックアワー』や『有頂天ホテル』のように、複雑に混乱した物語の行方がアクロバティックに着地するような展開の面白さもない。この間の「おやじの背中」の惨状といい、三谷幸喜、仕事のしすぎが原因だということなのだろうか。単に。
 敢えて美点を挙げるなら、大泉洋と中谷美紀の演ずるキャラクターは魅力的だった。これも前に書いたとおり。

2014年12月14日日曜日

YouTuber

 ここ2、3日のどこかでブログの閲覧数が2000を超えた。不思議だ。誰が見てるんだろう。コメントは0だしフォロワーもいないし(どこで確認できるのかわからん。あ、いや、いるか。感謝!)。もちろん更新のために自分で見てる分が1割くらいはあるんだろうけど。
 このブログを開設した経験をもとにその一週間後くらいに開設した学校のブログは校長自らものりのりで更新しているせいもあって記事も多く(投稿数94)、関係者の多いこともあって(多分生徒とその家族が見てるんだろう)、閲覧数は現在1万4千を超えているが、まあ公的な機関のブログなんだからそのくらいいっても不思議はない。それに比べて、映画の感想を書く際にもまるでストーリーの説明をしない記事が、誰の需要に応えているとも思えない。まさか「こころ」の授業展開に関心を持つ教員が? ないない。

 ところでニコ動とYou-Tubeの投稿者でもある。「YouTuber」と自称しようと思ったら、それは
主に動画共有サイトYouTube上で独自に制作した動画を継続して公開している人物や集団を指す名称。 狭義では「YouTubeの動画再生によって得られる広告収入を主な収入源として生活する」人物を指す。「wikipedia」
だというから私には該当しないか。だが投稿動画の最多再生回数は5桁なのだ。なんと。それはそれで誰が見てるんだろう、だが、まあどこかで誰かが観てると思うのは、投稿した甲斐もあるというものだ。そちらにはブログと違ってコメントもあって、嬉しい言葉も並んでいるし(別に私に対してではないが、我が事のように嬉しい)。 一方で、再生数の少ないものは3桁から増えない。そっちも良いと思うんだけどなあ。

 というわけで最も再生数の多いものと少ないもの。


 これらの再生数に100倍以上の差があるなんて、腑に落ちない(というわけでもないが。サムネイルが興味を引くかどうかなんだろうな。おそらく)。

2014年12月13日土曜日

『エターナル・サンシャイン』

 というわけで洋画だ。この間、最初の方を見始めて、これはしっかりしてるぞと期待していた『エターナル・サンシャイン』。何の予備知識もないので、ジャンルさえわからずに見始めたが、まあ恋愛映画なんだろうと単純に思っていた。ヒロインは『タイタニック』のケイト・ウィンスレットで、映画が始まってから20分近く経ってから流れるオープニングのクレジットを見ていると、この陰鬱な二枚目はジム・キャリーだって!? そのまま見ていると『ロード・オブ・ザ・リング』のイライジャ・ウッドがちらっと出てくるから何事かと思わせる。これは伏線に違いない、と思ってるとはたして重要な登場人物なのだった。クリニックみたいな会社の受付嬢は『スパイダーマン』のヒロインのキルスティン・ダンストだし、そこの先生はもしやと思って調べるとやはり『孤独な嘘』で可哀想な主人公だったトム・ウィルキンソンではないか。
 かような豪華キャストで、演出もいい。見たい「洋画」の手触りってこういうのだよなあと思っているとあれよとSFになってびっくり。普通は最初からそのつもりで見るもんなんだろうが、こちとら予備知識0である。
 脳内の仮想空間を見せるのは『インセプション』が大掛かりで映像的にすばらしいし、映画的には凡作だったと思う『完全なる首長竜の日』も比較的最近に見た。それらよりも前の作品とはいえ、こちらが観たのは今日が初めてだから、ものすごく新鮮だとか画期的だとか思ったわけではない。それでもまあ、この映画の魅力の大半は、現実と脳内現実が混乱する複雑な構成なんだろう。ネットで低評価な人の言い分はここがよくわからない、理解できないというものだが、それは同情にも共感にも値しない。やはりこの混乱が、おそらくこの映画を見直す価値のあるものにしている。もちろんそれは撮影方法とか編集とかいった映像的な工夫でもある(CGは多用していないそうな)。だがやはりアカデミー脚本賞を獲った脚本の構成力だろう。
 伏線が意味を成し、ピースが嵌りだす後半まで、面白いなあと思って観ていて、最後の最後、結末にがっかりして全体には手放しの高評価はできなかった。結局「真実の愛」なの? このハッピーエンドが永続的なものだとは、全然思えない。一時の気の迷いじゃないの? という不信感を拭えず。

2014年12月10日水曜日

『アウトレイジ ビヨンド』

 「洋画が見たくなる」と書いたのはほんとなのだが、そしてそういう洋画を見始めて続きも見たかったのだが(映画を分割して観るなんて許し難い行為だと思いつつ)、受験の終わった息子と、ハードディスクの中に溜まった録画のどれを片付けるかで、今夜の所は『アウトレイジ ビヨンド』を選んだのだった。
 ところで彼と通しで映画を観るのはいつ以来だ? 辿ってみたらわかった。このブログ開設のきっかけとなった『マレフィセント』以来だ。だが本来私は彼らと映画を観るのが好きなのだ。受験生という自覚に適った行動をとる自律に敬意を払って抑えてきたが、今後は時間の許す限り一緒に観ていきたい。
 で、『アウトレイジ ビヨンド』なのだが、前作『アウトレイジ』も一緒に観ている。北野武のヤクザ映画を観ていると、こういう行動原理がどのあたりでバランスを保っているのだろう、といつも気になる。法を犯すことをためらわないということは、そのまま社会生活を送り続けることを諦めざるをえないということだが、そんなふうにして生きていくのはシンドイだろうなあ、と思う。あるいは、ナメられないようにしていなければならないが、果てしなく敵対し続けるわけにもいかないだろうから、どこで引くかという見極めは重要だ。ある意味ではそれを計算しない「キレる」者(激昂しやすい人)が一時的には強いのだろうけれど、長期的には計算のできる「キレる」者(頭の良い人)の方が優位に立てるんだろう。加瀬亮の演ずる「石原」がのしあがっていけたのは、その両方の意味で「キレる」者だったからなのだろうが、そういう不愉快な人物をちゃんと引きずり下ろすところは映画的には快感ではあった。
 とはいえ、同じように悪党な三浦友和や小日向文世あたりは因果応報的に殺されて良かったとは、あんまり思えなかった。人が死にすぎで、もうお腹いっぱいだったということもある。それよりそんな悪循環の応報にうんざりして、殺伐としてるなあ、と思ってしまったのだった。展開のスピード感にのせられて、退屈したりはしなかったのだが、暴力描写も安易な銃殺が多くて、むきだしの暴力によって「異化効果」を与えるといういつものキタノ映画の魅力は少なかったと思う。
 さて、次は洋画か?

2014年12月8日月曜日

『武士の家計簿』、『劇場版 タイムスクープハンター -安土城 最後の1日-』

 森田芳光の『武士の家計簿』は、久々に観た森田映画だったのだが、『家族ゲーム』の先鋭的な映画作りをするイメージの強いあの森田芳光が、時代劇で、しかもなんとも端整で手堅い演出をするのが意外だった。だがそういえば『家族ゲーム』の、あの有名な食卓シーンだって、リアルさよりも映画的な違和感を強く感じさせるものだったように、『武士の』のあちこちの演出も、やはりリアルさよりも映画的な感触を優先しているのだった。尤も『家族ゲーム』が従来の映画的なるものを否定して、新たな「映画」を作ろうとしていたように見えるのに比べて『武士の』は、むしろお約束の映画的文法を十全に使いこなしているように見える。それだけに驚きもないが、素材の良さで観てしまった。もちろんそれは堺雅人でも仲間由紀恵でもなく、御算用者(会計処理の役人)という素材のことだ。
 だが、見終わって悪くなかったぞと思いつつネットの評判を見るとやはりどの映画もそうであるように毀誉褒貶あって、その「貶」を読むと、そのとおりだよなあと納得させられてしまう。素材の良さは充分に引き出されていたか? そうとは言い難い。良くできたドキュメンタリーであったらもっとずっと面白い「事実」を掬い上げていたはずであり、そうでないとすればあれはやはり「家族映画」として作られていたのだ。そうした視点から評価しようとすると、まるで深みも軽みも渋みもない、どうということもない絵解きに思えてくる。
 ということは、それでも観られたのはやはりあの「端整で手堅い演出」のせいだということか。

 ところで調べてみると森田芳光映画を12本も観ていたことがわかった。そしてそのどれも、手放しで面白かった、好きだと言えるものがないのだった。最も許し難いのは『模倣犯』の首が飛ぶシーンで、最も好意的に覚えているのは『間宮兄弟』かなあ。

 『劇場版 タイムスクープハンター -安土城 最後の1日-』は、テレビドラマの時の疑似ドキュメンタリー風の面白さがなくなって、じゃあ映画的に面白くなったかというとそうでもない、という不満が残った。映像に金がかかっているのも、意外な事件でドキュメンタリー的展開から抜け出した序盤の展開も期待を持たせたのだが。たぶん、短期間で書き下ろす、というようなシチュエーションを想定すれば、あれはよくできた脚本なんだろうと好意的に思う。だが、金のかかった劇場映画と思えば、あんな完成度で撮り始めてしまうのは勿体ないと思う。この物語に、あんな中途半端な銃撃戦なんか要るか?
 ただ、矢が刺さるCGは良くできていて、一瞬、おおっと思わせる。

 手作り風味の日本映画をあえて観たい、という欲求が起こることもあって、どうしてもという期待をしているわけではない邦画も観てしまうが、そうすると反動で、良くできた洋画を見たい欲求が昂じてくる。とうてい日本ではない、この世ですらないような時空が逆に懐かしくなるような。

2014年12月6日土曜日

『ハルフウェイ』『大鹿村騒動記』

 この間『新しい靴を買わなくちゃ』を観たばかりの北川悦吏子の初監督作品『ハルフウェイ』。一家をなした脚本家が、こんな、何のストーリーもないお話を書いていいのかいなと、心配にさえなってしまった。というか、脚本があるのか? と思わせるほど、台詞がとりとめもない。手持ちカメラのブレも尋常じゃなく、どうやってこんな演出をしているんだろうと思って調べてみると、お芝居はアドリブなんだって。なるほど。それであの、書いたとは思えない、北乃きいと岡田将生のからみのお芝居が成り立っているのか(そしてそれをリアルタイムで追っているからのあのカメラのブレ)。
 そのままネットでみんなの感想を読んでみると、否定派の言うとおり北乃のキャラクターは考えてみればどうみてもウザイのだが、観ている最中に不快感はなかった。それよりもとりとめもなく描かれる二人のいちゃつきは、「新しい靴を買わなくちゃ」の桐谷美玲と綾野剛のからみが、ひたすら鬱陶しく、この二人のシークエンスがごそっとカットされればこの映画はどれほど良くなるかと思わせたのに比べて、ほとんど同じように見えてもおかしくない北乃と岡田のからみがそうは見えなかったのはこちらの偶々のコンディションなのか、田舎の風景の中におさまった高校生という図が救いになっていたからか。むしろネットのこんな大胆な感想に共感さえしてしまったのだった。
こんな初々しい青春あふれる学校生活が、将来の日本の希望につながるのではないか? 女子高生のすがすがしさ。ちょっと考えてみれば分かる。自分をとりまくおじちゃん、おばちゃん達の素朴さ。やはり、昔でもこういう健康的なラブストーリーを経験してきてるから、日本の年配の方々は強いのだ。またもっと言えば、誰にでも青春は来るのだ。それが若い頃じゃなくても。いじめや援交などの学校生活ばかりが映画化されるが、こういう映画こそ、生きる力のつく映画だと思う。
いやあ、相当数のバッシングもある中で、この肯定のシンプルさはすごかった。
 ついでに最近「昨夜のカレー、明日のパン」で見慣れているサラリーマンコンビの溝端淳平と仲里依紗が高校生で揃って出てきているのも不思議な感じだった。二人とも今では、この高校生役の輝くような魅力とはまた違った好感度でサラリーマンを演じている。
 編集も尋常じゃないとりとめもなさ(ストーリー上の意味付けや、カット同士の繋がり具合やカメラの視線の位置とか)だなあ、この味はなんだか覚えがあるぞと思っていたら、やっぱり岩井俊二なのだった。

 『大鹿村騒動記』は阪本順治というようり原田芳雄を観たくて観たのだが、何とも感想の難しい映画だった。阪本順治は『どついたるねん』と最近の『北のカナリアたち』しか観たことがなく、どちらも安っぽくはないが手放しで好きにもなれなかった。『大鹿村騒動記』もそうだ。なんだかこれを喜劇として笑う気にはなれないのだが、シリアス一辺倒のドラマとして作っているわけでもあるまい。この間の『孤独な嘘』と同じ、妻の不倫を夫が許すという構図を受け入れがたいと言いたいわけではない。そこは原田芳雄の人柄で、それもアリだと思わせてしまうところがこの映画の魅力なのかもしれない。大楠道代だって、『ツィゴイネルワイゼン』のあの人がこの歳になってまでこんな風に女を演じられることを素直に賞賛したいし、岸部一徳も大好きな俳優だ。それでも、たとえば「見所」ということになっている大鹿歌舞伎はどうとも感じなかったし、佐藤浩市や松たか子は完全に無駄遣いに思えた。冨浦智嗣のエピソードもまるで心を動かされなかった。
 でもなんだか、こんなつまらない感想はこちらの見方が悪かったような気もして、なんとなく居心地の悪い後味なのだった。

2014年12月5日金曜日

「こころ」7.5 ~最後の授業

 「最後の授業」といってもドーデのあれではない。単に期末考査前の最終日で、「こころ」の授業の最終回だったのだ。最初に二つほど違う文章を読んだりもしたが、結局2学期いっぱい「こころ」だけをやったのだった(レギュラーの漢字テストにもそれはそれで時間を食われているし、修学旅行を間にはさんでもいるのだが)。最終的に「こころ」をどう読むか? というところまで最後の10分で話しきる怒濤の(という形容を、こちらの心理的には、という意味で使ってしまおう)展開で締めくくる授業を今日だけで4クラス全てやりきって、妙に充実した気分ではある。こちらは。願わくば生徒もそうであってほしい。
 で、後半の展開についてはここにまとめる時間がとれずにここに至ってしまったのだが、もちろん授業をやるということは多くの発見をさせるものだから、書き留めておきたいことはあれこれある。冬休み中には、備忘録的にいくつか書き留めておこうと、今から心に留めておく。