2014年12月29日月曜日

「こころ」8 ~備忘録的に

 ようやく休みに入ってまとまった時間がとれるようになったので、懸案の「こころ」についての最低限の「まとめ」をしておく。

 前回触れた、「私」と「K」の間で「進む/退く」が反対の意味で使われているという解釈をきっかけとして、授業はその後40~42章にわたる上野公園の会話を詳細に検討していくのだが、この分析が、教科書収録部分を授業で扱う「こころ」読解のための最大のポイントだと思う。その詳細はこれ以上ここには記さないが、ここで二人の会話のすれ違いを明確にしておくことが、その後の物語の様相をまるで違ったものにしてみせる。たとえば次の一節。
 私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。
この一節は多くの指導書などでも、「私」が「K」を「敵」として捉えていることを示す表現であると指摘される。むろんそれは間違いではない。だがこれが「私」の側からの一方的な見方でしかないことは、当の「K」の側からもこの会話の意味合いを考えなければ充分には理解できない。「私」の側からしか見ないならば、「K」にはそのつもりがなかろうと、やはり「K」は「私」にとってはお嬢さんをめぐる「敵」に違いなのだ。だが「K」の側からこの一連の会話を捉え直してみると、「K」はその、お嬢さんをめぐる利害においていささかも「私」と敵対してはいないのである。そのことを認識しないでいると、例えば
 こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
といった一節も言葉通りに読んでしまうだけだが、考えてみると「K」が「私の利害と衝突する」ことなど、「K」が意図も意識もしていないというだけでなく、そもそもそのような可能性はなかったのである。「K」が「生活の方向」=「進む」を「転換して」も、「退く」先にはお嬢さんとの恋愛があるわけではなく、ただ自らを処決する道しかなかったのだから。
 だが先の一節がさらに驚くべき様相を見せるのは、「Kは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらい」とか「彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じ」などという、印象的な比喩を使ってまで殊更に強調された「K」の心の裡が明瞭だという事態の判断が、実は「K」の心を読み違えていたとわかったとたんに、そっくりそのままの絶対値でひっくりかえる瞬間である。つまりこの強調は「わざと」なのである。漱石は「K」の心の裡を「私」がまるでわかっていないことを充分承知の上で殊更に「わかっている」と言わせているのである。
 そうした目で眺めてみると例えば46章の
 夕飯の時Kと私はまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんはいつもより嬉しそうでした。私だけがすべてを知っていたのです。
なども同様の読み換えが必要になることがわかる。「何にも知らない」のは「K」ばかりではなく「私」こそそうなのだし、むしろ「何にも知らない奥さん」こそが事態を最も正確に捉えている可能性が高いのである。にもかかわらず、語り手の「私」がそういうからにはそうなのだろうと、読者は素朴にそうした認識を受け入れてしまう。そうして「私」の目からのみ見られた「エゴイズム」をめぐる物語が「こころ」という物語なのだと信じられているのである。

 さて、上野公園の会話については、さらにいくつかの注意すべき点に触れつつ、「居直り強盗」を解釈する展開と、「進む/退く」「強い/弱い」「道/恋」「向上/ばか」という四つの対比を同一の対比軸で並べて整理する、という展開には少々まとまった時間をかけた。だがやはりこの場では詳細を記さない。だが、記録として以下の点は書き留めておきたい。
○「私」にとって
進む ←→ 退く
強い ←→ 弱い
 恋 ←→ 道
ばか ←→ 向上

○「K」にとって
進む ←→ 退く
強い ←→ 弱い
 道 ←→ 恋
向上 ←→ ばか
という整理をしてみることは、両者のすれ違いの構造を明瞭にするためには有益だが、さらにここに「K」の言う「覚悟」とは何を意味しているかを考えてみると、後者の「K」にとっての対比要素の「道 ←→ 恋」という対比が間違っていることにも考えが及ぶことが期待される。上の対比を板書して、「でもこれって間違っているよなあ。どこ?」と訊いてみて、そのことに考え及んだ生徒がそれぞれのクラスでいたことは、実は半ば諦めていた予想を裏切るという意味で期待以上だった。そう、「K」にとって「道」の対比要素は「私」にとってのそれのように「恋」なのではなく「死」なのである。

 43章、上野公園の散歩の晩の「K」の真夜中の訪問の意味するものについては論争的に展開できるから、やはり扱っておくと面白い。
 47章の「要するに私は正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。」についての込み入った解釈については、それほど立ち入るつもりはなかったが、「足を滑らせた」が「Kを出し抜いて奥さんに談判を開いたこと」だとする指導書などで一般的な解釈を採らない私としては、「Kに正直に言わなかったこと」だという解釈がすんなり生徒から出てきたのも拍子抜けだった。むろん好ましい展開だが。
 48章、「K」の自殺を発見する場面の「ほぼ同じ」「黒い光」については去年書いたものでは多大な紙幅を費やして論じたが、そこまでにもはや期末までの時間が残っていなかったので割愛し、最後の2時間ほどに詰め込んだのは「K」の遺書の末尾の書き足しと「私」が遺書を「机の上に置」いたという行為の意味と、47章の後半、奥さんから婚約の事実を告げられた「K」の反応の意味から、その後の処決に至る「二日余り」の意味を考えるという展開である。ここまでのペースに比べてとりわけ詰め込んだ観が強いことは否めないが、多くの生徒を置き去りにしても、これくらいのペースで授業を展開するスピード感はそれなりに面白い(一部の生徒とこちらにとって)。
 二学期を通して「こころ」を読みこんでいった最後の授業の最後の10分間は、一般的に考えられているエゴイズムと罪悪感をめぐる物語としての「こころ」と、私の考える意思疎通の断絶の物語として「こころ」を対比してみせるという、いわば「総まとめ」を話しきって終わった。
 だが、さらにここに書き留めておきたいことを最後に一つ。以下次号。

0 件のコメント:

コメントを投稿