2014年12月10日水曜日

『アウトレイジ ビヨンド』

 「洋画が見たくなる」と書いたのはほんとなのだが、そしてそういう洋画を見始めて続きも見たかったのだが(映画を分割して観るなんて許し難い行為だと思いつつ)、受験の終わった息子と、ハードディスクの中に溜まった録画のどれを片付けるかで、今夜の所は『アウトレイジ ビヨンド』を選んだのだった。
 ところで彼と通しで映画を観るのはいつ以来だ? 辿ってみたらわかった。このブログ開設のきっかけとなった『マレフィセント』以来だ。だが本来私は彼らと映画を観るのが好きなのだ。受験生という自覚に適った行動をとる自律に敬意を払って抑えてきたが、今後は時間の許す限り一緒に観ていきたい。
 で、『アウトレイジ ビヨンド』なのだが、前作『アウトレイジ』も一緒に観ている。北野武のヤクザ映画を観ていると、こういう行動原理がどのあたりでバランスを保っているのだろう、といつも気になる。法を犯すことをためらわないということは、そのまま社会生活を送り続けることを諦めざるをえないということだが、そんなふうにして生きていくのはシンドイだろうなあ、と思う。あるいは、ナメられないようにしていなければならないが、果てしなく敵対し続けるわけにもいかないだろうから、どこで引くかという見極めは重要だ。ある意味ではそれを計算しない「キレる」者(激昂しやすい人)が一時的には強いのだろうけれど、長期的には計算のできる「キレる」者(頭の良い人)の方が優位に立てるんだろう。加瀬亮の演ずる「石原」がのしあがっていけたのは、その両方の意味で「キレる」者だったからなのだろうが、そういう不愉快な人物をちゃんと引きずり下ろすところは映画的には快感ではあった。
 とはいえ、同じように悪党な三浦友和や小日向文世あたりは因果応報的に殺されて良かったとは、あんまり思えなかった。人が死にすぎで、もうお腹いっぱいだったということもある。それよりそんな悪循環の応報にうんざりして、殺伐としてるなあ、と思ってしまったのだった。展開のスピード感にのせられて、退屈したりはしなかったのだが、暴力描写も安易な銃殺が多くて、むきだしの暴力によって「異化効果」を与えるといういつものキタノ映画の魅力は少なかったと思う。
 さて、次は洋画か?

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