2020年6月28日日曜日

『ファイアー・フォックス』-程度の適正がわからない

 次々とクリント・イーストウッド。
 退役した米軍のパイロットが、ソ連の最新鋭戦闘機を盗みにソ連軍に侵入し、奪取して脱出する。
 ミッションの困難さはいうまでもない。スピーディーな展開に伴うサスペンスは確かにある。
 だがその困難さの程度が想像できないので、それができてしまう展開がご都合主義の絵空事に感じてしまう。
 後半の空中戦もそうだ。
 確かマッハ5だとか言っていたようだが、その早さで「惜しい」とか「ギリギリ」とかいうコントロールが可能な空中戦の駆け引きが可能なのか、どうも信じられない。
 ということで、起伏のある物語展開も、手堅い演出も、さすがイーストウッド映画だと思いつつ、どうにものれなかった。

2020年6月21日日曜日

『ハートブレイク・リッジ』-達者なエンタテインメント

 クリント・イーストウッド祭状態なのは、NHK・BSの放送のせいでもある。海兵隊歴戦の勇士、オールドスタイルの「鬼軍曹」が、だらけた若者を鍛え直す戦争映画。最初は反抗的だった若者達との間に絆が生まれて、次第に優秀な部隊に育っていく様子は『がんばれベアーズ』的スポ根映画と同じコンセプトだな。
 「戦争映画」だと思っていなかったので、後半で実際に戦場に行き、死者も出すという展開に驚いた。ネットでは戦闘シーンに突入するのが遅いというような感想もあったが。
 結局揺るぎない腕っ節の強さを後ろ盾とする強引さがあってこそのやり方じゃないか、とか、あまりに脳天気にアメリカ万歳の戦争賛美になっているじゃないか、とか、戦争の悲惨が描かれない、とか、シリアスに観てしまうと不満はあるが、ユーモアや人情話として観ればやはり手堅いエンタテインメントではある。
 つくづく達者な監督だ。

2020年6月19日金曜日

『老人と海」-眠気に堪えて

 ノーベル文学賞作品の映画化で、『大脱走』のジョン・スタージェス監督作。主人公の「老人」を名優・スペンサー・トレイシーが演ずる。
 …というビッグネームが揃いながら、すごく面白かったというわけではない。
 ほとんど全編にわたってナレーションが状況や心理を説明し、ほとんど全編、壮麗なオーケストラによる劇伴が流れ続ける。アカデミー作曲賞はいいのだが、正直、映画的緊迫感を損なっている。
 魚の映像を探すために制作費が巨額になったというのだが、哀しいかな、ここはどうしても時代が現れてしまう。ブルースクリーンによる合成が初めて使われた作品だというのだが、今観るとSFXがどうにもちゃちにしか見えない。魚と老人が別映像にしか見えないし、舟が浮かんでいるのも、時々プールになる。
 その時代なら老人と魚の戦いが「大迫力」に見えたのかもしれないが。

 話としてはダニー・ボイルの『127時間』同様、限定された状況で、それがうんざりするほど長く続くのを堪えるという設定で、そこにどんなエピソードを盛り込めるかという勝負。
 これにもそれほど感心するような工夫を感じなかった。眠気に堪えたり、釣り糸に擦られた手の皮がむけたりといった「戦い」はあるが、三日目までの道のりは思いのほか短く、むしろ捕まえてからのサメとの戦いや陸に帰り着いてからの方が結構長いんだな、と感じた。
 週末の夜に夜更かししても、と思ったが、眠気に堪えて最後まで観るという、劇中の老人と同じ状況に陥ってしまった。

2020年6月14日日曜日

『Bound』-身の丈にあった良作

 偶然にもウォウシャウスキー姉妹の映画を二作続けて。まだ「兄弟」だった頃の第一作。一日に二作というのは意識的だが。
 マフィアの金を、幹部の情婦と隣の配管工の女が結託して横取りするというクライム・サスペンス。
 印象は、近いところでは『パーフェクト・プラン』に似ている。そちらほどの肉弾戦があるわけではないが。基本的にはいつばれるか、というハラハラサスペンス。
 『ジュピター』のように金がかかっているわけではないが、堅実な脚本と工夫を凝らした撮り方で、ちゃんと面白い映画になる。『ジュピター』などよりはるかに。
 『マトリックス』のような革新性はないが、良作ではある。

『ジュピター』-スケールについていけない

 なんで録画したのか忘れていたが、最後まで観てウォシャウスキー姉妹作品なのだとわかった。
 途中の都市上空の滑空や戦闘、異星の都市の描写や、ペ・ドゥナが出ているところから『クラウド・アトラス』を思い出していたんだが、あれも半分ウォシャウスキー姉妹だったんだっけ。
 しがない清掃員のヒロインが、宇宙を支配する異星人の生まれ変わりだとわかる、という一種の貴種流離譚でそこからとんでもないスケールの冒険の物語に突入するのだが、どうも説明不足で話についていけない。これは放送上のカットのせいか?
 といってわかったからどうだということもなさそうでもある。
 映像的にはものすごい。なんせ『マトリックス』シリーズの作者達である。
 だがそれがすごければすごいほど、冒険がどうでもいいと感じてしまう。危険の程度がすごすぎて、「すれすれ」の感じがなくなってしまうのだ。
 もちろん「すれすれ」に描いてはいる。もうちょっとでぶつかりそうだという「すれすれ」は頻度が高い。劇場公開では3Dだそうだから、それは意識されている。
 が、物語のスケールが大きいと、誰かが死ぬことは意識して避けられるようなものではないはずだと思えてしまう。巨大建造物が崩壊するときに、そこから落ちながら周囲の崩落物になぜ触れないのかとか、それだけの高度があって、なぜ途中の突起につかまれるのかとか、危険がリアルな体感として想像できるレベルをはるかに超えている。
 宇宙を巻き込むようなレベルの話になって、誰かが誰かを殺そうと思ったら、それを「すれすれ」で避けられるなどという展開に、どんなリアリティを感じればいいのか。
 またしても「スーパーマン映画の不可能性」。

 主演の二人、チャニング・テイタムとミラ・クニスがまるで魅力的に感じられないのも困ったものだった。二人の関係性も人物像もそうだが、そもそも俳優として。
 これも例の「セクシー」とかいう基準が日本人にはついていけないせいかもしれない。

2020年6月9日火曜日

『グラン・トリノ』-映画的愉しさに満ちている

 前から録ってはあって、このところのクリント・イーストウッド・ラインナップでようやく。
 中盤まで、なんだか愉しい。家族を始め、周囲から疎まれている頑固爺いが、偏見に満ちて観ていた隣家のアジア人家庭と関わり合ううち、そのうちの一人、冴えない少年と「友情」を育んでいく。
 少年の姉であるアジア人の少女の、ギャングにも強気に出る態度は『息もできない』のヒロインを思い出させてハラハラさせるが、彼女の存在がアジア人コミュニティとアメリカ人の老人を橋渡しすることになり、物語に強い安定感を与えている。
 少年にちょっかいを出してくる鬱陶しいギャング少年に対して老人が制裁を加えるあたりまでは物語としては安定したドラマツルギーだ。
 その後の悲劇的展開も、驚いたとはいえ、まあそういうのもありだという範囲を超えてはいない。さて問題はどう落とし前をつけるか、だ。
 そして結末もなるほど、それがうまい落としどころではある。
 前半の愉しいから後半の劇的展開まで、終わってみればベタなドラマではある。しかし結局映画的愉しさに満ちている。

 イタリア人理髪師役のジョン・キャロル・リンチは『ゾディアック』で覚えて、『Walking Dead』のグルで出たときには感慨深かったんだが、ここでも安定の存在感。

 ところで、気になったこと。
 なんだかんだつきあってしまえば、偏見の目で見ていたアジア人コミュニティともつきあっていける。それどころか、少年とは「友人」と呼べるまでになる。
 だがそれは孫達ではだめなのか?
 可愛気のない孫が、最終的に祖父である主人公のグラン・トリノをもらえなかったことで観る者のカタルシスを感じさせるような構図になっているが、最初は気に入らなかった若者が、つきあってみれば絆ができる、ということなら、それが孫達でもいいではないかと思ってしまう。
 孫達にはない「良さ」がアジア人の少年少女にあるとしたら、そんな構図は哀しい。

 頑固爺い振りといい猫背の痩身といい、どうも我が父を連想してしまってしかたがなかった。

2020年6月7日日曜日

『チェンジリング』-盛り沢山の超重量感

 連日のクリント・イーストウッド作品。前から録画したままになっていたのを、昨日の感動に勢いづけられて。
 行方不明になった子供が帰ってきたら別人だったというほんの入口のところしか知らなかったのだが、いやこれほどの盛り沢山の物語だとは思わなかった。しかもこれで実話ベースだなんて。
 母子二人暮らしで、仕事に出ている間に子供がいなくなるまでは、例えばこんなふうに描かれる。子供と映画に行く約束をしていて、急に入った仕事を断れずに出かけ、早く帰るのに焦っていると上司に昇進のことで話しかけられたり、路面電車に乗り損ねたりする。出かける前に一人家に残って細長い窓越しに手を振る息子を小さく捉えたりして、行方不明の母の痛みがこれでもかと伝わる。俗っぽいと言って良いほどのわかりやすくも丁寧な描写だ。
 基本的には全体にわかりやすい。だが観ていて、どこに行くのか、どこまで描くのかはちっとも予想ができない。
 ロサンゼルス警察の無責任と体面重視と強権体制が描かれて、息子が別人だと訴えているうちにあろうことか精神病院に入れられてしまう。こういうところの恐怖はいろんな映画でも描かれるが、これもまた息苦しいほどの恐怖が、ちゃんと演出される。どんなに正論を唱えても受け入れられない恐怖。
 ここに、真実を主人公に伝えて闘う同志が配置されるあたりはサービス満点のエンタテインメントだ。彼女もちゃんと後で救い出される。
 一方で何やら怪しい牧場が登場して、これ見よがしに刃物類が画面に入るなあと思っていると、20人もの大量殺人事件がからんでくる。息子の生還に絶望的な観測がもたらされる。
 絶望的な状況は、警察の腐敗を追及する教会の活動によって好転していく。聴聞会での公的な場での警察の責任追及と、シリアルキラーに対する裁判が並行して描かれる。法廷物でまであろうとは。
 主人公の息子が殺された子供の一人であることがわかったところから、どこで終わるのだろうと思っているとこの堂々たる法廷物の展開に驚かされ、さらに終わり時間を確認せずに観続けていると、殺人犯の処刑の直前の接見やら処刑シーンまで描かれる。
 さらにそれから5年後の後日談がたっぷり描かれるなあと思っていると、殺人犯から逃れた少年の一人が保護されたというニュースが入り、彼から息子の様子が伝えられる。息子を失った痛みに対する補償が描かれるのもたっぷりしたエンタテインメント的サービスだが、むしろこの情報によって主人公は息子の生存に希望を持つという結末まで、なんともはや盛り沢山な物語だった。
 盛り沢山と感ずるのは、それぞれの展開の中での主人公の感情の振幅がきちんと描かれ、観客がそれだけの物語の重みを感じ取るからだ。
 基本的には悲劇だから、観ていてとても辛いのだが、その中で救いとなるエピソードも満載で、観客は振り回された揚句どういう感情で観終わっていいものやら、という感じだった。
 これで2時間20分を超えるのだからその重量感たるや!

2020年6月6日土曜日

『エヴァンゲリオン新劇場版Q』-やっぱり

 ブログ開設以降に観ているのだが、その時よりも予備知識のなさをいくらか補った状態で、その時の感覚を確認したくなって(奇しくも同時期にケビン・コスナー主演映画を観ている!)。
 さて、観直してみると、かけらも観た覚えのある場面もカットも画も台詞もないのは呆れたことだった。一体どういう姿勢で観たのやら。
 だが感想は同様である。見事な作画と、あまりに不親切な説明不足の展開と、あまりに鬱陶しい主人公の態度。「僕のせいじゃない」はまあその通りだとしても、そんなことを他人から責められているわけではないのにことさらに自己憐憫に満ちた防衛的態度で叫んでどうする。
 世界観と作画は見応えがあったのだが、この物語の続きを追いかけたいとはやはりまるで思えないのだった。

『パーフェクト・ワールド』-閉ざされた世界への絶望と憧憬

 昔はクリント・イーストウッドにも、もちろんケビン・コスナーにも興味はなかったから、アカデミー賞受賞作の『許されざる者』の次回作として話題作だった当時から今まで観る機会がなかったが、今ならクリント・イーストウッド作品となれば観てみようという気になる。
 そしてとても良かった。感動的だった。

 脱獄犯ブッチが成り行きで人質に取った少年フィリップと逃避行を続けるロードムービー。ブッチがケビン・コスナーで、追うテキサス・レンジャーの責任者レッドをイーストウッド監督自ら演じている。
 とにかく演出といい編集といい安定して手堅くて的確で、映画を観ていること自体に心地よさがある。クリント・イーストウッドは、そういう男が確かにいる、という感触を体現していて、その佇まいは高倉健に通じる。
 ネットでは主人公の脱獄犯は結局クズではないかとか、子供がついて行くのがわからないという感想も散見されるが、ケビン・コスナー演ずるブッチ人物像は時に冷徹だとはいえ基本的に鷹揚で冷酷とは言えず、子供がついて行く動機にあたってはもちろんストックホルム症候群もあるだろうが、それより最初のハロウィンを禁止されるエピソードから父親のいない設定まで、ご都合主義的とさえ言われかねないくらいの必然性をもって描かれていると思う。
 その上で父親との関係で傷を抱える二人が寄り添っていく様子はとても切ない。それが幸福な結末を迎えることはあるまいという予想があまりに明らかだからだ。
 その切なさは題名の「パーフェクト・ワールド」という言葉にも表れていて、そんなものがないことが描かれるだろうという予想とともに掲げられているから、この言葉は不安とともに切ない憧憬として、映画を象徴している。
 そう予想はされるのだが、具体的には物語中で何を指して使われる言葉なのかと観ていても、一向に出てこない。
 最初に、人質になる少年にピストルを拾わせ、自分を狙わせる場面で、少年に「完璧だ」という言うのだが、最初観た時は意図が読めずにとまどった。今考えればこれは少年が自分で自分の身を守る力を得るよう促しているのだとわかる。訳すなら「バッチリだ」といったところか。
 その後は中盤の捜査本部での会話、「パーフェクト・ワールド」なら捜査もうまくいくのに、という言葉に犯罪学者が、「パーフェクト・ワールドならそもそも犯罪が起こっていない」と返す場面で使われるきりだ。
 ニュアンスとしては全て上手くいく世界、ということなんだろう。
 逃亡中の脱獄犯にそんなものがおとずれるはずもないから、この言葉は憧憬でしかないのだが、これはその後、誰の口からも発せられることもなく映画が終わるだった。結局直接的には一体何を指しているのか?
 一つには、明らかにブッチが父親からもらって肌身離さず持っている絵葉書のアラスカを指している。そしてそれはどうみても現実のアラスカではない。ブッチとフィリップはそこを目指すが、たどり着くことは絶望的であることが常に示されている。
 一方、冒頭に描かれた草原に寝転ぶブッチの様子がどうもそれを体現しているようにも感じられる。
 だがこれは物語の結末で、撃たれて死ぬブッチが横たわっている場面でもあるのだった。
 とすると、その「完璧」さは、二人の絆やフィリップの自立や成長を意味しているということになるのだろうし、同時にそれが「二人は末永く幸せに暮らしました、メデタシメデタシ」となることの決してない完結性、というよりむしろ先のない閉鎖性をもっているがゆえの完全さである。
 どちらも父と子の絆を象徴する世界である。
 だがそれはどちらも現実には存在しない。美しいアラスカも、ブッチが安らかに寝転ぶ草原も。
 「パーフェクト・ワールド」とは、そうした残酷さ憧憬を併せ持った言葉なのだった。

 ところで、ネットでも誰も言っていないのだが、あの絵葉書はイーストウッド演ずるレッドが父親のふりでブッチに出したものだという真相は、この物語では想定されていないのだろうか。
 誰も言っていないくらいには、それは明言されていないのだから、穿ち過ぎな妄想だと片付けられてしまうかもしれないのだが、どうも簡単に否定する気になれない。
 ブッチが少年院に入ることになった車泥棒の件が語られる場面で、それは量刑が重すぎる、という発言が捜査員の一人からあり、それを伏線として実はそれを画策したのはレッドで、レッドが父親の影響を受けないように、更生を期待して収監させたのだったのだという真相が語られる。その際、レッドは父親を、子供も殴る凶悪な奴だと表現している。ここで語られる父親像と葉書を送ってくる父親像との齟齬は容認すべきなのか。 
 それと最後近く、ブッチとフィリップの前に丸腰で立つレッドに、ブッチが「前に会ったことがあるか?」と聞く場面。もちろん、上のエピソードを受けているのは間違いないのだが、このやりとりの後で、ブッチが葉書をフィリップに渡そうと尻ポケットに手をやったところで狙撃手に撃たれてしまうという流れは、この絵葉書とレッドの関連を観客に伝えようとしているとも解釈できる。
 物語に描かれたあるエピソードを有意味化する整合的な解釈として、明言されていない「真相」を想定すると、それぞれのエピソードの必然性が納得されるというのは「こころ」でよくやっていることだが、ここでもそうした感触があるのである。
 といって、それを想定しているのなら、もうちょっとはっきり、そうであることを示すサインをおくはずではないか、とはむろん思う。
 とはいえ否定する要素もまた、なさそうではあるのだ。
 そしてこの想定が当たっているとすると、この感触は紡木たくの「ホットロード」の中の衝撃の展開と同じなのだった。
 主人公がすがっている父親との唯一の思い出が、実は母親の恋人とのものであったことが明らかになった瞬間の衝撃はそれをどのようなものだと表現すればいいのか難しいのだが、アイデンティティが揺らがされる不安と同時に救いが訪れるという奇妙な感覚なのだった。
 ブッチがすがっている父親への絆がレッドの与えたものであるとしたら、観客はその事をどう受け止めたら良いのか。