2020年6月14日日曜日

『ジュピター』-スケールについていけない

 なんで録画したのか忘れていたが、最後まで観てウォシャウスキー姉妹作品なのだとわかった。
 途中の都市上空の滑空や戦闘、異星の都市の描写や、ペ・ドゥナが出ているところから『クラウド・アトラス』を思い出していたんだが、あれも半分ウォシャウスキー姉妹だったんだっけ。
 しがない清掃員のヒロインが、宇宙を支配する異星人の生まれ変わりだとわかる、という一種の貴種流離譚でそこからとんでもないスケールの冒険の物語に突入するのだが、どうも説明不足で話についていけない。これは放送上のカットのせいか?
 といってわかったからどうだということもなさそうでもある。
 映像的にはものすごい。なんせ『マトリックス』シリーズの作者達である。
 だがそれがすごければすごいほど、冒険がどうでもいいと感じてしまう。危険の程度がすごすぎて、「すれすれ」の感じがなくなってしまうのだ。
 もちろん「すれすれ」に描いてはいる。もうちょっとでぶつかりそうだという「すれすれ」は頻度が高い。劇場公開では3Dだそうだから、それは意識されている。
 が、物語のスケールが大きいと、誰かが死ぬことは意識して避けられるようなものではないはずだと思えてしまう。巨大建造物が崩壊するときに、そこから落ちながら周囲の崩落物になぜ触れないのかとか、それだけの高度があって、なぜ途中の突起につかまれるのかとか、危険がリアルな体感として想像できるレベルをはるかに超えている。
 宇宙を巻き込むようなレベルの話になって、誰かが誰かを殺そうと思ったら、それを「すれすれ」で避けられるなどという展開に、どんなリアリティを感じればいいのか。
 またしても「スーパーマン映画の不可能性」。

 主演の二人、チャニング・テイタムとミラ・クニスがまるで魅力的に感じられないのも困ったものだった。二人の関係性も人物像もそうだが、そもそも俳優として。
 これも例の「セクシー」とかいう基準が日本人にはついていけないせいかもしれない。

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