2020年6月6日土曜日

『パーフェクト・ワールド』-閉ざされた世界への絶望と憧憬

 昔はクリント・イーストウッドにも、もちろんケビン・コスナーにも興味はなかったから、アカデミー賞受賞作の『許されざる者』の次回作として話題作だった当時から今まで観る機会がなかったが、今ならクリント・イーストウッド作品となれば観てみようという気になる。
 そしてとても良かった。感動的だった。

 脱獄犯ブッチが成り行きで人質に取った少年フィリップと逃避行を続けるロードムービー。ブッチがケビン・コスナーで、追うテキサス・レンジャーの責任者レッドをイーストウッド監督自ら演じている。
 とにかく演出といい編集といい安定して手堅くて的確で、映画を観ていること自体に心地よさがある。クリント・イーストウッドは、そういう男が確かにいる、という感触を体現していて、その佇まいは高倉健に通じる。
 ネットでは主人公の脱獄犯は結局クズではないかとか、子供がついて行くのがわからないという感想も散見されるが、ケビン・コスナー演ずるブッチ人物像は時に冷徹だとはいえ基本的に鷹揚で冷酷とは言えず、子供がついて行く動機にあたってはもちろんストックホルム症候群もあるだろうが、それより最初のハロウィンを禁止されるエピソードから父親のいない設定まで、ご都合主義的とさえ言われかねないくらいの必然性をもって描かれていると思う。
 その上で父親との関係で傷を抱える二人が寄り添っていく様子はとても切ない。それが幸福な結末を迎えることはあるまいという予想があまりに明らかだからだ。
 その切なさは題名の「パーフェクト・ワールド」という言葉にも表れていて、そんなものがないことが描かれるだろうという予想とともに掲げられているから、この言葉は不安とともに切ない憧憬として、映画を象徴している。
 そう予想はされるのだが、具体的には物語中で何を指して使われる言葉なのかと観ていても、一向に出てこない。
 最初に、人質になる少年にピストルを拾わせ、自分を狙わせる場面で、少年に「完璧だ」という言うのだが、最初観た時は意図が読めずにとまどった。今考えればこれは少年が自分で自分の身を守る力を得るよう促しているのだとわかる。訳すなら「バッチリだ」といったところか。
 その後は中盤の捜査本部での会話、「パーフェクト・ワールド」なら捜査もうまくいくのに、という言葉に犯罪学者が、「パーフェクト・ワールドならそもそも犯罪が起こっていない」と返す場面で使われるきりだ。
 ニュアンスとしては全て上手くいく世界、ということなんだろう。
 逃亡中の脱獄犯にそんなものがおとずれるはずもないから、この言葉は憧憬でしかないのだが、これはその後、誰の口からも発せられることもなく映画が終わるだった。結局直接的には一体何を指しているのか?
 一つには、明らかにブッチが父親からもらって肌身離さず持っている絵葉書のアラスカを指している。そしてそれはどうみても現実のアラスカではない。ブッチとフィリップはそこを目指すが、たどり着くことは絶望的であることが常に示されている。
 一方、冒頭に描かれた草原に寝転ぶブッチの様子がどうもそれを体現しているようにも感じられる。
 だがこれは物語の結末で、撃たれて死ぬブッチが横たわっている場面でもあるのだった。
 とすると、その「完璧」さは、二人の絆やフィリップの自立や成長を意味しているということになるのだろうし、同時にそれが「二人は末永く幸せに暮らしました、メデタシメデタシ」となることの決してない完結性、というよりむしろ先のない閉鎖性をもっているがゆえの完全さである。
 どちらも父と子の絆を象徴する世界である。
 だがそれはどちらも現実には存在しない。美しいアラスカも、ブッチが安らかに寝転ぶ草原も。
 「パーフェクト・ワールド」とは、そうした残酷さ憧憬を併せ持った言葉なのだった。

 ところで、ネットでも誰も言っていないのだが、あの絵葉書はイーストウッド演ずるレッドが父親のふりでブッチに出したものだという真相は、この物語では想定されていないのだろうか。
 誰も言っていないくらいには、それは明言されていないのだから、穿ち過ぎな妄想だと片付けられてしまうかもしれないのだが、どうも簡単に否定する気になれない。
 ブッチが少年院に入ることになった車泥棒の件が語られる場面で、それは量刑が重すぎる、という発言が捜査員の一人からあり、それを伏線として実はそれを画策したのはレッドで、レッドが父親の影響を受けないように、更生を期待して収監させたのだったのだという真相が語られる。その際、レッドは父親を、子供も殴る凶悪な奴だと表現している。ここで語られる父親像と葉書を送ってくる父親像との齟齬は容認すべきなのか。 
 それと最後近く、ブッチとフィリップの前に丸腰で立つレッドに、ブッチが「前に会ったことがあるか?」と聞く場面。もちろん、上のエピソードを受けているのは間違いないのだが、このやりとりの後で、ブッチが葉書をフィリップに渡そうと尻ポケットに手をやったところで狙撃手に撃たれてしまうという流れは、この絵葉書とレッドの関連を観客に伝えようとしているとも解釈できる。
 物語に描かれたあるエピソードを有意味化する整合的な解釈として、明言されていない「真相」を想定すると、それぞれのエピソードの必然性が納得されるというのは「こころ」でよくやっていることだが、ここでもそうした感触があるのである。
 といって、それを想定しているのなら、もうちょっとはっきり、そうであることを示すサインをおくはずではないか、とはむろん思う。
 とはいえ否定する要素もまた、なさそうではあるのだ。
 そしてこの想定が当たっているとすると、この感触は紡木たくの「ホットロード」の中の衝撃の展開と同じなのだった。
 主人公がすがっている父親との唯一の思い出が、実は母親の恋人とのものであったことが明らかになった瞬間の衝撃はそれをどのようなものだと表現すればいいのか難しいのだが、アイデンティティが揺らがされる不安と同時に救いが訪れるという奇妙な感覚なのだった。
 ブッチがすがっている父親への絆がレッドの与えたものであるとしたら、観客はその事をどう受け止めたら良いのか。

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