2021年4月29日木曜日

『ファンタスティック・プラネット』-イマジネイションは豊穣なるも

 どこで聞いたものか忘れたが、カルト的人気のある、ちょっと独特なアニメだという話だったので観てみる。

 確かにそのイマジネイションは豊穣である。邦題をそう付けたくなってしまう感じはわかる。異様な世界観を現出させている。ネットに散見されるように宮崎駿や『進撃の巨人』などを連想したりはしない。もっと独特だ。

 だがそれだけだと思った。人類が害虫のように扱われる、異星人の住む世界で、それに主人公を中心として人類が反逆する物語に何か寓意のようなものを読み取るのは、単に考え過ぎなだけだと思う。そこに批評的な洞察があるわけではなく、ただこんな設定、面白いでしょ、と言っているように見えて、作り手の自己満足に終わっていると思う。細部の描写にも特に何かを感じるような巧みさもなく。ぎこちない切り絵アニメはアニメーションとしての快楽を感じさせるわけでもなく。

 つまりは豊穣なイマジネイションの異様さ自体に惹かれるのでなければそれほど感興を催すような物語ではないのだった。

 

2021年4月25日日曜日

『新聞記者』-日本アカデミーの罪

  昨年の上映時にも、映画館に行こうか迷っていたし、アカデミー賞での高評価にも期待は高まるばかり。

 とはいえテレビ放送を待っての録画視聴ではある。


 で、すっかり期待外れだったのだった。がっかりという以上に、何か不審だ。

 主演男優賞と主演女優賞は認めてもいい。だが作品賞はどうかしてるし、だから監督賞もまるで納得できない。

 「政権批判の姿勢を貫く骨太な社会派作品」という評価なのだが、端的に言って陰謀史観にしか見えない。それは体制か反体制かという立場の問題ではない。単に安っぽくしか見えないということだ。

 『Fukushima50』もそうだが、敵を類型的に悪者に仕立てることは、物語を浅はかにするばかりなのだ。そもそも敵味方構図ですらない『Fukushi50』が「現場vs当局」という構図を作ってしまうことも明らかに失敗だったのに、まして「報道vs政権」という構図をつくることは狙い通りの本作で、敵方たる政権があんなに「陰謀」イメージにまみれた一面的な描き方をしたのでは、価値や論理の拮抗など望むべくもない。

 直接の敵である内閣調査室は、薄暗い部屋に並んだパソコンに職員が向かっている非現実的空間で、そこで何やら陰謀が行われているらしいが、まるでリアリティはない。意図的にそうした照明で、そうした描写をしているのが何か映画的だと考えているらしいのだが、これはそんなふうにリアリティの水準を下げてファンタジーにしていいテーマの物語ではないはずだ。

 必然的に主人公の報道側も、実にリアリティに欠けていた。主人公は、いくつかのインタビューはするものの、ほとんどはネットで情報を集めるばかり。あれが報道の取材の現場をリアルに描いているというつもりなんだろうか。監督賞監督は。あんな描かれ方に、取材の現場人たちは怒りを覚えないのだろうか(覚えないジャーナリストが多いのならそれはそれでジャーナリズムの危機だし)。

 馘首を覚悟のスクープを通したデスクもまた馘首を覚悟しているはずなのに、その危機は全く描かれることなく、単なるスクープ成功となる。編集部や新聞社のもっと上からの妨害も、出発点で圧力がかかったようなことをにおわせはするが、報道を決断してしまうと、それ以降の報復があるようにも描かれない。そんなことなら迷うことなくはなから報道すれば良かったのだ。なんの葛藤も必要ないではないか。

 つまり葛藤は観念的にしか存在しない。

 そのスクープは違法な手段によって入手した情報に基づいているが、それに協力したもう一人の主人公である松坂桃李演ずる官僚が映画の終わりに主人公の新聞記者から離れてしまう結末が苦々しい現実であるかのように描かれる。だがラストで脅しによって撤退するまでもなく、スクープが実行された時点で社会的に報復を受けるのは確実なのだから、その覚悟があったとするなら、後から脅されて撤退するという展開は論理矛盾だ。そんなことがわからないで「優秀な官僚」をやれるわけがない。

 わかってはいたけれど、いざそうなってみると急に恐ろしくなって、というような微妙な描き方がされているわけでもない。つまりは協力している場面では上記のデスクの一面的な描き方と同じ、その場面では映画全体がそうした論理でしか進まず、それは現実の多面性を切り捨てているのだ。

 主人公たちは勇気を出してヒロイックに正義を貫いたのだ、というふうに描きたいらしいのだが、実は現実的な抵抗は描かれていない。

 つまりいい気になって実行に乗っている間はそんなことを考えもしなかったというのは、観客のレベルに頭の中を合わせているだけで、全く非現実的なのだ。観客の想像を超える「現実」が顔を覗かせる、というようなスリルはない。


 社会にはいろんな価値観や様々な正義がありうる。それらがそれぞれに高い強度でぶつかり合うから濃密なドラマが生まれる。

 だから敵方の内閣調査室が意図するものに観客が共感できなかったら、そうしたドラマは生まれない。あんなふうに類型的な「悪者」に描いてしまっては。

 一方の主人公側のジャーナリストとその協力者である官僚も、それぞれの社会正義に基づいて行動しているというよりは、個人的な感情を動機として行動しているように描かれている。父親や恩人の仇討ちであるかのような設定が入り込む。

 そこはむしろ観客の共感を誘うためにそうしているのだろう。それに、公共心や正義感といった信念に基づく行動だなどというのは、観念的で嘘くさいという感じになりかねないという懸念はわかる。

 だがそれでは拮抗した価値のぶつかり合いの生む濃厚なドラマは生まれない。

 「クライマーズ・ハイ」にしろ「64」にしろ、横山秀夫作品の重厚なドラマはそうした、それぞれの立場の正義を守ろうとする意地が、充分な強度とリアリティをもって描かれるから生まれるのだ。

 そういう実例があるというのに、こんな志の低い映画をその年の最高の一本だと評価する日本アカデミーというのは、どういう人たちなのだろう。たぶん映画というものに、社会とか人間が本気で描かれることを期待してはいないのだ。よくわからない映画的「面白さ」が評価される。そのわりに底の浅い「社会意識」が賛美される。

 例えば『私をくいとめて』に好き嫌いがあるのは当然だ。『KUBO/二弦の秘密』でさえ、それを好きな人がいることも否定は出来ない。『何か』には好意的な印象を抱いたが、だからといってああいう映画でアカデミー賞的アワードの受賞を主張するわけではない。

 同年の日本アカデミー賞では『翔んで埼玉』が話題になったが、あれは単に好みの問題として私には評価できないのであって、あれが面白いという人は面白がればいい。いくつかの場面は確かに面白くもあった。

 だが本作を評価する基準はそれとは全く別だ。本当にあれを面白いと思う人がいるのか。いるのだろう。一体何を見ているのかわからないが。

 本作が「社会派」を標榜する、あるいは本作評価が「社会派」を標榜する以上、その「社会」がこれほど一面的に、類型的に描かれていることが本作の失敗を意味することはあまりに明白なはずだ。

 それがわからない(ふりをしている)日本アカデミーが、誠実に映画のことを考えていないのは間違いない。


 もうひとつ(ほんとはいくつもつっこみどころはあるが)納得しがたいのは、政権の陰謀を「悪」と見なす論理である。

 最初に提示された謎を追ううち、大学新設にあたって、政府が密かに生物兵器の研究を計画していたという真相が明らかになるのだが、これがどうして「悪」なのかが検討される様子がまるでなく、それが主人公たちに知れ、観客に知れる瞬間になぜかそれは既に「陰謀=悪」と認定される。まるで自明なことのように。

 政府が生物兵器の研究をしたいなら、自衛隊内にそうした組織を作るなり、独立した公的研究所を創るだろうに、大学新設に言寄せてそれを創るという設定も腑に落ちないが、そもそも生物兵器は市民に危機をもたらすのだから、研究が不足ならば研究しなければならないものだ。日本が生物兵器を持つべきかどうかは別に議論すべき問題で、もちろんそこには批判的な立場があっていいのだが、研究しようとすると「悪」と認定される論理は、完全に「陰謀史観」的独断にすぎない。

 もちろん国民がそこに心理的な抵抗を感じることはあるだろうが、それでもそれに必要を主張する正義はありうる。それを描かないから「陰謀」にしか見えないのだ。

 もちろん国民に隠したいとは画策するはずだ。そこには「よらしむべししらしむべからず」の愚民蔑視の思想があって、それを批判するなら、また別の正義が描かれるのだが、そうではない。生物兵器の研究は問答無用に「悪」で、それを報道することは無前提に「正義」なのだ。もちろん、その生物兵器の研究には別の利権が絡んでいて…などという、アメリカのドラマの脚本なら必ず描かれるだろうバランスも、まるで描かれない。

 同じテーマの『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』とのあまりの落差は絶望的だ。


2021年4月24日土曜日

『ロープ』-もちろんよくできているが

 全編ワンカットで、劇中時間と映画の上映時間がシンクロするというしかけで有名な、やや短めのヒッチコック映画。これも一種のSSSか。ワンカットとはいえ、フィルムの長さに制限があるから、実際は時々、画面の切り替えでつないでいるものの、こんな仕掛けが可能なのは舞台劇が元になっているんだろうと後で調べてみるとやはり。

 基本はとても上手く、とても面白い。犯罪発覚のスリルにドキドキさせられる演出はまさにサスペンスだ。

 ただ、殺人の場面から始まる物語としては、どうしても「刑事コロンボ」シリーズを基本的な枠組みとして観てしまうせいで、もっと論理的な謎解きを期待してしまったのと、「自らの優秀さを証明するための殺人」というテーマについていけなかった。それも、「コロンボ」的な殺人のためのご都合主義的動機だというのなら看過しても良いのだが、最後でそこに根本的な疑義をつきつけてくるのは予想外だった。

 そういう動機を糾弾するにしても「コロンボ」のように、クールに見せるなら謎解きとドンデン返しの面白さを求めるからいいのだが、主演のジェームス・スチュアートが、真相の究明とともに、真面目な議論で犯人を糾弾するに至って、そういう映画だったのか、と肩すかしをくらったのだった。

2021年4月22日木曜日

『BLOOD The Last Vampire』-画面の隅々まで

 もう20年以上前の作品なのだった。最後に観たのは十数年前に違いないが、何が明らかになるでもなくあまりにあっさりと終わるその不親切な物語に、大きな満足はなかった印象があった。

 世界的な評価を知って、さて観直してみると、結局物語はそうなのだった。背景があまりに描かれないことに対する不全感はある。

 だがそれを補って余りある、画面の隅々に行き渡る、力強い創作の意欲に心を揺さぶられる。

 安定した作画は今更かもしれないが、画面の不穏な暗さと、アメリカンスクールのパーティー会場の明るさのコントラストに、会場に紛れ込むバンパイアの禍々しさ。

 確かに優れたアニメーション作品ではある。歴史的な傑作、といってもいい。

 それだけに、十分な長さで「物語」を堪能したかった。

2021年4月11日日曜日

『私をくいとめて』-いくつもの感情の波

  まだ昨年の作品だというのにアマゾン・プライムにあがってきて、最初のところを観てみると、もううまい。そういえば気になっていて未見の『勝手にふるえてろ』と同じ原作・脚本・監督なのだった。

 能年玲奈がどこまでも器用だとは言わない。部分的には大根ともいえる。だがどうしたって圧倒的な演技を見せる場面も確実にある。突然の激情に不意を衝かれてしまったり、微妙な感情の揺れに共感させられているうちに、やがてその激情に同調してしまったり。

 微妙なおかしさや不快や喜びや切なさや安心や不安を、次から次へと感じさせられる。その上で、いくつかの場面ではとりわけ大きな波にのみ込まれる。

 たとえば初めての一人海外旅行で苦手な飛行機の揺れに息が止まりそうな不安に襲われる中で、主題曲の「君は天然色」に救われる場面のカタルシスは「天気の子」のRADWIMPS以上だった。


 そういえば、「A」と呼ばれる心の声は、恐らく成長に必要な「ライナスの毛布」の、ユーモラスな描き方なのだと思うが、はっきりとキャラクターをもった設定にしたことで、それに救われつつ、訣別をも覚悟しなければならない切なさは、「寄生獣」を彷彿させるところがあって、これもまた味わい深い設定だった。


 これが一体どういう評価をされているのかと、観終わって調べてみると、ちゃんと監督も能年も高い評価をされていて一安心。

 ものすごく満足な一編だった。

2021年4月10日土曜日

『何か』-低予算サスペンスの佳作

  大賛辞のストップモーションアニメを見ながら、実写の映画がしきりと観たくなっていて、その日のうちに、無名のサスペンス映画を、上映時間が短いという理由で観る。

 たぶん低予算映画なのだろうと思ったが、まさしく。夫婦の他に赤ん坊と、それ以外の人物はわずかに登場するくらいで、家の中だけで完結する、実に低予算な作り。

 が、悪くない。家の中に「何か」がいるような気がする、というホラーっぽいサスペンスをどこに落とすか、あれこれと観客の期待を宙づり(サスペンス)にして引っ張る。オカルトに落ち着くのか、妄想に落ち着くのか、犯罪なのか、わからない。どちらにもつながりそうに観客の解釈の可能性を残すバランスがうまい。

 結末はどれでもない、まことに腑に落ちる真相が明かされるのだが、後でちょっとだけ見直すと、ちゃんと会話中に伏線も張られているのだった。

 そして、幻想だか実在だかわからないクリーチャーとして登場する「ペスト医師」も、ちゃんと必然性があって選ばれていることがわかって納得したり。

 これが一体『KUBO』の何百分の一の制作費でできていることか。


『KUBO/二弦の秘密』-論理破綻

  評判が良いことを聞いていて、始まってみると映像は圧倒的だ。

 だがしばらく見ていると、どうも妙だ。舞台は中世日本らしいのだが、平安から江戸くらいまでの時代がごっちゃになっているような感じで、街並も不自然だ。よくあるハリウッドの描く誤解に満ちた日本像ではないのか?

 だというのに、観終わってからネットの評を見ると、日本理解に対する深さに賞賛の声を贈る人が多い。いや、普通の日本人がまっとうな発言権を持っていれば、あんなことにはなるまい。沸騰したお湯に生米を入れるとか、竹を切って太鼓のバチにするとか。楓と笹が日本らしい風景を作るのかもしれないが、その二つが混ざっている。節のある幹に紅葉。

 人物の表情や話しぶりも日本人離れしているし、何より主人公の名前「KUBO」は、なんと名なのだ。姓ではなく。

 こんなに考証が雑なことと、あの、途方もなく手間のかかるストップモーションアニメの映像作りに懸ける誠意の同居していることをどう受け止めれば良いのだろう。

 ネット評にはその手間を賞賛する声が目立つが、それは無意味な賛辞だと思う。出来上がった映像がすべてで、確かにそれは素晴らしいのだが、その素晴らしさがPixarのCG以上だということはないと思った。

 映像だけで高評価をする気にならないのと同様に、日本の描き方が不自然だからと、それだけで低評価と決めつけるつもりもない。だが、結局それほどの評価をする気には、ついにならなかった。

 日本人が日本人らしくないのと表裏一体で、擽りなのだと思われる登場人物のやりとりが、ちっとも笑えない。

 そうした細部の演出にのれなかっただけでなく、物語的にも腑に落ちないことばかり。物語の大きな推進力であるはずの、三つの武具探しの旅は、それらが実に安易に見つかるばかりでまことにもってご都合主義的にしか感じない。

 なおかつ結局その武具がまるで意味を持たずに題名にある三味線こそが敵に対抗する力を発揮するのだが、では武具探しが無駄だったのだという反省があるわけでもない。つまり、物語の論理がまるで破綻しているのをどう納得すればいいのかわからないのだ。

 ラスボスとの戦いも、明確な価値の対決にはならない。地上の価値が豊かな感情や愛情だとしても、それに対抗しているはずの天上の価値として、敵が「家族」を持ち出しているのはどうみてもおかしいし、人間らしい「感情」を否定しておいて、怒りによって主人公と対峙するのは論理破綻だ。

 戦いにおいても、ラスボスが巨大な化け物に変化したら、それは物理的な脅威に過ぎないのだから、それは単に蹂躙されて終わりのはずなのに、三味線ごときで対抗できる。つまり化け物への変身はまったく無意味な虚仮威しなのだ。

 つまり部分部分が、どこかで見たような物語の「らしさ」のモザイクになっているのだが、そこに一貫した論理はない。


 ネットの高評価に揺らいで二度見直した上で、結局同じ結論にしかならなかった。

 しかしこれに感動した人もいるのだ。不思議だ。

2021年4月4日日曜日

『台風のノルダ』-視点の低さ

  前のこの映画の主題曲をライブでやったことがあって、その時にこういう映画があることを知った。映像の雰囲気は悪くないが。

 そして、テレビ放送でとうとう。はたして。


 全体にはやはりジブリの影響がありありと見て取れる。ジブリで仕事をしていた監督だというからそれはまあそうなんだろう。作画のレベルは全体に高い。単に「よく出来たアニメ」を観たいだけなら、かなり満足できるかもしれない。

 そして、文化祭前日に台風で学校に閉じ込められるというシチュエーションは確かに魅力的ではある。台風の雲はダイナミックによく描けている。

 が、文化祭前日のワクワク感が今一つではある。これと台風の不穏さが生む生徒たちの不安とコントラストを描くと良かったのに。それだけで一編の作品としては成功といえたかもしれない。

 だが結局、描かれる人間ドラマは浅く、そこにまるでわけのわからない人類滅亡(だか何だかもわからない「人類再構築」)がからむトンデモSF展開になるのは残念だった。

 超常現象が絡むのはいい。説明もなく、わけのわからない現象が起こってもいい。

 だが「人類再構築」はない。そこに異星人だがなんだかの美少女が出てきて、中学生男子がそれを救うという展開はどうみても「セカイ系」だろ。

 そう揶揄されることがわからない作り手たちの視点の低さが無惨だった。