2021年4月10日土曜日

『KUBO/二弦の秘密』-論理破綻

  評判が良いことを聞いていて、始まってみると映像は圧倒的だ。

 だがしばらく見ていると、どうも妙だ。舞台は中世日本らしいのだが、平安から江戸くらいまでの時代がごっちゃになっているような感じで、街並も不自然だ。よくあるハリウッドの描く誤解に満ちた日本像ではないのか?

 だというのに、観終わってからネットの評を見ると、日本理解に対する深さに賞賛の声を贈る人が多い。いや、普通の日本人がまっとうな発言権を持っていれば、あんなことにはなるまい。沸騰したお湯に生米を入れるとか、竹を切って太鼓のバチにするとか。楓と笹が日本らしい風景を作るのかもしれないが、その二つが混ざっている。節のある幹に紅葉。

 人物の表情や話しぶりも日本人離れしているし、何より主人公の名前「KUBO」は、なんと名なのだ。姓ではなく。

 こんなに考証が雑なことと、あの、途方もなく手間のかかるストップモーションアニメの映像作りに懸ける誠意の同居していることをどう受け止めれば良いのだろう。

 ネット評にはその手間を賞賛する声が目立つが、それは無意味な賛辞だと思う。出来上がった映像がすべてで、確かにそれは素晴らしいのだが、その素晴らしさがPixarのCG以上だということはないと思った。

 映像だけで高評価をする気にならないのと同様に、日本の描き方が不自然だからと、それだけで低評価と決めつけるつもりもない。だが、結局それほどの評価をする気には、ついにならなかった。

 日本人が日本人らしくないのと表裏一体で、擽りなのだと思われる登場人物のやりとりが、ちっとも笑えない。

 そうした細部の演出にのれなかっただけでなく、物語的にも腑に落ちないことばかり。物語の大きな推進力であるはずの、三つの武具探しの旅は、それらが実に安易に見つかるばかりでまことにもってご都合主義的にしか感じない。

 なおかつ結局その武具がまるで意味を持たずに題名にある三味線こそが敵に対抗する力を発揮するのだが、では武具探しが無駄だったのだという反省があるわけでもない。つまり、物語の論理がまるで破綻しているのをどう納得すればいいのかわからないのだ。

 ラスボスとの戦いも、明確な価値の対決にはならない。地上の価値が豊かな感情や愛情だとしても、それに対抗しているはずの天上の価値として、敵が「家族」を持ち出しているのはどうみてもおかしいし、人間らしい「感情」を否定しておいて、怒りによって主人公と対峙するのは論理破綻だ。

 戦いにおいても、ラスボスが巨大な化け物に変化したら、それは物理的な脅威に過ぎないのだから、それは単に蹂躙されて終わりのはずなのに、三味線ごときで対抗できる。つまり化け物への変身はまったく無意味な虚仮威しなのだ。

 つまり部分部分が、どこかで見たような物語の「らしさ」のモザイクになっているのだが、そこに一貫した論理はない。


 ネットの高評価に揺らいで二度見直した上で、結局同じ結論にしかならなかった。

 しかしこれに感動した人もいるのだ。不思議だ。

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