2021年4月25日日曜日

『新聞記者』-日本アカデミーの罪

  昨年の上映時にも、映画館に行こうか迷っていたし、アカデミー賞での高評価にも期待は高まるばかり。

 とはいえテレビ放送を待っての録画視聴ではある。


 で、すっかり期待外れだったのだった。がっかりという以上に、何か不審だ。

 主演男優賞と主演女優賞は認めてもいい。だが作品賞はどうかしてるし、だから監督賞もまるで納得できない。

 「政権批判の姿勢を貫く骨太な社会派作品」という評価なのだが、端的に言って陰謀史観にしか見えない。それは体制か反体制かという立場の問題ではない。単に安っぽくしか見えないということだ。

 『Fukushima50』もそうだが、敵を類型的に悪者に仕立てることは、物語を浅はかにするばかりなのだ。そもそも敵味方構図ですらない『Fukushi50』が「現場vs当局」という構図を作ってしまうことも明らかに失敗だったのに、まして「報道vs政権」という構図をつくることは狙い通りの本作で、敵方たる政権があんなに「陰謀」イメージにまみれた一面的な描き方をしたのでは、価値や論理の拮抗など望むべくもない。

 直接の敵である内閣調査室は、薄暗い部屋に並んだパソコンに職員が向かっている非現実的空間で、そこで何やら陰謀が行われているらしいが、まるでリアリティはない。意図的にそうした照明で、そうした描写をしているのが何か映画的だと考えているらしいのだが、これはそんなふうにリアリティの水準を下げてファンタジーにしていいテーマの物語ではないはずだ。

 必然的に主人公の報道側も、実にリアリティに欠けていた。主人公は、いくつかのインタビューはするものの、ほとんどはネットで情報を集めるばかり。あれが報道の取材の現場をリアルに描いているというつもりなんだろうか。監督賞監督は。あんな描かれ方に、取材の現場人たちは怒りを覚えないのだろうか(覚えないジャーナリストが多いのならそれはそれでジャーナリズムの危機だし)。

 馘首を覚悟のスクープを通したデスクもまた馘首を覚悟しているはずなのに、その危機は全く描かれることなく、単なるスクープ成功となる。編集部や新聞社のもっと上からの妨害も、出発点で圧力がかかったようなことをにおわせはするが、報道を決断してしまうと、それ以降の報復があるようにも描かれない。そんなことなら迷うことなくはなから報道すれば良かったのだ。なんの葛藤も必要ないではないか。

 つまり葛藤は観念的にしか存在しない。

 そのスクープは違法な手段によって入手した情報に基づいているが、それに協力したもう一人の主人公である松坂桃李演ずる官僚が映画の終わりに主人公の新聞記者から離れてしまう結末が苦々しい現実であるかのように描かれる。だがラストで脅しによって撤退するまでもなく、スクープが実行された時点で社会的に報復を受けるのは確実なのだから、その覚悟があったとするなら、後から脅されて撤退するという展開は論理矛盾だ。そんなことがわからないで「優秀な官僚」をやれるわけがない。

 わかってはいたけれど、いざそうなってみると急に恐ろしくなって、というような微妙な描き方がされているわけでもない。つまりは協力している場面では上記のデスクの一面的な描き方と同じ、その場面では映画全体がそうした論理でしか進まず、それは現実の多面性を切り捨てているのだ。

 主人公たちは勇気を出してヒロイックに正義を貫いたのだ、というふうに描きたいらしいのだが、実は現実的な抵抗は描かれていない。

 つまりいい気になって実行に乗っている間はそんなことを考えもしなかったというのは、観客のレベルに頭の中を合わせているだけで、全く非現実的なのだ。観客の想像を超える「現実」が顔を覗かせる、というようなスリルはない。


 社会にはいろんな価値観や様々な正義がありうる。それらがそれぞれに高い強度でぶつかり合うから濃密なドラマが生まれる。

 だから敵方の内閣調査室が意図するものに観客が共感できなかったら、そうしたドラマは生まれない。あんなふうに類型的な「悪者」に描いてしまっては。

 一方の主人公側のジャーナリストとその協力者である官僚も、それぞれの社会正義に基づいて行動しているというよりは、個人的な感情を動機として行動しているように描かれている。父親や恩人の仇討ちであるかのような設定が入り込む。

 そこはむしろ観客の共感を誘うためにそうしているのだろう。それに、公共心や正義感といった信念に基づく行動だなどというのは、観念的で嘘くさいという感じになりかねないという懸念はわかる。

 だがそれでは拮抗した価値のぶつかり合いの生む濃厚なドラマは生まれない。

 「クライマーズ・ハイ」にしろ「64」にしろ、横山秀夫作品の重厚なドラマはそうした、それぞれの立場の正義を守ろうとする意地が、充分な強度とリアリティをもって描かれるから生まれるのだ。

 そういう実例があるというのに、こんな志の低い映画をその年の最高の一本だと評価する日本アカデミーというのは、どういう人たちなのだろう。たぶん映画というものに、社会とか人間が本気で描かれることを期待してはいないのだ。よくわからない映画的「面白さ」が評価される。そのわりに底の浅い「社会意識」が賛美される。

 例えば『私をくいとめて』に好き嫌いがあるのは当然だ。『KUBO/二弦の秘密』でさえ、それを好きな人がいることも否定は出来ない。『何か』には好意的な印象を抱いたが、だからといってああいう映画でアカデミー賞的アワードの受賞を主張するわけではない。

 同年の日本アカデミー賞では『翔んで埼玉』が話題になったが、あれは単に好みの問題として私には評価できないのであって、あれが面白いという人は面白がればいい。いくつかの場面は確かに面白くもあった。

 だが本作を評価する基準はそれとは全く別だ。本当にあれを面白いと思う人がいるのか。いるのだろう。一体何を見ているのかわからないが。

 本作が「社会派」を標榜する、あるいは本作評価が「社会派」を標榜する以上、その「社会」がこれほど一面的に、類型的に描かれていることが本作の失敗を意味することはあまりに明白なはずだ。

 それがわからない(ふりをしている)日本アカデミーが、誠実に映画のことを考えていないのは間違いない。


 もうひとつ(ほんとはいくつもつっこみどころはあるが)納得しがたいのは、政権の陰謀を「悪」と見なす論理である。

 最初に提示された謎を追ううち、大学新設にあたって、政府が密かに生物兵器の研究を計画していたという真相が明らかになるのだが、これがどうして「悪」なのかが検討される様子がまるでなく、それが主人公たちに知れ、観客に知れる瞬間になぜかそれは既に「陰謀=悪」と認定される。まるで自明なことのように。

 政府が生物兵器の研究をしたいなら、自衛隊内にそうした組織を作るなり、独立した公的研究所を創るだろうに、大学新設に言寄せてそれを創るという設定も腑に落ちないが、そもそも生物兵器は市民に危機をもたらすのだから、研究が不足ならば研究しなければならないものだ。日本が生物兵器を持つべきかどうかは別に議論すべき問題で、もちろんそこには批判的な立場があっていいのだが、研究しようとすると「悪」と認定される論理は、完全に「陰謀史観」的独断にすぎない。

 もちろん国民がそこに心理的な抵抗を感じることはあるだろうが、それでもそれに必要を主張する正義はありうる。それを描かないから「陰謀」にしか見えないのだ。

 もちろん国民に隠したいとは画策するはずだ。そこには「よらしむべししらしむべからず」の愚民蔑視の思想があって、それを批判するなら、また別の正義が描かれるのだが、そうではない。生物兵器の研究は問答無用に「悪」で、それを報道することは無前提に「正義」なのだ。もちろん、その生物兵器の研究には別の利権が絡んでいて…などという、アメリカのドラマの脚本なら必ず描かれるだろうバランスも、まるで描かれない。

 同じテーマの『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』とのあまりの落差は絶望的だ。


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