2014年12月30日火曜日

「名盤ドキュメント はっぴいえんど『風街ろまん』」

 アナログのマスターテープをミックス前の状態で聴きながら、制作時のエピソードを関係者に訊くという企画は『MASTER TAPE ~荒井由実「ひこうき雲」の秘密を探る~』と同一シリーズかと思っていたのだがそういうわけではなくて、新しく始まった「名盤ドキュメント」と称するシリーズの井上陽水「氷の世界」、佐野元春「ヴィジターズ」に続く第3弾なのだった。上記全て見ているが、同様の企画は海外でもスティービー・ワンダーの「メイキング・オブ『キー・オブ・ライフ』」で見たことがあるし、ザ・バンドの「メイキング・オブ『ザ・バンド』」はDVDを持っている。どれも興味深い。
 とりわけ今回のはっぴいえんどは、私が中学生の時に初めてレコード屋でレコードを買ったのがベスト盤の『CITY』だったこともあり(『風街ロマン』でこそないが)思い入れも深い。「夏なんです」「花いちもんめ」あたりは中学生の頃に最も好きな曲に数えても良いほどに思い入れがあったし、「風をあつめて」はここ十年来、夏のライブでは唯一入れ替わりのない定番のレパートリーだ。
 もちろん番組としてはまるで食い足りない。テレビということで一般視聴者を対象として中途半端に想定しているのが既に全く間違っている。最初からこんな番組は思い入れのある者しか見ないのだ。わかりきった解説はばっさり省いていい。星野源など出す必要は全くない。
 それよりもジャケットイラストの宮谷一彦(漫画家としての諸作品はほとんど持っている)こそ出演させてほしかったが、そうでなくともそもそも全曲解説にはなってないではないか。また、言及されているにしても充分な分析もされているとは言い難い。佐野史郎と高田漣も有効活用しきれず勿体ない。
 ついでに無論「風をあつめて」は好きな曲だが、どうしてあればかりが「名曲」として特別扱いされるのか。カバーが多いのは、単に歌いやすいからではないのか。原曲を超えるカバーなどできるはずもない唯一無二のバージョンである「夏なんです」の方が、私にとってよほど特別な一曲だ。その意味では佐野史郎が、夏の喫茶店で「夏なんです」がかかるのを聴くのは人生の中でもそうとう幸せな一瞬のひとつだ、と語ったのは我が意を得たり! の思いだった。
 そういえば書いていて思い出したのだが、高校一年生の時の美術の授業で、自分の好きな曲で架空のレコードジャケットを作るという課題の時に「夏なんです」のジャケットを描いたのだった。卒業時に提出したそれを返してもらえないかと先生の所へ言いに行ったが結局見つからず、謝られたが実に残念だった(というか、今もって残念きわまりない)。
 とまれ、初心者向け基本情報や星野源や「風をあつめて」ばかりに集中しすぎた解説を省けばもっと、と思いはするものの、それでもともかくも全体としては興奮を抑えきれずに観てしまった。
 そしてなにより、この場に大瀧詠一がいないのはいかにも残念だが、生きていてもきっと大瀧は出演しなかっただろうな。それでも大瀧のコメントがどんなものだったか、その興味深さを考えると、その喪失感は計り知れない。

『猿の惑星 創世記』

 この間の「暗い未来の映画って大好き」の「暗い未来の映画」といえば『ソイレントグリーン』だろ、というのは我々の世代には相当の共感を持ってもらえるものと信じているが、もうひとつ『猿の惑星』シリーズもあの時代の誰もが知っているお話だ。尤も映画のタッチは「暗」くはない。だが「人類衰退」物でもあり、「核戦争で地球が滅亡」物でもあるところが、60~70年代のSFだ。「終末」物SFは我々の原体験である。
 それに比べると新しい『猿の惑星』は、この後に人類の衰退が待ち構えていようと、あまり「暗」くもないし、第一、未来でもない。そうしたSFっぽさを味わう映画というよりは、ひたすらエンターテイメントとして楽しめる映画だった。最初からシーザー達、猿の動きのCG合成の見事さは、やはり三池崇史や山崎貴とは違う。そこがクリアされれば後は脚本で、その構成も申し分ない。シーザーの人間社会での生き辛さもちゃんと伝わってくるし、施設に収容されてからそこの支配者になっていく過程には映画的なワクワク感が満載だった。
 ただ、ラストは最近のいくつかの洋画同様、不全感を拭えなかった。ウィルス感染はどうなった? それにミュアウッズ国定公園の森はチンパンジーの棲めるような環境なのか? そこに棲んだとて、そのあとに間違いなく決行されるであろう人類による猿殲滅作戦を免れまい。良い人ではあるが思慮に欠ける主人公とシーザーの別れの悲しみを超えて、なんとなくメデタシメデタシ的な空気で終わってどうする?
 と思っていたら、調べてみると、あれは単にカットされているのであって、上記二つもちゃんと次の『新世紀』につながるように解決しているのだった。メデタシメデタシ。

「こころ」9 ~遺書を書いたのはいつか

 今年度の授業の成果は前半の「曜日を確定する」の展開だし、その前の要約しながらの通読という展開も、いささかしんどかった(生徒が、である。しんどそうにしている生徒が持ちこたえてくれることをハラハラしながら見守るこちらも多少はしんどかった)が、手応えはあった。
 だが新鮮な驚きをもたらせてくれたのは、先に触れた、「K」の遺書は上野公園の散歩の晩(「曜日の確定」授業の結論に拠れば自殺を決行した前の週の月曜日)に書かれたものであり、「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」だけが自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたのでははないか、という解釈である。これを述べたのは先述の通り、とある女子生徒だったが、別のクラスで同じ見解を述べる男子生徒がいたのである。二人は今年度の4クラスの中でもとりわけ信頼の置ける生徒である。それが図らずも同じ解釈に至ったのである。
 管見によればこうした解釈を唱える研究者はいない。さんざん読みこんできたつもりの私も、そもそも発想したことがなかった。前回はこの解釈について次のように述べた。
 結論としてはこの見解には首肯しかねる。「墨の余りで書き添えたらしく見える」という描写は、この最後の文句までが一連のものとして書き足かれたものであることを示している。したがって遺書全体が、やはり土曜の晩に書かれたものであると考えるべきだと思う。
さらにこの説を否定したいと考えるのは、「K」がこの日の昼間言った「覚悟」が処決の覚悟だとしても、「覚悟」は「決意」ではなく、「K」はこの時点ではまだ処決を実行に移すに至る契機を得ていないと考えるからだ。
 一般的な解釈は、深夜の「K」の訪問を自殺の決行のための偵察であるとする(にもかかわらずそれを忘れて「K」が「私」に裏切られたから自殺したかのように「エゴイズム」テーマ説を唱える)。私は深夜の訪問は「K」から「私」への不器用なアプローチであったと考えるし、「覚悟」を実行に移すには上記の「二日余り」が契機として必要であったと考えている。だからこの晩に「K」が遺書を書いているとは考えなかった。
 だがその後考えているうちに、次第にこの説の説得力が増してきた。
 「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」を除けば、それ以外の文言をこの晩の「K」が書き付けることを想定するのは、この時点での「K」の心理からしてもあながち不可能ではない。昼間の「覚悟」は自ら処決する覚悟であることは疑い得ないからだ。
 だが、そもそもそうした解釈を受け入れるためには、漱石がそれを意図し、そのサインを読者に提示していることを納得する必要がある。文中で否定されていない解釈というだけなら、相当程度のトンデモ解釈でも明らかに文中で否定されるわけではないし、整合的に成立するというだけでも解釈の幅はかなり広く確保される。
 だが小説は現実ではないのだから、作者が想定した物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのである。とすれば、この「遺書は月曜の晩に書かれていた」という、明らかにはされていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインは見つかるか?
 これが見つからないと考えていたからこそ、こうした説を否定していたのだが、考えているうち、そもそも先に否定するための根拠として挙げた「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える」という文言こそが、この部分とそこまでの部分の書かれた日時の断絶を示しているのではないか、とも考えられることに気付いた。
 なぜそこだけが「書き添えたらしく見える」のか、については去年、考えられる理由を列挙してみた。
 その文言の後半になるにつれ、墨がかすれ気味になっていくことを指しているのもしれない。あるいは、そこまでが堅い「候文」であるのに、ここだけが幾分崩れた口語調になっているということかもしれない。また、そもそも他の部分が「礼」や「依頼」といった、宛先である「私」へ向けたことが明白である文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような調子であるせいかもしれない。
こうした「見た目」や「文体」や「内容」による差異によってこの文言が特別な位置にあることが示されたとしても(だからこそこの文言をめぐる考察が一般的な授業展開だとしても)、あくまでそれは「遺書を書く」という一連の行為の中での差異であるとして、そこに表れた「K」の真情を探る考察が必要だと思われていた。
 だが、こうした意味ありげな特徴(「符牒」といってもいい)こそが、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものであるという「真相」を読者に知らせようとしているサインなのではないか?
 だがまだ読者がそれと気付くための符牒としては不充分である。そもそも差異のもつ意味合いとしては、先に「月曜日に遺書の本文は書かれていた」という解釈がなされなければ、その差異を日時の断絶を意味するものとして解釈することなどできないのだ。だからこうした解釈はまずもって月曜の「K」の深夜の訪問を自殺の決行のための偵察であると解釈することに付随して成立したことは間違いない。
 深夜の訪問の意味をそのように解釈しないとして、それでも「K」がこの時、遺書を書いていたのだという「真相」を漱石が想定していたとしたら、それはどんなサインとして文中に記されているのだろうか?
 43章にはこうある。
 上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜でした。私はKが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。
例によって「私」は「K」を闘争的に捉えている。「私」は「K」という「敵」に「勝利」していると感じている。だが「K」が「迷惑そう」なのは、「私」が「勝利」や「得意」を感じているのと相対的に「K」が「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。「K」は一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてである。「K」にとってそれは「恋か道か」というような選択の問題ではない(「こころ」という物語が巷間言われているように「恋か友情か」という選択の物語でなど、いささかもないように)。言うまでもなく、はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてである。
 まずはこのように「K」の心を何かが占めていたことを確認して先を読み進めると、「K」の訪問は次のように書かれている。
 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵のとおりまだ灯火がついているのです。
この「灯火(あかり)」は「Kの黒い影」を演出するものとして言及されるのだと考えられがちだ。つまり読解のための関心は「黒い影」に焦点が合っている。だがふと視線を逸らせてみれば「灯火」は「K」の室内に灯って、そこで「K」が「宵」から過ごした時間を暗示しているとも思えてくる。「K」は何をしてそこまで起きていたのか?
 「Kの黒い影」は「黒い影法師のようなK」と繰り返されて読者の注目を誘導するが、一方「灯火」も「洋灯(ランプ)」と繰り返される。「K」は暗闇で沈思黙考していたのではなく、ランプの下で何事かしていたのである(むろん「私」に声をかけるにあたって灯りを点けた可能性もなくはないが、「宵のとおり」という形容は灯りが宵からその時点まで連続して灯っていたことをイメージさせる)。
 さらに次の一節である。
 Kは洋灯の灯を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。けれども彼の声はふだんよりもかえって落ちついていたくらいでした。
「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」は、「K」の存在が「私」にとって不可解な、不気味なものとして感じられていることを示しているのだ、などと説明されることが多いが、もちろんこれも「私」と「K」の意思の疎通の断絶を示す構図でもある。
 だがそれより看過できないのはそれに続く「けれども彼の声はふだんよりもかえって落ちついていたくらいでした。」である。昼間「私」によって死刑宣告を受け(「精神的に向上心のない者はばかだ」は「K」にとってはそういう意味にほかならない)、「彼の目にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました」と形容されていた「K」が、夕方に「私」の世間話を「迷惑そう」にしていた「K」が、この場面で「落ちついていた」とわざわざ形容されるのはいかにも不自然である。いったいどういうわけか?
 この点については去年の段階では次のように書いた。
 一つの解釈は、実際に「落ちついていた」のではなく、「私」の不安がその裏返しとして「K」の言葉を「落ちついていた」と感じているのだ、というものである。
 もう一つの解釈は、昼間の最後の台詞「覚悟ならないこともない」によって、「K」は自身の決着の行方について、一定の〈覚悟〉を宣言することで(または自覚することで)、抱えていた苦悩について一段落させたのだ、というものである。自殺という決着点の宣言は、ただちに決行しなくても、それを他人に向けて宣言することでとりあえず今現在の迷いに安定を与えたのだと考えられるのである。
だがさらに今回の説を想定するならば、「K」は懊悩に決着をつける道として昼間口にした「覚悟」を実行に移すための証としての遺書を書き終えることで、現在の迷いに対して一応の納得を得たと考えることができるのではないか?
 だからといって依然としてこの晩に「K」が自殺を決行しようとしていたとは考えられない。その決定的な理由は、そうした解釈では、物語がこの後、お嬢さんとの婚約の事実を知ってから「K」が自殺するという展開に至るドラマツルギーの必然性と整合しないと考えるからである。そして「K」の訪問の意味も、やはり「K」から「私」へのアプローチであるとも思う。
 それでもなお、上記の二つの解釈で「K」の声がなぜ「落ちついていた」のかという理由として確信するに足る納得をしきれなかったのが、「K」は遺書を書き終えて隣室をのぞいたのだという想像によれば、相対的に強い納得が得られるとは思う。
 こうした「納得」は、繰り返すが、正確に言えば「なぜKの声は落ちついていたのか?」という疑問に対する「納得」ではなく、「Kの声が落ちついていたことを書き込むことで作者はどのような解釈に読者を導こうとしているのか?」という疑問に対する「納得」である。

 さてこの「新説」についての結論は、当面は「保留」とする。まだ確信しきれない。だが一蹴することはできないし、考慮する価値のある解釈であると思う。
 すると、問題の土曜の晩には、「K」は十日余り前にしたためておいた遺書を読み返し、そこに溢れる悲痛な思いを書き添えてから「手紙を巻き収めて…封の中に入れ…机の上に置き」、さらに襖を開けて「私」の寝顔を眺めてから、徐ろに実行に及んだという場面が想像されることになる。
 これがまだ前後の解釈に決定的な変更を迫るものかどうかはわからない。が、とりあえず今年の授業の成果として記録しておきたい。

2014年12月29日月曜日

『鈴木先生』

 テレビドラマが放送されていた2011年はまだ東北大震災から1ヶ月余りしか経っていなかったなんて、今ではまるでその時の感じが思い出せないのだが、ともかく一緒に観ていた息子と共に、当時テレビ放送されていた連続番組としては毎週、最も楽しみにしていたのははっきりと覚えている。原作は「ヨルムンガンド級」だから、丁寧につくりさえすれば間違いはないのだが、観始めてすぐ期待以上だと興奮した。エンドロールを見ると脚本はまだ「リーガル・ハイ」で評価を不動にする前の(しかし『キサラギ』で期待絶大の)古沢良太だし、画作りがどうみてもテレビドラマではなく映画のそれだった。長谷川博巳も面白い役者だと思ったし、生徒たちも総じてうまい。とうとう来春からNHK朝ドラの主役になってしまう土屋太鳳も、この時に初めて知った。
 それが記録的な低視聴率と数々のテレビ賞受賞という正反対の評価を同時に受けていると知ったときには不思議な気がしたのだが、恐らくそれは原作も同じだ。一般には誰もが知っているとは言い難いが、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞もしている。知り合いには薦めたいが一般に有名になって欲しいというわけでもない。
 さて劇場版だが、テレビドラマを超えるものではむろんなかった。原作では鈴木先生的な教育効果が、最初は少数の生徒からクラス全体に拡大していって、最終的には学校全体を巻き込むことになる。その最も見所となるのは基本的には討論である。認識が次々と更新されていくダイナミクスにこそ『鈴木先生』という物語の最大の魅力があるはずだ。だからクラスレベルにまで拡大したところで終わったテレビシリーズに続く劇場映画は、それが学校全体を巻き込んだ討論会になる原作終盤をこそ描いて欲しかった。確かに生徒会選挙は描かれ、そこでの北村匠海の演説は悪くなかった。が、「認識の更新」は一回きりで、「次々と」というほどのダイナミクスを生み出すには至らなかった。
 で、映画的にはやはり立て籠もり事件をメインに据えることになるのは致し方ないか。だが、実写映画で見てしまうと、学校立て籠もりだのレイプだのといった展開はどうにも無理があって違和感が強すぎた。原作はもともとどうみても「やり過ぎ」感満点な描写を笑いながら受け入れるのが読者のお約束になっている過剰性をもったマンガなのだ。それをそのまま実写映画にするのは辛い。風間俊介演ずる立て籠もり犯の鬱屈も充分に描かれてはいず、行動が唐突に感じられてしまったし、小川が飛び移る校舎の間隔は広すぎて、映画的なギミックというよりは、映画そのものをシリアスな物語のテーマに不釣り合いなちゃちな「お話」に堕してしまっていた。
 それでも悪い印象ではなく見終えられたのは、北村匠海の演技が凄かったからだ。上記の演説場面ではなく、選挙結果を受けて会長就任を受け入れる逡巡を表現したシーンである。たっぷりの間をとった演技が、演ずる「出水」の潔癖さと思慮深さと意志の強さを印象づける素晴らしい演技だった。驚いて見ていたら、そのシーンの終わりに横にいた息子も同時に「すごい」と言って、はからずも同じ感銘を受けていたのがわかったのだった。
 余談ながらエンドロールを見ていて、ロケに使われた中学校が私の出身中学校の隣の中学校、連れ合いやその一族の通った(姪が現在も通っている)中学校であることを知ってびっくり。学校の屋上から見えているのは富士市の街なのだった。

「こころ」8 ~備忘録的に

 ようやく休みに入ってまとまった時間がとれるようになったので、懸案の「こころ」についての最低限の「まとめ」をしておく。

 前回触れた、「私」と「K」の間で「進む/退く」が反対の意味で使われているという解釈をきっかけとして、授業はその後40~42章にわたる上野公園の会話を詳細に検討していくのだが、この分析が、教科書収録部分を授業で扱う「こころ」読解のための最大のポイントだと思う。その詳細はこれ以上ここには記さないが、ここで二人の会話のすれ違いを明確にしておくことが、その後の物語の様相をまるで違ったものにしてみせる。たとえば次の一節。
 私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。
この一節は多くの指導書などでも、「私」が「K」を「敵」として捉えていることを示す表現であると指摘される。むろんそれは間違いではない。だがこれが「私」の側からの一方的な見方でしかないことは、当の「K」の側からもこの会話の意味合いを考えなければ充分には理解できない。「私」の側からしか見ないならば、「K」にはそのつもりがなかろうと、やはり「K」は「私」にとってはお嬢さんをめぐる「敵」に違いなのだ。だが「K」の側からこの一連の会話を捉え直してみると、「K」はその、お嬢さんをめぐる利害においていささかも「私」と敵対してはいないのである。そのことを認識しないでいると、例えば
 こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
といった一節も言葉通りに読んでしまうだけだが、考えてみると「K」が「私の利害と衝突する」ことなど、「K」が意図も意識もしていないというだけでなく、そもそもそのような可能性はなかったのである。「K」が「生活の方向」=「進む」を「転換して」も、「退く」先にはお嬢さんとの恋愛があるわけではなく、ただ自らを処決する道しかなかったのだから。
 だが先の一節がさらに驚くべき様相を見せるのは、「Kは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらい」とか「彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じ」などという、印象的な比喩を使ってまで殊更に強調された「K」の心の裡が明瞭だという事態の判断が、実は「K」の心を読み違えていたとわかったとたんに、そっくりそのままの絶対値でひっくりかえる瞬間である。つまりこの強調は「わざと」なのである。漱石は「K」の心の裡を「私」がまるでわかっていないことを充分承知の上で殊更に「わかっている」と言わせているのである。
 そうした目で眺めてみると例えば46章の
 夕飯の時Kと私はまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんはいつもより嬉しそうでした。私だけがすべてを知っていたのです。
なども同様の読み換えが必要になることがわかる。「何にも知らない」のは「K」ばかりではなく「私」こそそうなのだし、むしろ「何にも知らない奥さん」こそが事態を最も正確に捉えている可能性が高いのである。にもかかわらず、語り手の「私」がそういうからにはそうなのだろうと、読者は素朴にそうした認識を受け入れてしまう。そうして「私」の目からのみ見られた「エゴイズム」をめぐる物語が「こころ」という物語なのだと信じられているのである。

 さて、上野公園の会話については、さらにいくつかの注意すべき点に触れつつ、「居直り強盗」を解釈する展開と、「進む/退く」「強い/弱い」「道/恋」「向上/ばか」という四つの対比を同一の対比軸で並べて整理する、という展開には少々まとまった時間をかけた。だがやはりこの場では詳細を記さない。だが、記録として以下の点は書き留めておきたい。
○「私」にとって
進む ←→ 退く
強い ←→ 弱い
 恋 ←→ 道
ばか ←→ 向上

○「K」にとって
進む ←→ 退く
強い ←→ 弱い
 道 ←→ 恋
向上 ←→ ばか
という整理をしてみることは、両者のすれ違いの構造を明瞭にするためには有益だが、さらにここに「K」の言う「覚悟」とは何を意味しているかを考えてみると、後者の「K」にとっての対比要素の「道 ←→ 恋」という対比が間違っていることにも考えが及ぶことが期待される。上の対比を板書して、「でもこれって間違っているよなあ。どこ?」と訊いてみて、そのことに考え及んだ生徒がそれぞれのクラスでいたことは、実は半ば諦めていた予想を裏切るという意味で期待以上だった。そう、「K」にとって「道」の対比要素は「私」にとってのそれのように「恋」なのではなく「死」なのである。

 43章、上野公園の散歩の晩の「K」の真夜中の訪問の意味するものについては論争的に展開できるから、やはり扱っておくと面白い。
 47章の「要するに私は正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。」についての込み入った解釈については、それほど立ち入るつもりはなかったが、「足を滑らせた」が「Kを出し抜いて奥さんに談判を開いたこと」だとする指導書などで一般的な解釈を採らない私としては、「Kに正直に言わなかったこと」だという解釈がすんなり生徒から出てきたのも拍子抜けだった。むろん好ましい展開だが。
 48章、「K」の自殺を発見する場面の「ほぼ同じ」「黒い光」については去年書いたものでは多大な紙幅を費やして論じたが、そこまでにもはや期末までの時間が残っていなかったので割愛し、最後の2時間ほどに詰め込んだのは「K」の遺書の末尾の書き足しと「私」が遺書を「机の上に置」いたという行為の意味と、47章の後半、奥さんから婚約の事実を告げられた「K」の反応の意味から、その後の処決に至る「二日余り」の意味を考えるという展開である。ここまでのペースに比べてとりわけ詰め込んだ観が強いことは否めないが、多くの生徒を置き去りにしても、これくらいのペースで授業を展開するスピード感はそれなりに面白い(一部の生徒とこちらにとって)。
 二学期を通して「こころ」を読みこんでいった最後の授業の最後の10分間は、一般的に考えられているエゴイズムと罪悪感をめぐる物語としての「こころ」と、私の考える意思疎通の断絶の物語として「こころ」を対比してみせるという、いわば「総まとめ」を話しきって終わった。
 だが、さらにここに書き留めておきたいことを最後に一つ。以下次号。

2014年12月25日木曜日

『トゥモロー・ワールド』

 全く予備知識無しに観始めてすぐ、菅野よう子作品時代の坂本真綾のとりわけ素晴らしい曲の一つ「ピース」の冒頭の「暗い未来の映画って大好き」というフレーズを思い出してしまった。坂本真綾のいうのは恐らく『ブレードランナー』あたりなんだろうが、我々の世代はすべからく『ソイレントグリーン』を思い出すべしである。まあそれはともかく『トゥモロー・ワールド』である。いやはやおそるべき映画だった。「暗い未来」が画面の中に実在している。そしてその退廃的な空気がなんだか懐かしくも重苦しい。そして美しいのである。
 とにかく「画」としての美しさがいちいち尋常じゃない。ロケにしてもセットにしても、光の当たり方から角度から、考えずに撮っていてはああいう画は撮れないはずだ。だからといってもちろん、美しい風景を撮った環境ビデオなどではなく、緊迫感溢れるSFサスペンスなのである。
 いちいちの演出も考え抜かれている。カメラをどこから撮って、そこで登場人物達やら物語の動向やらがどんな動きを見せるかを、細心の注意を払って演出しているのが端々から感じ取れる。
 とりわけラスト近くの戦闘シーンの緊迫感は尋常じゃなかったし、驚異的な長回しにも心底驚かされ、「映画」としてはオールタイム・ベスト10クラスだぞと興奮して、それにしてはアルフォンソ・キュアロンって監督は知らんなあ、などと暢気に思っていた浅薄を今となっては恥じる。調べてみると『ゼロ・グラビティ』で今年話題だった監督じゃないか。それどころか、うちの子供達とも共通認識の『ハリー・ポッター』シリーズ最高傑作『アズガバンの囚人』も監督している。あれは実に面白い映画だったが、まあ原作が良いのかも知れぬと思っていたから、今回のことでやはり監督の力量でもあるのだとあらためて認識した。
 で、驚異の長回しは、やはりそれが“売り”なのだった。ネットでの言及もいちいちそれだ。で、なおかつ“驚異の”は、特殊な技術で合成することによって実現したものだと知って感心しこそすれ、がっかりはしなかった。三池崇史とか山崎貴とかのCG合成には大抵の場合がっかりしてしまい、なぜこれを実写にする、アニメにすればいいのに、と思わされるのに、外国のこの手の特殊撮影の技術の高さはどういうわけだろう。日本がこういう分野で明らかに遅れをとっているのは不思議だ。まあその分、二次元アニメに特化して人材が集中しているということか。
 だからといって映像技術がただ素晴らしい映画だったというわけではない。物語を追う流れのどの断片も、熟慮をこらしたらしい細心の演出がなされていると感じさせる「映画」的描写力が素晴らしいのである。ついでにいえば、冒頭の爆発といい、ジュリアン・ムーアの死亡にいたる襲撃シーンといい、椅子に座る後ろ姿のマイケル・ケインが自殺しているのかと思わせてただの居眠りだとわかるシーンといい、赤ん坊の出現で戦闘が中断したと思ったらたちまち再開するシーンといい、いちいち観る者の予断を裏切るギミックもサービス精神旺盛だ。
 惜しむらくは、結局物語的には弱かったことだ。そこが文句なしにベスト10クラスと評価しきれない瑕疵ではある。もちろん大きな瑕疵でもある。『トゥモロー・ワールド』という偽英題(英語かと思いきや邦題だという。原題は『Children of Men』だって。)のがっかり感は許すとしても。赤ん坊が生まれなくなった世界の絶望感は、胸に迫るほどの共感力はなかったし、だから赤ん坊の存在で戦闘が停まって、人々が道を空けるシーンは感動的ではあったが、もっと大きな物語の中にこのエピソードが位置付けられなかった期待外れは否めない。

2014年12月24日水曜日

『沈黙の戦艦』

 かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』は「ヨルムンガンド級」の名作だが、その二番煎じというか“柳の下の泥鰌”商法で『沈黙』シリーズと名づけられたスティーブン・セガールの映画は、一つも観たことがなかった。というわけで初体験は第一作の『沈黙の戦艦(原題:Under Siege)』である。ついでにいえば、コンセプトは『ダイ・ハード』の丸パクリであるところも“柳”である。テロリストに占拠された船の中で、拘束を免れたスティーブン・セガールが一人、テロリストに対抗するのである。なんともはや。
 だが、楽しい映画だった。むろん大名作の『ダイ・ハード』(私的ベスト10に数えられる)のような高度に練り込まれた脚本の素晴らしさはない。が、展開はスピーディーで飽きさせないし、セガールのアクションは(抑えめではあるが)見事だった。何より、テロリストのトミー・リー・ジョーンズが素晴らしかった。『ダイ・ハード』のアラン・リックマンや『レオン』のゲイリー・オールドマン以上といっていい悪役ぶりだった。芝居のキレといい溢れる狂気といい、いやはや恐れ入った。トミー・リー・ジョーンズってのは今まで、役者としては原田芳雄と同じような位置づけで意識されていたのだが、このキャラクターは、はたして原田芳雄に演じられただろうか。
 ついでにゲイリー・ビジーの嫌味な悪役も実に板についてるのだが、どうも見覚えがあるぞと思ったら、ジェイク・ビジーの父親か! 二代続く悪役の家系!?
 それにしても主役のセガール、ずるいほど強い。安心できていいというか、サスペンスが生じないというか。でかい体で余裕の笑顔を浮かべるだけで魅力的というところもずるい。

2014年12月23日火曜日

ヤングシナリオ大賞「隣のレジの梅木さん」

 フジテレビの「ヤングシナリオ大賞」の創設は1987年というから、私が大学生の頃で、第一回の坂元裕二も第二回の野島伸司も、大体同世代。なんとなく思い入れもあって、見つけると観るようにしているのだが、四半世紀も続く有名なシナリオライター登竜門だというのに、心に残るような作品にはなかなか出会えない。
 今年度の「隣のレジの梅木さん」も、もしかしたら脚本はいいのかもしれないが、残念ながら映像化されたテレビドラマはひどいものだった。しかもそれが、基本的に脚本のせいではないかという印象を与えるのだ。人物の造型がシリアスでありながら深みに欠けて、行動が唐突にすぎる。なんら観る者に(とりあえず私に)何の共感も切迫感も感じさせない。物語の展開そのものもそうだ。主要な登場人物三人の抱える問題を並行して描きながらそれをからめる、というねらいは悪くないんだろうと思う。だからもしかしたらやはりこれは演出や編集のせいかもしれない。

 なんだかここんとこ、映画もドラマも残念な印象を語る記事ばかりだ。これはそれこそ残念な印象を読者に与えるような気がする。辛口批評が痛快、とかいうような切れ味を見せるほど書き込んでもいないしな。まあ、自分用のメモ・備忘録ということで御寛恕を。

2014年12月22日月曜日

『ダークナイト ライジング』

 『ダークナイト』はもちろん名作だし、『バットマン ビギンズ』も(定かではないが)良い印象があるので、期待したものの、残念な鑑賞後感(「読後感」に相当する「映画を観た後の感じ」を表す言葉ってなかったっけ?)に終わった。一緒に観ていた息子も同様の感想。
 シリアスなドラマとしての見所があったか? どうもそうとは思えない。ベインがゴッサムシティを制圧して、核爆弾で脅すところに『ダークナイト』のジョーカーの要求と同じ、ヒリヒリするような焦燥感を期待したのだがその後の展開はぐだぐだで期待はずれ。
 とするとなんだ? 主人公の苦悩か? 「エヴァンゲリオン」でも碇シンジの苦悩が一つの吸引力であるような作品評を目にするが、あれはそんな中二な問題が魅力であるとはとても思えない。『ダークナイト』でも、そこは鬱陶しいばかりだ。
 じゃあアクション? だが擬斗は古典的に過ぎて、『エクスペンダブルズ』あたりの見事なアクションを観てしまうとがっかり。
 もしかしたらバットマン・カーなどのギミックの面白さに喝采を送ればいい映画なのか? これだけの大作で、もったいつけたシリアスなタッチなのに? 大体そんなものに興味ももてないし。
 もしかしたら、三部作を通して、映画館で観ると大いに感動したりするのかもしれないが。

2014年12月21日日曜日

『清須会議』

 「テレビ初登場」とかいう仰々しい煽り文句で3時間近い放送時間をとって放送したわりに、つまるところ面白くなかった。「清須会議」という素材が面白くなりそうな予感はテレビのCFから感じていたが、それが生かせているようには到底思えなかった。「評定ひょうじょう」の面白さときたら『12人の優しい日本人』のはずじゃないのか? 二転三転する議論の行方やその裏に進行するかけひき、と言葉にすれば『12人』と同様の面白さを盛り込めるはずの設定なのに、この質量の違いはなんなんだ。といって『マジックアワー』や『有頂天ホテル』のように、複雑に混乱した物語の行方がアクロバティックに着地するような展開の面白さもない。この間の「おやじの背中」の惨状といい、三谷幸喜、仕事のしすぎが原因だということなのだろうか。単に。
 敢えて美点を挙げるなら、大泉洋と中谷美紀の演ずるキャラクターは魅力的だった。これも前に書いたとおり。

2014年12月14日日曜日

YouTuber

 ここ2、3日のどこかでブログの閲覧数が2000を超えた。不思議だ。誰が見てるんだろう。コメントは0だしフォロワーもいないし(どこで確認できるのかわからん。あ、いや、いるか。感謝!)。もちろん更新のために自分で見てる分が1割くらいはあるんだろうけど。
 このブログを開設した経験をもとにその一週間後くらいに開設した学校のブログは校長自らものりのりで更新しているせいもあって記事も多く(投稿数94)、関係者の多いこともあって(多分生徒とその家族が見てるんだろう)、閲覧数は現在1万4千を超えているが、まあ公的な機関のブログなんだからそのくらいいっても不思議はない。それに比べて、映画の感想を書く際にもまるでストーリーの説明をしない記事が、誰の需要に応えているとも思えない。まさか「こころ」の授業展開に関心を持つ教員が? ないない。

 ところでニコ動とYou-Tubeの投稿者でもある。「YouTuber」と自称しようと思ったら、それは
主に動画共有サイトYouTube上で独自に制作した動画を継続して公開している人物や集団を指す名称。 狭義では「YouTubeの動画再生によって得られる広告収入を主な収入源として生活する」人物を指す。「wikipedia」
だというから私には該当しないか。だが投稿動画の最多再生回数は5桁なのだ。なんと。それはそれで誰が見てるんだろう、だが、まあどこかで誰かが観てると思うのは、投稿した甲斐もあるというものだ。そちらにはブログと違ってコメントもあって、嬉しい言葉も並んでいるし(別に私に対してではないが、我が事のように嬉しい)。 一方で、再生数の少ないものは3桁から増えない。そっちも良いと思うんだけどなあ。

 というわけで最も再生数の多いものと少ないもの。


 これらの再生数に100倍以上の差があるなんて、腑に落ちない(というわけでもないが。サムネイルが興味を引くかどうかなんだろうな。おそらく)。

2014年12月13日土曜日

『エターナル・サンシャイン』

 というわけで洋画だ。この間、最初の方を見始めて、これはしっかりしてるぞと期待していた『エターナル・サンシャイン』。何の予備知識もないので、ジャンルさえわからずに見始めたが、まあ恋愛映画なんだろうと単純に思っていた。ヒロインは『タイタニック』のケイト・ウィンスレットで、映画が始まってから20分近く経ってから流れるオープニングのクレジットを見ていると、この陰鬱な二枚目はジム・キャリーだって!? そのまま見ていると『ロード・オブ・ザ・リング』のイライジャ・ウッドがちらっと出てくるから何事かと思わせる。これは伏線に違いない、と思ってるとはたして重要な登場人物なのだった。クリニックみたいな会社の受付嬢は『スパイダーマン』のヒロインのキルスティン・ダンストだし、そこの先生はもしやと思って調べるとやはり『孤独な嘘』で可哀想な主人公だったトム・ウィルキンソンではないか。
 かような豪華キャストで、演出もいい。見たい「洋画」の手触りってこういうのだよなあと思っているとあれよとSFになってびっくり。普通は最初からそのつもりで見るもんなんだろうが、こちとら予備知識0である。
 脳内の仮想空間を見せるのは『インセプション』が大掛かりで映像的にすばらしいし、映画的には凡作だったと思う『完全なる首長竜の日』も比較的最近に見た。それらよりも前の作品とはいえ、こちらが観たのは今日が初めてだから、ものすごく新鮮だとか画期的だとか思ったわけではない。それでもまあ、この映画の魅力の大半は、現実と脳内現実が混乱する複雑な構成なんだろう。ネットで低評価な人の言い分はここがよくわからない、理解できないというものだが、それは同情にも共感にも値しない。やはりこの混乱が、おそらくこの映画を見直す価値のあるものにしている。もちろんそれは撮影方法とか編集とかいった映像的な工夫でもある(CGは多用していないそうな)。だがやはりアカデミー脚本賞を獲った脚本の構成力だろう。
 伏線が意味を成し、ピースが嵌りだす後半まで、面白いなあと思って観ていて、最後の最後、結末にがっかりして全体には手放しの高評価はできなかった。結局「真実の愛」なの? このハッピーエンドが永続的なものだとは、全然思えない。一時の気の迷いじゃないの? という不信感を拭えず。

2014年12月10日水曜日

『アウトレイジ ビヨンド』

 「洋画が見たくなる」と書いたのはほんとなのだが、そしてそういう洋画を見始めて続きも見たかったのだが(映画を分割して観るなんて許し難い行為だと思いつつ)、受験の終わった息子と、ハードディスクの中に溜まった録画のどれを片付けるかで、今夜の所は『アウトレイジ ビヨンド』を選んだのだった。
 ところで彼と通しで映画を観るのはいつ以来だ? 辿ってみたらわかった。このブログ開設のきっかけとなった『マレフィセント』以来だ。だが本来私は彼らと映画を観るのが好きなのだ。受験生という自覚に適った行動をとる自律に敬意を払って抑えてきたが、今後は時間の許す限り一緒に観ていきたい。
 で、『アウトレイジ ビヨンド』なのだが、前作『アウトレイジ』も一緒に観ている。北野武のヤクザ映画を観ていると、こういう行動原理がどのあたりでバランスを保っているのだろう、といつも気になる。法を犯すことをためらわないということは、そのまま社会生活を送り続けることを諦めざるをえないということだが、そんなふうにして生きていくのはシンドイだろうなあ、と思う。あるいは、ナメられないようにしていなければならないが、果てしなく敵対し続けるわけにもいかないだろうから、どこで引くかという見極めは重要だ。ある意味ではそれを計算しない「キレる」者(激昂しやすい人)が一時的には強いのだろうけれど、長期的には計算のできる「キレる」者(頭の良い人)の方が優位に立てるんだろう。加瀬亮の演ずる「石原」がのしあがっていけたのは、その両方の意味で「キレる」者だったからなのだろうが、そういう不愉快な人物をちゃんと引きずり下ろすところは映画的には快感ではあった。
 とはいえ、同じように悪党な三浦友和や小日向文世あたりは因果応報的に殺されて良かったとは、あんまり思えなかった。人が死にすぎで、もうお腹いっぱいだったということもある。それよりそんな悪循環の応報にうんざりして、殺伐としてるなあ、と思ってしまったのだった。展開のスピード感にのせられて、退屈したりはしなかったのだが、暴力描写も安易な銃殺が多くて、むきだしの暴力によって「異化効果」を与えるといういつものキタノ映画の魅力は少なかったと思う。
 さて、次は洋画か?

2014年12月8日月曜日

『武士の家計簿』、『劇場版 タイムスクープハンター -安土城 最後の1日-』

 森田芳光の『武士の家計簿』は、久々に観た森田映画だったのだが、『家族ゲーム』の先鋭的な映画作りをするイメージの強いあの森田芳光が、時代劇で、しかもなんとも端整で手堅い演出をするのが意外だった。だがそういえば『家族ゲーム』の、あの有名な食卓シーンだって、リアルさよりも映画的な違和感を強く感じさせるものだったように、『武士の』のあちこちの演出も、やはりリアルさよりも映画的な感触を優先しているのだった。尤も『家族ゲーム』が従来の映画的なるものを否定して、新たな「映画」を作ろうとしていたように見えるのに比べて『武士の』は、むしろお約束の映画的文法を十全に使いこなしているように見える。それだけに驚きもないが、素材の良さで観てしまった。もちろんそれは堺雅人でも仲間由紀恵でもなく、御算用者(会計処理の役人)という素材のことだ。
 だが、見終わって悪くなかったぞと思いつつネットの評判を見るとやはりどの映画もそうであるように毀誉褒貶あって、その「貶」を読むと、そのとおりだよなあと納得させられてしまう。素材の良さは充分に引き出されていたか? そうとは言い難い。良くできたドキュメンタリーであったらもっとずっと面白い「事実」を掬い上げていたはずであり、そうでないとすればあれはやはり「家族映画」として作られていたのだ。そうした視点から評価しようとすると、まるで深みも軽みも渋みもない、どうということもない絵解きに思えてくる。
 ということは、それでも観られたのはやはりあの「端整で手堅い演出」のせいだということか。

 ところで調べてみると森田芳光映画を12本も観ていたことがわかった。そしてそのどれも、手放しで面白かった、好きだと言えるものがないのだった。最も許し難いのは『模倣犯』の首が飛ぶシーンで、最も好意的に覚えているのは『間宮兄弟』かなあ。

 『劇場版 タイムスクープハンター -安土城 最後の1日-』は、テレビドラマの時の疑似ドキュメンタリー風の面白さがなくなって、じゃあ映画的に面白くなったかというとそうでもない、という不満が残った。映像に金がかかっているのも、意外な事件でドキュメンタリー的展開から抜け出した序盤の展開も期待を持たせたのだが。たぶん、短期間で書き下ろす、というようなシチュエーションを想定すれば、あれはよくできた脚本なんだろうと好意的に思う。だが、金のかかった劇場映画と思えば、あんな完成度で撮り始めてしまうのは勿体ないと思う。この物語に、あんな中途半端な銃撃戦なんか要るか?
 ただ、矢が刺さるCGは良くできていて、一瞬、おおっと思わせる。

 手作り風味の日本映画をあえて観たい、という欲求が起こることもあって、どうしてもという期待をしているわけではない邦画も観てしまうが、そうすると反動で、良くできた洋画を見たい欲求が昂じてくる。とうてい日本ではない、この世ですらないような時空が逆に懐かしくなるような。

2014年12月6日土曜日

『ハルフウェイ』『大鹿村騒動記』

 この間『新しい靴を買わなくちゃ』を観たばかりの北川悦吏子の初監督作品『ハルフウェイ』。一家をなした脚本家が、こんな、何のストーリーもないお話を書いていいのかいなと、心配にさえなってしまった。というか、脚本があるのか? と思わせるほど、台詞がとりとめもない。手持ちカメラのブレも尋常じゃなく、どうやってこんな演出をしているんだろうと思って調べてみると、お芝居はアドリブなんだって。なるほど。それであの、書いたとは思えない、北乃きいと岡田将生のからみのお芝居が成り立っているのか(そしてそれをリアルタイムで追っているからのあのカメラのブレ)。
 そのままネットでみんなの感想を読んでみると、否定派の言うとおり北乃のキャラクターは考えてみればどうみてもウザイのだが、観ている最中に不快感はなかった。それよりもとりとめもなく描かれる二人のいちゃつきは、「新しい靴を買わなくちゃ」の桐谷美玲と綾野剛のからみが、ひたすら鬱陶しく、この二人のシークエンスがごそっとカットされればこの映画はどれほど良くなるかと思わせたのに比べて、ほとんど同じように見えてもおかしくない北乃と岡田のからみがそうは見えなかったのはこちらの偶々のコンディションなのか、田舎の風景の中におさまった高校生という図が救いになっていたからか。むしろネットのこんな大胆な感想に共感さえしてしまったのだった。
こんな初々しい青春あふれる学校生活が、将来の日本の希望につながるのではないか? 女子高生のすがすがしさ。ちょっと考えてみれば分かる。自分をとりまくおじちゃん、おばちゃん達の素朴さ。やはり、昔でもこういう健康的なラブストーリーを経験してきてるから、日本の年配の方々は強いのだ。またもっと言えば、誰にでも青春は来るのだ。それが若い頃じゃなくても。いじめや援交などの学校生活ばかりが映画化されるが、こういう映画こそ、生きる力のつく映画だと思う。
いやあ、相当数のバッシングもある中で、この肯定のシンプルさはすごかった。
 ついでに最近「昨夜のカレー、明日のパン」で見慣れているサラリーマンコンビの溝端淳平と仲里依紗が高校生で揃って出てきているのも不思議な感じだった。二人とも今では、この高校生役の輝くような魅力とはまた違った好感度でサラリーマンを演じている。
 編集も尋常じゃないとりとめもなさ(ストーリー上の意味付けや、カット同士の繋がり具合やカメラの視線の位置とか)だなあ、この味はなんだか覚えがあるぞと思っていたら、やっぱり岩井俊二なのだった。

 『大鹿村騒動記』は阪本順治というようり原田芳雄を観たくて観たのだが、何とも感想の難しい映画だった。阪本順治は『どついたるねん』と最近の『北のカナリアたち』しか観たことがなく、どちらも安っぽくはないが手放しで好きにもなれなかった。『大鹿村騒動記』もそうだ。なんだかこれを喜劇として笑う気にはなれないのだが、シリアス一辺倒のドラマとして作っているわけでもあるまい。この間の『孤独な嘘』と同じ、妻の不倫を夫が許すという構図を受け入れがたいと言いたいわけではない。そこは原田芳雄の人柄で、それもアリだと思わせてしまうところがこの映画の魅力なのかもしれない。大楠道代だって、『ツィゴイネルワイゼン』のあの人がこの歳になってまでこんな風に女を演じられることを素直に賞賛したいし、岸部一徳も大好きな俳優だ。それでも、たとえば「見所」ということになっている大鹿歌舞伎はどうとも感じなかったし、佐藤浩市や松たか子は完全に無駄遣いに思えた。冨浦智嗣のエピソードもまるで心を動かされなかった。
 でもなんだか、こんなつまらない感想はこちらの見方が悪かったような気もして、なんとなく居心地の悪い後味なのだった。

2014年12月5日金曜日

「こころ」7.5 ~最後の授業

 「最後の授業」といってもドーデのあれではない。単に期末考査前の最終日で、「こころ」の授業の最終回だったのだ。最初に二つほど違う文章を読んだりもしたが、結局2学期いっぱい「こころ」だけをやったのだった(レギュラーの漢字テストにもそれはそれで時間を食われているし、修学旅行を間にはさんでもいるのだが)。最終的に「こころ」をどう読むか? というところまで最後の10分で話しきる怒濤の(という形容を、こちらの心理的には、という意味で使ってしまおう)展開で締めくくる授業を今日だけで4クラス全てやりきって、妙に充実した気分ではある。こちらは。願わくば生徒もそうであってほしい。
 で、後半の展開についてはここにまとめる時間がとれずにここに至ってしまったのだが、もちろん授業をやるということは多くの発見をさせるものだから、書き留めておきたいことはあれこれある。冬休み中には、備忘録的にいくつか書き留めておこうと、今から心に留めておく。

2014年11月30日日曜日

週末

 そういえば前にも同じ題名の記事があったような。
 週末のことをまとめて書いておく。こういうのは単に自分のための日記。
 時々触れていた息子の入試は(まあ本人はこんなところで公の場にさらされたくはないだろうが)、木金で終了。とりあえず。本人曰く、入試本番はめっちゃテンションが上がって楽しかったというのだから豪胆と言おうか前向きと言おうか、なんともはや。聞くと、小論文のテーマと彼の書いた内容にはズレがあるような気もして安心はできないのだが、本人に後ろ向きな感情が湧いていないらしいことには安心。結果が出るまではさっさと切り替えて一般試験用の勉強を続けている。大したものだ。

 土日に新人戦の県大会だが、土曜の午後は東京で二つの会議を梯子する。その移動の途中で明治神宮外苑の銀杏並木を縦走して、駅までを遠回りしてしまった。もう日が落ちていたから、銀杏の黄葉もライトアップされていたのだが、そこら中でそれを撮影している人がいて、なるほどと思い、私も。










それにしてもここまでひどいとは、ガラケーの画面ではわからなかった、とは言い訳だが、センスのないのにもほどがある。
日曜日に天台のスポーツセンターの敷地で撮った「名もない」銀杏並木の方が、よほど綺麗に撮れてる。
 こちらが東京に出て娘1のところに泊まっている間、娘2と妻は金沢で「ざぶん賞」(「ザ文章」ではない)とかいう作文コンクールの授賞式に出席していた。「募集する文は、海や水に関わることであれば、環境問題に限らず安全、文化などテーマを広く選べること、また表現方法も作文や童話、詩、手紙など選択できます。」というのだが、どうも主催団体がどんなものなのかわからないところが怪しい。一応文科省や環境省が後援ではあるのだが。
 だが帰ってきて様子を聞くと、授賞式はそれなりだったようで、出品作品の娘の文章にプロのアーティスト(というか大学の先生:千葉千司:文星芸術大学美術学部・准教授)が絵を付けてこんな額に入っていたり、
入賞作品がちゃんとした文庫本になっていたりする(いかにもの「文集」の体裁でないところが)のをみても、なんだが金がかかっている。さすがわざわざ金沢くんだりまで授賞式だとかいって千葉の人間を喚び出すだけのことはある。珍しい経験に本人は喜んでいたが、こちらも嬉しい。授賞式が終わるまで読ませてもらえなかった肝心の入賞作品は、これで初めて読んだのだが、侮れない。すまん、侮っていた。申し訳ない。これほどとは。
 帰ると、「一人暮らし」モードだったという息子は家から一歩も出ずに勉強していたのだと。
 というわけで子供の自慢話二題。

2014年11月25日火曜日

『孤独な嘘』『婚前特急』

 忙しい時間の隙間を縫って、ハードディスクの残量がカウントダウンになりつつあるのを気にして、録画されている映画を観る。
 『孤独な嘘』(「Separate Lies」監督:ジュリアン・フェロウズ)は「アカデミー賞スタッフによるサスペンス」という触れ込みに釣られて観てみると、監督はこれが初監督作品なのだった(プロデューサーや出演者がアカデミー賞受賞者のようだ)。それが後で調べてわかって驚くほど、堂々たる画面構成で、演出で、編集の、格調高い映画だった。すっかりベテラン監督の風格だと感じたのだが。
 が、お話としては、あれでいいのか! という不全感が強い。自分に置き換えて納得できる範囲を超えている。交通事故で人を死なせて隠蔽したままでいいのかとか、妻の不倫をあのように容認したままでいいのかとか。もちろんサスペンスでもない。それは許すとしても、ああ共感も感銘もなく、映画的表現のレベルの高さだけが際だつ作品をどう受け止めたものか。


 一方、日本映画の『婚前特急』(監督:前田弘二)もまた、偶然にも初監督作品だった。なおかつこちらも、あれでいいのか! という不全感が強い。『孤独な嘘』同様、こちらもネットでは「納得できない」コールが激しいが、むべなるかな。吉高由里子が、気の迷いのように浜野謙太と結ばれてしまうのが、どうみても結局気の迷いのようにしか感じられなくて。それなりに納得できる面もあるよ、とかいう余地の無いほど、ハマケンの演じる男はどうしようもないと思うんだが。
 でもなおかつ、悪くない映画だった。吉高が可愛かったとかいうのも認めてもいいが、『孤独な嘘』などとはあまりに対照的な日本映画的、手作り感が。
 それと、途中のワンシーンがあまりに印象的だったのに驚いた。ハマケンのアパートに向かう吉高が街を歩くシークエンスが長々と挿入されているのだが、この街の風景が、なんだかこの世のものではないような感じなのだ。視界に人影がなく、強い風が街路樹や吉高の髪を靡かせる。ふてくされたような、放心したような表情で、体を投げ出すように歩く吉高の感情も、言葉で掬いきれない複雑なもののように感じられる。吉高からかなり遠い向こうにある樹のざわめき方からすると、あの風はロケ当日に偶然なのか狙ってなのか、実際に吹いていたのだろうと思うが、それがどうしてあんな違和感を感じさせるのかわからない。太陽の位置も判然とせず、「朝」だとか「昼」だとか「夕方」だとか名づけられるような、どういう時間帯だとも言えない。
 そしてそうした街角を望遠で平面的に捉えておいて、手前に吉高の脚が焦点の合わないまま表れたかと思うと、低い位置に置かれたカメラから遠ざかるように奥に向かって歩くにつれて平面的な街に嵌め込まれるに焦点が合っていく。それでも縮尺から、奥行きはあるようにも見える住宅街は人影が絶えて、遠くの方で樹がざわめいている。
 こういうカットが撮れるのは「センス」によるものか。それとも私が知らないだけで定番の技法なのか。いずれにせよこのカットだけでハマケンも許す。
 ところでハマケンって、在日ファンクのあの人か!

2014年11月24日月曜日

小論文3

 夜中までスライドショーの編集で、今日は部活に行って、で、帰って夕飯のカレーを作ってから今日の分の小論文指導を。今日だけで4本。この週末に13本だ。正味20時間くらい? それに対する指導時間も10時間くらいは費やしているか。
 だが問題文を読んでいると寝てしまって、なかなか頭に入ってこない。昨日書いたとおり、もうあれこれ言う余地のないものもあるが、それでもせっかくだから誤字を探したり、微妙に主述の乱れているところをみつけて指摘したりもする。今日の4本の中には問題文の読解を失敗していて、致命的だったものもあるし、問いに十分答えることなく紙幅の尽きてしまっているものもあるが、ともあれ、こうして一つ一つ、次に「使える」定見が増えていくことは大いなる成果だ。半分くらいは前に展開したことのある論旨の使い回しになりつつある。テーマの範囲がある程度決まった小論文の対策として、数をこなすことの成果はこれだ。
 だが本当は、高校時代、授業中などに読んだ評論などが、同様に使える「パターン」「定石」となるのが好ましい。多くの高校生にはそこまで授業の成果を自分のものとすることがないままで、いざ小論文に使えるのはワイドショーのコメンテーターの受け売りくらいだったりする。惜しいことだ。教科書に収録されている評論の受け売りができれば上出来なのに。

2014年11月23日日曜日

小論文2

 いよいよ本番が目前に迫ってきた息子は、金曜日から今日までの三日間で計9本もの小論文を書いてきた。1本1時間半としても単純に合計すると13時間半。問題選定の時間も含めるともっとかかっているはず。なんという集中力。
 で、次々とこちらに持ってくるのだが、これを、1本2~3時間かけて検討している時間は無論無い。こちらもここんとこ修学旅行のビデオ編集とスライドショー作りに膨大な時間を取られていて、寝不足の毎日。結局1本あたり1時間も時間をとれていないで、最低限の検討会をこなしていく。彼も初期の頃より格段に練度が高くなってきて、もうそれほど駄目出しをする余地がなくなっている。というか、文章の完成度は恐ろしく高い。同時にたまたま、それほど考える余地のない問題が続いているともいえる。考えているうちに新しい認識が訪れるスペクタクルが展開されるわけでもない。手堅くまとめているという印象のものが多い。この段階ではこれで良しとするか。
 三連休の明日はさらに2~3本書いてくるんだろうな。あと何本見られるか。どこまでつきあえるか。

2014年11月20日木曜日

オペラ

 今年の芸術鑑賞会はなんとオペラ。ほんとかよ、と思っていたら、本当にオペラだった。しかも「カルメン」。ただしフルオーケストラは無理で、ピアノとパーカッション2台。でも役者たちは本格的にうまかった。
 だが、やはり起き続けてはいられなかった。そんな状態で感想を言うのも不遜だが、やはりどうにも入り込めなかった。歌の部分は台詞も聞き取れないし、物語が感情移入できたりスペクタクルだったりすることもなく。
 だいたい昔からミュージカルもだめだった。この間のJersey Boysなどは、劇中ではっきりと演奏をするという設定で演奏するのだから、全く問題はないのだが、お芝居の一部として、台詞を歌ってしまうような演出には全然ついていけない(たしかタモリもそんなことを言っていた)。オペラも同様だった。
 申し訳ない。良い観客ではありません。

2014年11月15日土曜日

カスタマー・レビュー

 Amazonから届いた北園みなみとウワノソラを一通り聞いて、カスタマー・レビューに投稿。

北園みなみ『PROMENADE』
 わかった。天才だ。認める。作曲・編曲に、演奏だって? このレベルで鍵盤楽器もギターもベースも弾けるって、どういうことだよ。
 そもそもLampから辿り着いたのだが、Lampやキリンジ、流線形や青山陽一あたりを挙げておけば、北園の音楽の心地良さは想像して貰えるだろうか。
 それにしても、SoundCloudの音源から聴いている者としては、例えば「ソフトポップ」などは原曲である「Dorothy」と比べて、実に音数が増えてその一音一音がセンスの閃きに満ちているし、録音もそれなりに金のかかった贅沢な感触になっているのだが、それでも「Dorothy」はそれはそれで良い。さらにチープな「Dorothy」のDEMOバージョンですら、既に充分に良い。やはり根っこのところで既に天才なのだな。
ウワノソラ『ウワノソラ』
 北園みなみのリコメンドに誘われて聴いてみると、これは好みだ。北園みなみやキリンジのような「天才」に圧倒されるわけではないが、このまま精進してLampのような陰影のある曲が増えてくることを期待したくなる好感大のグループ。世代的には「あっぷるぱい」に近いが、印象としてはadvantage Lucyに近いか。
 多くは16ビートのギター・カッティングに乗せた、トニックやサブ・ドミナントを基本、メイジャー7thにするという、日本ではシュガー・ベイブに始まって、ゼロ年代には流線形が、2010年代にあっぷるぱいが継承してきたるキラキラしたポップ・ソングたち。細かい転調が散りばめられているのもこの手のジャンル好きには嬉しい曲作りだ。流線形のクニモンド氏の歳ならこうした70年代風のサウンド作りも腑に落ちるが、どうして90年代に生まれた彼らがこうしたサウンドを生み出しているんだろう。とはいえadvantage Lucyでさえ、結成から20年近く経っているなんて聞くと、時間の感覚が混乱してしまう。
 というわけでオールタイムで聴ける、いわゆるエバーグリーン・ミュージックです。
 ものんくるの『南へ』の一番乗りをしようと思っているうちに見てみるともう3人のレビューが載っていて、出遅れた。といっても、何が書けるかちっとも思いつかないのだが。

 高野文子の『ドミトリーともきんす』も、買って読んだら、やはりなんらかの感想を言わねばなるまいと思うのだが、数年ぶりに『棒がいっぽん』など読んでみると、どうにも語り口がみつからずに途方に暮れてしまう。やはり「よくわからないけどあきらかにすごい」のだった。

2014年11月13日木曜日

「こころ」7 ~「進む/退く」

 前回の「覚悟」をめぐる考察は、ともすれば「覚悟」という言葉にこめられた「K」の真意は何か? という点を直ちに問題にしがちだが、その前に、「覚悟」という言葉がどのような機制によって、「私」によって正反対の意味に解釈しえたのか? という問いの重要性について、再び強調しておきたい。
  単に「覚悟」と言った場合、それが何の「覚悟」なのかは、前後の文脈から判断するしかない。「~する覚悟」の空欄部分に代入されるべき適切な行為は、前後の文脈のどこかに示されてあるはずであり、また、他の部分との整合性がとれるはずである。だからこそ「覚悟」は最初、当然のように「お嬢さんを諦める覚悟」だと読者に理解されるのである。だが、同じ文脈に置きながら、それが「お嬢さんに進む覚悟」の意味にも解釈されうるよう、周到に調整された設定と文言にこそ、読者は驚嘆すべきである。
  だが、さらにこれが「K」の真意まで含めて、都合三通りもの解釈を可能にしていることの凄さは、一般には理解されていないはずだ(言ってしまえば、ほとんどの国語教師にも)。だからこそ、「私」の解釈とは違って、「K」の言う「覚悟」は自らを処決する覚悟なのだと、あっさりと、尤もらしく語ってしまう。そしてだからこそ、ともすればそれは「お嬢さんを諦める覚悟」でもあると同時に、とか、「自殺と言うほど明確ではないにせよ何らかの形での覚悟」などと、しばしば曖昧な形で語られるのだ(某指導書のように)。
  だが、「お嬢さんを諦める覚悟」があるのなら「K」は死を選ぶ必要はないはずである。「お嬢さんを諦める覚悟」と「自らを処決する覚悟」は両立しない。
 あるいは「卒然」から、この時「私」が口にした「覚悟」という言葉によって、「K」は「卒然」自殺を「覚悟」したのだ、などとする解釈もしばしば目にするが、これも「覚悟」という言葉の重みに釣り合っていない。「明確でないにせよ何らかの形で処決するつもり」などという曖昧な想念を「覚悟」と呼んでわかったつもりになっている読みの甘さも、多くの評者に見られる不徹底だ。
  「K」の言った「覚悟」はやはり自ら死を選ぶ「覚悟」である。だがそれはいささかも「お嬢さんを諦める覚悟」でありはしないし、方向の明確でない曖昧な「覚悟」でもないし、この時に「卒然」浮かんだものでもない。「K」はそもそもお嬢さんのことなど話してはいないし、方法はともかく決着点としての死を明確に意識したうえで、以前からその「覚悟」を胸に秘めていたのだということが納得されるためには、以下に示すような手順で読解していく必要がある。 

 40章、「私」と「K」の会話の始まり近くに次の一節がある。
彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。
  この「進む/退く」はそれぞれ何を意味しているか?  これが「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」というような解答を用意しているだけなら、単なる「確認」に過ぎない。問題は、どうしてそのような解釈が妥当だと考えられるのか、である。したがって、そう考えられる根拠を述べよ、と問わないことには、「確認」する意義もない。その先に何らの展開も準備されていないからである。とはいえこの問いもまた生徒には簡単にはその意図するところが理解されない。
  「進む/退く」という動詞は「前後」というベクトルの存在を前提している。「動く/とどまる」ならばそのような「前後」の方向性は限定されないが、「進む/退く」が何のことか読者に了解されるとしたら、「前」に何があるのかが何らかの形で読者に予め提示されているはずなのである。それはどこに書いてあるのか?
 質問の意図がわかってきたところで、40章の「恋愛の淵に陥った彼」という箇所を挙げる者も多いが、「陥る」は上下の方向性が示されているのであって「進む/退く」という前後の方向性が示されているわけではないとして、それだけで充分な根拠とはみなさない。ではどこを挙げればいいか。挙がりにくければ場所を指定して探させる。
  近いところから直ちに挙げられる根拠は次の通りである。
 「彼の態度はまだ実際的の方面へ向かってちっとも進んでいませんでした」 「こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです」(40章)
「私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです」(41章)
  このうち41章は「K」が「進む/退く」と口にするより後なので、40章の該当箇所を読んだ時点で「進む/退く」が「恋に」の意味であると読者が理解する根拠にはならないが、再読する読者の存在も含めて「進む/退く」の解釈を支える根拠の一つであると考えていい。
 さて、ここまでで、結局「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という解釈でいいんだな、と意味ありげに念を押しておく(こういう教師の態度に生徒は敏感に反応する)。
 そのうえで41章の「Kは真宗寺に生れた男でした。」からの一連の「K」の人柄についてのひとくだりの解説中にさりげなく置かれた「精進」「道のさまたげ」「彼が折角積み上げた過去」「Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突する」などの表現を指摘する。板書しておいて再考を促し、意味ありげな沈黙を置く。というか、種明かしなど、こちらから決してしてはならない。だれかが然るべき結論に辿り着くまで待たねばならぬ。
  これらの表現から導かれる結論とは、「進む/退く」とは「今まで通りの道を進む/道を退く」という解釈である。当否は後回しにしても、ここまでの誘導に従えばそうした結論に辿り着くのは難しくはない。
  これは上の「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という解釈と、「前後」の方向性がほぼ反対を向いている。これら相容れない二つの解釈をどう考えたらいいのか?
  どうも何もない、自然な読者は間違いなく「お嬢さんに」という意味で「進む/退く」を解釈するのだから「道を」などという解釈が所詮無茶な穿ち過ぎなのだと考える人はいるだろう。が、授業という場で教員が意味ありげに提示した解釈だから生徒は粗略に扱う訳にもいかず、とりあえず検討せざるを得ない。そう考えてみると「進む/退く」はそれ自体ではどちらへ向かってとも言っていないのだから、それを補う根拠がありさえすれば、その解釈はどうとでも成立するのである。
  どっちかと惑わせるために、「進む/退く」にそれぞれの解釈を代入してその一節を朗読して聴かせる。つまり、
K「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」
私「退こうと思えば退けるのか」
というやりとりを次の二つの解釈で読んでみせるのである。
K「このままお嬢さんに突き進んでいいのか、諦めるべきか、それに迷うのだ」
私「お嬢さんを諦めようと思えば諦められるのか」
K「今まで通り精進を続けていればいいか、道を棄てていいか、それに迷うのだ」
私「道を棄てようと思えば棄てられるのか」
 それなりに説得力があるように、多少の芝居もしてみせる。クラスの中でそれなりに信頼を集めている何人かの生徒の意見が二つの解釈の間で分かれればしめたものだ。どっちが妥当であるというために、どんな根拠を提示すればいいのか、生徒たちは考える。
  とはいえ、この「どちらか」はつまるところ決着がつかない。つけるつもりはそもそもない。だから、潮時を見て、この二つの解釈のそれぞれの妥当性をどう納得すればいいか、という方向に思考を修正する。あるアイデアが思いつけば、この問題は解決するよ、とアドバイスしておく。
 さてここからが問題だ。この問いの明確な「答え」に誰かが辿り着くまで待つことはこの授業展開の必須条件なのだが、この「誰か」がすんなり出ないときはどうするか。今年度の4クラスでは2クラスが比較的早い段階で「答え」に辿り着いた。クラスの中で誰か一人がそこに辿り着けばいいのだ。だが残る2クラスではまだ「どちらか」に引きずられて、なかなか目差す「答え」に辿り着く者が表れなかった。
 誘導するか保留にして先に進むか。
 たとえば難航したクラスでは保留のまま先へ進んだ。次の展開は「私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。」の「退く」をそれぞれの解釈によって言い換えることである。誘導で何とかなりそうだと思えたクラスでは「この文章はそもそも日記なのだから」という「語り手」という存在に着目する意見が出て(結局その段階では辿り着かなかったものの)、そこがヒントになることを強調して待った。
 この問題に対する「答え」とは、つまり「K」は「今まで通りの道を進む/道を退く」という意味で「進む/退く」と言ったのだが、「私」がそれを「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という意味で受け取ったのだ、という解釈である。二つの解釈はどちらもそれぞれに正しい。二人はお互いの言っていることが反対方向にすれ違っていることに気付かずに会話を続けているのである。

  さてそろそろこの先を続けるのをやめようか。どこまで書くかずっと迷っていたが、きりがない。この先の展開については既に然るべきところで公開していることでもあるし、同じ事をまるきり同じ手間で書いているばかりになってしまっているのに、いささかの徒労感も覚える(でも文章は今まるっきり書き下ろしているのだ)。
 だがやはり少々つけ加えておきたい。上の「答え」については、これまで、ある程度の数の国語教員に対して提示しているのだが、それに対する二つの反応に今まで驚かされてきた。
 一つは、それってもちろんそうだよねえ、という反応である。もともとそう思っていた、殊更に言い立てるような特別な解釈ではない、というのである。
 って、ええっ!? わかってたの?
 私自身が先のような結論に至ったのは、「こころ」を最初に読んだ高校生の頃からどれほどか読んだかわからないほどくりかえし読んだ末の、ある時に他人の教示によって導かれた可能性を検討していくうちに不意に訪れた、いわゆる「コペルニクス的転回」とも言える認識の転回によるものだった。そしてここを転換点として「こころ」は全く別の小説として新たな相貌を現したのだった。それが、そもそもそうなんじゃないの、などど当たり前のように受け取られていい解釈とは思えないのだが。
 前からそうだと思ってたっていう人はそれが「こころ」の解釈として特殊な部類に属する、少数派であることを自覚してはいないのだろうか。ほとんどの人は上のような解釈には至らずにこの部分を読み流しているというのに。そして、この部分をそのように読むことがどれほど劇的な読みの変更を読者に迫るかに気づいているのだろうか。というか、そもそもこの部分について、こうした授業展開をしているのだろうか。
 もう一つは、上の解釈を知った上で、やはりそうは思えない、という反応である。やはり「進む/退く」は「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」と考えるべきであり、「精進/道を捨てる」などという解釈は採れない、というのである。これもまた、ええっ!? である。一度でもこうした解釈の可能性を知って、それを本気で検討してみれば、ここはもうそのようにしか読めないと思うのだが。
 実はどちらの反応の人ともちゃんとその点について話したことがなく、「当然」と言う人も「納得できない」と言う人も、どう考えてそのような不可解な反応になってしまうのかがわからない。私が話す機会があったのは、半ば強引に首肯させられてしまっているに違いない生徒たちや、本当に納得してくれる教員ばかりなので。
 うーん。興味深い。知りたい。どうなんだろ。ほんとのところ。

2014年11月12日水曜日

高野文子

 最近、新聞の書評で高野文子の12年振りの新刊が出ていることを知って驚いたのだが、今日、大修館の出している『辞書のほん』というフリーマガジンで連載されている穂村弘の対談「よくわからないけど、あきらかにすごい人」の今月号のゲストが高野文子だったのを見つけて再度びっくり。
 高野文子は卒論でも言及した、思い入れのある存在なのだが、連載名の「よくわからないけど、あきらかにすごい人」は、ほんとうに高野文子のためにあるような形容だ。未読だが先月号のゲストが萩尾望都で、彼女が「自分以降のマンガ家ですごい人は?」と訊かれて高野文子と即答したのだそうだ。おお! 萩尾望都にそう言わしめる高野文子はやっぱり「すごい」が、まあ多くのマンガ読みがそう思っているのも間違いない。そして高野文子も萩尾に導かれてマンガを描き始めたのだとか、自分に近い存在は樹村みのりだと言っていたりするのを読んで感慨に耽る。樹村みのりもまた私にとっては大学生の頃からの最重要作家なのだった。
 高野の新刊『ドミトリーともきんす』もいつ買うかは単に時間の問題で、買わないという選択肢はないが、さて、読むのは怖い。読んで「面白かった」とかいう腑抜けた感想を書く訳にもいかないだろうし。とりあえず『棒がいっぽん』と『黄色い本』を読み返して、準備体操をするか。

 昨日注文した北園みなみの『PROMENADE』とウワノソラの『ウワノソラ』がもう配達されてびっくり。amazonnおそるべし。ルルルルズも注文してしまえばよかったか。

2014年11月11日火曜日

『麒麟の翼』『ヒッチャーⅡ』、ウワノソラ、ルルルルズ

 『麒麟の翼』は「ガリレオ」シリーズもそうだが、それなりに謎のピースが嵌っていく後半へ向けて快感もあるものの、感動はない。阿部寛のお説教は「誰も守ってくれない」の佐藤浩市を思い出させたし、松坂桃李の暑苦しい演技は「ツナグ」の悪夢再びというような気がして見たくなかった。うーん、原作読んでもおんなじような感想になるのかなあ。

 『ヒッチャーⅡ』は、あまりの駄目さに感想を書く気力も湧かない。これこれが充分に言いたいことを言ってくれている。むしろこれらのブログ主の分析力や文章力がすごい。気合いもすごい。両方のブログ主ともに「ヒッチャー」第一作については傑作との評価なので、そちらは機会があれば観よう。
 ところで殺人鬼のジェイク・ビジーって俳優がどうも見覚えあるなあと思ったら、『アイデンティティー』のあの護送される犯罪者か! しかも「ヒッチャーⅡ」と同じ年の映画なのか、あの傑作は。

 ということで映画は2本ともはずれだったが、音楽の方は良いのを見つけて満悦。
 北園みなみがとうとうメジャー・デビューということで早速amazonで注文。そこでリコメンドされているウワノソラとルルルルズに一聴惚れ。

ウワノソラ - Umbrella Walking ルルルルズ 『All Things Must Pass』 MV

他にも↓


2014年11月10日月曜日

『エクスペンダブルズ』12

 「3」が公開されるのにあわせて「エクスペンダブルズ」の「1」「2」が地上波や衛星で複数回、テレビ放送されてる。前にあんなことを書いた義理もあって、録画しておいたものを観る。休みにまかせて一日で2本とも。
  いやはや「やり過ぎ」感はキャスティングだけにとどまらない。アクションも、これでもかという「やり過ぎ」感に満ちている。いや、面白かったけどね。ストーリーはそれなりに起伏に富んでいてハラハラしたり、ワクワクしたり、機知に富んだ会話にニヤリとしたり、悪くない。何よりアクションのレベルの高いこと。ジェット・リーのカンフー・アクションはまあ当然として、ジェイソン・ステイサムの合気道風な動きとナイフ捌きを混ぜた殺陣はうまかった。爆撃やら銃撃やらカーアクションやら、これでもかの天こ盛りで、わずか数秒のカットにどれほどの手間と金がかかっているんだろうというようなアクションが、湯水のように流れ去って、目が追いきれない。勿体ない。贅沢というにも気が引けるほど、「勿体ない」というべき密度。
  それにしても、あの仲間の命と敵方の命の重さの、あまりの不均衡をどう受け止めたらいいのか。敵は全くシューティングゲームの的でしかない。それを薙ぎ倒す快感を認めるべきなんだろうと思いつつ、それを等閑視して、仲間の死を悼んで良いものか。とするとどうしても人間ドラマが弱くなるんだよなあ。
 ところでランディ・クートゥアが主役メンバーの一人として出演しているのは嬉しかった。敵方の肉体派ラスボスを倒す重要な役どころを割り当てられているとは。一方でノゲイラ兄弟は、かろうじて画面の中に認められるだけであっさり死んでいく敵方の兵士の一人。それもまた勿体ない。

2014年11月9日日曜日

帰朝、『Jersey Boys』

 台湾の話は無し。書き出すときりがないし。
 それより行き帰りの機内で『Jersey Boys』を観た。これは良い映画だった。クリント・イーストウッドにハズレなし。何より音楽が良かった。まあミュージカルなんだからそこを外す訳にはいかないが。忍び込んだ教会ではじまる合唱や終演後のクラブではじまるセッションの素晴らしいこと。そして、ミュージカルの苦手な私にも、ラストシーンのダンスにはこみ上げるものがあった。あれを原作のように舞台でやられるとどうなんだろう。映画では奥行きのある画面でストリートを歩きながらダンスするという様式美があって、その進行に物語の時間の流れがシンクロして再生されるような印象があるんだが、観客席から観て平面的な空間で繰り広げられる舞台劇のダンスでもそういう印象が表現できるんだろうか。
 ドラマとしてももちろん面白い、感動的なものだが、ふと、こういう、栄光と挫折という人間ドラマということなら、この間の「敵はリングの外にいた」なども同様の面白さだったよな、とか連想してしまう。それにしては金のかかり方が桁違い。それだけに「敵は…」は良い仕事だったということだが。
 ところで、「ジャージー・ボーイズ」という邦題を聞いたときは「Jazzy Boys」(「Jazzy」=活気のある・派手な・けばけばしい)なのかと思ったが、出身地のニュージャージーに因んでの「Jersey Boys」なんだそうな。それにしても「Jazzy」って、「ジャズっぽい」って意味で使っていたが、「ジャズ」ってのがそもそもそ「派手な・けばけばしい」なのか。日本語の「かぶく」だな。「歌舞伎」の語源になってる。

 飛行機の中ではもうひとつ、「Lucy」の最初の30分くらいを観たが、舞台がさっきまでいた台湾だったのが妙な偶然ではあった。

2014年11月5日水曜日

明日から

 明日から台湾で4日ほどブログお休み。まあ毎日更新ではないから特に珍しい空白でもないが。「こころ」シリーズの更新も、準備はしていたのだが果たせず。ブログらしく旅の記録なぞする予定もなく、帰朝してから何事もなくまた更新するんだろうな。

2014年11月2日日曜日

 『88ミニッツ』、散歩

 『88ミニッツ』なる深夜映画を録画。サスペンスだかホラーだかという宣伝だったのだがどんなのか不明だったので、休日の徒然に午前中から観てみる。何だか妙な急展開で裁判シーンになって、証人で出てきたのがアル・パチーノだったので、あれ、こいつはちゃんとした映画なのかいなと思い、続けてみてみると、とりあえず謎で物語を引っ張る。車を爆破したりして、妙なところで金がかかってもいる。題名の「88ミニッツ」が、殺人予告のあった途中から、映画と物語中の時間をシンクロさせるという例の手法で描かれるのだとわかって、興味も引かれる。
 だが、結局バタバタしたまま強引に終わるB級サスペンス映画だった。ネットでも口々に「登場人物が把握しきれないうちに終わる」「人物に思い入れも持てないうちに殺される」と、やっぱり、な感想だった。それにしてもあちこち謎だ。冒頭でアル・パチーノと一夜を共にした女が、朝、全裸でY字バランスをしたまま電動歯ブラシで歯磨きをして登場するんだが、この衝撃的な登場が、何ら意味をもっていないのが凄い(さらにどうでもいいが、行きずりの女がどうして電動歯ブラシを持っている? 家主の歯ブラシを勝手に使ってる?)。この女、後で「出張ホステス」だったことがわかり(原語は何だ? コールガールか?)、その後で殺されてしまうんだが、連続殺人犯のトレードマークの、ロープで片足を吊すという殺し方が、ちょうどY字バランスを逆さまにしたポーズのようにも見えるが、その伏線かと考えるのはあまりに無理矢理か?

 昼過ぎに運動不足感をおぼえて、自転車で散歩。途中の古い集落で、側溝の端の草地に小さな旗が何本も立てられている光景を不思議に思って写真に撮る。
どうやら「御加護」と書いてあるように見えるのだが、こういうのを何というのか、ネットでも調べられない。水辺であることと、曲がり角であることに何らかの意味合いがあるのだろうと想像されるのだが。子供が側溝に落ちないようにとのおまじないなのだろうか。

2014年11月1日土曜日

「こころ」6 ~何の「覚悟」か

 「覚悟」について考察する授業展開例は去年さんざん考えて書いたので、詳細に論じようということならそれをまるごと引用するしかないのだが、それはこのブログという場にふさわしいとも思えないので、やはりここでは今年の授業の様子を記録するという意味合いから、あくまで今年の展開を記しつつ、必要に応じて上記の一部分を引用するという形で書いてみる。

 42章でKが口にする「覚悟」という言葉をめぐる考察は、「こころ」を授業で扱う上で最も重要なポイントの一つだ。
 最初に問うのは

  •  ①会話の時点での「覚悟」の意味(42章)
  •  ②翌日「私」が考え直した「覚悟」の意味(44章)

である。実際には②から考える。文中にそのまま「お嬢さんに対して進んで行くという意味」と書いてあるからだ。続いて①を問うと、多少の揺れはあるものの、おおよそ「お嬢さんを諦めるという意味」であるという答えを引き出せる。
 読めば「わかる」はずのこうした確認をした上で、通常問われるのは、なぜこのように「私」の解釈が変化したか、だ。だがそれは単なる確認に過ぎない。何らの考察を含んでいるわけではない。もちろん、「わかる」ことと「説明できる」ことの間には大きな懸隔があるから、「説明せよ」と問うこと自体は国語の授業として大いに意義あることだ。だがそれは「こころ」を読解していくという行為として意義あるわけではない。
 それよりもここで問いたいのは、この「覚悟」という言葉が、どうしてこのように正反対の意味に解釈しうるのか、である。この問いは、きわめて興味深い上に、今後の展開に参考となる重要な知見を与えてくれるという意味で扱う意義のある重要な問いである。
 だが、そもそも生徒にはこの問いの意味が理解されない。問いを投げた上で、信頼できる生徒に答えてもらうと、彼が何とか答えているのは、どうして正反対の意味に解釈が変わったのか、である。まあやはりそうなるだろう、とは思う。そのまま、そちらに問いを移して展開する。まず①は文脈からそのまま了解される。確認のために42章、問題の「覚悟」という言葉が最初に口にされる「私」の台詞について確認する。
君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか。
この「平生の主張」とは何か? 無論「確認」程度の質問である。「精進」でも「道」でも「学問」でも「信条」でも「道のためにはすべてを犠牲にすべきものだ」でも「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」でも良い。これらの「主張」を「どうするつもりなのか」と問われれば、「心でそれを止める覚悟」は「主張」を貫くために「お嬢さんを諦める覚悟」ということにならざるをえない。
 ではなぜそれが翌日反転したか? ここでの「確認」は翌日、44章の
Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです。
の「一般」「例外」とは何か? という問いである。だが、豈図らんや、これが一筋縄ではいかないのだった。やはり実際の授業はこちらの想定を超える。生徒は「一般」は「精進」で、「例外」は「お嬢さんに恋していること」だというのである。なるほど、直前の「平生の主張」についての「確認」が、文脈を無視して「一般」「例外」という言葉に結びついてしまうのである。さんざん読み返しているこちらほど、生徒は文脈を把握しているわけではない。ある程度の長さで前後を読み返させる必要があるのである。さて、生徒の答えを否定して、正しい読解が提出されるまで粘り強く待つ必要はある。だが一方で「一般」=「精進」/「例外」=「恋」ではなぜダメかを示す必要もある。なぜだめか? とは問うてみるものの、これは高度な問いの部類に属する。上記部分の後の次のような一節に注目させる。
私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。(略)私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまったのです。
の「例外」に「恋」を代入して「恋ではないのかも知れない」とすると中略以降と矛盾するからだ、と言える生徒はいないでもない。
 さてでは「一般/例外」は何なのか? 別に難しい問いではない。やはり「確認」に過ぎない。「果断に富んだ/優柔な」である。ただちに「優柔な訳」とは何か? と問う。「K」の「平生の主張」が恋に進むことを妨げているからだ、という解答を用意して待っていると「Kは勉強一筋で生きてきて、恋愛に慣れていないから」というような微妙にずれた答えがどこのクラスでも返ってくるところでズッコケル。まあそこはこちらも微妙に修正して先に進む。上記「例外」に「優柔」を代入すると論理的に整合することも確認する。
 さて、ようやく先ほど問題だと述べた「『覚悟』という言葉は、どうしてこのように正反対の意味に解釈しうるのか?」という疑問に戻る。これは「どのような『正反対』に変わったのか?」や「どうして変わったのか?」という問いではない。だが真に驚くべきなのは、この言葉がどのような微妙な仕掛けによって正反対に変わりうることが無理なく設定されているか、である。ここが解説されている指導書を見たことはない。恐らく問いとして発せられる授業展開もほとんどないだろう。そもそもそこに疑問を見出すという発想が浮かぶことがほとんどないだろうからだ。だがここで考察に値するのはまさしくこの点なのである。
 「どうして正反対の意味に解釈しうるのか?」という問いは、その問いの意味がほとんどの生徒に理解されない。そこでたとえば「いいよ」といった台詞が、文脈次第で「No Thank You」(「要る?」「いいよ」)の意味にも「OK」(「良い?」「いいよ」)の意味にもなることを示した上で、唯一の文脈に置かれているにもかかわらず正反対のどちらの意味にも解釈できる不思議について考えさせていく。
 すると予想外に「心でそれをやめる覚悟」の「それ」が示すものが曖昧だからではないか、というような案を提出した生徒がいた。そう、「K」の口にした「覚悟」は「私」の台詞を受けているのである。
「君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
問題はこの「心でそれをやめる覚悟」がなぜ正反対の二つの意味に解釈しうるのか、である。ここから先は一昨年の授業の際に思いついた発問である。
問 「心でそれをやめる」の「それ」とは何か。ここを「……ことをやめる」と言い換えたときの空欄に、適切な動詞を入れ、それが①と②に言い換えられることを説明せよ。
 これには考える、悩む、迷うなどの答えが想定できる。
 まず「考えることをやめる」と言い換えれば、「お嬢さんに進んで行く」という解釈の生ずる余地はすでにある。「考える」ことをやめて「行動に移す」のが「K」の言う「覚悟」だと「私」は考えたのである。
 次に「悩むことをやめる」と言い換えると、なおさら二つの解釈が自然に生ずる。「悩むのをやめる」ためには、悩みの種であるお嬢さんを諦めてしまうのが一つの方途であり、悩むのをやめて思い切ってお嬢さんに進むのが、もう一つの方途であるからだ。
 さらに「迷うことをやめる」ならば、論理はさらにはっきりする。「お嬢さんを諦める」ことともに「お嬢さんに進む」こともまた「K」にとって「迷うことをやめる」方途の一つである。選択肢のどちらを選ぼうとも、「迷うことをやめる」結果になる。
 こうして「K」の言う「覚悟」は「私」によって、正反対の解釈に分岐したのである。
 授業では「正解」を確認することに意味があるわけではないから、このような説明自体を生徒に要求すべきである。そしてこのような解説は、なんら「理解」を深めているわけではない。「わかる」ことが目的なのではなく、「説明しようとする」ことがここでの学習の目的である。
そしてこの学校でも、我慢強く待っているうちに想定通り「考える」「悩む」「迷う」が提出され、それぞれのクラスで誰かがこうした説明に辿り着く。そうした者を教室全体で賞賛してこの一連の学習は一段落である。

 もちろん、ここまで確認したのは、あくまで「K」の言う「覚悟」を、「私」がどう解釈したかであって、それは「K」の「覚悟」ではない。「K」の言う「覚悟」が上のどちらでもないことを示す表現を指摘させると、勘の良い生徒が「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」を挙げる。それに「卒然」「私がまだ何とも答えない先に」などの表現を指摘して、「私」の解釈した「覚悟」と「K」の言う「覚悟」がすれ違っていることを確認しておく(「卒然」「独り言」「夢の中の言葉」は、「K」の心理に注意を集める表現として読者に意識されがちだが、同時に、意思疎通の齟齬を読者に知らせるサインなのである)。では「K」の言う「覚悟」とは何の覚悟か? と聞くと、やはり少数ながら「自殺する覚悟」であることを感じ取っている生徒はいる。そしてさらにこの時点で、その根拠を明晰に語って見せた生徒の見解を以下に挙げて、この項を終える。

 彼女(女子生徒である)によれば、上野公園の散歩の夜の「K」の「もう寝たのか」という謎めいた訪問と自殺の晩の「いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています」は関連づけて考えるべきであり、とすれば「K」にとって自殺の意志はこの時既にあり、昼間口にした「覚悟」こそそれを示しているのである。そもそも「K」の遺書はこの晩に書かれ、そして「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える」「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」だけが、自殺を決行した土曜の晩に書され足されたものなのだ。

 結論としてはこの見解には首肯しかねる。「墨の余りで書き添えたらしく見える」という描写は、本文に続くこの最後の文句が一連のものとして書き足されたものであることを示している。したがって遺書全体が、やはり土曜の晩に書かれたものであると考えるべきだと思う。だがここまでの整然とした推論を説明してみせた生徒がいたことは記録しておきたい。

追記
 最後の、遺書をいつ書いたのかについては、後刻再考した。この生徒の慧眼には感服である。

2014年10月31日金曜日

『魔法にかけられて』『フィッシャー・キング』

 リアルタイムで書けなかった。今週火曜日に、録画されていた「魔法にかけられて」を娘と観た。大ヒットした、あれね、とか思って侮っていたので、最初の方だけ観てやめようと思っていたのだが、いや、ディズニー、侮れない。娘と一緒に観てるというシチュエーションがまた曲者だ。こういう脳天気にハッピーなミュージカルは、一人では観る気にならないかもしれないが、誰か、しかも無邪気に面白がることに貪欲な彼女と観ると、どうにもハマってしまうのだ。いやあ、満足した。
 あとでネットでみると、低評価の人の感想はまるで共感できないわけではなく、私とてもシチュエーション次第では同じような感想を抱かないとも限らない。
 ただ個人的には、現代に迷い込んだ異邦人、というモチーフには奇妙に心惹かれるものがある。前半部に引き込まれたのにはそういう理由も確かにある。これが何を意味しているかは俄には判じがたいが、「君が僕の息子について教えてくれたこと」「A-A'」で書いた「センス・オブ・ワンダー」ということかもしれない。

 もうひとつ、1991年の公開当時から気になり続けていた「フィッシャー・キング」(監督:テリー・ギリアム)を何回かに分けてようやく見終わった。ロビン・ウィリアムズの追悼特集のような放送だったんだろうが、確かに良い役者だったよなあ。映画は、PDSTの表象であるところの赤騎士に辟易した他は、細部までよく作り込まれた良質な作品だった。横から覗き込んでいた息子が「音楽の使い方で引き込まれる映画だ」と評していた。
 たぶん、悲惨なことになりそうな不安を常に感じさせておいて、それに対する希望や救いをそれよりほんの少々多めに用意しておくところが絶妙な映画なのだと思う。
 ところでロビン・ウィリアムズは「グッドウィル・ハンティング」に次いでブログに二度目の登場。そしてヒロインのアマンダ・プラマーはなんと「新しい靴を買わなくちゃ」などという日本映画に続けて二度目の登場なのだった。

2014年10月27日月曜日

「敵はリングの外にいた」

 フジテレビの「ザ・ノンフィクション」の10月26日放送「敵はリングの外にいた」をテレビ欄で見つけて、なんか気になると録画した。どうも観たい。夕飯の後に部屋に戻る前の息子とちょっとさわりだけ、とか思いつつ見始めたら結局最後まで一緒に見てしまった。面白かった。後で息子も「やっぱ、面白いドキュメンタリーって面白いんだね」と言っていた。
 女子プロレスに興味はないし、ファンだったこともない。だが同い年(だと今回初めて知った)の長与千種とダンプ松本の現在には興味があった。一世を風靡して、濃密な時間を生きていた人が、世間から忘れられたように生きる現在がどんなものか、気になった。社会問題を真剣に考えさせるようなタイプのドキュメンタリーの持っている重さってのあるのだろうが、そうではなく、ここにあるのは有り体に言ってやはり「人間ドラマ」なのだ。それを、恐らくは長い時間をかけて丁寧に取材して、その何気なくも貴重な瞬間の数々を映像に残してきたディレクターは、良い仕事をしたと思う。

 そういえば、昨日一日がかりで編集した、こっちは歴史の一断面について心に刻むべきドキュメンタリーである「Japanデビュー アジアの”一等国”」は、やはりそれだけの鋭さで生徒たちの心に跡を残したような気がするし、苦労した編集も、全編を観ている同僚に絶賛されて、昨日の苦労が報われた。ま、番組そのものはNHK(外部の制作会社?)の労作なんだけど。

「Japanデビュー アジアの”一等国”」他2題

 明日、1時限で見せるためにNHKスペシャルの「Japanデビュー アジアの”一等国”」を40分程度に編集するのに、一日がかり。戦前の台湾統治の歴史を辿ったドキュメンタリーだが、番組の方向は確かにネトウヨの餌食になることを避けられない、今や懐かしいにおいすらする左翼的なバイアスがかかっている。一面的に日本統治の負の面が描かれる。それでもこうした歴史を口頭で語ってもとうてい浸透していくとは思えないので、せめて映像とともに生徒に提示したい。視聴記録プリントまで作って、1時限のために一体、何時間費やす?

 月曜日に学校の図書室で、開架に並んでいた窪島誠一郎の「絵をみるヒントを」ぱらぱらとめくり、面白そうではないと思ってやめた、この本の後書きに水上勉の息子である由が書かれていた。
 今日、随分前から断続的に読み進めていた「生きるかなしみ」(山田太一:編)の末尾に収録されている水上勉の文章を読んだら、この窪島誠一郎のことが「生き別れになっていた息子」として登場していて、窪島誠一郎も水上勉を全く縁のない読書生活の中でこんな偶然の符合が起こったのを不思議に思った。

 録画した「東京JAZZ」のアーマッド・ジャマルのカルテットの演奏を、今日で3回目に(最初に一人で、次に娘と、今日は息子と)聴いていたら、突然腑に落ちる感覚がおとずれた。最初の時は曲の構成がわからないので、インプロビゼーションがどんどん逸脱していくと、もう何が何だかわからなくなっていた。2回目の時に、これは13分もの演奏の間、ただ4小節のテーマがひたすら繰り返されているだけなのだと気付いた。
 そして3回目の今日は、インプロビゼーションで演奏がどれほど逸脱しようとも、背後でその4小節が流れつづけているのだと思いながら聴いてみた。すると、最初の時にはわけがわからない(コード感も調性感も小節の区切りの位置も、すぐについていけなくなる)と思っていた演奏が、俄かに「わかる」ように感じられた。テーマのメロディーやコード進行をスキーマとして、逸脱していく音の距離感がつかめるようになったのだった。
 情報を枠組みに捉えることこそ「理解」という現象なのだ、という話。

2014年10月24日金曜日

『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』『すべてがFになる』

 何の予備知識もなしで見始めたすーちゃん まいちゃん さわ子さん(監督:)は大いに満足。気力がなくてレビューはしないが、たぶん間違いなく原作(益田ミリの4コマ漫画)の力であるとともに、監督もキャストもこの映画の空気感を作るのに、良い仕事をしたと思う。同じレストランものといえば、前に書いた『幸せのレシピ』が連想されるが、なるほど、どちらもストーリーはどうでもよくて、細部の描き方のうまさで見せる映画だ。
 それにしても、真木よう子や寺島しのぶがうまくても今更驚かないが、柴咲コウのキャラクターがなんとも上手い造型で良いなあと思ったら、原作ではこれが主役なんだな。
 これは原作も読んでみねば。

 そういえば『すべてがFになる』のテレビドラマ版も、朝刊で突然知って第一話を予録して観たが、とりあえず原作に対する思い入れに落とし前をつけなきゃなるまい、という動機だけで期待などできるはずもあるまいという予想通り、安っぽいドラマだった。あの薄っぺらいテレビ特有の画面は、テレビマンの矜持だとどこかで読んだことがあるが、いったいそんな矜持をどうしたいというのだろう。あんな物語を日常(だがテレビドラマという作り物じみた非日常)的な画面で見せて何をねらうつもりか。とりあえず、であれ、映画的な異空間を作ってこそはじめて、あの外連味けれんみたっぷりの「ミステリー」の異空間に視聴者をもっていけるんじゃないのか。でなければ、原作の絵解きに過ぎないあんな緊張感のないお芝居を見せてどうしたいというのか。

2014年10月23日木曜日

「こころ」5 ~テーマと「自殺の動機」

 まずは通読、曜日の確定と、全体を把握するところから入っていった。それが終わって、さて冒頭から順に精読…などという展開にはならない。さらに続く展開も「全体の把握」である。生徒に指示するのは、「テーマ」と「Kの自殺の動機」を考えよ、である。通常、最後の考察に当てるべき課題だが、ここは通読後、精読前にやっておくことに意味がある。現状の読みを確認させたいからだ。そして、精読前だからこそ、こちらの誘導に因らない、生徒の生の読みが露呈するところが、授業として面白くなる要因となる。
 さて「テーマ」などというと構えてしまうに違いない生徒たちに言って聞かせるのは、例によって私の「テーマ」観だ。以前書いた文章を引用する。
 小説の主題を考えるという行為は、そのテキストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。生徒に主題を考察させるときには、たとえば「どんな話か」を他人に語るうえで、粗筋よりも、もう少し抽象的な言い回しをしてみよう、それが「主題」だ、と解説してもいい。長々と粗筋を語るより、端的に、つまり作者は何が言いたいかというと…と語ってみる。それがその小説の主題である。
 さて、では「こころ」はどんな小説か。
たとえば、次のような「テーマ」案が提出される(あるクラスで発表された「テーマ」をおおよそ再現してみる)。

  • 三角関係
  • 人間の心の闇
  • 恋か友情か
  • 友人を死に追いやった罪悪感

 実はこれらは最初に観た「Rの法則」の解説に影響を受けている。たぶん上記のようなフレーズが番組中に飛び交っていた。だがむろんそれらは一般的な「こころ」理解のありようを反映しているともいえる。それらを適切に提出できた生徒たちを誉めるべきだろう。
 ここで、しばしば使う手なのだが、文庫本を数社、数種類並べてその裏表紙の惹句を読み上げる。また「国語便覧」の「こころ」の紹介を読み上げる。さて、これらに共通して使われている言葉は? と聞く。「エゴイズム」である。一応これが「利己心」とか「自己中心的」などという意味で理解されていることを確認し、上記の「テーマ」と並べる。
 一方、「Kの自殺の動機」である。これも以前書いたものを引用する。
  まずは一読した限りで、「K」はなぜ自殺したのだと思うか、と単純に聞いてみる。次々と指名しながら生徒の発言を場に提出させて、それを整理していく。つまり類似したものは一緒の項目でいいのか、別の要素を含んでいるのかを問い直すなど、細かいやりとりを通して生徒の考えていることを明らかにさせながら、いくつかの「死因」をパターン化して板書する。例えば次のような「死因」が生徒から提出される。
①お嬢さんを失ったから
②友人に裏切られたから
③自分が道に反したから
④「私」に対する復讐
⑤「私」に対する気遣い
  生徒から出尽くすところまでこうした項目を列挙して、次の問いは、こうした項目のうち、どれがどのくらいの割合で「K」を死に追いやったと考えるのか、である。つまり、例えば①と②と④が、2対5対3くらいの割合だ、などと「K」の「死因」としての重みを量らせるのである。これは問題をいたずらに矮小化しているように見えるかもしれないが、生徒自身がまだ「K」の抱える問題を「真面目」に考えてはいない段階での、自身の捉え方を自覚させることが目的である。
さて、やっぱり実際に授業をしてみるとこういう想定通りにはいかない。①から⑤まで、クラスによるとはいえ、出てくる。だが例えば「自分への罰」という「動機」が提出される。何についての罰? と訊くと、「精進の道を逸れたこと」という。それならば③と同じだ。だが、同じ「罰」という言い方で「友人やお嬢さんの気持ちに気付かなかったことに対する自己処罰」というような意見が出るのである。両者はどう違うか? 「道を逸れたこと」なら恋を自覚してからだが、「気持ちに気付かなかった」なら自殺の直前、二日以内のことなのである。なるほど。面白い見解だ。そして大いに鋭い。
 次に「テーマ」と「動機」を見比べさせる。黒板を左右に分割してそれぞれ生徒から出た意見を列挙しておくのである。馴染みの良いものと悪いものがある、それはどの組み合わせか? と問う。質問の意図しているところのわかりにくい問いだ。何とか発言する生徒の見解を誘導して形にする。
 実はさっきの「テーマ」はひと続きにまとまられるだろ、と指摘しておく。「三角関係」における「恋か友情か」という迷いの中で友人を裏切った「人間の心の闇」にひそむ「エゴイズム」と、その結果として「友人を死に追いやった罪悪感」によって絶望する「私」の「こころ」を描いた小説、とか。
 こうした把握は①や②とは馴染みが良い。というよりむしろKの自殺の動機を①や②と捉えたところから把握された「物語」なのである。実際にうちの生徒には①②を動機と考える生徒の割合が高かったのだが、③を考えている生徒も少なくはない。だがそうした「動機」の把握は上記のような「テーマ」把握とは馴染まないことを指摘しておく。「動機」が③ならば、「友人を死に追いやった」などという事実は存在しないからだ。「友人を死に追いやった」と「私」が思い込んでいるのは、Kの自殺の「動機」を①②だと思っているからだ。
 今回の新説「友人やお嬢さんの気持ちに気付かなかったことに対する自己処罰」ならば、ある意味で「私」がKを「死に追いやった」と言えないこともない。さて、これは後日検討。

 ここまで1時限ちょっと。さて次からいよいよ精読である。だが冒頭からではない。「覚悟」という言葉の検討からである。

2014年10月21日火曜日

「議会占拠24日間の記録」「台湾アイデンティティー」

 中間考査も明日で終わって、明後日からはまた授業が始まってしまう。授業自体は楽しみで、いくらでも時間がほしいのだが、この猶予に追いつこうと思っていた授業記録は結局書けないまま、授業の方が先へ進めばまた書きたいネタは生まれ出るんだろうし。もどかしい。
 歯医者の予約を入れていたんで早くに帰って、治療が済んで家に戻ると、修学旅行の事前学習用の企画を考える。台湾の学習に「台湾アイデンティティー」(監督:酒井充子)と、NHKの「Japanデビュー」と、同じくNHK・BSのドキュメンタリー「議会占拠24日間の記録」のどれをどの順で見せるか検討。「Japanデビュー」はこの週末にようやく見終わって、日本と台湾の関係を考える上では是非見せたいと思いつつ、1時限で見せることの可能な長さにどう編集するか、容易な作業ではないと保留。今日は「台湾アイデンティティー」を、これもまたようやく見終えて、しごく好意的な印象をもったのだが、編集に関する時間の見当に二の足を踏んで、とりあえず明後日向けに「議会占拠24日間の記録」で行こうと決めた。
 録画した5月に観て以来、二度目だが、やはりものすごく面白いドキュメンタリーだ。時間的にも小規模なカットでいける。テーマは台湾と中国の関係やら現在の台湾の情勢についての学習だが、何より、台湾の人々が実に素朴な「民主主義」を現実に生きていることを見せたいと思った。そこここで、学生が、市井の人たちが政治について車座になって熱く議論を交わす。こういう素朴さは今の日本では実現することが難しい。どうしたって頭でっかちの観念的「民主主義」擁護になってしまう気がする。
 だが私の感ずる「面白さ」は、そうした理念より、学生による立法院(議会)立て籠もりを、具体的に体験するように想像できたことによる。行政府への要求をどこまで貫けたら撤退するかといったリーダーの決断や駆け引き、立て籠もりにあたってのチームの役割分担など、その顛末はまるで映画のような「面白さ」だった。とりわけ、撤退を宣言してから二日間でバリケート封鎖を解いて議会場を掃除して外へ出るという学生たちの振る舞いには拍手喝采だ。それぞれが日常生活に戻っても、この24日間の経験を生かしていこうとする「成長物語」まで、どこまでも良くできた映画のようだった。
 だが「台湾アイデンティティー」も諦めてはいない。「議会占拠24日間の記録」が、ある事件の顛末を追った「映画」のようなドキュメンタリーだとすると、「台湾アイデンティティー」はさまざまな人生の断片が、さまざまな思いの強度によって語られることに引き込まれる、ドラマのようなドキュメンタリーだ。結局感動的なところは台湾という特殊な状況によるものというより、普遍的な夫婦愛や親子愛だったりもして、台湾の学習になるか? というためらいもないではないが。

2014年10月19日日曜日

「ごめんね青春!」「昨日のカレー、明日のパン」、ビッケブランカ

 このクールのアニメは「寄生獣」も2話でやめてしまったし、「四月は僕の嘘」も絵が綺麗なのは特筆すべきだが、見続けるかどうかはまだなんとも。
 それより宮藤官九郎の「ごめんね青春!」恐るべし、だ。なんなんだこのハズレのなさは。多くのドラマは、新聞のテレビ欄でいくら広告しようとも主演俳優の名前しか書いていないというのにクドカンは満島ひかりより錦戸亮よりも先に名前が掲げられる。それもむべなるかな。
 ところでこのドラマに個人的に受けた点。
 舞台が我がふるさと(の隣の隣の市の)三島市だ。どういうわけでこんな地方都市が選ばれたのか謎だ。舞台のモデルになっているのは私も併願した日大三島なんだろうなあ。三島での高校生活は結局実現しなかったが。昨日買ったばかりの「うなぎパイ」が話題に出た時には、娘と顔を見合わせてしまった。
 もうひとつ。授業のシーンでトリンドル玲奈が持っていたのは、私の関わっているあの書籍だった。エンドクレジットには協力として出版社名が出ていたから、編集部が知らないはずはないのだが、この間の会議では話題に出なかったなぁ。ところで高校3年という設定で「国語総合」はなかろう、などとは学校関係者しか思わないだろうが。

 もうひとつ、木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」は、一話の後半を録り損ねて観られなかったのだが、2話まで観たところ、すこぶる良い感じ。この良さも「ごめんね青春!」同様、まだ言葉にならない。願わくはテレビ的な中途半端なコメディっぽさや感動ものっぽさを狙った演出などせず、淡々と脚本をリアルなお芝居で見せて欲しい。それでも木皿泉的ユーモアはにじみ出るだろうし、それでこそ、この奇妙な不穏さや悲しみを背後に隠した穏やかな空気はいっそう生きるだろうに。

 You-Tubeで見つけた新人。
ビッケブランカ『秋の香り』
ビッケブランカ『追うBOY』
あまりの完成度にびっくりしたのだが、なんとなく清竜人を「Morning Sun」(Youtubeにはカバーしかないみたい)で知ったときのような予感もある。その後、興味をなくして、今は聞いていない、という。

2014年10月18日土曜日

浜松

 ハママツ・ジャズ・ウィークに一日がかり。往復9時間ほどのバスの車中の寝られること。
 日録にさえなっていない。
 

2014年10月17日金曜日

『Xファイル ザ・ムービー』『新しい靴を買わなくちゃ』

 連日の「こころ」報告がなかなかハードなのだが、実は前回までの「曜日を推定する」の後にもう3時限くらい進んでいて、その間だってまとめておきたい、残しておきたい要素はいろいろあり、去年あれだけ考え、書いたにもかかわらず、やっぱり授業をやるということはそうした机上の想定内にはおさまらない様々な思考を強いるのだった。いや、これまでも、それぞれの生徒を相手に、その時々で精一杯のものを開陳して見せていたつもりだが、いつだって次の授業は、前回の「精一杯」を超える。
 だが、中間考査をはさむので、今後の展開には猶予があるから、今日の所はお休み。

 ポリシーとしての映画視聴記録。
 「Xファイル ザ・ムービー」は、こういうジャンルが好物な私の嗜好に敬意を払って録画したが、いやあ、見終わるまでに長いことかかった。よくできている。ちゃちな感じはない。が、いかんせんTVシリーズを観ていない者が観るもんじゃないよなあ。
 「新しい靴を買わなくちゃ」は、なんだか懐かしいような切ないような気分になった。そういう気分になるのを目的とした嗜好品としてのお伽噺ということで納得しないと、ネットのレビューの低評価の人たちのように「ふざけるな」という感想になってしまうんだろうな。やっぱり。一方でAmazonのカスタマー・レビューの意外なほどの高評価もどうしたことか(ネットでは、けっこうな割合で監督を岩井俊二と勘違いしている人が多かった。岩井俊二:プロデュースに坂本龍一:音楽ってのは豪華だ。肝心の脚本・監督の北川悦吏子は、有名な有名なトレンディ・ドラマの諸作品を一つも観ていなくて、なんの思い入れもないが)。
 でも、「お伽噺」としては良かった。それと、ヒールの折れた靴、折れたヒールというのが、主人公たちの隠喩になっているという、わかりやすい構図に、とりあえず気づけたのは嬉しかった。

 ああそれにしてもレビューも面倒でできない。
 このクールで見始めた木皿泉の「昨夜のカレー、明日のパン」と、宮藤官九郎の「ごめんね青春!」についても書き留めておきたいが、時間がとれず。だがこのままにはすまい。

2014年10月16日木曜日

「こころ」4 ~曜日を推定する③

 前回、お嬢さんとの結婚を申し入れる奥さんとの談判が開かれたのが月曜日であると結論するまでの過程を辿った。この過程で、Kが自殺した土曜日と談判のあった月曜日が、それぞれどの記述からどの記述までに対応しているかを確認することも重要である。生徒の苦手とするのは、ある程度の長さの文脈を一気に把握することだ。いま目で追っている文章が前後の文脈の中でどのような位置にあるかを捉えることは、文章を読む上で決定的に重要である。「土曜日」「月曜日」という認識が、どの長さの文章を把握する際に必要な枠組みなのかを意識させたい。
 「土曜日」の始まりは前回確認した46章の「五、六日経った後」だ。ここから所収の47章の終わりまで土曜日の深夜が続いている。
 一方「月曜日」の始まりは、前回の考察にしたがえば44章の「一週間の後」から46章の終わりまでである。その日のうちに「仮病を使って」から「談判」、神保町界隈の彷徨から夕飯までが語られる。
 さらに長いのは教科書所収の40章の冒頭「ある日…」から43章後半部の「しかし翌朝になって」の直前「私はそれぎり何も知りません。」までの一日である。生徒はページをめくりながら「ここもまだ同じ日かぁ。長え!」などと言って確認している。3章半に渡るこの部分に、重要な情報の詰め込まれた上野公園の散歩や、真夜中の謎めいたKの訪問が含まれる。はたしてこれはいつのことなのか?
 考えるべき点は44章の「二日経っても三日経っても」と「一週間の後」の関係である。これは前回の47章「二三日」と「五六日」の関係と同じく、始点を同じくする同一の時間経過を含む期間であると考えていいだろう。根拠は「一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって」の「とうとう」を指摘すればいいだろうか。「とうとう」はその前に経過を前提する副詞である。これが「二日経っても三日経っても」という途中経過を受けていると考えるのが自然である。
 ではその始点はどこだと考えればいいか? この「一週間」は、「私はいらいらしました。…私はとうとう堪え切れなくなって」から、奥さんへの談判の「機会をねらってい」た期間だと考えられるから、始点はそう思うようになった「私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞」いた日、つまり「覚悟」について考え直した、上野公園の散歩の日の翌日である。とすれば、奥さんとの談判を開いたのが月曜日という前回の結論から遡ること「一週間」、前の週の月曜日がそれである。
 では40章の冒頭「ある日」はその前日ということになるが、これで全ての曜日を確定したと考えていいだろうか?
 意味ありげな沈黙をしばし続けて、どう? と促してから問うと、ちゃんと考えている者はそうではない、と答える。「ある日」の続きは「私は久しぶりに学校の図書館に入りました。」である。つまりこれが日曜日ではありえない。では土曜日か月曜日か? 二択だと迫ると、翌日であるところの「その日」は、「同じ時間に講義の始まる時間割になっていた」とあることから平日であるとの論拠を指摘する生徒が現れる。つまり40章の「ある日」が月曜日、翌日43章の「その日」が火曜日なのである。では「いらいら」と「機会をねらっていた」のは「一週間」ではなく六日ということになる。だがここは数年後に書かれた遺書によって回想された過去だということを考えれば「六日後になって」などと正確な日数を書く方が不自然である。物語が大きく動く「ある日」から数えておおよその期間として「一週間」と書くことの自然さは当然認めていいはずである。

 長い推理過程を経て、教科書収録部分の曜日が確定した。前回の板書に沿って確認するなら、

  • 40~42章 月曜 ① 「ある日」~上野公園の散歩
  • 43章         ② 真夜中のKの訪問「もう寝たのか」
  • 43~44章 火曜 ③ 「その日」~「覚悟」について考え直す。
  • 44~45章 月曜 ④ A 奥さんとの談判を開く。
  • 47章   木曜 ⑤ B 奥さんがKにAの件を話す。
  • 47章   土曜 ⑥ C 奥さんからBの件を聞く。
  • 48章   土曜 ⑦ Kの自殺

ということになる。
 以上の設定を、漱石が計算していたかどうかを怪しむ向きもあろう。これは穿ち過ぎ、深読みに過ぎるのではないか? だがこうして考えてみた感触では、漱石は充分にこうした設計をした上で書き進めているように思える。48章に唐突に登場する「土曜日」という曜日の指定は、翌日の奥さんや下女の行動に制限を与えるための設定だと考えられるが、そこから遡る出来事の曜日は、明確な時間経過の計算に基づいて設計され、不自然でない程度の日数の明示によって読者の前に提示されているように感ずる。
 また、曜日制については明治の改暦後であることから前提して構わないはずだが、帝国大学の図書館が日曜日に開館していないかどうかについては確認はしていない。だがそこまで厳密でなくても構うまい。問題は文中に記された情報から可能な限り整合的な設定を読み取るという読解~考察の過程にあるからである。

 ここまでの授業展開はちょうど2時限だった。物語中の出来事の曜日を確定するぞ、と宣言してから最後に冒頭が前の週の月曜日であるという結論に達するまで、中身の詰まった2時限である。尤も、個々の問いを投げかけてから生徒の考察時間を取って結論を出すというサイクルにかかる時間は生徒次第だから、その反応速度によっては1時限でこれを展開してしまうことも不可能ではない。そうすれば、相当密度の濃い、充実した手応えのある展開になるだろう。もちろん、こちらが一方的に説明してしまえば以上の推論過程を10分程度で語ることは可能ではある。だがそんなことに意味はない。問題の発見(「二三日」と「五六日」の関係をどう考えたらいいのか、など)と妥当な結論へ向けての推論過程そのものにこそ、国語科としての学習の意義があるからである。
 そしてそうした過程は、生徒にとっても面白いはずである。あるクラスで結論が出たところで授業が終了した直後、教卓のところへ近寄ってきた生徒が「すっげえ面白かったです。」と言ってくれたのは、そうした手応えがあながち勘違いでもないことを感じさせてくれた。
 そしてこの展開には、面白いだけではない意義があるはずである。むろん、読解の実践学習としての意義は上述の通りだ。だがそれだけではない。これから「こころ」を読む上で、以上の認識はきわめて重要であると考えているのである。なぜか?
 第一に、出来事の起こる順とその経過時間の感覚、そこでの「私」の逡巡がどれだけの期間に渡るものなのかを実感として想像する上で、曜日を確定しておくことは現実的な手がかりになる。
 そしてさらに重要なことは、上記の⑤、奥さんがKに婚約の件を話したのが木曜日だということを確認することの意味である。この出来事は物語の前面には表れることなく、「私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。」という皮肉な記述の裏面で「私」に知られることなくひそかに起こって、それが表面に浮上するのは⑥の土曜日である。そしてその晩にKは自殺する(⑦)。こうした情報の提示は、読者に⑤と⑦が連続して起こったかのような錯覚を起こさせ、その因果関係を過剰に意識させる。Kはお嬢さんと「私」の婚約を知って(また、「私」の卑怯な裏切りを知って)自殺したのだ、と。
 だが実際にはそこには、謂わば盲点になっていてあまり意識されることのない空白の「二日余り」が横たわっているのである。Kの死について考える上で、この「二日余り」の懸隔が意味するものを考えさせる準備として、この「曜日を確定する」という授業過程はきわめて重要であると私は考えている(この「二日余り」の意味については別稿で論じた。このブログでこの先ふれるかどうかは未定)。

2014年10月14日火曜日

「こころ」3 ~曜日を推定する②

 前回に続く「曜日の推定」の展開である。
 47章の、奥さんがKに婚約の件を話した(⑤)のが木曜日であろうという推論を述べた。だが問題は次の段階である。奥さんとの談判はいつ開かれたのか? 47章の「二三日の間」と「五六日経った後」から考えられる結論として生徒の挙げる曜日は木曜日から月曜日までにばらつく。なぜか。⑥の土曜日から遡る日数が、5~9日の間でばらつくからである。最長の九日ならば木曜日で、最短の五日ならば月曜日である。どうしてこんなことになるのか?
 ここからがこの考察の最も肝となる部分である。こうした結論のばらつきを示した上でそうしたことが起こる理由とその決着へ向けて思考を促す。話し合いの中で問題点が捉えられてきた様子が見えてきたら、全体で確認する。
 問題は「二三日の間」と「五六日経った後」の関係がどうなっているか、である。ここが二通りの解釈を生じさせていたために、先のばらつきが表れたのである。「二三日」と「五六日」を合計して最長を九日と考えた者と、合計せずに最短を五日と考えた者である。
 「二三日」と「五六日」は足すべきか、足すべきではないか? 両者は重なっているのか、重なっていないのか? 結論とそこに至る推論の過程を述べよ。
 最初に示した「曜日を推定する」という課題自体は、それなりに物事を筋道立てて考える生徒ならばすらすらと結論に辿り着いてしまう課題に過ぎないのかもしれない。何を正解としてこちらが用意しているかというだけなら、そうした正解者は、学校によっては大半を占めてしまうかもしれない。だが、順を追って、誤解の可能性を提示しながら、それを否定する根拠を考えること、及び自分の推論の妥当性を語ることはそれほど容易ではない。「なんとなく重なっている(重なっていない)ように感じる」では議論にならない。重要なことはこちらからの結論の提示ではなく、生徒に推論の過程を語らせることである(そもそも国語教師の間でもこの件、あるいはこれから述べる結論には異論もある。だからこそ必要なのは「結論=正解」ではなく、推論の妥当性についての議論なのだ)。
 だがそれを語るための手順は自明ではない。ほとんどの生徒は結局本文を未整理なまま辿って「だから重なっている(重なっていない)と思う」と言うしかない。そこで必要に応じて新たな着眼点を提示する。
 「二三日」と「五六日」の起点と終点はどこか? 「二三日」と「五六日」はそれぞれ、何から何までの間隔を数えたものなのか?
 「二日余り」ではこうした疑問が成立しないほど、その始まりと終わりがはっきりしている。「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。」は「奥さんがKに話をし」た日(⑤)から「勘定して見」た日(⑥)の間を数えたことが明らかである。したがって⑥の土曜日から遡って⑤が木曜であると確定できる。だが「二三日」と「五六日」では、話はそれほど簡単ではない。
 「五、六日経った後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。」から、「五六日」の終点が、奥さんが私に、Kに婚約の件を話してしまったことを話す⑥の出来事があった日であることが確認できる。つまり土曜日である。では始まりはどこか? どこから「五、六日経った」と言っているのか? これは「二日余り」のように自明ではない。47章の前半を一掴みに把握する読解力が必要となる。遡っていくと、46章の終わり
 私がこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。私は色々の弁護を自分の胸で拵えてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りませんでした、卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが厭になったのです。
が始まりであると読むのが適当だと思われる。「どうしたものだろうか」と「考え」たり、「弁護を自分の胸で拵えてみ」たり「Kに説明するのが厭になった」りする逡巡の中で「五、六日経った」ということなのだ。
 一方「二三日」の始まりは「私はそのまま二、三日過ごしました。」とあるように「その」が指している部分、つまり上の引用部分「私がこれから…」である。とすれば「二三日」と「五六日」の勘定の始まり、起点は同一ということになる。したがって両者は重なっている、足してはならない、と考えるのが妥当である。
 これで一応の結論は出た。Kが自殺した土曜日から遡ること「五六日」前に私の逡巡が始まったのであり、それはすなわち奥さんとの談判を開いた日(④)に他ならない。とすれはそれは日曜か月曜である。だがこの二つの可能性は容易に一つに結論づけられる。なぜか? 気付く生徒が現れるまで待つ。誰かが気付く。「仮病を使って学校を休む」からには日曜日ではない。したがって月曜日なのである(現在の曜日制はグレゴリオ暦を官庁が採用した明治6年から始まっているから、「こころ」の舞台である明治三十年代には当然日曜は学校が休みだったと考えていい)。つまり④の月曜から⑥の土曜までは実は5日だったということになるが、遺書という場でそうした日数を正確に限定することの不自然さを思えば、ここに「五六日」という曖昧な表現が使われていることは全く自然なことである。
 だが、それでは「二三日」の終わりはいつなのか? 「2、3…5、6」と「五六日」を数えていく途中過程ということであり、殊更に終わりがいつなのかは問題にすべきではないのだろうか?
 だが実は「二三日」と「五六日」が重なっているか重なっていないかは、両者を区切る切れ目、カウンターをリセットして日数を数え直すエポックメイキングな何かがあると認めることができるかどうかの問題なのである。とすれば「二三日」は「私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。」とか「私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。」とかいう記述をもって終わりの区切りをなしているのであって、実はそれこそが「五六日」の始まりではないのか。とすれば両者が重なっていると結論するのは早計だったのではないか?
 そうではない、というのが私の解釈である。「二三日」という勘定は「二日余り」との関係で考えるべきであり、前者の「三日」と後者の「二日」を足したものが、月曜から土曜までの「五日」なのである。とすればその「三日」目には何があったか?
 先の「立ちました」とか「立ち竦みました」に匹敵するような区切りの候補となる記述として、四七章の前半には「私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。」という記述がある。これこそ逡巡の過程における、月曜から数えて「三日」目、木曜日の思考だったのではないか? そう考えると、なんのことやらここではわからない「二三日」という途中経過が俄に意味ありげに見えてくる。結局この「考え」は「立ち竦」んだことによって実現しないのだが、「私」が「奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考え」たちょうどその頃、まったく皮肉なことに、まさに奥さんは「私」の知らないところでKにそのことを話してしまっていたのである。

 ここまでで山を越えた。後は決着までもう一息だが、またしても以下次号に続く。

2014年10月13日月曜日

「こころ」2 ~曜日を推定する①

 前回「要約しながら通読する」という展開について書いたのは、それが「初めての試み」であるような授業展開だったからだが、今回の「こころ」の授業では、そもそも導入の第1回も今回が「初めての試み」だった。一昨年放送されたNHK教育の「Rの法則」で「こころ」が採り上げられた回を編集したビデオを試聴したのだった。雛壇に高校生が並ぶ番組の取っつきやすさと、紙芝居仕立てでざっくりと紹介される内容紹介で「こころ」の粗筋をたどれる簡便さに加え、番組冒頭から早速「友人と同じ人を好きになったらどうする?」と、高校生の関心にコミットしながらも、人口に膾炙した例の方向に「こころ」理解をミスリードしかねない番組作りが、今後の授業展開の方向と対比させやすい、といったいくつかの利点があったのだ。今後読む「こころ」という小説に対する期待感を盛り上げるという意味での感触は上々だったようだ。ビデオをみたこちらのクラスの生徒から他のクラスにも情報が流れたそうで、別のクラスの担当者から「生徒に『例のビデオは見ないのか』と訊かれた」という話を聞いた。そちらのクラスでもその後、見せたそうである。

 そしてそれに続く2回目以降の授業が前回書いた「要約しながら通読する」という展開である。
 さて、今回は通読が終わった後の最初の展開について辿る。

 以前は最初の1時限で通読した後は、2時限目は「テーマ」と「Kの自殺の動機」を考えさせる、という展開だった。一読した直後の捉え方を自覚させるためである。
 だが今回はさらに全体像を捉えさせるために以下の展開をはさむ。これもまた今回が初めての実践である。

 48章で「K」が自殺したのは「土曜の晩」である。では、教科書所収の冒頭40章の「ある日」は何曜日か? これを推定しようというのがこれから展開する考察である。
 まず40章の「ある日」と48章の「Kの自殺」を、間隔を空けて(なおかつ後述する内容を書くための余白を左右のどちらかにとり)黒板の左右に書く。「ある日」とは「図書館」で調べ物をしていたら「K」が訪れて、その後上野公園を散歩することになる日のことだ、と確認しておく。この始点と終点の間にあった出来事がそれぞれ何曜日のことか、可能な限り精確に推定せよ、と指示する。同時に3人前後のグループを作って話し合いながら進めるように指示する。
 これだけで生徒の話し合いはすぐに盛り上がる。せっせとページをめくりながら、これがいつのことで、そこまでにどれだけ間が空いてるはずだから…、と互いに気がついたことを出し合う。
 しばらく自由に話し合わせておいてもいいのだが、時間を短縮する必要があれば、もしくは話し合いに集中していないグループが出てくるようなら、一旦話し合いを中断し全体を集中させて、「ある日」と「Kの自殺」の間に、本文にあった出来事を挙げさせて書き出していく。生徒が挙げる度に、そこまで挙がった出来事のどこの間に書くべきかを確認して、黒板に書き出していく。

  • 40章  ① ある日~図書館
  • 40~42章 上野公園の散歩
  • 42章    黙りがちな夕飯
  • 43章  ② 真夜中のKの訪問「もう寝たのか」
  • 43章  ③ 「その日」~登校途中、Kを追及するが明確な答を得ない。
  • 44章    「覚悟」について考え直す。
  • 44章    仮病を使って学校を休む。
  • 45章  ④ A 奥さんとの談判「お嬢さんを下さい」
  • 45~46章 長い散歩
  • 46章    夕飯の席で奥さんの態度にひやひやする。
  • 47章  ⑤ B 奥さんがKにAの件を話す。
  • 47章  ⑥ C 奥さんからBの件を聞く。
  • 48章  ⑦ Kの自殺

 実際には章番号ではなく、教科書のページや行を付して書き出していく。
 また、実際には全てのクラスで上記が網羅されるわけではないし、上記の出来事の一部を重ねて挙げてしまう生徒もいる。あるいは「出来事」として特定できない記述を挙げる生徒もいる(「胸を重くしていた」とか)。とりあえず上記の①~⑦は少なくとも挙げさせて、書き出しておきたい。
 話し合いがある程度進んでいれば考察の成果を聞いてもいいが、これも短縮と展開の整理のために、こちらで進行して、次の事項を順次確認して、右の板書の左右の余白に書き出してもいい。

  • 44章 二日経っても三日経っても
  • 44章 一週間の後
  • 47章 二三日の間
  • 47章 五六日経った後
  • 48章 二日余り

⑦「Kの自殺」が「土曜日の晩」であったという記述と、上の手がかりから、遡りながら曜日を確定していくように指示する(実際には最初のクラスだけ様子を見るためにフリーの話し合いの時間を設けたが、後のクラスでは上記のような展開で進行を揃えた)。

 さて、最初に確定できるのは⑤が木曜日だということだ。⑤と⑥が「二日余り」と「勘定」されているからである。だがそもそも、ここにつまずく生徒もいる。不審に思って聞いてみると、⑥が⑦と同じ土曜日だと考えていないようである。つまり、奥さんから⑤の件を聞かされた⑥の出来事と、「二日余り」と「勘定」したのが同じ日だと考えていないか、もしくは「勘定」してから「私が進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心した」「土曜の晩」までに日をまたいでいると解釈しているのである。それらの可能性が全くないとは言わないが、日をまたいでいれば、それを示す記述があるはずだとも言える。「書いていないからといって、ないとは言い切れない」と「書いていないことは、なかったと考えるのが自然だ」は、それが必要なことである場合、後者に分があると考えるべきだろう。
 ちなみに「二日余り」の「余り」というのは何だ? と聞いてみる。「二日余り」に「三日」の可能性を含めれば⑤が水曜日という可能性もあるということになるが、恐らくそうではあるまい。他と同じ「二三日」という表現と違って「勘定してみると」という表現は、それがいつのことだったかが奥さんの話から確定できるということだ。だからこそ「二日余り」という「勘定」が成立しているのである。
 つまり奥さんはそれが端的に「木曜日」か「一昨日」のことだと、あるいは具体的なエピソードととも(あなたが夕方出かけているときに…とか、娘が習い事から帰ってくる前に…とか)に話したのである。とすると、「余り」という表現は、奥さんとKの話が日中もしくは夕方のことであり、「私」が「勘定」したのが夜であることを意味しているのだと考えるのが自然だ。どこのクラスでも、何人かに聞いてみるとこうした推論をする生徒は必ずいる。同意して先へ進む。

 長くなったので(というのは想定内)、以下次号。

2014年10月12日日曜日

別役実、佐原の大祭

 今日は「随筆」ではなく「日録」
 三連休。まず午前中から出かける。英語スピーチコンテストだという娘2を心の中で応援しつつ、娘1の関わる公演を観に東京まで。劇研10月公演。もう4回目の観劇だが、娘は今回も演出も出演もせずに照明オペレーター。
 ここまでも、文句なしと言い切れる公演はなかったが、今回も満足のいく舞台にはならなかった。別役実ってのは期待したいような不安なような、と思っていたが、結局なんだかなあ、という感想に終わった。もちろん(というしかないような)、わけのわからんお話だが、まあそれはすっきりとわかるような話を期待しているわけではない。それでも、辻褄がわからないまでも伝わるべき感情や不条理感がちゃんと伝わればいいんだが、それよりも必然のわからない激情が全面に出て、それで観客を徒に脅しているような絶叫系の演技に出演者が中毒(「依存症」という意味で)しているんじゃないかという疑いを消せなかった。30年くらい前の脚本だそうだが、どうしてまたこれを選んだのやら。次回に期待。
 一旦水道橋まで戻って会議だが、時間が早すぎるから新宿で時間をつぶそうとしてしばらくウロウロしたが、結局どこに居場所を見つけられるでもなく、とりあえず向こうに行ってからドトールででも時間を潰そうと電車に乗ったドアの正面に会議の出席者が座っていてびっくり。新宿駅でこんな偶然ってある?
 夜の会議と飲み会の後でもう一度、娘のアパートまで行って泊めてもらう。舞台の感想やらその他もろもろをお喋りしているうち深夜が更ける。

 朝は、公演最終日に出かける娘に邪魔にならないくらいに先んじて出て帰る。が、約束があったのでそのまま佐原まで。佐原の秋の大祭の三日目、最終日。
 東大の大学院に在籍中の前任校の卒業生、卓が、佐原高の生徒との合同プロジェクト「さわら まちづくりプロジェクト(SMP)」の活動拠点である「さわらぼ(さわら&ラボラトリ)」を見に来いと言うので、一度は佐原高の文化祭の時に行きそびれたが、今度こそは実行。
 東大のサイト
 佐原高のサイト
 facebook
 評価は保留。感想も微妙。私などがちょっと見てどう思おうがどう言おうが、これから現実に起こる事だけがその成果なのだから、今の段階で門外漢が期待も失望の予感も語るまい。ただ、人の繋がりができていく不思議さに感じ入るところはあった。たとえば私がこの先この活動にどんなふうに関わらないとも限らない。それを拒否するものでもないし。そうなったときにまた、いくらか感じたことがあればあらためてそれを言おう。
 偶然居合わせた私に長いことつきあって、祭やら佐原の歴史やらについていろいろと興味深いお話をして下さった、ほぼ私の父親世代の小高さんに感謝。卓が相変わらず飄々としながらもエネルギッシュで凄いなあと感嘆させられたのも嬉しかったし、もっとじっくりと研究のことなど話したかったが、それはまた後日。
 「さわらぼ」にいるあいだに、前任校の卒業生が通りがかって、気付いてくれた向こうが話しかけてくれた偶然にも(学校と佐原の距離はそうとうなもんだから)驚くとともに嬉しかった。
 大祭の盛り上がりは外部の者には近寄りがたいものがあって、以前は当事者たちの「ヤンキー」っぽさに眉をひそめたくなってしまったものだが、やはりこんなふうに外部から安易な感想を言うのは無責任というものだと思う。それより今日は、こんなふうに子供たち、少年、青年、壮年、老年と各世代が一緒に大掛かりなイベントに関わるなかで、それぞれに上の世代の振る舞いから「世間」とか「社会」とかいったものへの参加の仕方を学んでいく共同体のありようが、そういう関係性を持たない新興住宅地でしか暮らしたことのない私などにはとても貴重でうらやむべきものに感じられたのだった。


 

2014年10月9日木曜日

「こころ」1 ~通読と要約

 昨夜の記事は疲れた。まあ毎度、日をまたいでから、「前日」に投稿するのだが、昨夜はそのままの日付で、書き終えて投稿した。だから、今日のこの記事と同じ日付で二つの記事が並ぶはずだ。「同志」は既に読んでくれたようだ。
 こういうことを平日に続けるのは無理があるよなあ。やっぱり。
 だが、書かずにいるとどんどん溜まってしまうから、下記のような記事も、それほど古びないうちに書いてしまおう。

 寝不足のまま一日過ごしたが、授業はもうずっと楽しくてテンションが高いままだから、学校に行くと辛くはない。
 前回の予告の後、ずっと「こころ」をやっているんだが、最近ようやく「通読」が終わったところだ。そう、とりあえず通しで一回読んだのである。7~8時間かけて。
 今回が初めての試みだが、この「通読」には、以前「舞姫」で使った方法を応用した。一章毎(新聞連載の際の一回分)を朗読した後で、今読んだ章の内容を3文で要約せよ、と指示するのである。必ずノートに書かせる。教科書所収の9章分がそれぞれ3文で書かれれば、ノート1ページに収まるくらいになるはずである。文章表現力のある者は、ある程度の内容を盛りこんだ長い1文を三つ並べることができる。そうして、見事と言っていい要約を書いていた者もいた。だがもちろんそうした生徒は稀である。平均的な生徒は、些末な本文の一部をそのまま抜き出してくるような生硬な文を書いてしまうか、そもそも「要約」という行為の前に固まっている。そこで最初のうちは、なるべくシンプルな文で、誰がどうしたとか、何がどうなったとか言えることを三つ並べなさい、と指示する。その三つの文の脈絡が自分なりに納得できればいい、と繰り返し言う。適当な時間をおいて、「まず1文目は?」と訊く。「わからない」と言わせない。いざとなれば本文の一部を読み上げればいいのだ。もちろんそれでは1章を3文では掬い取れないだろうから、「それで2文目をどうつなげるつもり?」と追及する。
 何人もの生徒を指名しながら、必要に応じて「1・2文目を続けて読んで」とか「3文、通しで」とかいった重ね塗りもして、それぞれの章を20分(理想を言えば15分だが)ほどで読んでいく。
 要約は、できあがった要約文に意味があるのではなく、ただ要約しようとすること、そのことだけに意味がある。こちらが内容をまとめて板書し、生徒に書き写させるなどといった行為は、全く無意味である。ほぼ1500字程度(原稿用紙3枚)の「こころ」1章の文章の内容を三つの塊にしようとするその思考によって、生徒はいくらかなりと内容を把握する。もちろん、発表されていく要約文の適否に対してこちらが評価する言葉を聞きながら、さらに内容を精査していくのである。
 もちろんこうしたやり方で、唯一の模範解答であるような3文が授業という場に提出されるとは限らない。それでも比較的頼りになる生徒に回したりしながら、まずまず妥当と思われる三つの塊を提示しつつ、次々と読み進んでいく。そうするうちに、後へ行くほど、それぞれがそれなりに三つの文を自力で並べるようになっていく。
 例えば、多くの教科書では、Kが自殺する章までを収録しているのだが、この、原作の48章は、どのような「三つ」で把握されるか?

  1. Kが自殺したこと。
  2. 遺書の内容を確かめたこと。
  3. 遺書の内容。

といったところだろうか。もちろん、こういった「内容」を必ず「文」の形で表現させる。どのような主語と述語を選び、そこにどのような修飾語や挿入句を挟むか。生徒は本文を読みつつ、自分の頭でそれを噛み砕こうとする。「私」が「K」の自殺を発見する場面は文章量としてもこの章の多くを占めているから、そうした「私」の行為を文にしてしまうと、1の内容が1文では済まなくなる。「仕切りの襖が開いている」とか「Kの部屋を覗き込む」とか「がたがた震え出す」とか。だがそれでもいい。ともあれ自分で考えることを称揚するのが先決だ。
 また、3の代わりに「遺書を元に戻したこと」を挙げる者がいる。これは実は重要な点だよ、とその着眼を賞賛する。
 こうした「要約」に、ときおり少々の質問も混ぜる。内容把握の為に有用と思われる確認である。それほど深くは踏み込まない。だが、「奥さんとの談判」の日の夕食の席の奥さんとお嬢さんの描写が意味するものについては、つい些か問答を繰り返して考えさせたりして流れを止めてしまったりもした。
 とまれ、これだけでもう中間考査目前である。まだほとんど入口に立ったに過ぎないというのに。
 だが前の学校で「舞姫」を同じように読んだときも、なんとなくただこれだけで生徒が結構面白がっているような感触があったのを意外に思ったのだった。ここまでは全くの準備体操、退屈な時間を我慢して、先に始まるゲームに備える時間だと開き直ってやらせていたからだ。だがやってみるとこちらも何だか毎時間面白いし、生徒もそんな感じである。なんであれ、ともかくも頭を使って次々と課題をこなしながら目前に展開される光景を受け止めるのは、やはりそれなりの面白さがあるということなのだろうか。あるいは、読むという姿勢が、強制であれしかるべく調えられると、やはり小説の魅力自体がそれに触れる者を楽しませるということか。
 だが、本当に面白くなるのはこれからである。

続 アニメ「ハイキュー!!」の凄さ

 予告した「ハイキュー!!」讃の続きを書く。

 前回分析したように、まずは相手方の高度なプレーを描いて敵の「凄さ」を感じさせておいて、次は、その実力差をひっくり返す可能性のあるこちら側、主人公のプレーをどう描くか。
 先述の通り、主人公の一人、日向の武器は爆発的な瞬発力を生かしたワイド・ブロード(広範囲な移動攻撃)なのだが、これも、毎度同じようにアニメ技術だけでそのスピード感や力感を描くだけでは「凄さ」のインフレを起こしてしまう。どうするか。
 まずは後衛にいるとほとんど戦力にならない日向が前衛に回ってくる期待感を、敵のキーマン・及川の「不安」として描く。ローテンションによる日向の前衛交代を「ああ、いやだ」と迎える及川の目からは日向が「ウォームアップ・ゾーンでフラストレーションを溜めた小さな獣」と表現される。そうしたナレーションに被る日向の表情は静止画で描かれ、コートに入る喜びに、憑かれたような白目がちだ。
 こうして期待を高めた上でのお約束のブロードなのだが、これも、単に決めたのではそれこそ「お約束」になってしまうだけだ。だから、ここぞというときには特別な見せ方をしなければならない。今回のアタックでは、例によってスローモーションを交えた緩急のある描写でダイナミックスを感じさせた上で、そのあまりのスピードにブロックが付いて来られないばかりか、相手コートに突き刺さって大きくバウンドした後に、登場人物の何人かのバストショットに息を飲む音声を被せるだけの静止状態を描いて、たっぷり間を取ってから体育館内が一気に歓声に包まれる、という演出で見せるのである。
 もちろんこれとても、そう何度も使える演出ではない。今回限りの使い捨ての覚悟で描かれた演出かもしれない。ともあれ、この「神回」ともいえる23話では、このようにして敵のプレーと主人公側のプレーのそれぞれが、高いレベルで拮抗する「凄さ」を、観る者に感じさせて始まるのだった。

 「ハイキュー!!」はまた、何というか「文学的」なマンガだ。優れたスポーツマンガが文学的になる例は、先述の「ピンポン」も、ひぐちアサの「おおきく振りかぶって」も、新井英樹の「SUGER」も、坂本眞一の「孤高の人」(登山がスポーツかどうかは微妙だが)も、決して類例がないわけではないが、「少年ジャンプ」に載って少年少女に広く読まれているこの作品が、このレベルで「文学」なのは喜ばしいことだと思う。
 スポーツマンガが「文学」であるかどうかは、つまりそれがどれほどスポーツという行為や戦いの意味について、その競技の本質について考察しているかにかかっている。そしてそれを語る言葉が、何というか「文学的」なのだ。
 例えば、この23話でいうと、ラリーの続くシーソーゲームに被せて、応援に来ているOBが次のように語る。
 バレーは、さ、とにかくジャンプ連発のスポーツだから、重力との戦いでもあると思うんだ。囮で跳び、ブロックで跳び、スパイクで跳ぶ。さらにラリーが続いて、苦しくなるにつれて思考は鈍っていく。ぶっちゃけ、囮とかブロックはサボりたくなるし、スパイクも誰か他のやつ打ってくれって思ったこともある。長いラリーが続いたときは酸欠になった頭で思ったよ。ボールよ、早く落ちろ。願わくは相手のコートに。
こうして、観る者(あるいは原作の読者)は、そのラリーを体験する選手の内面に心を重ねていく。こうした心理描写と、なおかつその客観的な考察が、プレーを観る者の思考のレベルを引き上げてくれる。

 それでもやはり厳然と実力差はある。マッチポイントに向けて、じりじりと引き離されていく。むしろ観る者の期待を高めた上で、ここぞというときに主人公のアタックもブロックされる。
 ここで「流れを変える」ためにコーチのとった作戦はピンチサーバーの投入である。コートインするのは試合には初出場の控えの一年生。もちろん彼が個人的に練習時間後にサーブを習いにOBを訪れるエピソードが、以前の回で描いてあってこれが伏線となっている。だがそのサーブはまだまだ決定率も低く、習得過程に過ぎない。はたして物語はこの交代をどう決着させるか。
 まず交代するサーバー本人は意気揚々とコートインするわけではない。それどころか、重要な場面での突然の抜擢にすっかり萎縮している。コートに入る瞬間も、たっぷり間を取って描かれる。白線をまたぐ逡巡を「この線の向こうは違う世界だ」というナレーションとともに描いてから、コートに入った瞬間、熱気が彼の顔を襲い、髪が後ろに流れる「心象描写」が続く。コートに立つ味方も敵も、揺れる炎を背景にして険しい顔をしている。
 だが一方で彼の緊張を描くばかりではない。実はコートに立つチームメイトもまた、初出場の彼の緊張を痛いほどわかっていて、その緊張に感染してしまっていて、だがそれを表には出すまいとしているのである。前述の「険しい顔」は、視点を変えてみるとまったく違った意味合いであったことが明らかになる。
 だがその緊張を彼に伝えまいとみんな必死に平静を保っている。彼の緊張を和らげようとするベンチの控え選手の気遣いや、それでも緊張の余りサーブゾーンでボールをバウンドするうちに自分の足に当てて、コート外にボールが転がってしまう痛々しさを描いてから、またしても先述のようなナレーションによって、この場面でサーバーとして立つことの重みを分析してみせ、観る者の感情移入を促す。
 さて、このサーブは成功するか否か。果たして本当にサービスエースが描かれるのか。
 もちろんこれが反撃のきっかけとなるべく、劇的な決定をさせるという展開もあるだろう。やはりここでもやっぷり間を取って、スローモーションを交えた描写でボールトスからジャンプ、そしてフローターサーブのボールが無回転で飛ぶ様子が描かれる。
 だがこのサーブは、ここまでの期待をまったく無視してネットにかかるのである。ここでも先ほどと同じ、コート内に静止した一瞬をつくって、この結末に呆気にとられる観る者の心情を掬い上げる。
 現実的には可能性の高い展開ながら、これは物語的には、アリなのだろうか? もちろんこの場面で期待に応えられなかった一年生の情けなさと悔しさと、そこから前に踏み出す心理的なドラマを描いてはいる。「すみません!」と謝る彼に、キャプテンの三年生が「次、決めろよ」と声をかけ、彼が泣き顔で「はい!」と答える。観客の女の子が「ピンチに突然出されて、失敗すると引っ込められちゃうんだ」「なんか可哀想…」と呟くのに答えて、くだんのOBが語る。
「ピンチサーバーはそういう仕事なんだ。その1本に試合の流れと自分のプライドを全部乗っけて…、そんで、タダシは失敗した。でも、今ここで自分の無力さと悔しさを知るチャンスがあることが、絶対にあいつを強くする。」
いささか通俗的ながら、やはりきわめて「文学的」である。
 だが、ゲームの展開としてこれでいいのだろうか? ピンチサーバーの投入の失敗で、さらに事態は悪化したのではないか?
 そうではない。彼の緊張にシンクロしていた選手が、この失敗によって緊張から解き放たれて、もう一度集中力と闘志を新たにするのである。「流れを変える」という当初の目論見はこうして逆説的に果たされたのである。

 緊迫した点の取り合いが、テンションの高い描写で続く。こぼれ球を足で拾ったり、レシーブに必死で顔からコートに突っ込んだり、快哉を叫んだり、歯ぎしりしたり。
 それでも相手の総合力の高いことが、遠ざかる及川の背中に手を伸ばす心象描写で描かれる。得点するとすぐ届きそうになるが、相手のアタックが決まってマッチポイントになった瞬間、届かずに宙を掴む。万事休すか?
 相手の速攻を肩口で弾いたボールがふわりと相手方コートに上がる。相手のチャンスだ。ネット際で待ち構える及川が、ダイレクトで押し込もうとジャンプしてくる。コースをコントロールされては、防ぐ手立てはない。スローモーションで及川の手にボールが近づく。
 だがこのシーンは前に観たことがないか?
 そう、及川の手と、そこに近づくボールの間に、下から差し込まれるのは、主人公の一人、セッターの影山の必死に伸ばした片手である。相手方コートに入るボールをワンハンドトスで自陣に引き戻す瞬間、及川の背中に再び手が伸びるイメージが挿入される。
 そしてかろうじて上がったボールに、影山の背後からせり上がってくるのはもう一人の主人公、日向の姿である。コートに落ちていく及川と影山のアップを挟んで、日向の体が画面手前に膨れていく。そしてもう一度、及川のユニフォームの背中を、今度こそ鷲摑みにするイメージが力強く挿入され、そこからはスピードを戻して日向のスパイクが相手コートに突き刺さる。
 ここで、冒頭のプレーが攻守を入れ替えて反復されるのであった。
 そうくるか!
 画面の中の会場の人々とともに、リビングの私と娘も歓声を上げている。
 なんともはや、見事な物語であり、それを高いレベルの演出と作画で見せる見事なアニメーションである。

 こうして長々と書いてきたが、これでも、正味18分ほどのこの回の物語の興趣の全てを掬い上げているとはとても言えない。まだまだ語り足りぬ面白さを横溢させているのである。これを観ている体験を再現しようと思ったら、たぶんまるまる「小説」として書いてしまうしかないような気もする。
 もちろん一方で小説として読むことはこのアニメを観るという体験とは別の体験を読者にさせるに過ぎないのだが。だからブログとしてはその体験を分析し、考察を加えてその面白さを伝えようとしているのだが、果たしてその目的は達せられたのだろうか。

 とまれ、とりあえずこの2本の記事を、「ハイキュー!!」鑑賞における同志である娘に捧げる。

2014年10月7日火曜日

ものんくる

 ものんくるのメジャー第一弾『南へ』が、発売前から予約をしていたAmazonから届いた。実は前作の『飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち』のAmazonのカスタマー・レビューは私が第一号で、長らくレビューはその1本しかなかったのだが、さっき見たら2本になっていた。『南へ』も第一号になってやろうと狙ってはいるが、その前にとりあえず聴かねば。とりあえずざっと流して、「良い」とは思うものの、そこそこ読めるだけの感想を言おうとなるとちょっと時間がいるなあ。
 発売されたばかりで、Windows Media Playerで聴こうとすると、まだデータベースにCD情報がアップされていないから曲名が表示されない。そこまで発売ほやほや。

2014年10月6日月曜日

発見(マゼラン的な意味で) Polaris,Predawn,strandbeest

 本屋や図書館は情報が整理されていないから偶然の出会いがあるが、ネットは関心のある情報しか提示されないから、新しい情報に出会わない、といった類の言説を耳にすることがある。昨日、息子の小論文のネタになっていた朝日新聞論説委員の清水克雄の文章もそういう趣旨だったし、今日読んだ黒瀬陽平の文章もそうだった。
 どうだか。
 紙の辞書では、調べたい項目以外の項目が目に入ってくるから偶然の出会いによって知識が増えるが、電子辞書では調べたい項目しか表示されないからそこで終わってしまう、とかいうのも同じような論理で、しばしば目にするが、毎度、どうだか、と思う。
 確かに黒瀬の論では検索エンジンのパーソナライゼーションが根拠になってはいるのだが、そもそも無秩序な情報に触れたとて、我々は自身の関心に沿ってしか情報を選ばない。逆に、アナログな情報提示に郷愁を抱いているように私には見える論者には、情報の集積密度の濃い仲間との交流の中で刺激を受けつつ新しい情報を仕入れていたとかいった若かりし頃の経験はないのだろうか(いわゆる「サークル」とか「サロン」とかいった)。それと検索エンジンのパーソナライゼーションの違いは何なのか。
 新しい情報に触れる機会の多寡は、ソースがデジタルかアナログかに拠るのではなく、受け取り手の関心のありように拠るはずだ。この、関心のありように紙の本の図書館とネット図書館は本当に本質的な違いを生じさせるのか?

 ということで、昨日と今日、調べ物をしていて「発見」した、私にとって「面白い」情報。

 昨日は、北園みなみの新曲はアップされていないのかと思って久しぶりにここを覗きに行って、そこから跳んでLampの曲をYou-Tubeで聴いていたら、Polarisというバンドが薦められていて、聴いてみると何だか好みだ。片っ端からダウンロードして、通勤の車ででも聴いてみようと思う。
 たとえばこういうの。

 Lampに比べて陰影に乏しいとは思うが、リズムとサウンドと声が好みで、基本的に心地良い(そういえば最近「陰影」という表現をよく使ってしまうのだが、この場合は主にコード進行の複雑さによるものだ。だが聴きたくなるかどうかはまずリズムとサウンドと声が好みであるかどうかだ)。
 さらにそこから薦められてしまったのがPredawnという個人ユニット。

 これも好みだ。というか、PolarisにしろPredawnにしろ、活動歴は数年あるというのに、その間、一度もそうした情報に触れることがなかったのが、なんとも不思議に思われる。
 北園みなみから辿って、というと、しばらく前にKenny Rankinを知った時も驚いた。70年代から活躍している、こんな好みのミュージシャンが、どうして今まで引っかからなかったのか、本当に不思議だった。
 こうした出会いをもたらすネット環境は、例えばレコード屋やラジオとどう違うのか。むろん、これらのミュージシャンに出会う際にも、それほど好みでないミュージシャンの曲も聴いてみているのである。検索エンジンのアルゴリズムがどう情報を秩序づけようが、結局選ぶのはこちらの好みでしかない。
 こうして「発見」された情報は、もちろん、私などが「発見」する前から存在していたのであって、マゼランがアメリカ大陸を「発見」したわけではなく、単に「到達」した(もちろんマゼランがヨーロッパ世界にとっての初到達ですらないはずだが)のと同じ意味で、私は航海しているうちにこれらに「到達」したのだった。いや、これらの情報は私が探したのではなく、単に検索エンジンが目の前に差し出してくれただけだと言うべきか? マゼランの航海の如き苦難がそこにあるわけではないが、それは情報の質にどんな差を生じさせるのか?

 今日は、やはり調べ物をしているうちに谷川俊太郎×DECO*27という驚くべき対談の記事を見つけてしまい、楽しく読んだ。
 Theo Jansenの「strandbeest」の動画も面白い。

 台風で休校になって思いがけず時間ができたので、仕事を片付けてからこんな豊かな時間が過ごせたのだが、こういう「発見」(まだ言うか?)は本屋や図書館で、同じ棚にある別の本の背を見て、思わず手にとってしまうのとどう違うのか?

2014年10月5日日曜日

アニメ「ハイキュー!!」の凄さ

 この9月までの1クールで見ていたアニメは「残響のテロル」と「ばらかもん」だが、それだけでなく、その前のクールからの引き続きで見ていたのが「ハイキュー!!」である。
 4月に新番組が次々と自動的に録画されていくうちに(ハードディスクレコーダーをそういう設定にしてある)、その一つとして録画されていたのが「ハイキュー!!」だった。
 そういう新番組は、片っ端から冒頭の所を見て、特筆すべき特徴のないもの(美少女やイケメンがわらわら出るような学園物やファンタジー)を、ばさばさと消していくのだが、「ハイキュー!!」も、それが「配給」でも「High-Q」でもなく「排球」のことだとわかって、特にスポーツ物を見る動機もないから、即座に消そうとした。
 だがその瞬間、一緒に新番組チェックをしていた娘が「待った」をかけた。彼女はその、「少年ジャンプ」連載のマンガであるところの原作を知っており、予め見る気でいたのだった。一瞬の遅滞でもあれば、ボタンを押して消してしまうところだった。すんでのところで消去を免れた第一話を娘と見ているうち、これは悪くないと、当面様子をみることにしてから半年、結局近年、最も面白いアニメであるという評価で最近放送を終えたのだった。

 原作はちょっとしか読んでないので評価できないのだが、もちろんこういうのは基本的に原作が良いのだろう。原作を超えるアニメはほとんど存在しない。あれほど素晴らしかった「ピンポン」も、その出来に感心して原作を読み返してみると、決して原作を「超えて」はいないのだった(もちろん松本大洋のあの原作のレベルに匹敵するようなアニメを作ったということ自体、湯浅政明をいくら賞賛してもしすぎることはない)。
 だがアニメ版「ハイキュー!!」が素晴らしいことも間違いない。ほとんど毎回、娘と見ていて歓声を上げてしまう場面があり、その回の放送を見終わると「いやあ、面白かった」と言わない回がほぼなかった。アニメーションとしての作画や演出がきちんとあるレベルを保っていないと、こうはいかない。
 たとえば、しばしば感心するのはボールの動き。手前に飛んでくるボールの大きくなるスピードと画面上を移動するスピードで、ボールが飛んでくるスピード感が表現されるんだろうが、これがリアルなのである。また、ボールの回転によって軌道が変わる様子もリアルだ。フローターサーブの、回転が止まって軌道が揺れるところなんかも実にうまい。ボールの表面の凹凸も丁寧に(たぶんCGで)描き込まれている。
 あるいは主人公、日向の特長である瞬発力が観る者にきちんと感じ取れるのも優れたアニメ技術ゆえだ。たぶん、単純な画面に対する横移動だけでスピードを表現しようとしたのではあのダイナミズムは出てこない。画面の奥行きに対する移動、基本的にはカメラに接近する動き、つまり対象物(日向の体)の膨張スピードと、決めポーズで静止するタイミングが適正にコントロールされているから、そのスピード感を実感して観る者の意識が一瞬で引きつけられてしまうのだろう。
 だがこうしたアクションのレベルの高さは、SFでもバトルものでも、感心するようなものが少なくない。先日批判した「残響のテロル」も、アニメーションとしてはよくできていた。だからやはり「ハイキュー!!」の素晴らしさは基本的には物語の持っている強さに拠るのだろう。娘と二人、最も熱狂して見終えた第23話「流れを変える一本」(9月7日放送)を例に考えてみる(すぐにでも書こうと思って、もう一ヶ月も経ったのだが)。

 物語は県大会の三回戦、練習試合の経験のある因縁の相手との試合は1セットずつ取ってのファイナルセット終盤を迎えている。結局は準優勝することになる相手校は強豪といっていい。ラリーが続くとじりじりと実力差が表れる。
 この、「実力差」や「強さ」をどう描くか。現実には「強さ」は総合力の差だろうから、単にこちらがミスするか相手のスパイクが決まるかだ。だがそうして相手が得点するというだけでは何ら劇的な要素はない。だから、何らかの形でその強さが「特別」であることを示さなくてはならない。そこで、冒頭から次のようなプレーが描かれる。
 味方サーブを、後衛に回った敵方のキーマンであるところのセッター・及川がレシーブする。このボールをリベロが上げ、それを及川がバックアタックで決める。
 このプレーが強い印象を与えるのはなぜか。まず及川がレシーブをしたということは及川自身がトスを上げることはできないから、このプレーでは相手方には強い攻撃ができず、こちらのチャンスであるという観る者の期待を、直後に及川自身のスパイクが打ち砕く、という、観る者の感情を上げて下げる力学が効果的に働くことに拠るのである。
 さらに、トスを上げるのがリベロである点にも仕掛けがある。ここでコーチが、素人である顧問教師に向かって解説する(この設定も巧みだ)。リベロはアタックラインの前でオーバーハンドのトスを上げてはいけないというルールがあるのだが、このプレーでは、リベロはラインより後ろで踏み切って空中でトスを上げているのである。「咄嗟にハイレベルな攻撃ができる」「これが強豪…」。
 次のプレーの描写も見事だ。
 味方のスパイクに対する相手のレシーブが、ふわりと味方コートに戻ってくる。レシーブボールが敵側にまで返ってしまうのはむろんミスだから、レシーバーの「しまった」という表情が写され、ボールが上がったところからはスローモーションになる。チャンスである。ダイレクト・アタックを決めるべく、主人公・日向がネット際に跳ぶ。日向のジャンプに「押し込め!」という味方の声が被さる。ネット真上の天井からのカメラワークでボールへ向かう日向の手がボールに近づくのにつれて高まる期待に、ボールに届く直前に、画面下から浮上して、日向とボールの間に挿し挟まれる及川の手が影を射す。及川の手がボールを自陣へ戻すと同時に再生スピードを戻して、後ろから跳んだアタッカーがスパイクを決める。及川の手がボールを自陣に引き戻す時には、スローモーションであるという以上に「ため」のある描写によって、直前の期待を裏切るその一瞬を最大限(しかし間延びしないタイミングで)見せておいて、決着は一瞬で見せる。この緩急の切り替え。
 二つのプレーのどちらも、実際の試合の中では起こる頻度の低い、だが不可能ではないプレーである。いわゆる「必殺技」的な物理法則無視のスーパープレイではない(「リンかけ」の「ギャラクティカ・マグナム!!」的な)。こういう、作者の経験によるものか、丹念な取材によるものか、実に貴重なネタを冒頭に並べてみせ、その醍醐味をアニメーションが十全に描ききってみせる。
 そしてこのプレーの直後に、日向をアップにして、微かに嬉しそうな顔で「すっげえ!」と言わせるのだ。期待はいやが上にも高まる。
(今晩は限界なのでここまで。以下次号