2014年10月9日木曜日

「こころ」1 ~通読と要約

 昨夜の記事は疲れた。まあ毎度、日をまたいでから、「前日」に投稿するのだが、昨夜はそのままの日付で、書き終えて投稿した。だから、今日のこの記事と同じ日付で二つの記事が並ぶはずだ。「同志」は既に読んでくれたようだ。
 こういうことを平日に続けるのは無理があるよなあ。やっぱり。
 だが、書かずにいるとどんどん溜まってしまうから、下記のような記事も、それほど古びないうちに書いてしまおう。

 寝不足のまま一日過ごしたが、授業はもうずっと楽しくてテンションが高いままだから、学校に行くと辛くはない。
 前回の予告の後、ずっと「こころ」をやっているんだが、最近ようやく「通読」が終わったところだ。そう、とりあえず通しで一回読んだのである。7~8時間かけて。
 今回が初めての試みだが、この「通読」には、以前「舞姫」で使った方法を応用した。一章毎(新聞連載の際の一回分)を朗読した後で、今読んだ章の内容を3文で要約せよ、と指示するのである。必ずノートに書かせる。教科書所収の9章分がそれぞれ3文で書かれれば、ノート1ページに収まるくらいになるはずである。文章表現力のある者は、ある程度の内容を盛りこんだ長い1文を三つ並べることができる。そうして、見事と言っていい要約を書いていた者もいた。だがもちろんそうした生徒は稀である。平均的な生徒は、些末な本文の一部をそのまま抜き出してくるような生硬な文を書いてしまうか、そもそも「要約」という行為の前に固まっている。そこで最初のうちは、なるべくシンプルな文で、誰がどうしたとか、何がどうなったとか言えることを三つ並べなさい、と指示する。その三つの文の脈絡が自分なりに納得できればいい、と繰り返し言う。適当な時間をおいて、「まず1文目は?」と訊く。「わからない」と言わせない。いざとなれば本文の一部を読み上げればいいのだ。もちろんそれでは1章を3文では掬い取れないだろうから、「それで2文目をどうつなげるつもり?」と追及する。
 何人もの生徒を指名しながら、必要に応じて「1・2文目を続けて読んで」とか「3文、通しで」とかいった重ね塗りもして、それぞれの章を20分(理想を言えば15分だが)ほどで読んでいく。
 要約は、できあがった要約文に意味があるのではなく、ただ要約しようとすること、そのことだけに意味がある。こちらが内容をまとめて板書し、生徒に書き写させるなどといった行為は、全く無意味である。ほぼ1500字程度(原稿用紙3枚)の「こころ」1章の文章の内容を三つの塊にしようとするその思考によって、生徒はいくらかなりと内容を把握する。もちろん、発表されていく要約文の適否に対してこちらが評価する言葉を聞きながら、さらに内容を精査していくのである。
 もちろんこうしたやり方で、唯一の模範解答であるような3文が授業という場に提出されるとは限らない。それでも比較的頼りになる生徒に回したりしながら、まずまず妥当と思われる三つの塊を提示しつつ、次々と読み進んでいく。そうするうちに、後へ行くほど、それぞれがそれなりに三つの文を自力で並べるようになっていく。
 例えば、多くの教科書では、Kが自殺する章までを収録しているのだが、この、原作の48章は、どのような「三つ」で把握されるか?

  1. Kが自殺したこと。
  2. 遺書の内容を確かめたこと。
  3. 遺書の内容。

といったところだろうか。もちろん、こういった「内容」を必ず「文」の形で表現させる。どのような主語と述語を選び、そこにどのような修飾語や挿入句を挟むか。生徒は本文を読みつつ、自分の頭でそれを噛み砕こうとする。「私」が「K」の自殺を発見する場面は文章量としてもこの章の多くを占めているから、そうした「私」の行為を文にしてしまうと、1の内容が1文では済まなくなる。「仕切りの襖が開いている」とか「Kの部屋を覗き込む」とか「がたがた震え出す」とか。だがそれでもいい。ともあれ自分で考えることを称揚するのが先決だ。
 また、3の代わりに「遺書を元に戻したこと」を挙げる者がいる。これは実は重要な点だよ、とその着眼を賞賛する。
 こうした「要約」に、ときおり少々の質問も混ぜる。内容把握の為に有用と思われる確認である。それほど深くは踏み込まない。だが、「奥さんとの談判」の日の夕食の席の奥さんとお嬢さんの描写が意味するものについては、つい些か問答を繰り返して考えさせたりして流れを止めてしまったりもした。
 とまれ、これだけでもう中間考査目前である。まだほとんど入口に立ったに過ぎないというのに。
 だが前の学校で「舞姫」を同じように読んだときも、なんとなくただこれだけで生徒が結構面白がっているような感触があったのを意外に思ったのだった。ここまでは全くの準備体操、退屈な時間を我慢して、先に始まるゲームに備える時間だと開き直ってやらせていたからだ。だがやってみるとこちらも何だか毎時間面白いし、生徒もそんな感じである。なんであれ、ともかくも頭を使って次々と課題をこなしながら目前に展開される光景を受け止めるのは、やはりそれなりの面白さがあるということなのだろうか。あるいは、読むという姿勢が、強制であれしかるべく調えられると、やはり小説の魅力自体がそれに触れる者を楽しませるということか。
 だが、本当に面白くなるのはこれからである。

1 件のコメント:

  1. 拙者、一気に斜め読みをした。

    やばい!
    言ってる事がさっぱりわからん。
    ちんぷんかんぷんだ。

    やはりこころとやらを読んだ後に再読する。

    失礼ツカマツル m(_ _)m

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