2014年10月14日火曜日

「こころ」3 ~曜日を推定する②

 前回に続く「曜日の推定」の展開である。
 47章の、奥さんがKに婚約の件を話した(⑤)のが木曜日であろうという推論を述べた。だが問題は次の段階である。奥さんとの談判はいつ開かれたのか? 47章の「二三日の間」と「五六日経った後」から考えられる結論として生徒の挙げる曜日は木曜日から月曜日までにばらつく。なぜか。⑥の土曜日から遡る日数が、5~9日の間でばらつくからである。最長の九日ならば木曜日で、最短の五日ならば月曜日である。どうしてこんなことになるのか?
 ここからがこの考察の最も肝となる部分である。こうした結論のばらつきを示した上でそうしたことが起こる理由とその決着へ向けて思考を促す。話し合いの中で問題点が捉えられてきた様子が見えてきたら、全体で確認する。
 問題は「二三日の間」と「五六日経った後」の関係がどうなっているか、である。ここが二通りの解釈を生じさせていたために、先のばらつきが表れたのである。「二三日」と「五六日」を合計して最長を九日と考えた者と、合計せずに最短を五日と考えた者である。
 「二三日」と「五六日」は足すべきか、足すべきではないか? 両者は重なっているのか、重なっていないのか? 結論とそこに至る推論の過程を述べよ。
 最初に示した「曜日を推定する」という課題自体は、それなりに物事を筋道立てて考える生徒ならばすらすらと結論に辿り着いてしまう課題に過ぎないのかもしれない。何を正解としてこちらが用意しているかというだけなら、そうした正解者は、学校によっては大半を占めてしまうかもしれない。だが、順を追って、誤解の可能性を提示しながら、それを否定する根拠を考えること、及び自分の推論の妥当性を語ることはそれほど容易ではない。「なんとなく重なっている(重なっていない)ように感じる」では議論にならない。重要なことはこちらからの結論の提示ではなく、生徒に推論の過程を語らせることである(そもそも国語教師の間でもこの件、あるいはこれから述べる結論には異論もある。だからこそ必要なのは「結論=正解」ではなく、推論の妥当性についての議論なのだ)。
 だがそれを語るための手順は自明ではない。ほとんどの生徒は結局本文を未整理なまま辿って「だから重なっている(重なっていない)と思う」と言うしかない。そこで必要に応じて新たな着眼点を提示する。
 「二三日」と「五六日」の起点と終点はどこか? 「二三日」と「五六日」はそれぞれ、何から何までの間隔を数えたものなのか?
 「二日余り」ではこうした疑問が成立しないほど、その始まりと終わりがはっきりしている。「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。」は「奥さんがKに話をし」た日(⑤)から「勘定して見」た日(⑥)の間を数えたことが明らかである。したがって⑥の土曜日から遡って⑤が木曜であると確定できる。だが「二三日」と「五六日」では、話はそれほど簡単ではない。
 「五、六日経った後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。」から、「五六日」の終点が、奥さんが私に、Kに婚約の件を話してしまったことを話す⑥の出来事があった日であることが確認できる。つまり土曜日である。では始まりはどこか? どこから「五、六日経った」と言っているのか? これは「二日余り」のように自明ではない。47章の前半を一掴みに把握する読解力が必要となる。遡っていくと、46章の終わり
 私がこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。私は色々の弁護を自分の胸で拵えてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りませんでした、卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが厭になったのです。
が始まりであると読むのが適当だと思われる。「どうしたものだろうか」と「考え」たり、「弁護を自分の胸で拵えてみ」たり「Kに説明するのが厭になった」りする逡巡の中で「五、六日経った」ということなのだ。
 一方「二三日」の始まりは「私はそのまま二、三日過ごしました。」とあるように「その」が指している部分、つまり上の引用部分「私がこれから…」である。とすれば「二三日」と「五六日」の勘定の始まり、起点は同一ということになる。したがって両者は重なっている、足してはならない、と考えるのが妥当である。
 これで一応の結論は出た。Kが自殺した土曜日から遡ること「五六日」前に私の逡巡が始まったのであり、それはすなわち奥さんとの談判を開いた日(④)に他ならない。とすれはそれは日曜か月曜である。だがこの二つの可能性は容易に一つに結論づけられる。なぜか? 気付く生徒が現れるまで待つ。誰かが気付く。「仮病を使って学校を休む」からには日曜日ではない。したがって月曜日なのである(現在の曜日制はグレゴリオ暦を官庁が採用した明治6年から始まっているから、「こころ」の舞台である明治三十年代には当然日曜は学校が休みだったと考えていい)。つまり④の月曜から⑥の土曜までは実は5日だったということになるが、遺書という場でそうした日数を正確に限定することの不自然さを思えば、ここに「五六日」という曖昧な表現が使われていることは全く自然なことである。
 だが、それでは「二三日」の終わりはいつなのか? 「2、3…5、6」と「五六日」を数えていく途中過程ということであり、殊更に終わりがいつなのかは問題にすべきではないのだろうか?
 だが実は「二三日」と「五六日」が重なっているか重なっていないかは、両者を区切る切れ目、カウンターをリセットして日数を数え直すエポックメイキングな何かがあると認めることができるかどうかの問題なのである。とすれば「二三日」は「私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。」とか「私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。」とかいう記述をもって終わりの区切りをなしているのであって、実はそれこそが「五六日」の始まりではないのか。とすれば両者が重なっていると結論するのは早計だったのではないか?
 そうではない、というのが私の解釈である。「二三日」という勘定は「二日余り」との関係で考えるべきであり、前者の「三日」と後者の「二日」を足したものが、月曜から土曜までの「五日」なのである。とすればその「三日」目には何があったか?
 先の「立ちました」とか「立ち竦みました」に匹敵するような区切りの候補となる記述として、四七章の前半には「私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。」という記述がある。これこそ逡巡の過程における、月曜から数えて「三日」目、木曜日の思考だったのではないか? そう考えると、なんのことやらここではわからない「二三日」という途中経過が俄に意味ありげに見えてくる。結局この「考え」は「立ち竦」んだことによって実現しないのだが、「私」が「奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考え」たちょうどその頃、まったく皮肉なことに、まさに奥さんは「私」の知らないところでKにそのことを話してしまっていたのである。

 ここまでで山を越えた。後は決着までもう一息だが、またしても以下次号に続く。

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