2014年10月16日木曜日

「こころ」4 ~曜日を推定する③

 前回、お嬢さんとの結婚を申し入れる奥さんとの談判が開かれたのが月曜日であると結論するまでの過程を辿った。この過程で、Kが自殺した土曜日と談判のあった月曜日が、それぞれどの記述からどの記述までに対応しているかを確認することも重要である。生徒の苦手とするのは、ある程度の長さの文脈を一気に把握することだ。いま目で追っている文章が前後の文脈の中でどのような位置にあるかを捉えることは、文章を読む上で決定的に重要である。「土曜日」「月曜日」という認識が、どの長さの文章を把握する際に必要な枠組みなのかを意識させたい。
 「土曜日」の始まりは前回確認した46章の「五、六日経った後」だ。ここから所収の47章の終わりまで土曜日の深夜が続いている。
 一方「月曜日」の始まりは、前回の考察にしたがえば44章の「一週間の後」から46章の終わりまでである。その日のうちに「仮病を使って」から「談判」、神保町界隈の彷徨から夕飯までが語られる。
 さらに長いのは教科書所収の40章の冒頭「ある日…」から43章後半部の「しかし翌朝になって」の直前「私はそれぎり何も知りません。」までの一日である。生徒はページをめくりながら「ここもまだ同じ日かぁ。長え!」などと言って確認している。3章半に渡るこの部分に、重要な情報の詰め込まれた上野公園の散歩や、真夜中の謎めいたKの訪問が含まれる。はたしてこれはいつのことなのか?
 考えるべき点は44章の「二日経っても三日経っても」と「一週間の後」の関係である。これは前回の47章「二三日」と「五六日」の関係と同じく、始点を同じくする同一の時間経過を含む期間であると考えていいだろう。根拠は「一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって」の「とうとう」を指摘すればいいだろうか。「とうとう」はその前に経過を前提する副詞である。これが「二日経っても三日経っても」という途中経過を受けていると考えるのが自然である。
 ではその始点はどこだと考えればいいか? この「一週間」は、「私はいらいらしました。…私はとうとう堪え切れなくなって」から、奥さんへの談判の「機会をねらってい」た期間だと考えられるから、始点はそう思うようになった「私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞」いた日、つまり「覚悟」について考え直した、上野公園の散歩の日の翌日である。とすれば、奥さんとの談判を開いたのが月曜日という前回の結論から遡ること「一週間」、前の週の月曜日がそれである。
 では40章の冒頭「ある日」はその前日ということになるが、これで全ての曜日を確定したと考えていいだろうか?
 意味ありげな沈黙をしばし続けて、どう? と促してから問うと、ちゃんと考えている者はそうではない、と答える。「ある日」の続きは「私は久しぶりに学校の図書館に入りました。」である。つまりこれが日曜日ではありえない。では土曜日か月曜日か? 二択だと迫ると、翌日であるところの「その日」は、「同じ時間に講義の始まる時間割になっていた」とあることから平日であるとの論拠を指摘する生徒が現れる。つまり40章の「ある日」が月曜日、翌日43章の「その日」が火曜日なのである。では「いらいら」と「機会をねらっていた」のは「一週間」ではなく六日ということになる。だがここは数年後に書かれた遺書によって回想された過去だということを考えれば「六日後になって」などと正確な日数を書く方が不自然である。物語が大きく動く「ある日」から数えておおよその期間として「一週間」と書くことの自然さは当然認めていいはずである。

 長い推理過程を経て、教科書収録部分の曜日が確定した。前回の板書に沿って確認するなら、

  • 40~42章 月曜 ① 「ある日」~上野公園の散歩
  • 43章         ② 真夜中のKの訪問「もう寝たのか」
  • 43~44章 火曜 ③ 「その日」~「覚悟」について考え直す。
  • 44~45章 月曜 ④ A 奥さんとの談判を開く。
  • 47章   木曜 ⑤ B 奥さんがKにAの件を話す。
  • 47章   土曜 ⑥ C 奥さんからBの件を聞く。
  • 48章   土曜 ⑦ Kの自殺

ということになる。
 以上の設定を、漱石が計算していたかどうかを怪しむ向きもあろう。これは穿ち過ぎ、深読みに過ぎるのではないか? だがこうして考えてみた感触では、漱石は充分にこうした設計をした上で書き進めているように思える。48章に唐突に登場する「土曜日」という曜日の指定は、翌日の奥さんや下女の行動に制限を与えるための設定だと考えられるが、そこから遡る出来事の曜日は、明確な時間経過の計算に基づいて設計され、不自然でない程度の日数の明示によって読者の前に提示されているように感ずる。
 また、曜日制については明治の改暦後であることから前提して構わないはずだが、帝国大学の図書館が日曜日に開館していないかどうかについては確認はしていない。だがそこまで厳密でなくても構うまい。問題は文中に記された情報から可能な限り整合的な設定を読み取るという読解~考察の過程にあるからである。

 ここまでの授業展開はちょうど2時限だった。物語中の出来事の曜日を確定するぞ、と宣言してから最後に冒頭が前の週の月曜日であるという結論に達するまで、中身の詰まった2時限である。尤も、個々の問いを投げかけてから生徒の考察時間を取って結論を出すというサイクルにかかる時間は生徒次第だから、その反応速度によっては1時限でこれを展開してしまうことも不可能ではない。そうすれば、相当密度の濃い、充実した手応えのある展開になるだろう。もちろん、こちらが一方的に説明してしまえば以上の推論過程を10分程度で語ることは可能ではある。だがそんなことに意味はない。問題の発見(「二三日」と「五六日」の関係をどう考えたらいいのか、など)と妥当な結論へ向けての推論過程そのものにこそ、国語科としての学習の意義があるからである。
 そしてそうした過程は、生徒にとっても面白いはずである。あるクラスで結論が出たところで授業が終了した直後、教卓のところへ近寄ってきた生徒が「すっげえ面白かったです。」と言ってくれたのは、そうした手応えがあながち勘違いでもないことを感じさせてくれた。
 そしてこの展開には、面白いだけではない意義があるはずである。むろん、読解の実践学習としての意義は上述の通りだ。だがそれだけではない。これから「こころ」を読む上で、以上の認識はきわめて重要であると考えているのである。なぜか?
 第一に、出来事の起こる順とその経過時間の感覚、そこでの「私」の逡巡がどれだけの期間に渡るものなのかを実感として想像する上で、曜日を確定しておくことは現実的な手がかりになる。
 そしてさらに重要なことは、上記の⑤、奥さんがKに婚約の件を話したのが木曜日だということを確認することの意味である。この出来事は物語の前面には表れることなく、「私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。」という皮肉な記述の裏面で「私」に知られることなくひそかに起こって、それが表面に浮上するのは⑥の土曜日である。そしてその晩にKは自殺する(⑦)。こうした情報の提示は、読者に⑤と⑦が連続して起こったかのような錯覚を起こさせ、その因果関係を過剰に意識させる。Kはお嬢さんと「私」の婚約を知って(また、「私」の卑怯な裏切りを知って)自殺したのだ、と。
 だが実際にはそこには、謂わば盲点になっていてあまり意識されることのない空白の「二日余り」が横たわっているのである。Kの死について考える上で、この「二日余り」の懸隔が意味するものを考えさせる準備として、この「曜日を確定する」という授業過程はきわめて重要であると私は考えている(この「二日余り」の意味については別稿で論じた。このブログでこの先ふれるかどうかは未定)。

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