2014年10月6日月曜日

発見(マゼラン的な意味で) Polaris,Predawn,strandbeest

 本屋や図書館は情報が整理されていないから偶然の出会いがあるが、ネットは関心のある情報しか提示されないから、新しい情報に出会わない、といった類の言説を耳にすることがある。昨日、息子の小論文のネタになっていた朝日新聞論説委員の清水克雄の文章もそういう趣旨だったし、今日読んだ黒瀬陽平の文章もそうだった。
 どうだか。
 紙の辞書では、調べたい項目以外の項目が目に入ってくるから偶然の出会いによって知識が増えるが、電子辞書では調べたい項目しか表示されないからそこで終わってしまう、とかいうのも同じような論理で、しばしば目にするが、毎度、どうだか、と思う。
 確かに黒瀬の論では検索エンジンのパーソナライゼーションが根拠になってはいるのだが、そもそも無秩序な情報に触れたとて、我々は自身の関心に沿ってしか情報を選ばない。逆に、アナログな情報提示に郷愁を抱いているように私には見える論者には、情報の集積密度の濃い仲間との交流の中で刺激を受けつつ新しい情報を仕入れていたとかいった若かりし頃の経験はないのだろうか(いわゆる「サークル」とか「サロン」とかいった)。それと検索エンジンのパーソナライゼーションの違いは何なのか。
 新しい情報に触れる機会の多寡は、ソースがデジタルかアナログかに拠るのではなく、受け取り手の関心のありように拠るはずだ。この、関心のありように紙の本の図書館とネット図書館は本当に本質的な違いを生じさせるのか?

 ということで、昨日と今日、調べ物をしていて「発見」した、私にとって「面白い」情報。

 昨日は、北園みなみの新曲はアップされていないのかと思って久しぶりにここを覗きに行って、そこから跳んでLampの曲をYou-Tubeで聴いていたら、Polarisというバンドが薦められていて、聴いてみると何だか好みだ。片っ端からダウンロードして、通勤の車ででも聴いてみようと思う。
 たとえばこういうの。

 Lampに比べて陰影に乏しいとは思うが、リズムとサウンドと声が好みで、基本的に心地良い(そういえば最近「陰影」という表現をよく使ってしまうのだが、この場合は主にコード進行の複雑さによるものだ。だが聴きたくなるかどうかはまずリズムとサウンドと声が好みであるかどうかだ)。
 さらにそこから薦められてしまったのがPredawnという個人ユニット。

 これも好みだ。というか、PolarisにしろPredawnにしろ、活動歴は数年あるというのに、その間、一度もそうした情報に触れることがなかったのが、なんとも不思議に思われる。
 北園みなみから辿って、というと、しばらく前にKenny Rankinを知った時も驚いた。70年代から活躍している、こんな好みのミュージシャンが、どうして今まで引っかからなかったのか、本当に不思議だった。
 こうした出会いをもたらすネット環境は、例えばレコード屋やラジオとどう違うのか。むろん、これらのミュージシャンに出会う際にも、それほど好みでないミュージシャンの曲も聴いてみているのである。検索エンジンのアルゴリズムがどう情報を秩序づけようが、結局選ぶのはこちらの好みでしかない。
 こうして「発見」された情報は、もちろん、私などが「発見」する前から存在していたのであって、マゼランがアメリカ大陸を「発見」したわけではなく、単に「到達」した(もちろんマゼランがヨーロッパ世界にとっての初到達ですらないはずだが)のと同じ意味で、私は航海しているうちにこれらに「到達」したのだった。いや、これらの情報は私が探したのではなく、単に検索エンジンが目の前に差し出してくれただけだと言うべきか? マゼランの航海の如き苦難がそこにあるわけではないが、それは情報の質にどんな差を生じさせるのか?

 今日は、やはり調べ物をしているうちに谷川俊太郎×DECO*27という驚くべき対談の記事を見つけてしまい、楽しく読んだ。
 Theo Jansenの「strandbeest」の動画も面白い。

 台風で休校になって思いがけず時間ができたので、仕事を片付けてからこんな豊かな時間が過ごせたのだが、こういう「発見」(まだ言うか?)は本屋や図書館で、同じ棚にある別の本の背を見て、思わず手にとってしまうのとどう違うのか?

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