2学期に入って、しばらく何をやろうか迷っているうちに、とりあえず夏休み明けのリハビリに俺が朗読をしたいと、小川洋子の「博士の愛した数式」を読み、ついでに面白い論点が見つかったのでしばらく考察に時間を費やし、その後はまだ評論に入る気合いが不足していたので、珍しく詩でも読んで、と思って教科書に収録されている三編の詩を読んだりした。萩原朔太郎の「旅上」はさらりと、辻征夫の「弟に速達で」は、意外や意外の楽しさで、それから心に期した「永訣の朝」に進んだのだった。
それから、あれよと中間考査が迫ってきた。「永訣の朝」は5時間くらいかけて、あれこれ考えてきたのだが、これが結構な手応えだったので、ちょっとまとめておこうという気になった。
本当は「博士の愛した数式」も「弟に速達で」も、これを授業でやるならこういう順序でこういう発問で…と若いもんに講釈したいところではある。だがまあ、こちらも一回きりの授業で、まだまだ教材の持っている可能性を充分に引き出したかどうか心許ないし(とはいえ5クラスもやっていると、そうとう練り込まれてもくるのだが)、何より、教材としての汎用性がそれほどないというのが正直なところなので、今回は略。何より汎用性が高い「永訣の朝」についてのみのまとめである。
やや外向きに、「ちゃんと」まとめようかという気もないでもないのだが、当ブログではとりあえずラフに、ライブ感を残してまとめる。
ある程度まとまった量書けたらアップ、というような感じで、何回かに分ける。先の見通しはない。
「永訣の朝」を授業で扱いたいと思う国語教師は「永訣の朝」という詩が好きなのだろうか。この素晴らしい詩を是非高校生に読ませたいと思って授業に臨むのだろうか。高校生が同様に感動してくれるかどうかは無論保証の限りではないが、そもそも授業とは本来そうありたいものである。できるかぎり自らの感動を語り、それに生徒が共感してくれることを期待するばかりである。
だが現場の実態は必ずしもそうではない。「永訣の朝」を授業で扱うのは、採択した教科書に収録されているからである。もちろん教科書に収録されているからといって、すべての教材を授業で取り上げるわけではないから、やる気がなければ「永訣の朝」で授業などする必要はない。
そう思ってこれまで授業で「永訣の朝」を取り上げたことはない。そもそも詩を授業でとりあげたことがほとんどないのだ。これまで使っていた教科書に「永訣の朝」が収録されていたかどうかも、正直わからない(だが、自分が高校生の時に使っていた教科書には収録されていた! それが授業で扱われたことも覚えている!)。
だが「永訣の朝」を今回、授業で取り上げてみて、これが教材としてきわめてすぐれたテキストであることに驚いた。授業で扱うに十分な手応えを得られたのである。
これは「永訣の朝」がすぐれた詩である、とか、好きだ、とかいうことではない。詩人としての宮沢賢治が天才であるという評価にはなんら異論はない。その言葉遣いにはいつも驚嘆させられる。だがその詩作品の中で、とりわけ「永訣の朝」が優れたものであると感じたことはない。「雨ニモマケズ」も同様である。だから上記のように、自らの「感動」を語るというような形での授業を構想したいわけではない。そんなことをするなら、そもそもこの詩を授業で扱うことのできる教員が限定されてしまう。
といって、その内容が生徒にとって感動的であることを期待しているわけでもない。もちろん生徒が勝手に感動することは自由である。そうなってほしい。だがそれはいわば僥倖である。残念ながら高校生の私は感動した覚えがないし、現在も感動したりはしない。だから私の授業での「永訣の朝」の扱いは、言ってみれば不謹慎である。賢治の哀しみに共感しようとか、賢治の祈りの崇高さにこうべを垂れようなどとは、ちっともしていない。だが、「雨ニモマケズ」を道徳教材のように扱ったり、「永訣の朝」に感動してみせることが敬虔な態度であると言えるかどうかも、たぶん怪しい。
真摯にテキストに向き合うことだけが、筆者にとっての「敬虔」である。
さて、国語科教材としての「永訣の朝」である。とりあえず、少々長いが掲げておく。
もちろん授業の中心に、その教材の「読み」があるのも確かだ。だが優れた「読み」が優れた授業を保証するわけではない。先行研究や鑑賞によって、この詩はある意味では「読み」尽くされている。だから、これから展開しようと思っている論も、作品を読み込むとか鑑賞するとかいうことではなく、このテキストを使って授業する、その方法と見通しについて、そして実際の教室の様子の描写だ(といいつつ、実はある「読み」も提示しようという野心もあるのだが)。
そもそも教材を読むのは生徒である。授業において生徒をある種の「読み」にいざなうのは基本的には「問い」である。あるいは、どのような「読み」であれ、その教材を国語科の授業として有益な活動に資するものとすることができるかどうかは、どのような活動を指示するかにかかっている。その活動を促すものとしての「問い」こそが授業の質を決める。
だから「この詩の形式は?」などという問いも、その内容を理解させる気も覚えさせる気もないが、生徒に投げかける価値はある。直前の朔太郎「旅上」で、文語・口語に言及したからである。ほとんどの生徒は「文語=文章言葉」「口語=話し言葉」だと思っている。間違っているわけではないが、慣用的には「文語=古語」「口語=現代語」の意味で使われているのが「文語/口語」という語だと確認する。もちろんそれも誰かがそこに辿り着くまで、ヒントを出したり誘導したりして考えさせる。古典の時間に「口語訳」って言ってるだろ、と確認する。それで「旅上」が「文語詩」なのは、どこでわかる? と聞く。もちろん「口語だとどうなる?」かを併せて聞く。
そんなやりとりを経て、じゃあ「永訣の朝」は「文語/口語」どっち? と聞くのである。多くの者は「文語」と答える。ほんと? と意味ありげに問い返す。「永訣の朝」は「口語自由詩」なのである。なのに「文語」と感じられるのはなぜだ? と聞く。誰かが「けふ」などの語彙が文語だと言う。だが口語詩だ、と断言する。じゃあ「けふ」は何だ? と聞く。つまりは「歴史的仮名遣い」と「文語」を混同しているのだが、そう言ってわかる生徒は「なるほど」という顔をしている(もちろん大半の生徒はそう言っただけでは理解しないで、何のことやらという顔をしている)。これも古典のテストの回答の仕方で「現代仮名遣いで答えよ」などと指定されているはずなのだが、こういうところに結びつけるには、ちょっと考える手間が必要なのだ。
こんなやりとりは「永訣の朝」を読むこととはほとんど関係ない。そしてこうしたやりとりが可能なのは、教科書の同じ単元に「旅上」が収録されていて、なおかつ「永訣の朝」が歴史的仮名遣いで教科書に収録されているという条件に拠っている(教科書によっては現代仮名遣いなのだ)。
だが、授業とはそういうものなのだ。その時のメンバーとその時の教科書の収録教材、それまでの授業の経過…諸々の条件の中からチャンスを見つけて、なにはともあれ言語活動を展開するのである。
以下次号。
それから、あれよと中間考査が迫ってきた。「永訣の朝」は5時間くらいかけて、あれこれ考えてきたのだが、これが結構な手応えだったので、ちょっとまとめておこうという気になった。
本当は「博士の愛した数式」も「弟に速達で」も、これを授業でやるならこういう順序でこういう発問で…と若いもんに講釈したいところではある。だがまあ、こちらも一回きりの授業で、まだまだ教材の持っている可能性を充分に引き出したかどうか心許ないし(とはいえ5クラスもやっていると、そうとう練り込まれてもくるのだが)、何より、教材としての汎用性がそれほどないというのが正直なところなので、今回は略。何より汎用性が高い「永訣の朝」についてのみのまとめである。
やや外向きに、「ちゃんと」まとめようかという気もないでもないのだが、当ブログではとりあえずラフに、ライブ感を残してまとめる。
ある程度まとまった量書けたらアップ、というような感じで、何回かに分ける。先の見通しはない。
「永訣の朝」を授業で扱いたいと思う国語教師は「永訣の朝」という詩が好きなのだろうか。この素晴らしい詩を是非高校生に読ませたいと思って授業に臨むのだろうか。高校生が同様に感動してくれるかどうかは無論保証の限りではないが、そもそも授業とは本来そうありたいものである。できるかぎり自らの感動を語り、それに生徒が共感してくれることを期待するばかりである。
だが現場の実態は必ずしもそうではない。「永訣の朝」を授業で扱うのは、採択した教科書に収録されているからである。もちろん教科書に収録されているからといって、すべての教材を授業で取り上げるわけではないから、やる気がなければ「永訣の朝」で授業などする必要はない。
そう思ってこれまで授業で「永訣の朝」を取り上げたことはない。そもそも詩を授業でとりあげたことがほとんどないのだ。これまで使っていた教科書に「永訣の朝」が収録されていたかどうかも、正直わからない(だが、自分が高校生の時に使っていた教科書には収録されていた! それが授業で扱われたことも覚えている!)。
だが「永訣の朝」を今回、授業で取り上げてみて、これが教材としてきわめてすぐれたテキストであることに驚いた。授業で扱うに十分な手応えを得られたのである。
これは「永訣の朝」がすぐれた詩である、とか、好きだ、とかいうことではない。詩人としての宮沢賢治が天才であるという評価にはなんら異論はない。その言葉遣いにはいつも驚嘆させられる。だがその詩作品の中で、とりわけ「永訣の朝」が優れたものであると感じたことはない。「雨ニモマケズ」も同様である。だから上記のように、自らの「感動」を語るというような形での授業を構想したいわけではない。そんなことをするなら、そもそもこの詩を授業で扱うことのできる教員が限定されてしまう。
といって、その内容が生徒にとって感動的であることを期待しているわけでもない。もちろん生徒が勝手に感動することは自由である。そうなってほしい。だがそれはいわば僥倖である。残念ながら高校生の私は感動した覚えがないし、現在も感動したりはしない。だから私の授業での「永訣の朝」の扱いは、言ってみれば不謹慎である。賢治の哀しみに共感しようとか、賢治の祈りの崇高さにこうべを垂れようなどとは、ちっともしていない。だが、「雨ニモマケズ」を道徳教材のように扱ったり、「永訣の朝」に感動してみせることが敬虔な態度であると言えるかどうかも、たぶん怪しい。
真摯にテキストに向き合うことだけが、筆者にとっての「敬虔」である。
さて、国語科教材としての「永訣の朝」である。とりあえず、少々長いが掲げておく。
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
もちろん授業の中心に、その教材の「読み」があるのも確かだ。だが優れた「読み」が優れた授業を保証するわけではない。先行研究や鑑賞によって、この詩はある意味では「読み」尽くされている。だから、これから展開しようと思っている論も、作品を読み込むとか鑑賞するとかいうことではなく、このテキストを使って授業する、その方法と見通しについて、そして実際の教室の様子の描写だ(といいつつ、実はある「読み」も提示しようという野心もあるのだが)。
そもそも教材を読むのは生徒である。授業において生徒をある種の「読み」にいざなうのは基本的には「問い」である。あるいは、どのような「読み」であれ、その教材を国語科の授業として有益な活動に資するものとすることができるかどうかは、どのような活動を指示するかにかかっている。その活動を促すものとしての「問い」こそが授業の質を決める。
だから「この詩の形式は?」などという問いも、その内容を理解させる気も覚えさせる気もないが、生徒に投げかける価値はある。直前の朔太郎「旅上」で、文語・口語に言及したからである。ほとんどの生徒は「文語=文章言葉」「口語=話し言葉」だと思っている。間違っているわけではないが、慣用的には「文語=古語」「口語=現代語」の意味で使われているのが「文語/口語」という語だと確認する。もちろんそれも誰かがそこに辿り着くまで、ヒントを出したり誘導したりして考えさせる。古典の時間に「口語訳」って言ってるだろ、と確認する。それで「旅上」が「文語詩」なのは、どこでわかる? と聞く。もちろん「口語だとどうなる?」かを併せて聞く。
そんなやりとりを経て、じゃあ「永訣の朝」は「文語/口語」どっち? と聞くのである。多くの者は「文語」と答える。ほんと? と意味ありげに問い返す。「永訣の朝」は「口語自由詩」なのである。なのに「文語」と感じられるのはなぜだ? と聞く。誰かが「けふ」などの語彙が文語だと言う。だが口語詩だ、と断言する。じゃあ「けふ」は何だ? と聞く。つまりは「歴史的仮名遣い」と「文語」を混同しているのだが、そう言ってわかる生徒は「なるほど」という顔をしている(もちろん大半の生徒はそう言っただけでは理解しないで、何のことやらという顔をしている)。これも古典のテストの回答の仕方で「現代仮名遣いで答えよ」などと指定されているはずなのだが、こういうところに結びつけるには、ちょっと考える手間が必要なのだ。
こんなやりとりは「永訣の朝」を読むこととはほとんど関係ない。そしてこうしたやりとりが可能なのは、教科書の同じ単元に「旅上」が収録されていて、なおかつ「永訣の朝」が歴史的仮名遣いで教科書に収録されているという条件に拠っている(教科書によっては現代仮名遣いなのだ)。
だが、授業とはそういうものなのだ。その時のメンバーとその時の教科書の収録教材、それまでの授業の経過…諸々の条件の中からチャンスを見つけて、なにはともあれ言語活動を展開するのである。
以下次号。
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