さて、語り手が詩の最初から「おもて」にいるとすると、6行目の「みぞれはびちよびちよふつてくる」と15行目の「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」の違いはどうなるか?
生徒たちから出てきた「降る」は「軽い・速い」、「沈む」は「重い・遅い」は、否定する必要もないが、それほど重要でもないと思う。確かにこの「みぞれ」の水分含有量は多いが、それは「沈む」の方が、というわけではない。「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だから「びちよびちよ」と降るみぞれは、最初から水を多く含んでいるのである。
そして「沈む」という動詞に語り手の気分が反映しているであろうという見解にも首肯しない。最初から語り手が庭先にいるという想定で読み下してみると、6行目と15行目の時間的経過は、問題にするほどには感じられない。気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。とりわけ6行目から15行目に向かって気分が「沈む」ような変化があるようには感じない。
ではなぜ「沈んでくる」なのか?
賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先ほど述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に筆者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
筑摩書房の「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。」などという読みは、そうした読者としての印象を無視しているとしか思えない。それは「沈む」という動詞が持っている「視線を下に向ける」という性質をどうにか説明しようとした挙げ句、「みぞれは…沈んでくる」という実際の詩の言葉を無視してしまった惨状だ(それともまさか、本当にそう読んだのか? 一読者として)。
「沈んでくる」は確かに雲を見上げてみぞれの落ちてくる光景を捉えた表現だ。「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられているとしか受け取れない。もちろんそれは6行目も同じで、だからこそ見上げる視線だと考えられるのは、「ふつてくる」の時点で既にそうなのだ。「ふつてくる」が横から見た視線だ、などという指導書の説明はそうした自然な解釈を無視して、語り手が室内にいるという想定から無理矢理説明を組み立てていることによるものに過ぎない。
一方でその文型に「沈む」という動詞をはめこむとどういうことになるか?
語り手はみぞれの落ちてくる雲を見上げながら、同時に自分が「底」にいるのだと感じている、ということだ。「沈む」が見下ろす視線をイメージさせるとすれば、語り手は空を見上げながら、同時に見上げる自分を、「底」にいる自分を、広い空間から見下ろしているのである。
こんなことがありうるか? 何の問題もない、と一読者としての筆者は感ずる。言葉によって構成された虚構が、複数の視線の複合体として捉えられている状態など、珍しいものではない。先に挙げた「彼が部屋の中に入った」なども、イメージしようとすれば、いくつかの方向の視線の交錯した映像として浮かぶ。スタイリッシュな映像を作りたい映画監督ならば、いくつかの方向からのカメラで撮影した短いカットをつないで、その動作や表情や周囲の部屋の造作などから、多くの情報を観客に見せることができるはずだ。小説の、あるいは詩の一節を読む読者にも、同様の映像イメージを脳内に出現させることが可能なのである。「沈む」という動詞と「~から~くる」という不整合な文型が、そうした、二重の映像を同時に生み出しているのである。
こうした解釈は、詩の中のどの言葉と響き合っているか?
生徒に問うてみる。必ず答える生徒はいる(どこのクラスでもそうした答えが出てきた)。
14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。
そして逆に、そうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。この地上を「空気の底」「大気の底」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人を表したのがこの「沈んでくる」という表現なのではないかと考えるのだ。
さて、語り手のいる場所についての以上のような見解は、詩の中を流れる時間の捉え方についても変更を迫る。
冒頭から12行目「とびだした」までが時間順に沿っているというのが従来の捉え方だ。だが、冒頭から「おもて」にいるとすれば、そこが詩の中の「現在」であり、詩の展開に沿って時間が進行しているのではなく、むしろ時間は遡っていく。語り手の思いは遡って「おもて」に飛びだす場面が回想され、一旦14・15行目で現在に戻るものの、再びさらに遡って、飛びだすにいたるきっかけとしての妹の言葉の発せられた時点へと戻る。
先に
そして後半では36行目に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」という遠い過去のイメージが重なってくるものの、基本的には時間は遡ることなく、むしろ掉尾では未来へ思いを馳せることになる。
生徒たちから出てきた「降る」は「軽い・速い」、「沈む」は「重い・遅い」は、否定する必要もないが、それほど重要でもないと思う。確かにこの「みぞれ」の水分含有量は多いが、それは「沈む」の方が、というわけではない。「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だから「びちよびちよ」と降るみぞれは、最初から水を多く含んでいるのである。
そして「沈む」という動詞に語り手の気分が反映しているであろうという見解にも首肯しない。最初から語り手が庭先にいるという想定で読み下してみると、6行目と15行目の時間的経過は、問題にするほどには感じられない。気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。とりわけ6行目から15行目に向かって気分が「沈む」ような変化があるようには感じない。
ではなぜ「沈んでくる」なのか?
賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先ほど述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に筆者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
筑摩書房の「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。」などという読みは、そうした読者としての印象を無視しているとしか思えない。それは「沈む」という動詞が持っている「視線を下に向ける」という性質をどうにか説明しようとした挙げ句、「みぞれは…沈んでくる」という実際の詩の言葉を無視してしまった惨状だ(それともまさか、本当にそう読んだのか? 一読者として)。
「沈んでくる」は確かに雲を見上げてみぞれの落ちてくる光景を捉えた表現だ。「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられているとしか受け取れない。もちろんそれは6行目も同じで、だからこそ見上げる視線だと考えられるのは、「ふつてくる」の時点で既にそうなのだ。「ふつてくる」が横から見た視線だ、などという指導書の説明はそうした自然な解釈を無視して、語り手が室内にいるという想定から無理矢理説明を組み立てていることによるものに過ぎない。
一方でその文型に「沈む」という動詞をはめこむとどういうことになるか?
語り手はみぞれの落ちてくる雲を見上げながら、同時に自分が「底」にいるのだと感じている、ということだ。「沈む」が見下ろす視線をイメージさせるとすれば、語り手は空を見上げながら、同時に見上げる自分を、「底」にいる自分を、広い空間から見下ろしているのである。
こんなことがありうるか? 何の問題もない、と一読者としての筆者は感ずる。言葉によって構成された虚構が、複数の視線の複合体として捉えられている状態など、珍しいものではない。先に挙げた「彼が部屋の中に入った」なども、イメージしようとすれば、いくつかの方向の視線の交錯した映像として浮かぶ。スタイリッシュな映像を作りたい映画監督ならば、いくつかの方向からのカメラで撮影した短いカットをつないで、その動作や表情や周囲の部屋の造作などから、多くの情報を観客に見せることができるはずだ。小説の、あるいは詩の一節を読む読者にも、同様の映像イメージを脳内に出現させることが可能なのである。「沈む」という動詞と「~から~くる」という不整合な文型が、そうした、二重の映像を同時に生み出しているのである。
こうした解釈は、詩の中のどの言葉と響き合っているか?
生徒に問うてみる。必ず答える生徒はいる(どこのクラスでもそうした答えが出てきた)。
14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。
そして逆に、そうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。この地上を「空気の底」「大気の底」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人を表したのがこの「沈んでくる」という表現なのではないかと考えるのだ。
さて、語り手のいる場所についての以上のような見解は、詩の中を流れる時間の捉え方についても変更を迫る。
冒頭から12行目「とびだした」までが時間順に沿っているというのが従来の捉え方だ。だが、冒頭から「おもて」にいるとすれば、そこが詩の中の「現在」であり、詩の展開に沿って時間が進行しているのではなく、むしろ時間は遡っていく。語り手の思いは遡って「おもて」に飛びだす場面が回想され、一旦14・15行目で現在に戻るものの、再びさらに遡って、飛びだすにいたるきっかけとしての妹の言葉の発せられた時点へと戻る。
先に
27行目「雪のさいごのひとわんを…の「…」は何を意味しているのかという疑問を提示しておいた。それは、遡った時間を再び現在に戻す、いわば「我に返る」瞬間の落差を表しているのだといえる。したがって、ここを境として詩全体を二つに分けるという捉え方は妥当なものだと思われる。
28行目…ふたきれのみかげせきざいに」
そして後半では36行目に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」という遠い過去のイメージが重なってくるものの、基本的には時間は遡ることなく、むしろ掉尾では未来へ思いを馳せることになる。
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