2015年10月18日日曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 5 ~語り手はどこにいるか その1

 実は「永訣の朝」を授業で扱おうと思ったのは、次の点について考えてみたかったからだ。
この詩において、語り手はどこにいるか?
文学の分析方法としては一般的な「語り手」という概念は、もちろん生徒には馴染みがない。だからこの問い方では何のことか生徒はわからない。すぐに付け加える。「この詩の情景を語っている視点はどこにあるか?」。さらに「この詩を読んで思い浮かぶ情景は、どこにあるカメラから撮影されているか?」。
  例文で示す。
a.彼は部屋の中に入ってきた。
b.彼は部屋の中に入っていった。
  カメラはどこにあるか?
  aは室内でbは室外(廊下?)である。aではドアから入ってくる彼の顔が見える。bではドアの内部に消える彼の背中が見える。
 これは生徒にもわかりやすい例だ。すぐに適切な答えが返ってくる。
 それに比べて「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの文は、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。
 だが実は「彼は部屋の中に入った。」でさえ、事態は充分に具体的だが、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。

 答えを提出させるより先にもう一つの問いを投げかけておく。
 次の二つの表現はどう違うか?
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」
15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」
5・6行目と14・15行目はほとんど同じだからこそ、この「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いは何を意味しているのかを考える余地がある。
 ただ、こういうときに、作者はなぜ変えたのか、と問うことには留保がいる。結局のところそんなことはわからないではないか、という気も実のところ教師にもしているのであり、それを生徒に本気で考えさせるというのは、ある種の欺瞞がつきまとうからである。本気で教師がそれを問うているのなら、それはそれでついて行けない、という感触を生徒に与えてしまうかもしれない。
 だが、少なくとも読者の我々は、自分自身がどのような違いを感じるかについては本気で考えることができる。自分の心に問いかければいいからだ。そしてその違いは、作者の意図したものではないかと常に推測しつつ、自問自答は続くはずだ。
 だから「なぜ作者は『沈む』にしたのか?」ではなく「『沈む』だとどのような印象になるか?」と聞かなければならない。
 しばらく時間をとって考えさせ、話し合いに持ち込み、ある程度の考察が進み、狙い通りの話題が展開している様子が聞こえてきたら「この二つの問いを関係づけて考えているグループはあるか?」と問う。時折こんなふうに話し合いに拍車をかける。

  生徒の答えやすいのは「ふってくる」と「沈んでくる」の違いの方だ。発言を整理して教室全体に提示する。
 「ふってくる」の方が、下降の様子が相対的に「軽い・速い」、「沈んでくる」の方が「重い・遅い」。それは「降る/沈む」、「みぞれ」のイメージに直結する。
 全体が納得したら、こうした違いがどうして生じているのか、と問い直す。聞いてみると、理由の説明は二つの方向から考えられるようだ。「降る/沈む」という動詞そのものの違い。そして文脈の違い。
 まず、「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
 誰も「降る」と「沈む」の違いがわからないはずはない。だがその違いを明晰に語ることが容易なわけではない。だから、考えることに意義はある。考えているうちに語る糸口を見つける生徒が必ず現れる。
 動詞自体の違いを明らかにするための糸口は二つ。
 一つ目。 「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表している動詞だと説明する生徒が現れる。「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのはそういうわけである。したがって同じ「みぞれ」でも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
 もう一つ。「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする、という印象を語る者がいる。「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われることが多い、という発見を語る者もいる。もちろん「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」である。
 実際に詩の中では、「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、形の上で違いはない。だが、動詞自体が持っている文脈的習慣とでもいうべきイメージは、この詩の言葉からイメージを作る際にも影響しないはずはない。
 この、「降る」は見上げるイメージ、「沈む」は見下ろすイメージ、という印象は適切か?

 もう一つ、両者の表現の違いを文脈から考えた生徒の見解は、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化として「沈む」の方が重くなっている、というものだ。「沈む」は「液体中を下降する」というだけでなく「気分が沈む」という慣用表現で日頃から馴染んでいる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は「沈んで」いく。こちらも、詩に描かれた情景は基本的に感情の表現だ、と何度か言っている。

 ここまで検討しておいて、授業者の見解はまだ明らかにしない。だが実は、「沈む」の方が水分含有量が多いというのは必ずしも適切な印象ではないと思っているし、感情の「重さ」の変化を表しているとも思っていない。
 だが、だからといって、ここまでの検討が無駄だとは思っていない。「永訣の朝」を読むことよりも、国語の授業であることが本来の目的だからだ。
 そして一方、視線の向きについてはいくらか修正がいるが、重要で適切な見解だと思っている。これはこの後の展開と関係させて検討するつもりである。

  もう一つの問い「語り手の場所」はどうだろう?
 生徒の発言は一本道にとはいかないが、紆余曲折を経て、大体のところ、詩の最初の4分の1ほどは病室内、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外、というような解釈に落ち着く。屋外であることの根拠を挙げさせると、33行目の「このつややかな松のえだから」や41行目の「あのとざされた病室」が挙がる。そのまま室内に戻った様子はないことを確認する。
  この見解は、先ほどの「ふつてくる」と「沈んでくる」の視線の向きの印象と食い違ってはいないか?
 6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」では、右の想定に拠れば語り手は室内にいる。一方15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすれば、室内にいる語り手が窓から外を眺める際には、視線は相対的に横向きであり、屋外にいる語り手に映る「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」という情景は、見上げる視線で捉えられているはずではないか。
  どういうことだろうか。

 以下次号 「語り手はどこにいるか2」

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