2015年10月15日木曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 2 ~全体を捉える問い

 承前(「導入」)

 さてでは、「永訣の朝」に対するどのような「問い」が生徒にどのような活動を促し、どのような「読み」にいざなうことができるのだろう。
  教材を前にして発問をどう発想するか。定番の発問も何種類かはある。それが有益かどうかは教材に拠るから、いつも使えるわけではない。また、その教材に特有の発問もある。その教材の「わからなさ」を問いとして投げかける場合もあるし、生徒がわかったつもりになっている事柄にあらためて疑問を投げかけることもある。
 例えば一読して、「『永訣』とは何か?」と問う。誰もが知らないという前提で考えよ、と問う。これは別の機会にあらかじめ知っているのでなければ、高校生がまず知っているはずのない知識だから、今読んだばかりの詩の内容から推測して答えるしかない。もちろん生徒はすぐに「わからない」と答えたがるから、あらかじめそれを禁じておくことを日頃から習慣化しておかなければならない。正解を「知っている」事を要求しているのではなく、推測したことを答えればいいのだ、と繰り返し言う。
 「永遠」の「けつ」って何だろう、と生徒は考える。「決意」「決心」「決定」? もちろんそうした推測を、ある意味で無責任に語ればいい。それが詩の内容とどう関わるかを考えることが、詩の内容を捉えようという思考に結びつけばいいのだ。「永遠の決意」などと答える生徒には、何を決意したの? と聞き返す。それに答えようとすれば、自分で詩の内容を考えざるをえない。
 もちろんすぐに「永遠の別れ」のことだと答える生徒もいるだろう。それは別の機会にそのことを知っていたからかもしれないが、ともかくもどうしてそうだと考えたのだ、と聞き返す。妹の死をうたった詩だから、と答えれば賞賛する。すぐに、「訣」という字で作れる熟語を知らないか、と問う。誰かが「訣別」という語を挙げられればさらに賞賛する。「訣」が「わかれ」と訓読みできることを紹介する。
 これだけのことでさえ、導入としては上出来だ。「永訣」とは「永遠の別れ」という意味だ、などと最初から解説してしまっては、こうした活動の機会を逃してしまう。
 こうした活動が意味あることだと考えるのは、つまり「永訣の朝」を教えるつもりはないからだ。生徒に「永訣の朝」を教えたり、理解させたり、覚えさせたりすることに何の意味があるのだろう。国語の授業では、「永訣の朝」をきっかけとして、ともかくもなにがしかの言語活動を始めるのである。

 さて、引き続き「導入」をもうちょっと。次の問いは二つまとめて。
「この詩で起こっている最も大きな出来事は何か?」
「この詩の中で語り手がしている最も大きな行為は何か?」
「出来事」を問われてすぐに「妹の死」と思い浮かぶとして、それでいいのか、という自問自答が、詩全体を捉えようという思考を促す。そして「行為」はもう少しばかり高度な問いだ。語り手は詩の中で大小様々なことを「して」いる。そのうち「最も大きな行為」とは何か。ページをめくって全体を見回し、それが全体に渡る「最も大きな行為」であるかどうかを検討しなければならない。「空を見上げる」「飛び出す」「茶碗に掬う」など、小さな「行為」が挙がるのもよし、すんなり「妹のためにみぞれを採ってくること」と答える者が現れるにせよ、ある程度、教室全体が考えている時間をとっておきたい。詩の最後まで確認して、なるほど「妹のためにみぞれを採ってくる」ならば全体を包括する表現だ、と生徒自身が納得することが必要なのである。
 さて、「永訣の朝」とは、「妹との永遠の別れ」=「妹の死」に際して、「妹のためにみぞれを採ってくる」という詩である。これでこの詩を読むための構えができた。
 次の問いは「なぜ妹は兄に、みぞれをとってきてくれと頼んだのか」である。

 以下次号(「なぜ頼んだのか?」)

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