承前
例えば、散文の読解授業でよく用いられる「段落分け」は、基本的に常に有益な発問だ。
だが勘違いしてはならないのは、既に分けられた「段落」を提示することが、生徒にその文章の構造を捉えさせることに資するものだなどというわけでは、決してないということだ。ただ、段落を分けようとする思考のみが、文章の読解を推進するのである。したがって、「段落分け」は、ただ生徒自身がそれをしようとすることにだけ意味があるのであり、そうした過程を経て、分けられた段落の妥当性を検討することにだけ意味があるのである。「正解」はない。妥当性の程度があるだけである。その妥当性を検討することにだけ、意味があるのである。
ここでも、詩の全体を捉えさせるために、この詩をいくつかの部分に分けよ、と問うことには意味がある。いくつでもいい。指導書などでも、見解はさまざまである。
ただ、文を途中で分断するような分け方はさすがに妥当性が低いと言ってもいい。例えば25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」で段落を終えることはできない。だがそこで切ろうとする生徒はいる。そうした説が授業という場に提出されればしめたものだ。皆でその妥当性について検討できる。
27行目の「雪のさいごのひとわんを…」は、25行目に返ってかかっているように思われる。「たのんだのだ」が目的語を備えていないからである(19行目がそれを兼ねていると考えられないことはないから、一応保留にしてもいいが)。念のため27行目の後ろを確認しても、「ひとわんを」を受ける語は結局見つからない。やはり「ひとわんを」は返って「たのんだのだ」にかかっていくのである。こういう表現方法を何という? と勿論問う。倒置法は「旅上」でも「弟に 速達で」でも触れているから、答える者は必ずいる。答えられる問いはなるべくしておくに如くはない。答える習慣、考えようとする姿勢が習慣づくからである。
段落分けしようとする生徒の頭は、こうした文脈の確認とともに、内容の確認ももちろんしているはずである。場面展開はあるか。時間的な経過はあるか。
一つ、確認したいことがある。27行目「雪のさいごのひとわんを…」と28行目「…ふたきれのみかげせきざいに」の間の「…」の意味である。なぜここだけに「…」が付されているのか。
この特徴によって、この詩を大きく二つに分けるときの分かれ目をここだと見なすことは多くの論者に共通している。だがなぜここにだけ「…」がつくのか。これは伏線として生徒に投げかけておくにとどめ、考察を続ける。
こんなふうに、基本的には生徒自身に読ませるように誘導して、細部を解説したりまとめたりはしない。読んでわかるべきことは生徒自身がわかるべきだ。こちらにもわからないことはある。二十八行目からの「ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」などは、どういう状況・情景なのかも、どうしてこの一節が必要なのかもわからない。
そうした中で十一行目の「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに」という比喩も、やはり「わからない」。勿論、ある種の解釈をしながら読んではいる。だが確信はない。だから「全然わからない」と言い放ってしまって、生徒の解釈を聞く。教室の雰囲気次第ではあれこれ解釈のバリエーションが提出されて面白い。だが意図的に解釈のための思考を促すのなら問いにも工夫のしようがある。問いを2択などの選択肢にするのは、生徒の思考の焦点を明らかにしやすいから、問いが漠然として考えることが難しい時には有効な方法だ。例えば次のように。
だが上のような問いは、この詩の解釈に決定的な変更を迫るようなものではない。
次はいくらか手応えのある問いを投げかけてみる。
以下次号 「語り手はどこにいるか 1」
例えば、散文の読解授業でよく用いられる「段落分け」は、基本的に常に有益な発問だ。
だが勘違いしてはならないのは、既に分けられた「段落」を提示することが、生徒にその文章の構造を捉えさせることに資するものだなどというわけでは、決してないということだ。ただ、段落を分けようとする思考のみが、文章の読解を推進するのである。したがって、「段落分け」は、ただ生徒自身がそれをしようとすることにだけ意味があるのであり、そうした過程を経て、分けられた段落の妥当性を検討することにだけ意味があるのである。「正解」はない。妥当性の程度があるだけである。その妥当性を検討することにだけ、意味があるのである。
ここでも、詩の全体を捉えさせるために、この詩をいくつかの部分に分けよ、と問うことには意味がある。いくつでもいい。指導書などでも、見解はさまざまである。
ただ、文を途中で分断するような分け方はさすがに妥当性が低いと言ってもいい。例えば25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」で段落を終えることはできない。だがそこで切ろうとする生徒はいる。そうした説が授業という場に提出されればしめたものだ。皆でその妥当性について検討できる。
27行目の「雪のさいごのひとわんを…」は、25行目に返ってかかっているように思われる。「たのんだのだ」が目的語を備えていないからである(19行目がそれを兼ねていると考えられないことはないから、一応保留にしてもいいが)。念のため27行目の後ろを確認しても、「ひとわんを」を受ける語は結局見つからない。やはり「ひとわんを」は返って「たのんだのだ」にかかっていくのである。こういう表現方法を何という? と勿論問う。倒置法は「旅上」でも「弟に 速達で」でも触れているから、答える者は必ずいる。答えられる問いはなるべくしておくに如くはない。答える習慣、考えようとする姿勢が習慣づくからである。
段落分けしようとする生徒の頭は、こうした文脈の確認とともに、内容の確認ももちろんしているはずである。場面展開はあるか。時間的な経過はあるか。
一つ、確認したいことがある。27行目「雪のさいごのひとわんを…」と28行目「…ふたきれのみかげせきざいに」の間の「…」の意味である。なぜここだけに「…」が付されているのか。
この特徴によって、この詩を大きく二つに分けるときの分かれ目をここだと見なすことは多くの論者に共通している。だがなぜここにだけ「…」がつくのか。これは伏線として生徒に投げかけておくにとどめ、考察を続ける。
こんなふうに、基本的には生徒自身に読ませるように誘導して、細部を解説したりまとめたりはしない。読んでわかるべきことは生徒自身がわかるべきだ。こちらにもわからないことはある。二十八行目からの「ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」などは、どういう状況・情景なのかも、どうしてこの一節が必要なのかもわからない。
そうした中で十一行目の「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに」という比喩も、やはり「わからない」。勿論、ある種の解釈をしながら読んではいる。だが確信はない。だから「全然わからない」と言い放ってしまって、生徒の解釈を聞く。教室の雰囲気次第ではあれこれ解釈のバリエーションが提出されて面白い。だが意図的に解釈のための思考を促すのなら問いにも工夫のしようがある。問いを2択などの選択肢にするのは、生徒の思考の焦点を明らかにしやすいから、問いが漠然として考えることが難しい時には有効な方法だ。例えば次のように。
・「まがつた」は「てつぽうだま」「とびだした」のいずれにかかっているか。曲がっているのは鉄砲玉か軌道か。筆者は高校生の時に授業でこの詩を読んで「てつぽうだま」が曲がっている様子を思い浮かべていたが、教師の「室内から外までの屈曲した経路を急いでとびだす様子」という解説を聞いて驚愕した記憶がある。それでも速いには違いないと思っていたら、生徒からは「速く行きたいと気持ちは焦るのに進めない」といった解釈も出てくる。「狙い通りに行き着かない」といった解釈も出る。それぞれ否定はできない。面白い。
・この比喩によって表される語り手の行動は「速い」のか「遅い」のか。
だが上のような問いは、この詩の解釈に決定的な変更を迫るようなものではない。
次はいくらか手応えのある問いを投げかけてみる。
以下次号 「語り手はどこにいるか 1」
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