2015年10月20日火曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 6 ~語り手はどこにいるか その2

 承前

 6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」の語り手は室内にいる。とすればこれは窓から外を眺めた光景であるはずだ。
 15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすればこれは見上げる視線で捉えた光景であるはずだ。
 これは実感に合っているだろうか?

 「ふってくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館「指導資料」)
 「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院「指導書」)
 「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外においてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。「みぞれはびちよびちよふつてくる」と「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」から、さらに「みぞれはさびしくたまつてゐる」と言い換えられている。詩の世界における場面展開と時間の経過がこれらの書き分けによって見事に表現されている。(筑摩書房「学習指導の研究」)
  いずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線である。
 だが生徒からは、
「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする。
という意見が出ていた。語り手の視線の方向と、動詞が元々持っている意味とは食い違っている。
 どういうことだろうか。

 この不整合を解消するアイデアはないか、と問いかけても良い。が、これはかなりな難問だし、そもそもこれを不整合だと見なさないと強弁されては、考察を促すこともできない。窓の中からだって、空を見上げて「ふつてくる」ということは可能だし、筑摩書房のように「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている」と言うこともできる(よくもまあこんな無理矢理な「トンデモ」解釈を思いついたものだと思うが)。
 だが、ここまでの「了解」に納得していない生徒がいる可能性もないわけではない。これは考察に値する問題である。時間をとって考えさせたかった。
 実際に今回の授業では時間もとれなかったが、誘導するのなら「語り手の場所」と「視線の向き」を一致させる解釈はできないか? と素直に聞いてみたい。もっとはっきりと誘導してしまうのなら、本当に語り手は室内からみぞれが「ふつてくる」のを見ているの? と聞いてもいい。
 教師がこんなふうに言えば、生徒はそうでない可能性を考えざるをえない。考えてほしい。そのとき何が起こるか?
 筆者が誘導しようとしているのは次のような「読み」である。
 語り手は、詩の最初から屋外にいるのである。
  生徒に想像させる。語り手はみぞれの降る庭にいる。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」という語りかけは、枕元にいる語り手が目の前の妹に呼びかけているのではなく、屋外から室内への呼びかけなのである。「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という語り手は、既に「おもて」にいて、その場の様子を、妹のいる室内から見た時と違って「へんにあかるい」と表現しているのである。
 驚くべき認識の変更が訪れないだろうか。これはちょっとした「コペルニクス的転回」である。
  したがって「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」もまた、屋外にいて、空を見上げているのである。視線の向きは「降る」の印象と整合する。
 では、そもそも最初の語り手を室内にいるものと考えた根拠であるところの「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」はどうなるのか?
 回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が外にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今ここにいるのである。

 さて、最初のところで語り手は屋内にいるのだという読みは、御大吉田精一をはじめとして、上に見た指導書にあるように世の大勢を占めている。
 白状すると、実は筆者もまた、疑うことなく語り手が室内にいるものと考えていた。妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る外を見ているのだと思っていた。だがこれは、上の二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しかしていなかったというだけなのだ。
  はじめから外にいる、という読みを筆者に提示してくれたのは、当時高校2年生の息子である。
 彼が受けた授業でも、当然のように室内にいる語り手を前提とした解説がなされ、それを前提として「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いが説明され、「(あめゆじゆとてちてけんじや)」リフレインの4回のうち、最初の2回と後の2回の違いは何か、と問われたのだそうだ(前二つは室内で妹に語られたものであり、あと二つは回想である)。そうした解説に違和感を感じた息子は、彼自身にとって自然な読みとして、語り手が詩の最初から外にいるものとして読んだのである。
 授業の意義はここにある。それぞれ読者は自分の読みを相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味があるのである。

 最初は何の疑いもなく、語り手は室内にいるものとして読んでいた。だが一度、最初から外にいるという読みについて本気で想像してみると、筆者にはもう、そうとしか思えない。
 本当に、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する論者はいるのだろうか。
 授業では、教師の主張する結論を教えることが目的ではないから、できれば生徒自身にその妥当性を比較させたい。だが、これも今回は充分な時間がとれず、生徒からの意見はかろうじて一つだけ聞けたにとどまった。
 室内にいるのなら「ふつてくる」ではなく「ふつている」ではないか、というのである。
 もちろんこれは「室内ではあり得ない」と確信するだけの絶対性のある根拠ではない。だが少なくとも一つは説得力のある根拠が挙がったのは収穫だった。
 筆者にとって説得力があると思える根拠は、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。「この」は、既に外にいる語り手が発している言葉だと感じる。現に行為しつつあることの表現ならば単に「くらいみぞれのなかに飛びだした」が自然である。
  そう思ってみると冒頭の「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」も、現に妹の枕元にいるのだとしたら「いもうとよ」と呼びかける意図がよくわからない。妹は熱にうなされて朦朧として外を見ることができないとでも考えればいいのだろうか。あるいは単に眠っているか。
 それより、妹の枕元から離れて「おもて」へ「飛びだした」語り手が、「おもて」に出てみると、そこは中から見ていたのとは違って「へんにあかるいのだ」と、その不安定な、落ち着かない思いを語りかけているということではないか。

 実はネット上で世の好事家や教師の意見を漁ってみた。基本的には最初は室内にいるものとして読む見解ばかりしか見つからない。筆者もその一人だったわけだ。
 だが一人だけ、語り手は最初から外にいるという読みを提示しているのを見つけた。中央大学附属高校の長谷川達哉教諭である。
 驚愕した。彼とは浅からぬ因縁がある。こんなところで彼の名に出くわそうとは。
 彼の挙げる根拠は9行目の「これらふたつのかけた陶椀に」だ。語り手は今初めて陶椀を手にしたわけではなく、それは既に手の中にある。とすればこの言葉を発するより前に既に語り手は外にいるのである。卓見である。

 すると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインはどういうことになるか。
 最初語り手が室内にいるとすると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」は、横たわるトシの姿に重なって詩の中に流れることになる。あるいは、最初のそれは直接話法としての台詞だとでも考えるのか。そうした妹の台詞に突き動かされるように「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだ」したのであろうか。
 だが、最初から外にいるのだとすると、リフレインは4回とも同じトーンで繰り返されているということになる。外にいる自分の使命を常に証すものとして、さっきの室内で聞いた妹の言葉が繰り返されるのだ。

 この項、続く

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