2019年8月28日水曜日

この1年に観た映画-2018-2019

 夏の終わりに恒例の「この一年に観た映画」は以下の通り。

8/14『Identity』-名作サスペンス
8/14『ジェーン・ドゥの解剖』-あの結末は予想外ではある
8/14『残穢』-小説的ホラー?
8/13『マイマイ新子と千年の魔法』-丁寧に丁寧に
8/13『The Visit』-夏の夜の楽しいひととき
7/24『未来のミライ』-期待の細田作品(逆の意味で)
7/24『聲の形』-追悼ではないが
7/18『サマータイムマシンブルース』-映画版が増幅している魅力はほぼない
7/15『祈りの幕が下りるとき』-物語の重みにノれない
6/30『リップヴァンウィンクルの花嫁』-映像と人物造型、そして物語
6/16『キングコング:髑髏島の巨神』-怪獣映画のバランスの悪さ
6/10『関ヶ原』-ドラマとして見られない
6/4『ミックス』-古沢良太はどこへ行くのか
5/24『ルーム』-幼児期への訣別と郷愁
5/19『ラルジャン』-ついていけない
5/19『グリーンブック』-ヒューマン・ドラマとして堂々たるエンターテイ
5/18『ハドソン川の奇跡』-期待通りであることのすごさ
5/18『ホットロード』-残念な映画化
5/9『蛇の道』-映画的面白さはあるが
5/7『蜘蛛の瞳』-結局妄想なのか?
5/5『君よ憤怒の河を渉れ』-またしても謎のトンデモ映画
5/5『稀人』-頭でっかちの観念映画
4/28『死霊館 エンフィールド事件』-これは凡作
4/21『Eight Days A Week』-今更ながら
4/20『インフェルノ』-申し分のない娯楽映画なのに
4/19『夜は短し歩けよ乙女』-安心の湯浅クオリティ
4/17『お米とおっぱい』-低予算だから腹も立たない
4/7『12か月の未来図』-楽しく幸せな教育映画
3/20『GAMBA ガンバと仲間たち』-ここには何もない
3/18『SING』-そつのないエンターテイメント
3/10『ハード・ソルジャー 炎の奪還』-B級そのもの
3/2『突入せよ あさま山荘事件』-安定した映画職人の仕事
3/1『大空港』-堂々たるハリウッド・エンターテイメント
2/24『トランス・ワールド』-SSS低予算映画の佳品
2/14『エクスペンダブルズ3』-まずまず
2/11『ロング・グッドバイ』-楽しみ方がわからない
2/10『ブラッド・ワーク』-意外と真っ当なミステリー
1/14『ディストピア パンドラの少女』-こういうゾンビ映画を観たい
1/10『リセット』-あまりに期待外れ
1/4『アルティメット』-気楽な映画鑑賞
12/30『チョコレート・ドーナツ』-感動作であることは間違いないが
12/26『モンスターズ 新種襲来』-誠実だが図式的
12/22『ラスト3デイズ 彼女のために』-うまいが腑に落ちない
12/18『CODA』-可もなく不可もなく淡々
12/16『シン・ゴジラ』-シミュレーション・ドラマとしての怪獣映画
12/14『アンフェア The End』-シリーズ物なので
11/24『ボヘミアン・ラプソディ』-劇場でこそ観る価値あり
11/11『LOOPER』-満足
11/3『Jellyfish』-苦苦な青春映画
10/25『湯を沸かすほどの熱い愛』-うまい映画だが誇大広告
10/25『ダーク・シティ』-迷宮のような夜の街の手触り
10/12『三度目の殺人』
9/30『メアリと魔法の花』-っぽい情緒だけが描かれる
9/28『ブルー・ジャスミン』-彼女に同情できるか
9/22『スターリングラード』-精緻に戦闘を描く情熱とは
9/16『10クローバーフィールド・レーン』-「精神的兄弟」ねえ…
9/12『アイ・アム・ア・ヒーロー』-国産ゾンビ映画の健闘
9/11『ディストラクション・ベイビーズ』-「狂気」を描くことの不可能性
9/3『アリスのままで』-分裂する「自分」
9/3『君の膵臓を食べたい』-いやおうなく

 上から古い順に並べれば良かった。が、面倒なので直さない。
 昨年からここまでに観た映画は60本。不本意ではある。録画したのが溜まっていく。ブログに感想を書こうという自らに課した務めが、次の映画を見始めるのを阻んでいるところもある。感想も、大抵は1か月後とかになっている。
 とまれ、その中から10本を選んでみた。

7/24『聲の形』-追悼ではないが
6/30『リップヴァンウィンクルの花嫁』-映像と人物造型、そして物語
5/24『ルーム』-幼児期への訣別と郷愁
5/19『グリーンブック』-ヒューマン・ドラマとして堂々たる
4/7『12か月の未来図』-楽しく幸せな教育映画
3/1『大空港』-堂々たるハリウッド・エンターテイメント
11/3『Jellyfish』-苦苦な青春映画
10/12『三度目の殺人』
9/28『ブルー・ジャスミン』-彼女に同情できるか
9/3『アリスのままで』-分裂する「自分」

 『ブルー・ジャスミン』と『アリスのままで』は、アカデミー賞主演女優賞をとった主人公二人の体現する人物像が見事だった。
 『ルーム』もまた主演女優賞だが、こちらは主人公よりも子役の演技があまりに見事だったし、何よりも物語の強さによって印象が強い。
 『Jellyfish』『12か月の未来図』『グリーンブック』の3本はいずれも家族と映画館で観たものだ。やはり映画館で観るという体験が、その体験を特別な物にしているとは言える。その意味では『ボヘミアン・ラプソディ』も悪くなかったが、作品世界への愛着という意味では上記3本を上に置きたい。『ボヘミアン・ラプソディ』『グリーンブック』という、アカデミー賞で数々のノミネートを誇るハリウッド・エンターテイメントに対して、ヨーロッパの小さなプロダクト映画である『Jellyfish』『12か月の未来図』が、同じくらいに強い経験として残っている。
 『大空港』は、隅から隅まで、あまりに見事なハリウッド・エンターテイメントで、これは『グリーンブック』『ボヘミアン・ラプソディ』に比べても圧倒的な量感だった。
 アニメとしては『夜は短し歩けよ乙女』ももちろん良かったが、感動的だったという意味では『聲の形』がやや上だった。これは作品の評価ということではなく、今回の鑑賞に限った、体験としての強さの問題だ。『聲の形』の主人たちのウジウジ加減に比べれば『夜は短し』の主人公の方が遥かに魅力的だし、アニメーションとしてもそれぞれにまったく個性の違った、それぞれに最高級の品質であることから、『聲の形』の方が優れていると言うつもりはない。だから今回について言えば。
 邦画からは、岩井俊二と是枝裕和作品をひとつずつ。二人とも脚本と編集も自分でやる監督として、きわめて作品に対する監督の支配力の強い作品作りをしている。原田眞人の、ほとんどハリウッド映画に匹敵するような、現場が想像できないほど体制として完成された制作と違って、二人はずっと小規模な現場で作業をしている印象だ。だがそこにセンスやら思索やら偶然やらが影響して、なんだかわからない要素の混じった、強い印象を残す作品ができあがっている。『リップヴァンウィンクルの花嫁』『三度目の殺人』どちらも容易には感想が語れなくて、実は『三度目の殺人』は保留にしたままブログに記事さえ書いていない。観直した際に必ず。
 もうひとつ、7月の下旬に『葛城事件』を観たのに、書くのを忘れていたことを、今更ながら思い出した。これは確実にベスト10級だったのだが。

2019年8月19日月曜日

「I was born」を「読解」する 5 -結論を再考する

承前

 さて、以上のような「読解」に基づく「I was born」の授業を参観した、育休明け間もない女性教諭が、腑に落ちないという顔をしている。彼女は、「生む」ことが「自分の意志ではない」という結論に、納得がいかないと言う。生むことはやはりどうしたって自分の意志なのではないか。
 筆者にも、出産を経験したばかりの女性の実感を等閑視することはできない。上記の結論は、若い男性詩人の観念的な生命観に過ぎないのだろうか。あるいは筆者の理屈をこねまわした浅薄な読解に過ぎないのだろか。
 実は生徒の中でも、上記の結論に異を唱える者はいる。
補 この詩が「生むことは自分の意志である」ことを主張していると考えることは可能か。
ここで、問Eで考察した夫婦の選択について思い出そう。母体の危険をおしても子供を「生む」という選択をすることへの葛藤について、読者の目はつい詩中に登場する父親に向けられてしまう。
 だが、あらためて考えればこの選択はまぎれもなく、まずは妻の選択であるよりほかにない。妻が生むと言わずに夫が母体の危険をかけた選択をするなどということはありえない。
 このことは、自らの命をかけて子供を生むことが、まさしく「意志」であることを示している。
 結論はとうに出ていたのだ。
 「生むことは自分の意志である」とすれば「生まれる/生む」という対比は「自分の意志ではない/意志である」という意味で「対立」だということになる。第五聯と第六聯は逆接しているのだろうか。
補 第六聯が「生むことは自分の意志である」ことを示していると考えると生ずる矛盾を指摘せよ。
父親が話の中で蜉蝣に亡き妻を重ねていることは間違いない。蜉蝣と妻は隠喩/象徴関係になっている。先ほどの対比関係で言えば「類比」である。この蜉蝣の話を、どうすれば「生むことは自分の意志だ」ということを表わしているのだと読むことが可能なのだろう。あきらかに母親との「類比」を示しているこの蜉蝣にも「意志」を認めるべきなのだろうか。
 だが蜉蝣は上述のとおり、個体の生命維持よりも生命の循環に殉ずるという母親のありようを示している。先ほどまではここから「生まれることと同様に生むこともまた自分の意志ではない」という文脈を読み取ってきたのだった。これが問Eから導かれる「生むことは意志だ」という帰結と矛盾するのである。
 いや、ここにこそ「対立」を読み取ればいいのだろか。虫には自分の意志はないが、人間は自分の意志で選択するのだ、と。
 だが蜉蝣の卵が掉尾の「白い僕の肉体」と重ねられていることは明らかだし、詩全体の論理としても、「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみ」の前で虫と人間を区別することは、この詩のメッセージにそぐわないように思える。
補 「生むことは自分の意志である」という認識をどのように結論づけたらよいか。
ここから辿り着くのは、つまり「生む」という行為は、自分の意志を否定することを自分の意志で選び取ることなのだという奇妙な結論である。
 ことは自らの生命の否定という悲劇の大きさに関わるまい。子供が生まれてから親が強いられる経済的負担、時間的制約、あるいは自らの未来の可能性の喪失など、何らかの引き替えなしに子供の誕生という現象はありえない。親自身の何らかの犠牲を引き受ける覚悟なしに「生む」という選択はできない。
 つまり、一人の個人の選択に委ねられた自由をなにがしか放棄する、つまり自分の意志を捨てることである。
 それ以上に、生まれてくる子供の健康は、なにがしか確実に運命の手に委ねるしかない。つまり自分の意志ではどうにもならないことを受け入れるしかない。しかし紛れもなくそれは自分の意志でそうするのである。
 「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いに答えるならば、以上の認識を息子に伝えようとしているということになるのだが、むしろ父親自身がそのような厳しさと重さをあらためて受け止めていると言うべきである。
 問Aに答える形で言い直すなら、息子の「生まれることは自分の意志ではない」という言葉に、父親は「では生むことは意志なのだろうか」という自問自答とともに蜉蝣のありようを提示している、ということになる。必ずしも肯定か否定かを結論づけるような論理が父親の中で明確になっていると考えなくとも良いのである。そしてこの問いの答えは上記に見たとおり肯定でも否定でもあるのである。
 Bの父親の感情としても、先の「生命に対する敬虔な思い」は変わらないとしても、同時に一般論としての「生命」ではなく、そこに殉ずることを選択する妻の意志をあたらめて感じ取っているのだと考えると、言葉の裏に秘められた父親の感慨の深さがあらためて感じられる。
 そして、こうした選択にまつわる「意志」の問題が「生まれる」側に無関係でいられようか。確かに「生まれる」ことは「自分の意志ではない」としても、自分の意志を捨てることを選択する意志によってこの世に生まれた子供は、そのことを知って「生まれる」=「生きる」ことを自らの意志によって選択しなおすことを託されていると受け止めるべきなのではないか。

 実はここまで考えてから調べてみると、作者吉野弘自身が次のように述べているのである。
 そうして私は以前長くこだわっていたことの意味を、一瞬理解しました。決定的だった心像は、蜉蝣の卵です。それは、ひとつの意志でした。生み出されるというひとつの宿命の心像でありながら、それは、みずから生をうけようとしている意志の心像だったわけです。(『詩の本Ⅰ 詩の原理』筑摩書房)
 母蜉蝣の体内を満たす卵を、詩人は明確に「意志の心像」として描いているのだ。「宿命の心像でありながら、…意志の心像だった」と、相反する両面を見ているのである。
ここまでの読解は第六聯を母蜉蝣と少年の母、つまり「生む」側について語っているという把握に基づいて、第五聯と第六聯は「生まれる/生む」という対比を構成していると述べた。
 だが第六聯を、卵について語っているのだと把握したとき、第五聯と第六聯はどちらも「生まれる」側について語っているのだという一貫性のもとに「意志ではない/意志である」という「対立」を形成する文脈によって接続しているということになる。
 だが卵を「意志の心像」として読むためには、やはり上記のような読解が必要だったのであり、そうでなければ卵に形象される意志とは、単に親の命を食い尽くす貪婪なものでしかない。
 だが、「生まれる」側の意志とはあくまで「生む」側の意志を引き受けるものとしてある。

 「I was born」には、「生む/生まれる」ことは自分の意志を超えた、生命の循環という自然の摂理に殉ずることであり、しかしそれをまぎれもない自分の意志によって選ぶことの厳しさと重さを少年が引き受けるドラマが描かれている、というのが以上の「読解」による帰結である。
 こうした結論は、冒頭近くで提示した「命の重さ」をテーマとした詩である、という読解と違いはない。
 にもかかわらず、以上のような読解を経ずに導き出される「命の重さ」とはもはや同じものだとは思えない。
 最初に提示したのはいわば「道徳」的お題目である。だがそれが間違っているとは思えないのに、一方で何かが違うという予感だけがある。その予感を跡付けるのが、詩を「読解」するという、読者による主体的/能動的行為である。
 そのとき、出来合いのレッテルに過ぎなかったお題目に、血が通う。
 この詩を道徳教材として安直に「教訓」を引き出すことも、文学作品として曖昧に「鑑賞」することも、間違っているというよりは意味がない。国語科授業的な「読解」を経てこそ、道徳/文学/教材という対立を超えたところでこの詩に出会えるのである。

2019年8月18日日曜日

「I was born」を「読解」する 4 -大きな問いに答える

承前

 前回「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」という認識から、少年にうちに発生した「文法上の単純な発見」がどのように切り出せるかを文法的に考察した。それは少年の認識と父親の認識のズレを明らかにしたいという狙いからだった。
 ではこの「不思議」は父親にはどのように受け止められたのか。あらためて中心となる二つの問いについて考えてみよう。
 先ほど確認したようにB「父親の感情」についてはAから推測するしかない。まずはA「『文法』と『蜉蝣』をつなぐ論理」を明らかにしなければならない。
 ここからがいよいよ核心である。できる限り生徒に任せ、粘り強い考察と話し合いによって「論理」をつむぐのを待ちたい。
 とはいえ生徒たちが端緒を捉え損なって議論が進まない様子が見えたら、手がかりを与える必要もあろうし、議論が活発に行われているとしても、その後で全体で議論するためには考察の方向性をしぼって論点を明確にする必要がある。
 例えば五・六聯の脈絡は逆接か順接か、などという選択肢を示してもいい。あるいは論理関係を示す次の四つの型、(1)対立関係、(2)同値関係、(3)因果関係、(4)付加関係、などを示してもいい。いわば(1)は逆接で(2~4)は順接だ。
 さらに誘導する。

補 第五聯と第六聯の主題を、対照的な言葉で表現せよ。

 これはこれで難しい問いである。「聯の主題」という言い方にもうなじめない。「それぞれの聯は、言ってしまえば何の話?」などと聞いてみる。むろん「文法」と「蜉蝣」である。だがこれでは「対照的な言葉」ではない。では?
 いよいよとなれば、「第五聯は〈生まれる〉についての文法的な考察だ。では第六聯は?」などと誘導する。第六聯では蜉蝣の産卵が主題となっている。とすれば、第五聯と第六聯の主題は「生まれる/生む」という対比関係にあるといえる。
 読解の為に文章中の対比要素を読み取るのは、文章読解の基本的な技術である。「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があるというのが筆者の持論なのだが、この詩における「生まれる/生む」という対比はどれにあてはまるだろう。

補 第五聯「生まれる」と第六聯「生む」はどのような関係で対比されているか。

 「生まれる/生む」という対比を「対立」「類比」「並列」という関係の型でそれぞれで言い換えてみよう。

・対立 「〈生まれる〉ことは…だが〈生む〉ことは…である」
・類比 「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも…である」
・並列 「〈生まれる〉や〈生む〉は…である」

 「類比」と「並列」を区別しなくてもかまわない場合もある。「類比」は異なったカテゴリーに属する二項に共通性を見出して並べる対比であり、「並列」は最初から同一のカテゴリーに属する複数項をまとめて論述する対比である。ここでは「生まれる」と「生む」は「異なったカテゴリー」とも「同一のカテゴリー」ともつかないから、ここでは「類比」と「並列」を区別しなくともよい。
 この「…」に代入できる内容を詩の中から抽出するのである。
 だが実は選択肢はそれほど多くない。この詩の、散文詩という形式がいくらかその選択肢を見えにくくしているとはいえ、言葉の絶対量が少ない詩というテキストの形式が、必然的に選択肢の幅を狭めている。第五聯の言葉をつぶさに検討していけば、どの言葉が第六聯にも適用できるかはわかる。「受身」もしくは「自分の意志ではない」である。これらの言葉を第六聯に適用したときに、父親の言葉はどのようなものとして解釈できるのか。
 先ほどの対比形式にあてはめてみよう。

・対立
「〈生まれる〉ことは受動だが〈生む〉ことは能動である」
「〈生まれる〉ことは自分の意志ではないが〈生む〉ことは自分の意志である」

・類比・並列
「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも受身である」
「〈生まれる〉ことも〈生む〉ことも自分の意志ではない」

 補 「生まれる/生む」という対比は「対立」か「類比・並列」か。

 とはいえ本当はこのように迂遠な手続きを踏まずに、生徒を信頼して問Aを粘り強く考えさせるべきではある。第五聯と第六聯をつなぐ論理とは何か。だがそうして自由に考えさせ、話し合わせたうえで、このような誘導をすることは、やはり生徒の思考に刺激を与え、討論を活発にするのは確かである。選択肢は対立を鮮明にするからである。
 さて、筆者に最初に見出された文脈は「類比」だった。「〈生まれる〉ことは自分の意志ではないんだね」と言う息子に父親は、「〈生む〉という行為もまた自分の意志ではない」と言っているのだ。
 どういうことか。
 「自分の意志」の最も根源的なところに位置するのは「生きたい(死にたくない)」という欲求である。
 一方、父親が語る母蜉蝣は「口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり」であり、「卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる」ような存在である。こうしたのありようは、個体の生命維持を最優先する原則からすれば不合理である。自ら生きたいと思うことが「自分の意志」ならば、蜉蝣にとって「生む」ことは確かに「自分の意志ではない」のである。
 ならば「生む」という行為は何によっているのか。これを先ほどの「文法的な発見」の考察を使って問うてみる。「生む」ことが受身だとすると、少年の「正しく言う」に従えば「生ませられる(「生む」の未然形+使役「せる」の未然形+受身の「られる」)」である。この場合の為手は何なのか。

補 母親に子供を「生ませる」ものは何か。

「運命」「宿命」「神」の他、「子供」というアイデアも出る。子供は母によって「生まれさせられ」、母は子供によって「生ませられる」のである。
 一方、父親の言う「目まぐるしく繰り返される生き死に」とは、生命の循環という、言ってみれば「自然の摂理」とでもいったようなものである。詩の論理から言えば、「生む」ことは自らが生きることを放棄して、自然の摂理に殉ずるということなのである。したがって母は「自然の摂理」によって子供を「生ませられる」。
 問Aについての結論は、第五聯と第六聯は「生まれる/生む」がいずれも「自分の意志ではない=受身」であるという「類比」関係によって結ばれている、ということになる。
 とすれば問Bはどういうことになるか。
 問Fで考察したとおり、息子の言葉は、彼にその意図がなかったとしても、「文法上の単純な発見」にとどまらない生命の真実とでもいうべき認識に届いている。これが父親に届いていないはずはない。これが、先ほど墓前であらためて思い起こした妻の死と、それに結びつく蜉蝣のエピソードについて、あらたな意味を与えたのである。
 つまり父親はここで、妻の死を、自然の摂理に殉じたものとしてあらためて捉え、「自分の意志」を超えた摂理のうちに循環する生命の、それゆえの崇高さを息子に伝えようとしているということになる。
 このような思考に、レッテルとしての感情語を安易に貼り付けることは難しい。
 それでもかろうじて詩中から挙げるならば「淋しい(詩集再録時は『つめたい』」「せつない」「息苦しい」「痛み」などの言葉はどれも、「近代的個人」がもつという「自由意志」などを超越した自然の摂理の前で、命をつなぐことの厳しさ、重さを受け止めた思いを反映している。生命に対する敬虔な思いでもあり、問Eで考察した、自らの選択の結果としての妻の死を受け止めるための器をあらたに受け止めた感慨でもある。
 これらは、それを話す父親の心情の断片であり、同時に聞かされた息子の心情でもある。
 そしてまた読者にもその認識が手渡されているのである。

2019年8月16日金曜日

「I was born」を「読解」する 3 -文法的に考える

承前

 本筋から些か逸れるが、興味深いやりとりが期待できるので、少々寄り道する。
F 第五聯「文法上の単純な発見」とは何か。
これは読者にとって「謎」とは感じられないかもしれない。だがこの問いに適切に答えることは案外に難しい。
 たとえば「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」「I was born が受身形であること」といった表現で「文法上の単純な発見」を語ることはできない。問うているのは、「文法上の単純な発見に過ぎなかった」と限定されている認識である。「これはまだ序章に過ぎない」といえば、「これからの長大な展開」が想定されているし、「幻想に過ぎない」といえば、「現実」が想定されている。「~に過ぎない」は、言外の想定を背後に隠している。
 「文法上の単純な発見に過ぎない」という限定は、少年の認識を父親の認識から区別しているのだといえる。では父親が息子の言葉から読み取った認識とは何か。
 さしあたってそれを、いわば生命の神秘や真実といったような「哲学的な真理」とでも呼ぶべき認識だとしよう。だが「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」、あるいは「人間は生まれさせられるのだ」などという原文の表現は、「文法上の単純な発見」と「真理」が混ざっていて、そのままでは前者がどのようなものなのかを語ることはできないのである。
 「文法上の単純な発見」と「哲学的な真理」が混ざっている、あるいは重なっているとしたら、同一の表現のまま父親はそれを「哲学的な真理」として、少年は「文法上の単純な発見」として捉えたのだと考えればいいのではないか。
 だが「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉であること」のどこが「文法上」なのか。
 では「I was bornが受身形であること」か。これなら「文法上」だ。
 だがこれは先生から「教わった」ことだ。この時彼が「発見した」ことではない。
 では先生から教わった文法上の決まりが、この時実感を伴ったと言っているのだ。
 だが「実感を伴った」とか「腑に落ちた」という感覚を「発見」と表現するのは違和感がある。
 一方で、少年が「やっぱり I was born なんだね」と言うときの「やっぱり」には、前からそうではないかと思われた何事かがあらためて確認できたというニュアンスがある。必ずしも明確な認識でなくとも、その時に「言われてみれば…」という、それに既知の感触をみとめたことを示すのが「やっぱり」という副詞である。
 つまり、この時の少年におとずれたのは「文法上」の認識でありかつ「発見」されたものでありかつ既知の感触も持っているのだ。それをどのように表現すれば「文法上の単純な発見」であると見なすことができるのか。
 いくつかの補助的な問いを用意しておいて、必要に応じて投げかける。
補 「I was born さ。受身形だよ。」とはどのような意味か。
厳密には国語の問題ではないではないが、補助的に確認しておく。
 英語における受身形=受動態は「主語 + be動詞 + 過去分詞」の形で表される。
 「was」が「be動詞」、「born」が「bear(産む)」の「過去分詞」である。したがって「I was born」は英語における受動態の文型である。
 もちろん少年が「発見」したのはこのことではない。「やっぱり」というのは「I was born」が受身形であることによって、前からそうではないかと思われた別の何事かがあらためて確認できたと言っているのである。その「何事」とは何か。
補 何が「やっぱり」だと言っているのか。
ここでもやはり「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」こと、と言いたくなる。間違いではない。ここから「文法的な発見」を切り取るにはどのような表現が必要か。
 日本語における誕生を表す動詞「生まれる」が「I was born」と同じく受身形であるということである。「生まれる」が受身形であることは「文法的な発見」である。
 「英語を習い始めて」と始まり、「やっぱりI was bornなんだね」と語られるとき、「文法上の発見」とは、何か英語に関わる事柄に限定されて捉えられかねない。もちろん「発見」の端緒に英語の表現があることは確かだ。だがここで少年が「発見」した認識は、むしろそれまで慣れ親しんできた日本語に潜んでいた秘密である。だからこそ「やっぱり」と表現されているのである。
 あるいは「やっぱり I was born なんだね」に表れる、英語表現が受身形である「訳」がわかったのがこの時の「発見」なのだとしても、それは「真理」が英語の「文法」と直接に結びついたということではなく、あくまで日本語の「生まれる」の文法的な認識を経由することで生じた認識だと言わねばならない。
 だがこの「発見」は正しいか。「生まれる」は本当に「受身形」なのか。
補 「生まれる」が受身形であることを文法的に説明せよ。
 さしあたって「れる」が受身の助動詞のように見えるとは言える。このことを「文法」的に考えてみよう。
 比較の為に第六聯の最後の「死なれた」について言及しておこう。第六聯の最後の「死なれた」に含まれる「れる」は何か。
 品詞分解するならば、ナ行五段活用動詞「死ぬ」の未然形「死な」+「れる」の連用形+過去の助動詞「た」である。助動詞「れる・られる」が「受身・自発・可能・尊敬」の四つの意味を持つことは中学校で習っているし、日本語話者ならば自然にわかることだ。
 「死なれた」の「れる」は、少々わかりにくいが、消去法で「尊敬」である。わかりにくいのは、亡き妻に尊敬表現を使うことの妥当性、自然さにひっかかるからだ。だが、「受身」だととるには「お母さんが…死なれた」ではなく「(我々が)お母さんに…死なれた」でなければならない。「自発・可能」とは考えられないから消去法で「尊敬」だと考えられる。
 「生まれる」はどうか。例文を用いて確認してみよう。

a1 母が私を叱る。
b1 私は母に叱られる。

a2 母は私を愛した。
b2 私は母に愛された。

a3 母が私を見る。
b3 私は母に見られる。

 aの文を受身形(受動態)に言い換えるには、主語と目的語「Aは(が)Bを」を入れ替えて「Bは(が)Aに」の形にし、述語の動詞(五段動詞「叱る」、サ変動詞「愛する」、上一段動詞「見る」)の未然形に受け身の助動詞「れる・られる」を接続して述語におく。
 「生まれる」という動詞は、この時の述語の形、「生む」というマ行五段自動詞の未然形「生ま」に受身の助動詞「れる」を接続した形と形態的に同じである。
 だが「生む」で右と同様の操作をしてみると、この動詞の特殊さがわかる。

a4 母は私を生んだ。
b4 私は母に生まれた。

 b4は、形式的に同じ操作をしたはずなのに、自然な日本語表現とは言い難い。無理にでも解釈しようとすると「私は母になる為にこの世に生まれ出た」というような意味としてかろうじて読めなくもないが、それでは意味がかわってしまう。
 同時に、「叱られる」「愛される」「見られる」が明らかに「動詞+助動詞」だと感じられるのに対し、「生まれる」は一語の自動詞と感じられる。「生まれる(うまる)」のような古い言葉では、語源的にも「生む」が先にあって、その受身形としての「生まれる」が徐々に一語化したというような変遷をたどることはできない。
 だから受身形であることを「僕」が示そうとすると「生まれさせられる」と言い換えなくてはならないのである。
補 「生まれさせられる」を文法的に解釈せよ。
 ラ行下一段動詞「生まれる」の未然形+使役を表す動詞「させる」の未然形+受身の助動詞「られる」である。
 「走らせる」などの使役形では「走る」のは相手である。自分が「生まれる」の行為主である以上、「生まれさせる」のは自分でない、自分を対象とする誰かである。端的には母親かもしれないし、産科医かもしれないし、それ以外の何かの抽象概念かもしれない。
 「生まれる」という行為が誰かの使役によって為されているのだと示し、その相手の行為を受動することで子供の「生まれる」という行為の受動性を示すのが「生まれさせられる」という使役受身表現である。
 誕生という事態が受身であることを「正しく言う」には、このようにもってまわった言い回しが必要だと感じられるのである。

 以上のことから「生まれる」という動詞は、文法的な操作による受身形と全く同じ形態をしながら、日本語の使い手にとっては、他の受身形とは何かしら違っているという認識もある、とひとまずは言える。
 一方で、受身文への変形も、操作によっては、「生まれる」がそれほど不自然でない文をつくることもできる。先ほどの「Bは(が)Aに」の「に」という助詞のニュアンスを、作用の方向性をはっきり示すように「から」「によって」と言い換えてみる。

a1 母が私を叱った。(a3 母が私を見た。)
b1 私は母から叱られた。(b3 私は母から見られた。)
b4 私は母から生まれた。

a2 母は私を愛した。
b2 私は母によって愛された。
b4 私は母によって生まれた。

 b123「動詞未然形+受身の助動詞」の場合と同じ操作で作ったb4は、日本語として間違っているとはいえない。もちろん誕生が「母から」「母による」ことは当然すぎて、かえって言うことが不自然ではある(「生まれる」という、一見受身の助動詞「れる」を含んでいるように見える動詞の特殊性も、そこから生じたのかもしれない)。だが少なくとも先の単なる「に」の言い換えのように別の意味になってしまうわけではない。
 つまり、「生まれる」は語源的にも口語文法的にも「動詞未然形+受身の助動詞」であると言い切ることはできないが、一方で見かけ上は受身としての形態的特徴を持ち、意味的にも受身の意味合いを持っているのも確かなのである。
 ここまで考えて再び問う。「文法上の単純な発見」とは何か。どう答えたらいいのだろうか。
例1 「生まれる」という動詞が、「受身形」の形態的特徴をもち、意味的にも「受身」であること。                                  
 英文法を学ぶことによって、少年がもともと感じ取る可能性をもっていた右のような認識が、語る言葉を得たのである。そこから、次のような言い方もできる。
例2 誕生という事態が、英語・日本語どちらも「受身形」で表現される(受身形でしか表現できない)ということ。
 これが、「文法上」であり「発見」であり既知の感触ももっている、この時の少年の認識である。
 ここでは、「文法上の単純な発見」を「哲学的な真理」から切り離すにはどのような表現が必要かを考えてきた。この過程は「I was born」という詩の読解というより、国語科の学習として意義がある。
 そしてこの考察は少年と父親の認識のずれについても考える手がかりを与えてくれる。
 だが、こうして表現された「文法上の単純な発見」は本当に「に過ぎない」と言うほど「無邪気」で「単純な」認識なのだろうか。
 この発見を少年に促したものは、境内ですれ違った妊婦から得た「世に生まれ出ることの不思議に打たれ」るという心理状態である。それを受けての「発見」は「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳」と表現されている。「〈生まれる〉という言葉が まさしく〈受身〉である訳」ではない。
 つまり「文法上の発見」は「生まれる」という語の不思議さであるとともに、そのまま不可避的に「生まれる」という現象の不思議さをも少年に感じさせずにはおかないのである。大人である読者もまた、少年の言葉から既に父親が感じたのと同じような「真理」の感触を感じ取ってしまうし、まして再読の際には、もはやこの詩が全体として訴えているところの「生き死にの悲しみ」まで含めて理解してしまう。
 つまり「〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である」とはそうした「真理」と「文法上の単純な発見」が混ざった形で表現されているのである。

2019年8月15日木曜日

「I was born」を「読解」する 2 -小さな「読解」を体験する

承前

 さて、大きな読解に臨む前に、小さな読解を体験しておく。前述の「部分的な関連性」である。
C 第三聯、すれ違う女の腹を見ることを、「僕」はなぜ「父に気兼ね」するのか。
日本人としては、他人をむやみにじろじろと見るもんじゃない、という躾はそれほど珍しいものではないから、そうした躾を「僕」も受けているとすれば、この「気兼ね」には特別な不思議はない。とりわけこうした気遣いがマナーとして求められるのは、相手が何かしら通常の状態から外れていると思われる時である。奇妙な風体であるとか奇矯な振る舞いをしているとか、あるいは老人、障害者。つまり相手が何らかの社会的弱者であるほど、そうした気遣いが必要とされる。妊婦は、そうした文脈で気遣いを必要とする対象だろうか。
 確かに妊婦は全く通常の状態(誰にも共通する状態)ではなく、しかも保護されるべき存在である。これをいたずらに好奇の目で見ることは控えるべきである。
 だがこの詩でわざわざ言及される「気兼ね」は、この詩の文脈に沿って理解される必要がある。「英語を習い始めて間もない頃」から、「僕」は中学生であろう。そうした年頃の男の子と父親の関係として、性に関する話題が微妙に忌避されることはありうる。つまり、相手に対する関心を隠したい心理として、老人や障害者とは違った、性を連想させる対象として、妊婦に対する関心を隠すべきではないかという心理が、「僕」にはたらいていると考えるのが自然なのではないか。
 さらに、この詩のテーマが、先走りして言ってしまえば「生命」である以上、妊婦は生命誕生の象徴であり、それを単なる興味関心の対象としてではなく、崇高なものとして敬虔な態度で相対しなければならないという無意識の配慮が少年にはたらいているとも考えられる。そのような配慮が父親に理解されるだろうかという危惧がこの「気兼ね」に表れているのかもしれない。
 整理して示そう。

a 一般的なマナー違反にあたることを危惧して。
b 性的な話題に対する父親との距離をはかりかねて。
c 「生命」を扱う際の態度への配慮から。

 aは詩の外部にある「常識」の文脈において「気兼ね」を考えている。bは詩の設定と一般的な親子関係に文脈を見出そうとしている。cは詩全体のテーマとの照応関係で理解しようとしている。
 こうして、細部の表現を、文脈の中で捉えるのが「読解」である。

 次の問いはどのような「読解」を生むか。
D 第二聯、僕と父はどのような事情で寺の境内を歩いていたか。
これは、わざわざ問いとして立てなければ読み流されてしまい、注意深く読んだ者だけがそれに気づく、というような設定についての「読解」である。
 二人は、亡き母親/妻の、盆の墓参をしたのである。これは、頭から第二聯に読み進めた時点では考えつくことのできない解釈である。第六聯の終わりに母の死という情報が読者にもたらされ、それと「夏」と「寺」という情報が結びつくことで、初めて思いつくことができる。第二聯という冒頭近い箇所に、終わりで解決する伏線が張られていたということになる。
 詩の冒頭近くの「或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと」という状況設定を、読者はほとんど読み流してしまう。ドラマが展開するまでは読者の注意はそれほど喚起されない。それを有意味化する情報は後から知らされ、その時にはもう冒頭近くの情報を忘れてしまっている。再読の際に、全体の情報を参照して、「夏」と「寺」という情報の提示を、意味あるものとして読むことで、初めてこうした解釈が生まれる。こうした思考こそ「読解」である。
 この解釈は、詩全体の解釈に何をもたらすか。
 既に詩の冒頭から、少年と父親と念頭には、亡き母親/妻が想起されているのである。二人の間には存在しない母/妻を巡る微妙な緊張があるということである。以下のやりとりも、そのような心理状態を前提として解釈しなければならない。
 「僕」の思考のあれこれも、妊婦に端を発したというよりも、もともと想起されていた母親から、ゆき違う妊婦への関心が喚起されたと考えるべきである。読者の中ではこの妊婦が最終的に亡き母のイメージに重なってくる(この詩の鑑賞の中には「この女は母の亡霊である」といった評言さえある)が、少年にとってはそれは当然の思考回路なのである。
 同時に、例えば先ほどの「気兼ね」についても別の解釈の可能性があることに気づく。妊婦を見ることで、自分が母親を恋しがっていると父親が心配することを「僕」は気にしているのではないか、という解釈(d)である。
 この解釈の妥当性は、この時の二人に、亡き母親/妻が共通の想起対象として認識されているという状況を意味あるものとすることで保証される。一方で、「僕」と父親の間で母親の話題が普段どのように扱われているかという情報が詩の中にないため、それを確信するほどの妥当性はない。ともあれ先の問Cに対する第四の解釈dは、実は多くの読者に支持される説得力を持っているはずだ。
 また、「僕」の言葉を聞く父親も、そこから妻の死を連想したわけではない。亡き妻が先に念頭にあり、そのうえで「僕」の言葉を受け止めたのだ。そのような前提であらためて詩全体を解釈しなければならない。
E 第六聯、父親が、「(蜉蝣が)何の為に世の中へ出てくるのかと…ひどく気になった」のはなぜか。
「気になっ」て友人に話したからこそ、友人が蜉蝣を拡大鏡で見せてくれたのであり、物語の展開を用意するための理由付けになっているという意味で必要な記述であるため、ここにそれ以上の意味を見出さなければならないような謎は感じない。だがここにも「なぜ」と問うてみることで読み過ごしていた「読解」が可能になる。
 「生まれてから二、三日で死ぬ」蜉蝣が「一体、何の為に世の中へ出てくるのか」という疑問とも慨嘆ともつかぬ関心は、それから間もなく息子を産んですぐ死んでしまった妻と結びつけて解釈しなければならない。物語の展開上の必要のための動機としてではなく、父親の心理として、どのような事態がその「問い」を胸に宿らせたのか、と考えると、結果としての妻の死から遡って次のような想像が可能である。
 妻の死が出産に因るものであることは、母親の隠喩になっている蜉蝣の生態からも明らかである。そしてこの「問い」を抱いているのは、妻の臨月の時期である。すると次のような事態が考えられる。そこでは医師から、出産に伴う母体の危険が夫婦に告げられていたのではないか。
 とすると子供の誕生をとるか母体の安全をとるかという厳しい選択に夫婦が直面して、母体の危険をおしてでも出産するという選択を二人がしたということになる。その選択に対する迷いが、蜉蝣の生の意味を父親に問わせているのではないだろうか。
 こうした想像は単なる穿ち過ぎだろうか。もちろん妻の死があらかじめ可能性を予見されたものであることを排他的に根拠づける決定的な論理はない。その死が不慮のものであっても論理的な齟齬はない。だが「ひどく気になった」というテキスト内情報を有意味化するには、そのように考えるのが合理的であることは確かである。問題はこうした解釈がどれくらい「腑に落ちる」か、である。
 つまり父親は、抽象的な生の意味を問う関心に基づいて蜉蝣の雌の卵を見たわけではなく、妻の命をかけた選択の迷いを胸に抱いて見ているのである。そうした問いに対して、蜉蝣はどのような答えを与えたのか。
 これも、後からわかる情報との関連性を想定する「読解」の思考の好例であり、この認識によって、父親の思考をたどる上で重要な手がかりが得られるのである(以上の父親の疑問をめぐる解釈は、一緒に教材研究をした際に同僚の教諭に教えられた。問CやDはいわば定番の解釈に基づいているが、Eについての解釈は目にすることが少ない。しかも詩全体の解釈にかかわる重要な認識である)。

2019年8月14日水曜日

『Identity』-名作サスペンス

 言わずと知れた名作サスペンス。3回目か4回目か。
 サスペンスフルではあるが、それがミステリーなのかホラーなのかサイコなのかオカルトなのかがわからない。だがわからないなりに嵐のモーテルに閉じ込められた人々に襲いかかる連続殺人、という趣向がもう楽しい。
 そしてよく考えられた脚本に手堅いキャストと、言うことなし。
 これ以上は書かずとも人に任せる。  →こちら

『ジェーン・ドゥの解剖』-あの結末は予想外ではある

 監督の前作『トロール・ハンター』が見たいのだが、行きつけの2軒のレンタル屋にない。
 で、これも予告編で気になってはいたので、この機会に。
 『残穢』とはもう画面の感触がまったく違っていて、彼我のこの差が悲しい。いや、ジャパニーズ・ホラーにはそれなりの味わいがあっていいのだろうが、とにかく続けて見ると、邦画のあまりのみすぼらしさが悲しいのだった。
 というわけでこちらは堂々の映画的ルックス。『トロール・ハンター』は自主映画的POV映画ではなかったのか? あちらのCGもちゃちかったのでは?
 で、監察医が死体の解剖をしているうちに襲われる怪異、という設定がどこから発想されたものやらもう謎だ。どこに決着するのかも見ていてわからない。
 見ていると、あ、これは妄想・幻想オチなのかとか、いや物理的攻撃があるか? とか、どこにいくのかわからないところがサスペンスではある。
 で、結局あの結末は予想外だったが、それに心から満足したかというと微妙。だが、悪い映画ではなかった。

『残穢』-小説的ホラー?

 夏の夜にジャパニーズ・ホラーを。この後、一晩で3本観ることになる、最初の1本。
 だが観始めてすぐに、「不気味な黒い影」のCGがちゃちいのにいやな予感が。なぜ? キャストからしてそこそこメジャーな映画じゃないのか、これ?
 題名からわかるとおり、呪い(死の穢れ)が残っているっている話なんだろうと思っていると、そのとおりだ。呪いの連鎖と言えば「リング」と「呪怨」だ。そしてこれは貞子と伽椰子の出てこない「リング」「呪怨」なのだった。では何が恐いというのか。恐くない。関係者が次々と死んだと知らされるのが不気味ではある。が、主要な人物は死にそうもないし、やっぱり死なない。恐くない。
 そしてクライマックスに至っても、冒頭のちゃちいCGの黒い影と、顔に墨を塗った人間が「怨霊」なのである(炭鉱の事故で死んでいるので)。ふざけているのか?
 ということで一体何を目指して作られたのかわからない映画だったが、原作は小野不由美の山本周五郎賞作品なのだった。評価を見る限り、これは面白い小説なのだろう。ということは、この、小説としての面白さを映画で醸し出すことに失敗しているのか、こっちが映画的ホラーを求めていたのが間違いだったのか。「ドキュメンタリー・ホラー」とか言ってるからなあ。

2019年8月13日火曜日

「I was born」を「読解」する 1 -問いを立てる

 吉野弘の散文詩「I was born」の父親は、息子に向かって、なぜ唐突に蜉蝣の話をするのか。その話によって何を伝えようとしているのか。
 だがこのように問うことは間違っている。

 長い間、教科書の定番教材であり続けている吉野弘の「I was born」は、なによりも、読むだけで生徒の心に強い印象を残すことが期待される魅力的な詩として、是非生徒に触れさせたいと思わせる作品なのだが、実は読解の楽しさが期待できる、授業教材としてすぐれたテキストでもある。
 読解とは、テキスト内の情報に、ある構造を想定する思考である。部分的な関連性であれ、全体的な一貫性であれ、テキスト外部への敷衍可能性であれ、テキスト内の情報がある文脈の中に位置付けられたと思えたときに「読解」が成立する。
 「I was born」を「読解」したとき、そこに何が見えてくるか。

 導入として吉野弘の別の有名な詩に触れたり、散文詩という形式に触れたりするのも有益だ。しかるのち「読解」へ向かう思考を始めるための最初の問いは次のようなものである。
問 この詩の中で、最も大きな謎は何か。何がわかればこの詩がわかったと感じられるか。
 思考を開始するためには問題を明確にすることが有効だ。というより、問われて答えることより、問題を発見することこそ重要である。だからどんなテキストを教材として取り上げた際にも、まずこうした問いを生徒に投げかける。
 様々なレベルの問いが発想される。容易に答えられる、もしくは最初から答えが想定されている問いから、答えようのない問いまで。
 例えば「作者はこの詩で何が言いたいか」「この詩のテーマは何か」は問題系が広すぎる。「何が言いたいか」「テーマは何か」はすべてのテキスト読解に適用できる問いだ。だから問いとして間違っているわけではないが、ここでは、このテキストにおいては何を考えることが「言いたいこと」「テーマ」を明らかにすることになるのか、と問うているのである。
 とはいえ詩は、その言葉そのものが現前であるような言葉のありようなのだから、本文を離れた「言いたいこと」を抽象化することは、詩を読むという行為から離れてしまう。このような読解を揶揄して、「言いたいこと」を言いたいのなら詩を書かずに「言いたいこと」を書けばいいのだ、などとよく言われる。それはそうだ。だが、そうした理想的な詩の享受を教室という場で実現することは難しい。方法論も定かではないそうした理念は、テクストの曖昧な読解を出来合いのテーマへと結びつけるばかりで、結局かえって理念に反することになりかねない。
 一方、文学鑑賞ではなく言語学習としての国語科授業を行っているのだから、「言いたいこと」を抽象化することが有益な学習行為なのだと考えられるならばやってもいい。
 だがこの詩の「言いたいこと」はわからないのか? それこそが謎なのか?
 こう言ってはどうか。この詩の「言いたいこと」は「命の重さ・尊さ」だと。
 そう言ってみると、これが外れているようには思えない。同時に、そう答えられることがこの詩がわかったということになるとも感じられない。
 それでも、なぜ「命の重さ」が作者の「言いたい」ことだと考えられるのか、と問うことには学習の意義がある。そのような観念が詩の中からどのようにして抽出されるかを考えることは国語科の学習として有益だ。
 一方で生徒は往々にして「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」「父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか」といった言い方で「謎」を語ろうとする。確かにそれらが既にわかっている、という感触はない。それらは「謎」として読者の前にある。
 だが実はこの問いはこの詩を「読解」する上で有効ではない。
 試しに生徒に聞いてみよう。するとこれも「言いたいこと」「テーマ」と同様に「命の重さ」へ収斂してしまう。その時読者は、父親の言いたいことが詩そのもののメッセージであると見なしている。ならば先ほどと同様、なぜ父親が「命の重さ」を伝えようとしていると考えられるのか、と問うてみよう。
問 この詩が読者に、あるいは父親が息子に「命の重さ」を伝えようとしていると考えられるのはなぜか。
 こうした問いに対するありがちな回答は次のようなものだ。
 息子の言った「人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」は、一見したところ誕生への不満否定とまでは言わないまでも感謝の不足として受け取られかねない。「生まれたくて生まれたんじゃない。生んでくれなんて頼んだ覚えはない」は安手のドラマの非行少年が口にするお決まりの科白だ。父親はこうした息子の発言に対して、親の犠牲を示すことによって、命は親から引き継がれたものだからそれだけの重みがあるのだ、と息子の生命への軽視をたしなめようとしたのだ。
 説明できてしまった。謎は解けた。
 これが国語科授業で示される一般的な「I was born」の解釈である。あるいは道徳の授業かもしれない。
 こうした理屈を立てることはそれほど難しいことではない。だがこうした説明がこの詩の読後感に釣り合っていないのは明らかである。例えば、「興奮」した息子の言葉は、むしろ嬉しそうであり、そこに生の軽視や不満、親への糾弾の響きを父親が聞き取ったりはしないはずだ。だから読者はそんな理屈でこの詩を読んだりはしない。説明の為の思考が、読者の中で起こった「読解」と乖離してしまうのだ。
 確かに、この詩から受ける感銘は「命の重さ」を感じるということだ、と言っても間違いではない。だが「命の重み・大切さ」という表現は、あらかじめ用意された道徳的価値を表すお題目である。そうしたフレーズが想起されることもまた、テキストをある構造=文脈に位置付けているのだから冒頭の言い方で言えば確かに一つの「読解」ではある。だが詩のテキスト内情報を充分構造化することなしに、出来合いのお題目を引用してすますことと、この詩を読解するという行為との間にはなお大きな隔たりがある。
 にもかかわらず、この詩の「謎」はここにあるという感じは確かにする。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」はやはりにわかにはわからない。そしてこの問いに「命の重さを伝えたかったから」といった答えを対応させても、その「謎」が解けたという感覚はない。だがその答えが明らかに間違っているとも思えない。「父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか」という問いに対して「命の重さ」という答えを対応させるのも同様である。答えは間違っていないのに謎が解けたとは感じられない。
 つまり、論理のたどり方が間違っているのである。
 そもそも「a 父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか。」「b 父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか。」という二つの問いの仮の答えとして上に提示した論理は、実際の読者の思考の順序と逆である。aは五聯「少年による文法の話」から、bは六聯「父親による蜉蝣の話」から考えるべきであるように見える。また実際にもまず少年の話を聞いてから父親が話すのだから、説明の際にabの順になるのは、テキスト上の情報提示順としても出来事の生起順としても自然である。
 だが読者はbを考えてからしかaを考えることはできない。五聯は、それを聞いた者が一義的に何かを言いたくなるような話ではない。だから読者は五聯から直接aを考えたわけではなく、六聯から「b 何を伝えたいか」を抽象化し、それが五聯と対応することを確認する、という順序でしかabの問題を考察することはできないのである。
 そのようにして読者は六聯から「命の重さ」というメッセージ(b)を抽出し、それを導き出した要因(a)を五聯から考え、そこに論理を組み立てる。そしてそれを説明の段階でabの順に並べ直す。それが上述の説明である。
 だがこれでもまだ正確ではない。六聯は一義的に「命の重さ」という観念を抽出できるほど単純なテクストではない。蜉蝣の生態を語る父の言葉には「悲しみ」「つめたい(初出では「淋しい」)「せつなげ」といった形容があるものの、それを「命の重み」などという観念に変換することはできない。一旦そうした観念が立ち上がってしまうと、それは自明なことのように錯覚してしまうが、その内容からだけなら、蜉蝣の生態の「不思議さ」でも「壮絶さ」でも、生命の「儚さ」でも「貪婪」でも、さまざまな「観念」をそこに対応させることができる。母の死の真相についての衝撃もまた、安易な観念への変換を拒絶する。
 だから六聯からのみ父の言いたいことを考えることは、本当はできない。
 第五聯で語り手自身が「その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。」と問うている。だがこの答えは詩の中で語られることはなく、父は脈絡の不明な蜉蝣の話を始める。息子の話はなぜ父に「驚き」を与えたのか。またその「驚き」とはどのようなものか。その「驚き」が蜉蝣の話を父親にさせる動因となっているのは明らかだが、その正体が第五聯から読み取れるわけではない。第六聯で蜉蝣の話をしたこととの論理的な対応から遡って推測するしかない。
 結局「a 父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか。」という〈原因〉は五聯に求められるべきであるように思えるが、それは六聯で実際に話されたことから遡って考えるしかないし、「b 父親は蜉蝣の話から、息子に何を伝えたいのか。」という〈メッセージ〉は、六聯に表出しているのだが、それは五聯に呼応することでしか意味を確定できない。つまり五聯と六聯は、相互に意味づけ合っているのであり、どちらかが先に単独で何かを意味しているわけではないのである。
 したがって、立てるべき問いは次の通りである。
A 第五聯「文法上の発見」と第六聯「蜉蝣の産卵」はどのような論理でつながっているか。
B この時の父親の抱いている感情はどのようなものか。
 生徒の立てる問いの定番が「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」であるのなら、授業者の問いの定番は「この時の『僕』と父親の気持ちを考えてみよう」である。登場人物の「気持ち」を問うのは小学校以来の国語科授業の定番ともいえる展開だが、「気持ち」という言葉の曖昧さはそのまま読解の曖昧さを招き寄せ、さらにそれを語る言葉の貧しさにつながってしまう(だから実際には授業者は滅多にそんな問いを発しない。教科書などの手引きやテスト問題がそれを出題するだけである)。
 せめてこれを「心理」と言い換え、いささかなりと読み取るべきこと、語るべきことを明らかにする。登場人物の「心理」とは、「思考」と「感情」のことである。何を考えているか、どんなことを感じているか、である。
 そして父親の「思考」も「感情」も、六聯の記述からb「息子に何を伝えたいのか。」を一義的に読み取れはしないし、といって五聯から性急にその原因を探そうとしても見つかるわけではない。
 Aの問いは、父親の思考を跡づけることであると同時に、作品として成立しているテキストの文脈を、読者として読み取るということでもある。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いの形では前述の通り考察の論理が自覚されないまま道を逸れてしまううえ、父親の意図や感情が混ざって焦点がぼやける。これをBとして切り離し、Aは文脈の論理を追う。父親の思考も感情も、「なぜ話したか」「何を伝えたかったか」もすべてこの、文脈の論理から推測するしかないのである。
 とはいえ文脈の論理は、父親自身にも無意識であって構わない。「父親はなぜ蜉蝣の話をしたのか」という問いの形ではつい父親の「意図」を考えてしまうが、Aで問うているのは必ずしも明確に「意図」されたものとは限らないのである。そして後述するように、父親はその論理を明確に諒解したような「意図」を持って蜉蝣の話をしたわけではないのだと筆者は考えている。さらには一般的にいえば作者にすらそうした論理が無自覚であっても構わない。それは読者がこのテキストを「読解」するうえで想定する論理のことである。そうした論理が登場人物や作者に自覚されたものであるかどうかは、併せて考えるべき問題であるとともに、区別して考えるべき問題である。
 一方でBの「感情」はまた難物である。「気持ち」を問う発問が貧しくなりがちなのは、感情を表す語彙が限られているからである。喜怒哀楽では人の感情のありようの微細な綾を表すことはできないと感ずるから、しばしば「…という複雑な感情」などという曖昧な言い方しかできないことも多いのだが、それでもまずは表現しようと考えてみることで読解が促される。この時の父親は喜んでいるのか怒っているのか悲しんでいるのか(少なくともそう書いてあるからには「驚いている」のではあろうが)。その感情のあり方は、第五聯と第六聯をつなぐ論理とどのように整合しているか。

『The Visit』-夏の夜の楽しいひととき

 またしても帰省した子供たちと録画した映画を観る。二晩で5本。長くは書くまい。
 とりわけ本作は昨年観たばかりだし。
 相変わらずうまい脚本とうまい演出にうならされ、たっぷりのサスペンスを堪能した。二度目だからサプライズもなし、恐怖も、先がわかっているから半減しているはずなのだが。
 夏の夜の楽しいひととき。

『マイマイ新子と千年の魔法』-丁寧に丁寧に

 『この世界の片隅に』の前からいくつかの受賞歴やロングラン公演で本作が話題になっていることは知っていた。なるほど良い作品だ。丁寧に、丁寧に作られたアニメーションは、その画面を見ているだけで気持ちが良い。背景美術も動きもデッサンも演出もカットも。
 物語的にも、都会からの転校生を田舎に受け入れる時に、主人公の妄想癖を使うところやら、後半のシリアスなドラマにも、主人公の吹っ切れた性格を物語の推進力とするところなど、巧みだ。
 ただ、この生きづらそうな性格をどう収めることやらと思っていたら、最後に出てきた父親が大学の研究者で、それなりに現実に着地していきそうな成り行きが見えて一安心。

2019年8月11日日曜日

清水邦夫「楽屋」-演劇にとどまらないメタファー

 知人の主催する劇団の、昨年の第一回公演に続いて、今回第二回公演となる舞台を観てきた。三日間の公演の、二日目に都合が良かったので観たのだが、あまりに面白かったので、三日目の最終公演にもう一度観た。
 演目は井上ひさしの「化粧」と清水邦夫の「楽屋~流れさるものはやがてなつかしき」の二本立て。いずれも楽屋を舞台にしたこの二つの演目を並べて一つの公演としているところが気が利いている。
 さて、「化粧」も熱演だったが、二日間観る気になったのはなんといっても「楽屋」が面白かったからだ。
 素人劇団なのだが、「楽屋」に登場する4人が、それはそれは見事な演技だった。彼女たちがいわゆる劇団員ですらないような、まったくの素人であることが信じられないほど、凝縮された強い感情を舞台上で放出していた。彼女たちが賞賛に値することは言うまでもないが、それを実現したのは演出の力であることも間違いないのだろうと思われた。
 そして面白いと思わせるには脚本が優れていなければならないのはもちろんだ。後から調べてみると、累積上演回数が日本一だという有名戯曲なのだが、まあ見事な脚本だった。さまざまな感情の綾が複雑に入り組んで表現される。その中には嫉妬や怒りや鬱屈や絶望といった負の感情が入り乱れているのだが、最後の最後で、ぎりぎりの希望を寄せ集めて前向きになる結末が感動的だった。
 物語に登場する4人の女優は、演劇に関わること、もっと言えば舞台に立つことの恍惚と、その裏返しの鬱屈を体現する。いつか舞台に立つことを夢見て化粧を続ける万年プロンプターの女優予備軍たちも、自分が舞台に立つべき者だという妄想にとりつかれたメンヘラの女優の卵も、ベテランとして舞台に立ち続けることで何かを捨てることを選んだ女優も、そうした強い感情を観客に伝えてくる。
 だが2回目を観て、これが単なる演劇にまつわる物語ではないように思えてきた。人前に立つことの恍惚と負担も、いつか自分が活躍することを夢見ながら、実際にはそうした舞台に立つことが叶わない多くの人々と、自分たちで出来ることを始めようと思うにいたる結末も、人生そのもののメタファーではないか。
 この物語がこれほど心を打つのはそうした普遍性のせいだ。

 ところで、後から調べてみると、実際に舞台に立っている女優以外の三人は「亡霊」なのだそうだ。上記メンヘラ女優も、物語の途中で死んで、結末では亡霊になっているのだ、と。二回観ても気づかなかった。
 もちろん非現実的な存在であるように描かれているともいえる。だが一方でそれは演劇的な誇張だと思えば思える。そういえば生きている人間には彼女たちが見えていないという描写がある。だがそれも殊更に無視しているぞというアピールをしているという意味だと思っていた。
 演劇はリアリティのレベルが自由だから、それをどのレベルで受け取って良いのかがわかりにくかったのだ。
 では結末を希望と捉えたのは、いささか性急だったか。いや、それでもかまわないのか。