ウディ・アレンの映画を面白いと思ったことがなくて、積極的に観てこなったので、自分にとって最近のウディ・アレン映画がどれだったのかももうわからない。下手をすると10代かもしれない。とすると映画を見る目もなかったろうから、真っ当な評価をしているわけはない。
さてそういうわけで何十年ぶりかのウディ・アレン映画だが、観始める、さすがに上手くて唸らされる。やはり見る目がなかったのだろう。
でもまあ、この映画は特別に上手いのかもしれない。ケイト・ブランシェットの演技の上手さが味方して。
この間、映画における時間の描き方についてちょっとふれたことがあるが、この映画では、映画的「現在」と「過去」がしょっちゅう切り替わるのだが、それが観客にとってちっともわかりにくくない。
そしてその構成が、主人公の背景を知らせることで「現在」の主人公の痛々しさだったり愚かさだったりをいっそう重層的に見せている。
そしてこの構成は、この物語のいわばどんでん返しともいうべき大ネタを最後にもってくるために必要な、つまり知的に仕掛けられた必然的な設定なのだった。上手い。
それにしても、主人公の夫がアレックス・ボールドウィンというのは、最近『アリスのままで』で観たばかりで、そのキャラクターもほとんど同じ人に見えるのは、つまり素で演じているということなのか監督の造型なのか、しかも主人公が「ここはどこ?」とかいう(アリスは認知症で、ジャスミンはアル中で)のも同じで、その偶然に妙な感じがする。
もちろん、シリアスな中にも主人公に対する同情と共感が湧いて、不思議に爽やかな穏やかな感情が残る『アリスのままで』に比べて、『ブルージャスミン』の主人公に同情することは難しい。
だがああした虚栄心や他人を見下すことで保たれるプライドに共感はできないでもないし、あの、嫌悪感だけを感じても不思議ではない愚かな主人公に対しても、同情ができないでもない気になってくるのは、ケイト・ブランシェットのキャラクターが絶妙なバランスを保っているからだろう。気位の高い元セレブはどうにも嫌味であり、なおかつ愚かしさが痛々しいのだが、その、澄ましていれば気品あり気に見える彼女が落ちぶれるからこそ感じる「かわいそう」な感じは、いっそ突き抜けて同情してしまいかねないのだ。
もちろんその手前で嫌悪感だけを感じている観客も多いに違いないとは思うが、この映画の評価は、それよりもむしろ筆者のように感じている人が意外に多いことの証ではあるまいか。
だから、映画のラストで彼女がすっかり壊れて、行き所も失くしているという状況を絶望と感ずるか、しばらく時間が経てば彼女はまた妹のところへ戻って、相変わらずの愚かな人生をなんとかしぶとく送り続けるのかは、どちらにも限定できずに観客に任されていると思う。もちろん筆者は無意識に後者を選んでいるのだろう。
ところで主人公の継子の子供時代でワンカットだけ映っていたのは、『ウェイワード・パインズ』のチャーリー・ターハンではないか!
そういえば彼の好感の持てる感じは、最近観た『君の膵臓を食べたい』の北村匠海に似ているぞ。調べてみると一か月違い生まれの同い年。いや、どうでもいいが。
チャーリー・ターハン
北村匠海
さてそういうわけで何十年ぶりかのウディ・アレン映画だが、観始める、さすがに上手くて唸らされる。やはり見る目がなかったのだろう。
でもまあ、この映画は特別に上手いのかもしれない。ケイト・ブランシェットの演技の上手さが味方して。
この間、映画における時間の描き方についてちょっとふれたことがあるが、この映画では、映画的「現在」と「過去」がしょっちゅう切り替わるのだが、それが観客にとってちっともわかりにくくない。
そしてその構成が、主人公の背景を知らせることで「現在」の主人公の痛々しさだったり愚かさだったりをいっそう重層的に見せている。
そしてこの構成は、この物語のいわばどんでん返しともいうべき大ネタを最後にもってくるために必要な、つまり知的に仕掛けられた必然的な設定なのだった。上手い。
それにしても、主人公の夫がアレックス・ボールドウィンというのは、最近『アリスのままで』で観たばかりで、そのキャラクターもほとんど同じ人に見えるのは、つまり素で演じているということなのか監督の造型なのか、しかも主人公が「ここはどこ?」とかいう(アリスは認知症で、ジャスミンはアル中で)のも同じで、その偶然に妙な感じがする。
もちろん、シリアスな中にも主人公に対する同情と共感が湧いて、不思議に爽やかな穏やかな感情が残る『アリスのままで』に比べて、『ブルージャスミン』の主人公に同情することは難しい。
だがああした虚栄心や他人を見下すことで保たれるプライドに共感はできないでもないし、あの、嫌悪感だけを感じても不思議ではない愚かな主人公に対しても、同情ができないでもない気になってくるのは、ケイト・ブランシェットのキャラクターが絶妙なバランスを保っているからだろう。気位の高い元セレブはどうにも嫌味であり、なおかつ愚かしさが痛々しいのだが、その、澄ましていれば気品あり気に見える彼女が落ちぶれるからこそ感じる「かわいそう」な感じは、いっそ突き抜けて同情してしまいかねないのだ。
もちろんその手前で嫌悪感だけを感じている観客も多いに違いないとは思うが、この映画の評価は、それよりもむしろ筆者のように感じている人が意外に多いことの証ではあるまいか。
だから、映画のラストで彼女がすっかり壊れて、行き所も失くしているという状況を絶望と感ずるか、しばらく時間が経てば彼女はまた妹のところへ戻って、相変わらずの愚かな人生をなんとかしぶとく送り続けるのかは、どちらにも限定できずに観客に任されていると思う。もちろん筆者は無意識に後者を選んでいるのだろう。
ところで主人公の継子の子供時代でワンカットだけ映っていたのは、『ウェイワード・パインズ』のチャーリー・ターハンではないか!
そういえば彼の好感の持てる感じは、最近観た『君の膵臓を食べたい』の北村匠海に似ているぞ。調べてみると一か月違い生まれの同い年。いや、どうでもいいが。
チャーリー・ターハン
北村匠海
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